(1月7日の記事のつづきです。) 


前回の記事を書き終えた後、たまたま、映画「長州ファイブ」をDVDで見たのですが、それで、新たにいろいろな発見がありました。とくに、「尊王攘夷」と称して、実際に行われていたことは外人たちを斬り殺したり、洋館を焼き討ちすることだったようです。(1954年のペリー来航以後、数年の後には、幕府が西洋各国と通商条約を結んだことにより外国人の来日が自由になり外国人居留地*ができていました。)

下田は、現在の横浜です。神奈川宿では、横浜村(横浜市中区)が居住区となっていたそうです。それで、「生麦事件」**も生麦(横浜市鶴見区)で起きたのです。

外国人居留地

** 生麦事件
(これは、おそらく、アングロサクソン王族派の策略で、島津の大名行列の通知がケルト系の外人など、彼らの邪魔になる外人たちには知らされていなかったのでは?)

映画「長州ファイブ」のあらすじ

長州五傑

長州ファイブ1

まず、最初の冒頭のシーンは、1862年に、長州藩の上士(上級武士)高杉晋作が若い下士(下級武士)たちを先導して、神奈川の横須賀に新築中の英国公使館を焼き討ちにいく場面でした。その直前まで、若い藩士たちは芸者をあげて遊んでいます。どこからこんなお金がでているのでしょうか?
(アングロサクソン王族ネットワークの秘密結社からでしょうかね〜?高杉はその金を困窮している下級武士にばらまいて手なずけたんでしょう。今、創価学会や統一教会など多くの新興宗教でも同じようなことをして何でも言うことを聞くゾンビ集団を作っていますからね。だから、雇用をわざと悪化させるよう政府を操っているのも彼らなんですよ。)


高杉晋作

高杉晋作は、「1862年、薩摩の五代友厚らと幕府随行員として中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して帰国、大きな影響を受けたらしい。そして、勤王・破約攘夷(=不平等通商条約の破棄と四口貿易船以外の外国船の排除)の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。また、攘夷急進派で、1864年に脱藩して京都に行ったり、また、長州に戻って謹慎処分になったりしている。」とあります。

そして、ウィキの高杉晋作の写真を見て、びっくり!ジョゼッペや後藤象二郎(=近藤勇)によ〜く似ているのです!!ジョゼッペの他の長州で作った子供かもしれませんが。。。同時期に新撰組の近藤勇とふたりの人間を演じていたのでしょうか?まあ、新撰組の活動が始まる1864年くらいから、高杉晋作は謹慎させられたりしてあまり活躍していないみたいですから。。。可能だったのかも?でも、1864年の下関戦争の後の下関条約締結時には、交渉人としてイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの講和会議に出席していますが、ただうなずいて全ての要求を受け入れたということです。(ほら〜、やっぱり、あちらのスパイです〜) 「いったい何の交渉したんじゃい?!」と、ツッコミを入れたくなります。

また、佐久間象山(=ジョゼッペ)も’エロじじい’で、登場してます。外国から軍艦を買っても、それを操縦できる人間が日本にはいないということです。だから、外国に行って学んでこいということらしいです。まあ、この辺は正しいことを言ってはいますが。。。(その後の策略というのは、彼らを操って日本を植民地支配しようするものです)

他にも、ちょっとエロい場面があるのですが、それは彼ら下級武士は、お金も権力も全然なかったので嫁の来てもなかったということらしいのです。

そして、長州藩主の毛利敬親(もうりたかちか、1819〜71年)*は、重臣「長井雅楽(うた)」**の「彼らを生きた機械として帰国させ日本の発展に貢献させましょう」との進言によりしぶしぶ暗黙の了解をして、英国留学費用をだします。しかし、当時は海外へ行くことは禁止されていましたから(発覚すれば打ち首)、内密の留学なのでその費用はものすごく少額だったため、彼らは必要な費用の多くを借金で工面して、なんとかお金を調達します。その時に、留学の手配をしたのがジャーディン・マセソン商会だったようです。

* 高杉晋作 1
** 高杉晋作 2
   高杉晋作 3
(吉田松陰=アイゼンベルグ=アルフレッド・アルバート=ジョン・万次郎=アレキサンダー・シャンドなので、
アングロサクソン王族は、古代から、戦略として敵方の国民性をつぶさに研究してさまざまな陰謀をしかけている。だから、松蔭の若い武士たちの懐柔策もとても上手なはずです。そして、攘夷に関してもさまざまな詭弁を使って長井雅楽の「航海遠略説」を蹴落として長井を切腹にまで追い込んだものとみえます。)


