(この記事は、1月20日の続きです)


前の記事のコメント欄の anti-tori-influ さんのコメントを参考に調べて、『ヤマタノオロチ』のサイトと比べながら、3世紀頃の大和朝廷について推察してみたんですけど、その頃に、出雲から関西地方に行き周辺を統一していた大国主命によって、平和的に日本(主に西日本)は統一された。その後、卑弥呼の2代目「貴巫女」の娘婿「磐余彦」(イワレヒコ =後に、神武天皇=応神天皇?)が、西都原(=日向、宮崎県)から奈良に行き、中央集権化した大和朝廷の王となったということかな? この応神天皇は、272年に、百済が無礼を働いたとかって理由で、紀角(き の つの)という豪族に百済を討ちに行かせています。この頃から、百済は日本の属国になっていたようです。

紀角
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%A7
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ところで、高句麗の広開土王は、391年に王になって、百済を積極的に攻めているのですが、それって、倭国=日本(応神天皇の次の仁徳天皇の時)が朝鮮半島南部を支配し始めた頃と同じなんですよね。ということは、高句麗の広開土王は、日本からの王と戦っていたということになるのでしょうかね〜? また、『太王四神記』に出てくる『火天会』(=扶余の王族?=アングロサクソン王族?)のヒロイン『キハ』を利用して後ろ楯となっていた火天会の「大長老」というのは扶余の王族で、日本とも関係が深かったか、日本からのまわし者ということになるのでしょうか? つまり、日本に来ているアングロサクソン王族は、ペルシャから来た「スサの王」を追っかけてきているので、それなりに地位の高い王族が追跡していると考えられます。

6世紀になって、百済と高句麗の関係が改善すると倭国と高句麗の関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。特に、高句麗からの仏僧の活躍が目立ち、聖徳太子の師となった「恵慈」(えじ)*が有名。

* 恵慈     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%85%88

668年に高句麗は、唐と新羅によって滅亡しますが、遺民は、北方に行き、後に『渤海』*を建国し、一部は日本に逃れた者たちもいて、武蔵国高麗郡(埼玉県日高市、飯能市)などがあるそうです。

渤海と日本との交流は、「渤海使」*が35回、に「遣渤海使」** (けんぼっかいし)が14回にわたって派遣されるなど
かなり濃密な交流があったということになります。ルートは、後に日本海北側の能登、加賀、越前、佐渡に至る北ルートが主流となり、金沢、敦賀(つるが、福井県)、秋田城などから交流を示す遺物が発掘されているとのことです。

*渤海(698〜926年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
**渤海使 (728〜922年)  
http://ja.wikipedia.org/wiki%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E4%BD%BF
***遣渤海使 (728〜811年) 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E4%BD%BF

ということで、日本との関わりは非常に深く、こういったことから日本に渡来したケルト系ヤペテ族のツングースやペルシャ系セム族(エラムから来たエフライム族の末裔)もいたと考えられます。

そして、その渤海も926年に、契丹(キタイ、おそらくスキタイ=シェバ人の騎馬軍事集団に由来する?)の遼に滅ぼされ、朝鮮半島の高麗*に逃れます。

*高麗  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97

しかし、その高麗は、1388年に、武人「李成桂」(女真族?)がクーデターを起こし政権を把握、1392年に自ら国王に即位し、「李氏朝鮮王朝」を興した。韓国は、後に、「大韓帝国」(=李氏朝鮮の改称)となり、日本統治時代になり、連合国軍軍政を経て、現在の「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」に二分されます。


こうして、セム系エフライム族の日本への渡来について考えただけでも、徐福伝説(全国各地)や、九州の卑弥呼の邪馬台国や、出雲のヤマタノオロチ伝説、四国の稲飯(いなひ)の一団、渤海や高句麗との交流など
ほんとうに多いことが分かります。

