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平和を求めて! (19) 常陸宮家 その4

2014−04−30


< 常陸宮妃華子妃 >

常陸宮妃華子 画像集

正仁親王妃華子 ウィキペディア

★★★ 写真の華子妃の顔は、アイゼンベルグ=ヨーゼフ・ゲッペルス=昭和天皇(若い頃の顔)=シャルトル公ピエール=アナンヌキET男性にソックリ!
細い三角目、眉尻は垂れないように描いています。鼻がスティック型です。髪はカツラのような感じです。華子妃はアナンヌキET男性(両性具有ですが、主として男性)のクローンですが、女性を演じておられるようです。というのも、夫の常陸宮正仁親王のほうがアナンヌキET女性『新生ヴィーナス』のクローンですから、妻には、バランスをとってナンヌキET男性=『アイゼンベルグ』のクローンにしたのでしょう。

系図でみる近現代 常陸宮華子妃 津軽家 西田幾太郎 細川家・・・👪 A

(一部引用)
「しかし、香淳皇后も当初、華子さまに対して、旧華族の出ではあるものの、あまりいい顔はされなかったという。それは、なぜなら、華子さまの母・久子が長州の一門、毛利元雄子爵の娘であったから。

明治・大正史は裏面に熾烈な薩長の藩閥争いを抱えていた。薩摩派であった香淳皇后の実家・久邇宮(くにのみや)家は、維新後、二度に渡り長州の手ひどい報復を受けている。

祖父・久邇宮朝彦(あさひこ)親王*は幕末、孝明天皇の最高政治ブレーンであり、公武合体派の大立者であり、当時、中川宮と称した。文久3年、薩摩・会津と結び、宮廷クーデターを起こし、三條実美ら尊王攘夷派の公卿を追放し(七卿落ち)、バックに付いていた長州藩勢力を京都から駆逐した。(8月18日の政変)

これが、池田屋騒動、禁門の変そして長州征伐を引き起こし、長州派の恨みを買うに至る。そのため朝彦親王は維新後、皇族の身分を剥奪され、一庶民として数年間、広島に幽閉されるという憂き目に遭った。」

*この久邇宮朝彦(あさひこ)親王(1824~91、伏見宮邦家親王=『新生ヴィーナス』の第4王子)人も、相当なうつけ者で、孝明天皇の味方のふりをしたり、公武合体派のふりをして、反対派の公家三条らを追放するなどして、天皇の信用を勝ち得て、実際は、裏で反対派に情報を流したりして、反対派の味方をしていたのでしょう。そして、孝明天皇暗殺にも関わっているはずです。そして、維新後は数年ほど形だけの蟄居をし、その後は、明治5年(1872年)正月、伏見宮に復籍し、明治8年(1875年)、新たに久邇宮家を創設。維新前後の経緯から新政府の中枢には入らず、また東京へ移住することもなかった。


(しかしながら。。。久邇宮朝彦親王は、)『公家社会に隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。』というほどの大抜擢(だいばってき)をされていたのです!!!(つまり、相当にできる "一流のスパイ" だったということです)

華子妃の父方の系譜である『津軽家』とは。。。

津軽氏 ウィキペディア

津軽為信 ウィキペディア
そうとうな悪党のようです!!!為信の元々の出身地は「久慈」で、岩手県『久慈市』*のことのようです。NHK朝ドラの『あまちゃん』では『北三陸市』として舞台となった所です。じぇじぇじぇ〜!!!😲


* 久慈市
このブログ内の関連記事:
4月5日 - 衆議院予算委員会「エネルギー・原発等について」6(-3)


津軽為信 アンサイクロペディア
(南部の人と津軽の人が仲が悪いのは何か理由があってのことでしょう。粘着質とかってのとは違うんじゃない?)

石川城

(要約)「1334年築城で曽我道性により築城された。その後、南部氏(足利幕府の命を受けた)に制圧され、1533年に石川高信が居城といしていたが、大浦為信(後の津軽為信=久慈為信:大浦為則は娘を久慈為信に嫁がせ養子とした)の急襲を受けて落城。」


光信公の館 l 津軽藩発祥の地 国史跡「種里城跡」

大浦光信

英雄津軽為信 - 畑こうじ情熱ブログ

英雄というには。。。。悪よの〜!!!ですぅ〜 😥 

同じ南部氏といっても、久慈氏(9慈?慈愛ある人じゃなくて、反対の S (ヘビを象徴)=サドたち)と、九戸氏(9がついてる!)は元々同じ一族なのだとか。やっぱ、9がつくのはアングロサクソ脳族=源氏のサタニストたちでしょう!!!