また、この毛利敬親は、毛利斉広(なりとう)**の養子であり、斉広自身は、わずか20日足らずの藩主であり、23歳の若さで死去しています。この敬親(たかちか)の藩主就任劇もほかの有力な南西諸藩と同じく怪しい暗雲が漂っています。(要するに、なんだか陰謀に満ちた乗っ取りっぽい後継者交代ですよ〜 )それに、そもそも、あのアングロサクソン王族スパイの御三家(ごさんけ)がこの時期に同時に長州藩にそろっているということからしても藩主「毛利敬親」もかなり〜怪しそうです〜!(つまり、側室としてアングロサクソン王族[相手には悟られないようにして]の血筋の女性を輿入れさせて出来た子で、アングロサクソン王族の血の混ざった人間かも?)

** 4


ところで、長州藩というのはかなり有力な藩で、もともと、江戸時代になる前には200万石ぐらいあったのです。ところが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、江戸幕府になった当初には40万石以下に減らされたのです。しかし、その後、また盛りかえしてきて、幕末には、な、なんと〜100万石ぐらいだったらしいのです〜。

長州藩 ウィキペディア

上のサイトを見ても分かるように、長州藩は、関ヶ原の戦いによるいざこざなどから、もともと反幕感情の強い藩ではあったようです。  しかし、幕末期に、敬親(たかちか)ではなく、本来の毛利家主流の血筋に順調に藩主が継承されていたら、長州藩の動向も随分と違っていたかもしれません。少なくとも、藩主が加担していなければ、あの松蔭(=アイゼンベルグ)や久坂玄端(=ジョゼッペ)や高杉晋作(=後藤象次郎)の御三家が長州藩に潜入することも難しかったと考えられますし、彼らが藩の中心勢力となっていくこともなかったと思われます。つまり、敬親(たかちか)は、彼らの正体をちゃんと知っていて、(自分もアングロサクソン王族の血をひいているので)、ほぼ言いなりになっていたと考えられます。


<< 西洋諸国によるアジア貿易とアジアの植民地化 >>

ところで、その当時のアジアの状況はといいますと、西欧列強がアジアでの貿易の振興を図るとともに、植民地銀行の開業も進めるなど、アジア諸国の植民地化がちゃくちゃくと進んでいたのでした!! しかし、これは、実は、アングロサクソン王族たちの今と変わらぬ自由貿易推進路線なのだそうです。それに、従わせられながらも、密かに対抗していたのは、ご存じヤペテ系民族=ケルト系民族たちの保護主義的貿易推進派です。これが、イギリスでいえば、スコットランド系の人たちということでしょうか?

しかし、わたしもDVDで「ロブ・ロイ」という映画を見たのですが、英王室がハノーヴァー朝に変わってからの18世紀のスコットランドの惨状は、ひどく痛ましものでした。悪魔教信者たちがスコットランドのクランたちを破滅させようといろいろな悪巧みを仕掛けていく様がよく描かれていましたよ。ですから、イングランドのアングロサクソン王族たちに騙されたり、破産させられて、しかたなく、悪魔教信者の従僕になっていったクランの王族や貴族もけっこういたと思われます。。。しかし、北アメリカ大陸の新天地へと逃れていった者も多かったとか。彼らは、極寒の気候でも順応できるので、インディアンとは戦争にならないような寒冷な地(カナダとか、アメリカの北部)を選んで開拓していったのではないかと思われます。インディアンを襲撃して領土拡大を図ったのは、主にアングロサクソン王族たちだったのではとわたしは推測しています。(もちろん、アメリカやカナダの人たちはご存じでしょうが)

ただし、スコットランドの貴族と一口に言っても、かなり昔から、スコットランドに領地を得てイングランドから移住してきたブッシュの祖先=パーシー家のようなアングロサクソン貴族もいますので、要注意です。そのパーシー家などは、1600年代初頭、あのガイ・フォークス事件(=スチュワート王朝のジェームズ1世の時に議会を爆破しようと企んでいたが事前に発覚し関係者が逮捕、処刑などの処罰をされた事件)の後、逃亡し、あのメイフラワー号に乗ってアメリカ東部ニューイングランドに上陸したらしいです。清教徒といっても、結局、キリスト教原理主義という、ハルマゲドンを待望し、破壊(=戦争)を肯定する恐ろしい悪魔教なのです。彼らがインディアンの虐殺(=アングロサクソン王族の他民族の人種絶滅作戦の一環)を行いながら、西部開拓を進めていったのでした。英国本国が、それ以上のインディアンの虐殺を止めるために新しく法律を制定したので、アメリカのアングロサクソン王族たちが独立戦争をおっぱじめたのだとか。(あっ、ちょっと話が横道に逸(そ)れてしまいました。スミマセン!)

