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「本能寺の変」直後に家康も殺害、アイゼンベルグが家康に成る!

2014−07−05



上の信長の顔は、ヤハウェ系遺伝子が濃いいような顔立ちです。

信長の実母: 土田御前

石田三成=ジョゼッペですから、西軍の頭領はアングロサクソンで、参加した軍勢にはヤハウェ王族やアングロサクソ脳族の混合軍勢、東軍の頭領は


上のサイトの下のほうの肖像画はアングロサクソ脳族の典型的な顔で、アイゼンベルグの顔でしょう!きっと、本能寺の変の後の戦いで、『山崎の戦い』でわざと豊臣秀吉に負けた後にでも描かせたのでしょう。


この銅像の顔はヤハウェ王族のような顔で、ほんとうの家康の顔ではないでしょうか?


征夷大将軍になった時の肖像画と思われますが、やはり、アゴの下が長くアイゼンベルグのような顔です。

ということは、「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀(摂津源氏系{セツ!} で、美濃源氏土岐氏支流)は、その後、豊臣秀吉に山崎の戦いで敗戦しますが、逃げる途中で農民に殺されたとかの噂はあるものの、豊臣側に討ち取られたようすはありません。ということは、アングロサクソ脳族の光秀と秀吉は実際はとても仲が良く、山崎の戦いではそうほうの部下である信長のヤハウェ系兵士たちを殺しまくったのでしょう。

リンク先サイトAの年表を見ると、1582年6月2日「本能寺の変」の直前の5月15日に、徳川家康は信長から駿河国を与えられた礼を信長に言うため安土城を訪れています。下のリンク先ウィキサイトBの「本能寺の変時点の諸将の動向」一覧表を見ると、「徳川家康は少数の供回りとともに堺に逗留中、伊賀越えをして自軍が控える岡崎城へ無事帰還するも、自軍を率いての明智光秀討伐には間に合わず。」と書かれています。

本能寺の変・・・B


わずか34人の部下を引き連れた(信長への反乱を邪推されぬため?あるいは明智光秀の助言?)徳川家康(きっと、当時は松平姓だった)は安土城から出立した後、「本能寺の変」の起きた6月2日の時点では堺に逗留(旅での一時的滞在)中だったのです。(←京都から近し)

★★★ きっと、光秀(アイゼンベルグ)の軍勢は、本能寺と信長の嫡男「信忠」が立てこもっていた二条御所で戦った後、京都から堺に進軍して(あるいは最初から二手に別れて進軍)、松平(後の徳川)家康の一行をも討伐したに違いありません。

★★★★★ そして、光秀ことアイゼンベルグは「山崎の戦い」で豊臣秀吉と一応戦った後、光秀は死んだことにして、今度は家康に成りすまして、三河・岡崎城に帰っていき『松平家』を乗っ取って、後になぜか、"徳" とは似ても似つかぬ『徳川家』と名乗り始めたようです。

そういうわけで、歴史に詳しい人たちが、それを知ってか。。。最近では、
👿💀👽「徳川家」(くがわけ)=「毒川家」(くがわけ)との噂もあるとか!

一番上の織田信長とされている肖像画は、(下の明智光秀の肖像画を見ても分かるように)実は、明智光秀の肖像画です!(アゴがやや小さめに描かれていますが、この細さはアングロサクソ脳族です)


新資料では土佐の長宗我部氏は信長の四国攻めを回避しようと信長に同心* する意図でこの手紙を書いたようです。なので、長宗我部氏の治める四国攻め回避のために明智光秀が信長に謀反を起したという説は間違いのようです。


明智光秀(アイゼンベルグ)は、松平家康に少数の部下を率いて信長のいる安土城に来るように進言し、まんまと家康がそのとおり実行すると、しめたとばかりに家康を討つ決意をし、それで、わざと宴席で家康に腐った魚を出したのです。それは、多勢の軍を引き連れずにノコノコとやって来た家康など、もう取るに足らない相手とバカにしきっていたからです。

★★★ もともと、豊臣秀吉(活躍の前半はジョゼッペ、征夷大将軍の天下人になってからは象二郎)も、明智光秀(アイゼンベルグ)も、最終的には信長を裏切るつもりで、有能な信長に仕えて日本の統一を手伝っていたのです。そして、信長がほぼ日本を統一したら、信長を殺して、信長の統一した日本を奪い取り、中央集権国家となった日本をアングロサクソ脳族たちが支配するつもりだったのです!!!

そして、明智光秀(アイゼンベルグ)は信長を討った後に、大物大名だった家康も討って、しかも、家康に成りすまして江戸幕府を開いたのです!!!

そして、ヤハウェ系の大名を弱体化させるために参勤交代制度を定め、また、同時にアングロサクソ脳族がヤハウェ系大名の家系を血筋で乗っ取る作戦も徐々に徐々に、まさに蛇口から水がポタポタと漏れるかのように密かに実行していったのです。

とはいえ、明智光秀の参謀は春日局こと『シバの女王』であり、また、『新生ヴィーナス』(梶のお方)だったのです。(後世にも、大奥の局や将軍の正室などになっていたはず)ですから、この3人が徳川幕府の基盤を築いたのです。

そして、ヤハウェ系の大名たちをほぼ乗っ取ってから、(まだ、会津藩、仙台藩など東北地方にはヤハウェ系大名の幾つかの藩がありました)、『戊辰戦争』によりヤハウェ系大名たちと徹底的に戦い、征服していき、明治維新を迎えたのでした。そして、アングロサクソ脳族の天皇を中心とした、さらなる中央集権国家を築いていったのです。

(2014.07.07 5:40 p.m. 記述完了)


by Ulala-lov | 2014-07-05 16:11 | アングロ・サクソン王族