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皇室問題:旧宮家の皇籍復帰はあり得ない!!! 3

(2のつづき)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

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◎◎◎<閑院宮家>◎◎◎

閑院宮家

一番上の写真:恭子女王(娘)、春仁王と3人で写っている「載仁親王」が本物*です。上から3番目の写真は他人の写真です。

閑院宮載仁親王(1865~1945)
「伏見宮邦家親王」*第16王子。
三条実美の次女・智恵子と結婚。

*伏見宮邦家親王

★★★ 閑院宮載仁親王って、なんと〜、イギリス・ハノーヴァー朝の「エドワード7世」(=ヴィクトリア女王の息子)の長男『アルバート・ヴィクター』**(1864~1892)だったのですね〜!

**アルバート・ヴィクター

ウィキサイトのアルバートの写真を見てください。鼻下のヒゲの感じがソックリでしょう。(ヒゲは黒く染めただけ?)そして、耳がとてもよく似ています。下のほうに向かって徐々に大きくなっています。弟のジョージ5世も兄のアルバートにとっても良く似ています。

おそらく、1872年に閑院宮愛仁親王の死去(おそらく、彼らザクセン・コーブルグ・ゴータ家の命令に従ったイルミナティによる暗殺)により、伏見宮家を継承する頃に、日本にやって来て日本語を習得するため日本の学校に通い、その後ヨーロッパに戻ってフランスで高等教育を受け、その後、フランス陸軍学校に入隊とありますが、実はドイツやイギリスで海軍か陸軍学校に入っていたほうの可能性が高いと考えられます。おそらく、それらの軍兵学校を卒業した後、1880年中頃までに"アイゼンベルグの邪悪な脳を移植された" ものと推察されます。

★★★ そして、1890年後半に日本に帰国し(実際は、襲来?)、貴族議員になるなど閑院宮としての圧倒的に優位な立場の軍人として、積極的なスパイ工作活動を始めています。

そして、1992年結婚し、この頃にウィンザー朝のアルバートは死んだことにして、日本で、閑院宮家の子供たちも7人ばかりもうけています。もちろん、他にも世界中に愛人がいて、その子供たちも数知れずいるでしょうけれども。。。

そして、アルバート・ヴィクターは日本での閑院宮としての軍人面の目覚ましい活躍だけではなく、その他、世界中でシオニズム運動、フリーメーソン、イルミナティー、ナチズムなどサタニスト活動の首謀者として活動しています。また、五・一五事件で暗殺された(実際は生きていた)ことで有名な犬養毅元首相はアルバート・ヴィクターが変装していたようです。つまり、一人二役で、軍と政治との両方を操っていたのです。同時に、諸外国でも何役かをこなし戦争を画策していました。

ところが、この閑院宮載仁親王の第一王子「篤仁王」は1894年生まれですが亡くなっています。(しかし、アルバート・ヴィクターのように亡くなったふりが得意なので要注意です!)ところが、第二王子で唯一の継承者「閑院宮春仁親王」(1902~1988)には子供がなく(これもウソかも?)、1998年に閑院宮家は断絶してしまいました。どっちにしても、アルバート・ヴィクターことアイゼンベルグには、他にもたくさん愛妾の子供たちがいたでしょうから、どうにかなったんでしょうが、計画的に「閑院宮家」を断絶させ、『伏見宮家』を盛り立てさせたかったのでしょう。


☆☆☆『閑院宮家』の創設に関しては、江戸時代に徳川幕府・第6代将軍「徳川家宣」(いえのぶ、1662~1712、在位1709~1712)の時に、重臣として家宣の政策を補佐した新井白石*が "皇統の断絶を危惧" し、徳川将軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新たな宮家が必要との建言を将軍に出したとあります。(家宣は母親がおそらくヤハウェ系であり、名君でもあったので、サタニストの陰謀で暗殺されたのでしょう)
* 徳川綱吉・新井白石

一方、同様の危機感を抱いていた『東山天皇』も将軍「家宣」の舅(しゅうと)でもある関白「近衛基熙」を通じて、実子である秀宮(直仁親王)に新宮家を創設させるための財政的な支援を求めてきた。このため、宝永7年8月11日(1710年9月4日)、『直仁親王』を初代とする新宮家創設が決定され、8年後(1718年)に、「霊元法皇」(東山天皇の父、天皇は1709年(宝永6年)に崩御)より直仁親王に対して『閑院宮』の宮号と1000石の所領を下賜された。こうして、寛永2年(1625年)の有栖川宮(高松宮)が創設されて以来の新宮家誕生となったとのことです。




◎◎◎<伏見宮家>◎◎◎

「伏見宮」
現在の皇室に深くつながる血流とありますが、ところが、その真実は真反対のようなので〜す!