* ガイ・フォークス ウィキペディア



まずは、英国東インド会社によるインド植民地支配に関してのおおざっぱな概略史から見てみましょう!

イギリス東インド会社による植民地支配(1600〜1858年): 〜インドチャンネル

(以下引用)
貿易にとどまらず、東インド会社が事実上インドを支配する体制を作るきっかけとなったのが、1757年のプラッシーの戦い(これは、英王室がドイツのハノーヴァー朝(=アングロサクソン王朝)になった後であることに注目!)です。クライブ率いるイギリス軍はフランスとベンガル太守の連合軍に勝ち、これ以降東インド会社の支配は確定的なものとなりました。イギリスがインドを統治するために使った方法は、インド国内に数多く存在した藩王たちを互いに反目させ、分裂を促すというものでした。また、職種により細分化されるというインド独特の社会システムも、植民地支配を深めるために大いに活用されました。



次に、英国東インド会社HPより、前のものよりやや詳しい貿易や植民地化の歴史の概略を見てみましょう!

英国東インド会社ホームページ「インド館」〜歴史資料室 リンク先〜『東インド会社小史』

(以下引用)
1599年、オランダ人ファン・ネックが大規模な商業航海に成功し、大量の胡椒を東洋から直接 オランダに持ち帰り、莫大な利益を上げました。このニュースは、レヴァント(地中海)貿易に携わってきた ロンドンの商人たちに、大きな衝撃を与えます。早晩、レヴァント貿易が成り立たなくなると考えた 彼らは、自分たちの手でインドと直接交易するための貿易会社を設立したのです。活動の中心と なったのは、イギリス・レヴァント会社総裁トーマス・スミスほかロンドンの有力商人達でした。
 彼らの会社はエリザベス女王(1世)から東インド貿易に関する独占特許状を与られ、1600年12月31日、 『イギリス東インド会社』として発足しました(正式名称はロンドン東インド会社)。 これは、独占権を有する東インド会社としては世界初(オランダが1602年、フランスが1604年)のものとなります。

♡うらら。。。つまり、この会社は英王室と深くかかわっている会社ということです。

(以下引用)
1612年、会社の艦隊が数に勝るポルトガル艦隊を撃破するという出来事が起こります。この事件は、 アラビアとの通商・巡礼路の確保に頭を悩ませていたジャハーンギール帝に強い印象を与え、皇帝は 会社に対して貿易契約とスーラトに商館を設置する権利を認めました。これにより、スーラトの後背地 グジャラート地方で生産される綿織物が、会社の主要な取引品目として浮上してきます。
会社が輸入したインド産綿織物(キャラコ)は、その高品質と低価格故にイギリス国内でのシェアを 一気に伸ばしました。17世紀末から香辛料貿易が衰退し始めた事もあいまって、会社による綿織物輸入量 は増大し続けます。



♡ うらら。。。以下のあたりから、アングロサクソン王族による潜入攻撃が始まってきたような感じです!

(以下引用)
組織を確立した会社は、巨大企業に成長しますが、1680年代になると、ジョサイア・チャイルド(♡ドイツのハノーヴァー公の代理人か? = ロスチャイルドか?)ら 会社幹部の専横が目立ち始め、会社の独占体制を疑問視する声も大きくなってきます。1688年、名誉革命によって 会社と関わりの深かった国王ジェームズ2世が失脚すると、会社に反対する人々は議会で 新会社結成のための運動を展開、1698年には「新東インド会社」が設立されました。
1709年には合併が成立して「合同東インド会社」 が誕生します。会社幹部の暴走を抑えるため、この合同会社では、全ての株主が参加できる株主総会に大きな権限が与えられました。この「合同東インド会社」が1858年の解散まで続く 「イギリス東インド会社」となるのです。



♡うらら。。。1714年に、ドイツのハノーヴァー家からジェームズ1世(=アイゼンベルグ本人か、レア本人か、あるいは、そのクローン子孫 * )が渡英し、英王室『ハノーヴァー朝』が始まります!! 実質、ドイツ・アングロサクソン王族の英国の乗っ取り完了! 東インド会社もハノーヴァー朝にじょじょに乗っ取られていき、その影響により植民地戦争をバンバン始めるようになります〜

