東京都知事選〜サタニスト候補者たちが勢揃いしようとしている! (2)

2013−01−10

(1のつづき)

宇都宮健児氏、都知事選出馬を正式表明:日本テレビ系(NNN)

細川元総理の出馬検討に波紋 舛添氏支援の自民牽制:テレビ朝日系(ANN)

東京都知事選 自民党都連、舛添元厚労相の推薦方針を決定:フジテレビ系(FNN)

自民党の東京都連は10日午前、都知事選挙への立候補を事実上表明した舛添元厚労相を推薦する方針を決めた。会合では、舛添氏と9日に会談した都議会自民党から、政策で大きな違いがなかったなどとする報告があり、自民党都連として、舛添氏を推薦する方針を決め、都連会長の石原環境相が、石破幹事長に伝えた。

一方、民主党は10日午後、都連の会合を開き、出馬を検討していることが明らかになった細川元首相をめぐり、支援に向けた協議を行うことにしている。

都知事選には、これまでに、日弁連・前会長の宇都宮 健児氏、元航空幕僚長の田母神 俊雄氏、吉田重信氏、ドクター・中松氏、中川智晴氏、五十嵐 政一氏が立候補を表明している。

(うららおばさん) あ〜あ、とうとう自民党都連が舛添氏を立候補者に決めましたね〜!ガッカリですぅ〜! ーー。ブツクサ


< 宇都宮健児=宇都宮徳馬本人か、その息子 >


宇都宮健児 wikipedia

宇都宮健児(ウツノミヤケンジ、1946年生まれ)- Yahoo!検索(人物)

下の宇都宮健児氏と宇都宮徳馬氏の画像集の写真を比べてみるとソックリです。(健児氏が眼鏡を外した顔を想像してみてください)

宇都宮健児 画像集

宇都宮徳馬 画像集

昨年1月に起きたアルジェリア人質事件で宇都宮徳馬氏の名前は覚えていました。この時に、ネットでアルジェリアの歴史を調べていた際、第二次世界大戦後に全世界で西洋列強の植民地が次々と独立していくなかで、アルジェリアでも1954年に独立戦争が起き、なぜか日本の「全学連」や政治家の宇都宮徳馬と北村徳三郎が支援していたということを知って、その意外性に驚いていたからです。「なんで、あんな遠くのアフリカの地にまで行って?」という感じです。

その直前にあった、石原都知事の突然の辞任による2012年12月16日の東京都知事選で立候補した宇都宮健児氏の名前が強く印象に残っていたので、同じ「宇都宮」という姓なので何か関係あるのかな?って思っていました。だって、非常に稀(まれ)な名字ですよね?!まあ、栃木県の「宇都宮市」は有名ですが。。。

そのアルジェリア独立戦争を支援した宇都宮徳馬氏がどのような人物だったか調べてみますと。。。

宇都宮徳馬(1906~2000) wikipedia

政治家、実業家。ミノファーゲン製薬創設者。京都帝国大学中退。

「岸信介らアメリカ寄りの外交路線を唱える自民党右派に対してA.A研(アジア・アフリカ問題研究会)を結成し、日中国交回復、韓国の民主化や非同盟諸国との協力を進めた。このように自民党の中では異色の存在であり、最左派に位置していた。またアルジェリア戦争に際してアルジェリア民族解放戦線(FLN)を援助し、1959年9月にはアルジェリアの戦場を視察した。」(引用)

自民党内では最左翼に位置していため、右派から疎(うと)まれ孤立していったとか。

宇都宮徳馬が全学連などと共に支援した「アルジェリア独立戦争」とは。。。

アルジェリア独立から50年 - アルジェリア独立戦争を振り返る - フランス生活情報 フランスニュースダイジェスト

[特別な植民地アルジェリア]のところを読むと、「アルジェリアには "コロン" と呼ばれるフランス系移民が多く、膨大な規模の白人社会が確立していた。彼らはアルジェリアが独立することで自分たちの地位が危うくなることを恐れ、独立には反対であった。そのためアルジェリアの独立を、フランス政府は簡単に認めるわけにはいかなかったのだ。」とあります。きっと、彼らの多くはアングロサクソン王族たちだったと推察されます。

<その当時のフランス側の政権は第四共和制〜第五共和制>

第二次世界大戦終了前夜に成立したフランス共和国臨時政府

1944年6月に北アフリカのアルジェ(アルジェリアの首都)でシャルル・ドゴールを指導者として成立した臨時政府。8月にパリの解放パリの解放とともにパリに移転。1945年10月にドゴール将軍は大統領に就任したが、政党間の争い、派閥政治に嫌気がさしドゴールは1946年1月に辞任したとのことです。

自由フランス

ドゴール大統領辞任後には、1946年10月13日に新憲法草案が国民投票で承認され、フランス第四共和政が誕生した。
(要約)
短命内閣が続いた後、1958年3月、ルネ・コティ大統領政権に対してフランス軍のアルジェリア駐留軍がドゴール将軍の政界復帰を要求してクーデターを起こし、パリのフランス軍中枢部も同調。6月、コティ大統領はド・ゴールを首相に指名した。