♦ 伏見宮で団系維持は不可能:Open ブログ

伏見宮総説

伏見宮博恭王(1875~1946)の父親である伏見宮貞愛親王(伏見宮邦家王の第14王子)は、ウィキサイトに載っている写真は、違う人です。

本物は、下のサイトの写真のようです。
明治のアルバム〜その2:百年前のセレブ?皇族カップル
上から二番目です。やはり、ダイオウイカ系の鼻で、眉尻もやや下がっています。(なんだか西洋人っぽい顔ですから、もしかしたらヨーロッパの貴族が成りすましているのかも?)また、その妻は、エリザベス女王の子孫です(目つきから、この時すでに邪悪な脳が乗り移ってます)。以前わたしが島根県浜田市の中学校で臨時教員をしていた時の同僚教師で名字は忘れましたが、岡山出身でトモちゃんと自分で言っていましたが、中村珠代の身体に乗り移っていた時の顔にソックリです。同じアングロサクソン王族同士の結婚でしょう。

★★★ そして、「伏見宮貞愛親王」の長男で妾の子だっという「博恭王」ですが、どうも真実は、清王朝第8代「道光帝」の第6子「愛新覚羅奕訢」(=恭親王)と偽・「西太后」(=アレクサンドラ英王妃の母親でデンマーク国王クリスチャン9世の王妃「ルイーゼ・ヘッセン」=偽・倪桂珍)との間に生まれた息子のようです!!!

なので、偽・西太后のダイオウイカ系の垂れ目加減を受け継いで、恭親王の吊り上がったキツネ目(オオカミの目の遺伝子)ではなくなっているものの、恭親王と非常によく似ています。

★★★★★ つまり、「愛新覚羅奕訢(あいしんかくら えききん)+偽・西太后」の息子=「伏見宮博恭王」で〜す!!!
(伏見宮貞愛親王の長男というのはウソ!)

ビックリしたな〜もう〜〜〜! ?? サタニストの陰謀だったんだワン! ??

愛新覚羅奕訢は、兄・第9代「咸豊帝」の死後(おそらくサタニストたちによる毒殺)、西太后、東太后らと共に「辛酉政変」と呼ばれるクーデターを起こし、西太后と共に最高権力者となります。しかし、1884年、清仏戦争敗北(最初から負けるシナリオだった!)の責任を被され、西太后から罷免されたとあります。しかし、本当は、次の陰謀のために仲違いしたふりをしていたのですネ!

ちょうど、その頃(1883年)から日本では「伏見宮博恭王」(親王と呼ばないのも特別)がいろいろと日本史の表舞台で活躍し始めてきます。1年間ちょっとダブりますが(飛行機やUFOでどこへでもスイス〜イ!ですから)、1883年に継承者の途絶えた「華頂宮」(かちょうのみや)を継承し、その3年後、1886年に海軍兵学校予科に入学し海軍軍人としてスタート!その3年後、1889年にドイツへ渡航し、ドイツ海軍兵学校からドイツ海軍大学校で学び1895年まで滞在したとのことです。


★★★★★ その後、1904年に伏見宮に復籍(本当は移籍)、1923年に義理(養子だから)の父・貞愛親王の死去に伴い「伏見宮家」を継いだ〜!(エエ〜!!!?? ; 、?? ジョーダンじゃないニャ〜?!)

日本での海軍の軍歴を重ね、1932年には海軍のトップ「海軍軍令部長」に就任します。(就任直後に「軍令部総長」に改名)。そして、以前からこのブログでも書いてきたので*、ご存知のように伏見宮博恭王は軍備拡張を熱心に進め、日本を侵略戦争体制に向かわせていきます。

軍令部総長 伏見宮博恭王について - Yahoo!知恵袋

もし伏見宮博恭王がドラッカーの「マネジメント」を読んだら:塩はうまくてまずいです

ドイツの「ザクセン・コーブルグ・ゴータ家」(=アイゼンベルグと新生ヴィーナス)の指令で、西太后(ルイーゼ・ヘッセン)と、同じタタール系*の母親を持つ清王朝(清=支那)の王子「愛親王」との間にできた息子が、伏見宮家の親王に成りすまして「伏見宮博恭王」となり、日本の皇室を操り、中国との戦争を引き起こし、さらには東南アジア全域との戦い、さらに米国と太平洋戦争などの第一次世界大戦により、多くの国々のヤハウェ王族のジェノサイド(民族浄化)を始め、その他ヤハウェ系とサクソン系との混血種など多くの庶民の大虐殺やってのけたというわけですね!!!