* いつも、言っていますように、重大な場面など本者が望む時にはではいつでも本者(レアが最高の人工知能をもつ、おそらく、アイゼンベルグ(男、オス)はスリーシスターズの次の4番目に高い人工知能)がクローン子孫やクローン代理などにとって変わるのです。

(以下引用)
1750年、南インドでカルナティック戦争が勃発しました(〜1754年)。この戦いで勝利を収めた会社は、 さらに1757年、インド北東部でもフランスと手を組んだベンガル太守の軍をプラッシーの戦いで破り、インドにおける 英国の優位を確立します。
★★★
この後1764年、ベンガル奪還を企てる太守軍をブクサールの戦いで退けると、会社はムガール皇帝から ベンガルとその周辺地域の地税徴収権(ディーワーニー)を与えられます。これにより、会社は単なる 貿易業者の枠を越えて、政治的支配者としての性格を持つようになるのです。

↑ ♡うらら。。。こっそりと、しかし実質、ハノーヴァー朝の支配下に=国営に近い存在になったのです。

★★★★★
 政府による会社の監督が強く求められた結果、1773年に 「ノースの規制法」が、1784年には「ピットのインド法」が制定されて、以後インド統治に政府が積極的に介入する事になりました。 これらの法により、インドの統治は議会の任命する総督とインド評議会によって行われることとされ (ただし、総督・評議員の人事権は会社にもある)、会社は行政・軍事・財政について英本国の担当大臣に 報告する義務を負う事になります。
 会社は産業資本家の意を受けて、インドにイギリス商品の市場を開拓し、これを原料生産地に 変えようと努めます。市場拡大のため、会社は軍事力による強引な併合政策を推進、特に総督 ダルフージ(在任1848〜1856)の時代にシーク戦争やビルマ遠征を敢行し、鉄道や電信網の 整備と相まって、インド亜大陸のほぼ全域を支配下におさめることに成功しました。

 1857年、会社軍に雇われていたインド人傭兵 の蜂起を契機として、全インドを震撼させた「セポイの反乱(インド大反乱)」がおこります。この事件は、会社による インド支配が完全に破綻した事を世に示す結果となりました。1858年8月、イギリス議会はインド統治法を制定し、 会社の植民地行政機構をインド大臣の手に移管する事を決定します。これを受けて1858年9月1日、 イギリス東インド会社は解散し、258年の歴史に幕を下ろしたのです。



↑ ♡うらら。。。乗っ取っていた東インド会社を使って完全にインドを支配下に治めた後は、東インド会社は "ご用済み" でお払い箱に!(つまり、1700年中頃からは、英王室「ハノーヴァー朝」により、さんざん「ダーティー・ハリー」役を押し付けられた会社だったということに。

★★★そして、1877年、ついに、「ハノーヴァー朝」がインドに君臨したことを高らかに、堂々と誇示するように、『ヴィクトリア女王』が、『インド女帝』として戴冠したのです!!

というのが、アジアでの、特に、インドでの英国の植民地化に関しての概要でした〜。他にも、東南アジア諸国や中国にも活発に進出し植民地化していったのです。中国も、「アヘン戦争」*などで分かるように、想像を絶するような悲惨な状況になったことはすでに多くの人の知るところです。

「アヘン戦争」

この上のサイトは、以前はかなり真実味のあるサイトでしたが、最近は、アングロサクソン王族側サタニストたちに乗っ取られてしまったようで、肝心なところはかなりウソが入っています。まず、サッスーン家は、バクダッドの(おそらくバビロニアから伝わる?)スファラデイム系ユダヤということは、「バビロニア王国」は最初はシュメール(おそらくセム系ユダヤ=ミズラヒム)の王国だったと思われますが、ハンムラビ王くらいの前後に、このヒッタイトと思われる種族に征服され王国を乗っ取られています。名前は同じ「バビロニア王国」のままですが、王族や戦士、市民など中身はすっかり入れ替わっているはずです。(←これは歴史本「古代メソポタミアの神々」から得た知識です) それで、ヒッタイトのいつものパターンで、以前いたシュメール人*はほとんど殺されたことでしょう。(有能な人や一部の労働者が奴隷として残された以外は。)★しか〜し、私の勘では、聖書の「ニムロデ」(クシュの子となっているがウソじゃ?)というのは、実は、「カナン」(エジプト王の兄クシュを虐殺した)のことで、彼が「バビロニア王国」を征服したのではないかと。。。聖書が改ざんされているような気がします)また、ずっと後の「新バビロニア王国」は人間(シュメールというのはアングロサクソ脳族が自分たちの名前を歴史書において人間に付けてしまったのだとか:悪い事しすぎてるので人間に罪を押し付けるため?)の王であるネブカドネザル2世が建国したです。