(引用)大統領に強力な権限を付与する新憲法制定を主張するド・ゴールは(1958年)9月28日新憲法を国民投票で承認させ、10月5日に『第五共和政』*が成立、第四共和政は12年足らずで終焉した。

*(引用)アルジェリア戦争に際して無力さを露呈した第四共和政は、1959年にシャルル・ド・ゴールに全権を委ねることで第五共和政へと移行した。第五共和政では大統領に強い行政権限があり、アルジェリアをはじめとするアフリカ植民地の独立(アフリカの年)、さらに中華人民共和国の成立を承認し、冷戦下では西側陣営でありつつも独自路線を貫いた。1960年には核兵器の開発に成功。
1966年に発生した学生と労働者による五月革命は、政界にも大きな影響をもたらした。ド・ゴールはこの動きを鎮圧し、総選挙で圧勝することで事態を収拾したものの、翌年には大統領を引退することとなった。選挙では社会党のフランソワ・ミッテランが当選し、フランス共産党との左派連合政権となる。以降の第五共和政下では保守派と革新派が大統領と首相を分け合う、コアビタシオン*(保革共存)と呼ばれる状態がしばしば発生している。第5代大統領となった共和国連合のジャック・シラクは、イラク戦争では派兵を拒んだ。シラクの後継となったニコラ・サルコジ政権(国民運動連合)では対米協調がおこなわれた。2012年からは社会党のフランソワ・オランドが大統領となっている。


* コアビタシオン

フランステレビのつまらなさ、背景にあの将軍の影 l フランス番長

ジャン・ムーラン(仏レジスタンスのリーダー)

シャルル・ド・ゴール

しかしアルジェリアに対してド・ゴールは、担ぎ出した人々の思惑とは逆に、独立は必至と判断していた。ド・ゴール自身が後年の回想録で第一次インドシナ戦争の背景にある民族自決の動きを理解していたこと、また当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索した(実際に国民にも提案している)ことを明かしている。こうして1959年9月にはド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認める発言を行った。これにコロンは激しく反発し、1960年1月にはアルジェ市でバリゲードの一週間と呼ばれる反乱を起こした。さらに、1961年4月にはアンドレ・ゼレール、ラウル・サラン、モーリス・シャール、エドモン・ジュオーの4人の将軍によって将軍達の反乱が勃発したものの、ド・ゴールによって速やかに鎮圧された。結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼組織OASのテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した。

ド・ゴールはこの間、たびたびOASのテロや暗殺の標的となった( → 詳細は「ジャッカルの日」項を参照)。1962年8月にはパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で乱射された「プティ=クラマール事件」が起きたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。

また、アフリカに残っていたフランス領西アフリカ及びフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、1958年9月、フランス共同体の元での大幅な自治を認めた第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認し[9]、1960年にはこれらの植民地はすべて独立している。これによって、フランスは独立闘争によって国力をすり減らすことなく、独立後の諸国に対し強い影響力を保持することができた。


ジャッカルの日

『シャルル・ドゴール』 乱世の英雄 - HONZ

フランスの歴史

第四共和制の前には第二次世界大戦の終戦前1944年ごろまで『第三共和制』があったわけですが、さらに、さかのぼれば、その第三共和制にたどり着いた原因は「晋仏戦争」(プロシア対フランスの戦争)で、ナポレオン3世(ジョゼッペ本人かその子孫)が捕らえられ『フランス第二帝政』が崩壊したのことにあるのでした。

その後に『第三共和制』が発足したのですが、そこの「対独ナショナリズムの高揚」ところを読むと、
(引用)
1875年の第三共和国憲法によって正式に第三共和政が発足した。普仏戦争の敗北にともなうアルザス・ロレーヌの喪失と、50億フランという高額な賠償金は、フランスの対独ナショナリズムを高揚させた。そのため、ブーランジェ事件やドレフュス事件*を引き起こすことになった。また小党分立によって政権は頻繁に交代し、1875年から1940年の65年間に、87の内閣が成立している。
しかし、第二帝政期に急速にインフラが整備されたこともあり、工業化は順調に進展した。金融資本の形成も進み、広大な植民地やロシアなどへの投資を積極的に行った。


?? この頃からのフランス人の対独ナショナリズムの高揚が第二次世界大戦でのレジスタンス運動の高まりにつながっていったのではないかと思われます。

* 『ドレフュス事件』

わたしも事件名だけは聞いたことだけはあったので、かなり有名な事件らしいのですが、1894年に起きていて、これも対独ナショナリズムの高揚につながったとされているのですが。。。実は、
(引用)
この事件を新聞記者として取材していたテオドール・ヘルツルは、社会のユダヤ人に対する差別・偏見を目の当たりにしたことから、ユダヤ人国家建設を目的とするシオニズムを提唱、この思想及びそれに基づく諸運動が後のイスラエル建国へと繋がっていくこととなった。

つまり、このドレフュス事件というのはテオドール・ヘルツル(=アイゼンベルグ)が『シオニズム』を提唱し、シオニズム運動やイスラエル建国するために多いに役立ったわけです。なので、きっと、ドレフュス事件はテオドール・ヘルツルことアイゼンベルグが仕組んだスパイ工作事件であったのだろうと推察されます。


(つづく)
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by Ulala-lov | 2014-01-10 14:34 | 選挙