*タタール人 画像集
タタール人を知る!:シルクロードを知る!!

タタール人とは - コトバンク
タタール人 - Yahoo!百科事典
トルキスタン

リプカ・タタール人
スメラとアングロサクソン王族たちが率いるゲルマン軍団が、古代から度々(たびたび)用いてきた典型的なやり方です。他民族にも寛大な領主の国に、徐々に移住して人数を増やしていく。最初はずっ〜と大人しくしていて、兵士として協力するなどし、その国の元からいた人々とうまく共存してやっていくが、充分に力を蓄え、権力を握って行くと、ある日突然、クーデターを起こし、国を乗っ取る(征服する!)というやり方です。
Tatar

テムジンの頃のモンゴル高原
黒龍江の上流オノン川、ケルレン川の東部がタタール氏族の居住地となっています。そのすぐ東側がモンゴル部族の居住地だったようです。バイカル湖がすぐ近なことからブリヤート人の一種なのかも。。。ウィキにも、以前、バイカル湖から東はモンゴル系と混血したブリヤート人(こちらのほうがより直系に近いとか)、西はコーカサス系と混血したヤクート人とかって書いてありましたよ。後で、もっと検証してみます。

テムジン=チンギスハーンは、以前から書いているように、幼い時にモンゴル部有力氏族キャト氏のボルジギン氏のハーン(首長)であった父親を暗殺され、その後、少年期にはタタールの人質となっていました。ちょうど、その時期に合せて、源義経(ジョゼッペ)は、日本で源平合戦に勝利した後、蝦夷(東北)に遠征(実際は、虐殺、略奪、レイプなどして征服)した後、モンゴル高原に渡ったという話は本当です。そして、ジョゼッペは、テムジンに自分の"超極悪脳"を移植し、テムジンの身体に乗り移ります。タタールの部族集団から逃げたと称して、出身部族のモンゴル部族に戻り、タタールを表向き宿敵と称して配下に修めますが、実は、タタールが主体のモンゴル軍団を作り、東へ、南へとどんどん世界を征服して行ったのでしょう。

ジョゼッペがこのような小細工をして、"表向き"は、タタールを配下に治めるという手段を取ったのも、タタールはモンゴル系の中でも非常に恐れられていて評判が悪い部族なので、タタールの長をトップとしたモンゴル系軍団を作ることは不可能だったからではないでしょうか?

日本では馴染みの薄いタタールという名前の民族を分析解読する

*このブログ内の関連記事:
橋下(=橋本)大阪市長と徳川御三卿一橋家と尼崎事件真相の深層 6

また、西太后を補佐した政治家の李鴻章は、おそらく、ヴィクトリア女王の夫アルバート公子(ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)です。李鴻章は、1847 年に進士(科挙の合格者)となるとありますから、ヴィクトリア女王と1941年に結婚していますので、その後、清王朝でのスパイ活動に参加したのでしょう。

そして、もう一人の西太后を支えた重臣が曽国藩(1811~1872)です。おそらく、この人はハノーヴァー朝のアルバート・ヴィクター(エドワード7世の長男)でしょう。曾国藩のほうは、1838年に進士(科挙試験の合格者)となり、清王朝で活躍し始めています。1850年に勃発した太平天国の乱の時から歴史の表舞台に登場しています。なので、"本物の曾国藩"(華南出身で頭の良い、おそらく客家=ヤハウェ王族)は、進士になってしばらくして、ハノーヴァー朝のアングロサクソン王族サタニストたちに暗殺され、アルヴァート・ヴィクターが偽・曾国藩に成りすまして活躍したということでしょう。その10年後くらいに "本物の李鴻章"も同なじような理由と状況で暗殺され、同じようにヴィクトリア女王の夫「アルバート公子」が偽・李鴻章に成りすましたと推察されます。

つまり、西太后(=後年デンマーク王妃「ルイーゼ・ヘッセン」が入れ替わる)を支えていた重臣「李鴻章」、「曾国藩」の二人とも、実は、ザクセン・コーブルグ・ゴータ家出身のイギリス・ハノーヴァー朝の王族で、「ヴィクトリア女王」の夫やその長男だったことに!!!

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by Ulala-lov | 2013-05-25 08:53 | アングロ・サクソン王族