九戸政実(くのへ まさざね、1536~91) ウィキペディア

安東愛季(あんどう ちかすえ、1539~87)

南部 晴政(なんぶ はるまさ 1517~1582) ウィキペディア

[南部氏]

南部氏の祖:
南部光行(みつゆき、1165~1236) ウィキペディア

奥州合戦(1189年7~8月) ウィキペディア

南部氏・・・🏯 B

南部氏 ウィキペディア

『略史』の「プロローグ」(前書き)の最後を読むと、(引用)「奥州南部一族の中で史料から南部光行の子孫であることが確認出来るのは、三戸・八戸・七戸の三家のみで七戸家は八戸南部信光の弟政光の子孫である。」とあります。

ところで、ウィキには久慈氏が七戸氏の一族となっていますが間違いです。九戸氏の一族です!!!

先のリンク先🏯 Bの「東北詳細地図」を見ると、九戸城と久慈市はとても近いので、やはり、久慈氏は九戸氏の一族なのでしょう。

第28回 不満だらけの建武の新政と足利尊氏の挙兵:日本史

南部氏の出自 - YouTube

南部氏が糠部に入ってきた時の様子 - YouTube

南部信直 アンサイクロペディア

★★★ つまり、久慈氏出身の津軽為信は、同氏族の九戸政実と結託して、「南部晴政・晴継」親子と「南部信直」を仲違いさせるようなスパイ工作をし、お家騒動を巻き起こし、その間に、津軽為信が、当時、南部氏宗家である南部晴政の勢力下にあった「津軽地方」の豪族たちの領土を次々に征服し統一してしまったのでしょう。

華子妃の曾祖父:津軽承昭(つぐあきら) ウィキペディア

戊辰戦争では新政府に従い、『函館戦争』などで功績を挙げ1万石を加増された。その後は第十五国立銀行取締役となる。1916年、77歳で死去した。跡を養子の英麿(近衛忠房次男)が継いだ。
なお、冒頭のリンク先「系図でみる近現代」👪 Bのサイト内の津軽承昭の解説を読むと、戊辰戦争では当初、奥羽越列藩同盟に加わるも近衛家の奔走により官軍方となり、奥州征伐の最高責任者に任ぜ
られ新政府軍として活躍したとあります。要するに、"裏切り者"だったというか、それよりも、最初から裏切る予定で内部潜入するため味方になり、新政府側に密告していたスパイだったのでしょうね!


華子妃の祖父:徳川義恕(よしくみ、1878~1946、徳川慶勝の11男で尾張分家の当主) ウィキペディア

尾張徳川侯爵家

徳川慶勝って、徳川慶喜じゃありませんか!尾張徳川家の跡継ぎになっていたのですね!!

それから高須四兄弟って、アナンヌキET男性のクローン子孫のようです!

でも、4人とも非常によく似ていますが、多少、雰囲気は違いますね!

・桑名松平貞敬は、痩せている時の平沼赳夫(たちあがれ日本→太陽の党→に本維新の会)にソックリ!父親の平沼騏一郎もソックリ!
・会津松平容保は、自民党の橋本龍太郎元首相に似てるし。
・一橋徳川茂栄は田中角栄元首相に似てるし。
・徳川慶勝=慶喜は、アイゼンベルグ=喜多文磨じいさんに似てるし。。ジョゼッペ=山根光男の弟にも似ています!(ということは、ジョゼッペもETだったってこと?!)


★★★ アングロサクソ脳族サタニストのトップたちの中にヤハウェ系(人間)はいないってことかな?

華子妃の父:津軽義孝とは - コトバンク

津軽義孝 - 飄眇亭日乘 -ひょうびょうてい・にちじょう-

大決断じゃないですよ!最初っからスパイだったんだから。

常陸宮妃華子さま、姉の死去で宮中晩餐会ご欠席


皇族 一覧 ー 貴人の黄昏(旧皇族家の人々)

(2014.04.29 7:30 p.m. 記述完了)
by Ulala-lov | 2014-04-30 16:44 | アングロ・サクソン王族