さらに、アングロサクソン系のモンゴル系やツングース系やチベット系も中国や韓国で建国したり、流入したりして、その後、日本にもやって来ていて、おそらく、一番、早くは、B.C.10C.くらいにはやって来ていると私は、思うのですが。というのは、インドー東アフリカ貿易がその当時には行われていて、東アジアにもかなり遠くまで船でやって来ていたと考えられますから。有名なところでは、遣隋使*(600〜618年)、遣唐使** (630〜894年)、朝鮮通信使*** (1375〜1811年)などがありますが、とにかく、古代からさまざまな形で、日本に渡来していたと考えられます。

* 遣隋使   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
** 遣唐使   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
*** 朝鮮通信使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%8
0%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF

このように、セム、ヤペテ、アングロサクソンと、ほんとうに多くのノアの子孫が日本全国に渡来し子孫を広げていったということになります。

そして、海運では、下関から瀬戸内海を経て大阪に至るルートがもっとも多く、このため、この沿岸が栄えたというのも納得です。ですから、長州藩や筑前藩(=福岡藩=黒田藩ともいう)や備後福山藩、備前藩(岡山)、備中松山藩や、あの忠臣蔵の播州赤穂藩なども重要な役割を果たし利益を得ていたと考えられます。だから、江戸時代も、南西諸般は裕福で、有力諸藩が多かったんですね!

中でも、長州藩は、石見銀山*は、江戸幕府の天領ではあったものの、貨幣の製造やいろいろな関連業務や運送などで利益を得ていたのではないでしょうか? また、江戸時代の中期には、銀の産出量が激減したとありますが、これは、アングロサクソン王族が傀儡「明治政府」から銀を奪っていたことを隠すための嘘ではないかと推察しています。というのも、私の親戚は、石見銀山の近くに昭和初期にいたのですが、その当時でもまだ銀を産出していて鉄道で運搬していたそうです。確かに、その当時は、最盛期ほど多くはなかったようですが、おそらく、明治時代にアングロサクソン王族によって、堀り尽くされたのではないかと思われます。一気に略奪したのではないかと。それで、江戸時代に管理を任されていた服部氏に代わり、藤田一族「藤田組」の藤田ホールディングスが鉱山権を握っていたとのことですが、まあ、その後ろで本当に握っていたのは、アングロサクソン王族=ハノヴァー朝(=ウィンザー朝)でしょうけれど。

* 石見銀山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
http://fish.miracle.ne.jp/silver/history/introduction.html

ヨーロッパを始め世界中の上流階級たちに、銀のナイフ・スプーン・皿などの食器が広く使われていたことを考えると、いったいどれだけ大儲けしていたかと想像できます。なのに、日本の明治政府は、日露戦争、日清戦争を強要してさせられた際も、アングロサクソン王族支配下の銀行から大量の資金を貸し付けられて戦争するしかなかったほど貧乏だったということなのです。ああ、植民地の悲しさよ〜ですね!

アングロサクソン王族たちは、ヤペテ-ケルト系王族の発明を盗んで、まるで自分たちが発明したかのように工業化し、大量生産して大儲けするのが大好き! だから、機関車も、ヨーロッパではさすがにしなかったようですが、アメリカの広大な地への鉄道普及は、あのハリマンたちが勝手に権利を横取りして生産して、普及させたんじゃないでしょうか? あの数年前の有名な映画『チャーリーとチョコレート工場』でも、チャーリー
チョコレート工場で働く従業員がチョコレート製造の秘密を持ち出して売ってしまうので、チャーリーは怒って、いっさい普通の人間を雇うのをやめて、妖精?の小人とリスたちにチョコレート作りを任せます。あれは、アングロサクソン王族のスパイの人間が、製品作成の秘密を盗みとる常習行為を皮肉っているのです。中国は、新幹線製造の技術も傀儡日本企業を使って盗み取って中国版新幹線を製造したのだとか! いままでも、アメリカでも、世界中でも、中国がスパイ行為をして様々な最先端技術を盗み出してきたのですが、恥も外聞もなく、それを臆面もなく、そういった行為をさせているのは、恥知らずな「ウィンザー朝」の王族さんたちです! 中国の政権も早く独立したがっているんじゃ? 中国国民もそうでしょう?

『チャーリーとチョコレート工場』
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7525/story.html


(つづく)
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by Ulala-lov | 2011-01-21 14:43 | 幕末と坂本龍馬