シュメール人(ほんとうは『人間』というのが正しいみたい)....私の推測ですが、ノアの長男セム、そのまた長男の「エフライム」の子孫のことなのではないかと。それが、「カナン」に征服され、東のペルシャ地方南部に逃れ、「エラム」*(首都スサ)を建国、さらに、カナンの子孫=ヒッタイトに征服され、ストーカーのようにしつこ〜く追っかけられてモヘンジョダロに逃れて王国を築いて、インダス文明を、さらに、シェバかヒッタイト、あるいは両方にコンビで征服され、中国に逃れ、秦王国を築き、さらにそれも征服され、朝鮮半島に逃れ、高句麗・百済を、さらに征服され、日本に逃れて、大和王国?を築いたのかな?

エラム ウィキペディア

このメソポタミア地方はその後、何回かの戦争でアッシリアやペルシャにも征服されていますが、おそらく、トルコ帝国を経て(トルコ帝国を操っていたのも彼らかも?)、最終的に、このヒッタイト(=スファラディム・ユダヤ)たちは経済を牛耳るなど影で国を操る支配者として残っていったと考えられます。

ですから、サッスーン一族(トルコ系スファラディム・ユダヤ)は、ロスチャイルド一族(アシュケナジム・ユダヤ)とはユダヤ民族(ノアの子孫を指すとした場合)といっても、根本的に系統の違う一族であり、ロスチャイルドとはサッスーンの中国支配の後年に、おそらく金融の関係でつながりができた後、婚姻などにより親戚となったのではないでしょうか?(強制的に婚姻させられた?) また、サッスーン一族は、第二次世界大戦頃に、アイゼンベルグ(=アングロサクソン王族=英国ウィンザー朝アルフレッド・アルバート=喜多誠一として関東軍に在籍)によって一族を全員殺害されてしまい、アヘンの利権を奪われたということです。同じスファラディムの中でも利権を奪う争いがあるのでしょうか? しかし、これは、ブッシュ一族、ラッセル一族、つまり、ウィンザー朝アングロサクソン王族の部下たちが世界のアヘンを牛耳っていることからも事実でしょう。

また、「ジャーディン・マセソン」は、わたしの推測では、おそらく、英王室がアングロサクソン王族「ハノーヴァー朝」に変わったため、それ以前に東インド会社の幹部だったケルト系王族・貴族たちは徐々に排斥されて、その排斥されたケルト系の幹部たちが新しく始めた会社なのではないかしら?と思います。最近、この「ジャーディン・マセソン」と、「トーマス・グラバー」に関するネットでのサイト、ブログの情報は大ウソが書かれているようでほとんど信用できません。(最近見たビートルズに関するサイトやブログも同じような感じで大ウソに満ち満ちていましたが。)


アヘン戦争(1840〜42年)    
(これは、以外とツッコンで書いてあります)
アヘン戦争
(イギリスは勝利し、清は南京条約により、広州など5港を開港し、香港を割譲し、公行(特許商人組合の貿易独占)の廃止、多大な賠償金などを約束する。)

アロー戦争
(この戦争にイギリスが勝利し、北京条約でアヘン貿易を公認する。)

「ジャーディン・マセソン」は、1832年?(本当は、もっと以前1700年代後半くらいに設立されたような気がします)に、『イギリス東インド会社元船医で貿易商人』の「ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンにより、中国の広州に設立された!

横浜開港資料館〜文明開化をのぞいてみれば・・・  B1  海岸通とフランス波止場

英一番館

やはり、この頃、中国で、アヘンを取り引きしていたのは、サッスーン一族であり、おそらく、ハノーヴァー朝の経営する「英国東インド会社」と手を組んでいたものと思われます。なので、「ジャーディン・マセソン」は、おそらく、アヘン以外の銀、紅茶、絹、兵器、軍艦などを取り引きしていたものと思われます。

(つづく)

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by Ulala-lov | 2011-01-10 00:15 | 幕末と坂本龍馬