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『シバの女王』とは。。。15 パルミラ(4)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜


<天界の女王アスタルテ>

シバの女王にまつわるパルミラの役割はこれで完了するはずだった。ところが、そうはいかなかった。最後にもう一度あたりを見渡してから、クリスティーナと私はベル神殿をあとにし、仲間に合流した。

彼らは'ウ゛ェールをかぶった3人の婦人の浮き彫り'*をしらべているところだった。ウ゛ェールをかぶる習慣がイスラム教の発生以前にさかのぼる証拠だ。この習慣は宗教的なものではなく、うら若い女性たちを淫(みだ)らな視線やそぶりから守るとともに、奴隷や召使いや娼婦と区別するためのものだった。*

*巻末の注より、
ウ゛ェールの着用は、B.C.12C、ティグラトピレセル1世の時代に制定されたアッシリアの法典にまでさかのぼる。この法典には次のような箇所がある。「貴人の娘は肩掛け、ローブ、あるいはマントでその身を隠すべし....娼婦はその身を覆(おお)い隠すべからず。頭部は顕(あら)わすべし。
娼婦が身を覆い隠すを見し者あらば、その女を捕らえ、証人を伴いて女を裁きの庭に引き出すべし...棒にて女を50回打ち、頭から松やにを浴びせよ」(James B. Pritchard,ed.,Ancient Near Eastern
Texts,p.163) (注:おわり)

そこから数歩のところにも彫像があったがこちらは見るのに骨がおれた。かつてベル神殿の上の方にあった石板がはるか昔に崩れ落ち、小ぶりの二枚の石板の上に載っている。その石板の下に仰向けにもぐり込むと、風雨にさらされなかったせいで驚くほど保存状態のいい浮き彫りを見ることができる。

みんなの順番が終わるのを待って、私も石板の下にもぐり込むと、鼻から10センチとはなれていないところに、透けた衣装*(石で表現できる透明さでの範囲でだが)をまとった女性像が見えた。女性は顔をウ゛ェールで覆(おお)ってはおらず、片方の乳房(ちぶさ)もあらわにしている。ほんの1メートル先では白日の下、全身を布で覆っている女性たちがいる。なんというコントラストだろう。

* シバの女王もスケスケの非常に薄い透けて見える、つまり、超シースルーな衣装をつけていたらしい。これまで紹介しているニコラス・クラップ著「シバの女王」の p.102に、1921年の映画「シバの女王」(もちろん、時代考証がなされているはず)でも、主役の女優「ベティ・ブライスは何も身に付けていないも同然だった。彼女はある記者にこう打ち明けている。「28種類の衣装があるんですけど、それを全部いっぺんに着ても暖かくないそうにないの」

この女性は奴隷か。あるいは、召使いか娼婦か。いや、ちがう。翼がある。天使だろうか。左手でつかんでいるのはヘビのような蔓(ツル)か。それとも、蔓のようなヘビか。それに、兜(かぶと)らしきものを頭に戴(いただ)いている。戦士だろうか。それに、右手はどうしたというのだろう。指のかわりに蹄(ひづめ)が生えている。私は手探りでカメラを取り出し、身をよじるようにして、広角レンズで接写できる魚眼レンズをつけた。

急に、あたりが騒がしいのに気づいた。走りまわる足音や、くぐもった叫び声、気味の悪いヒューッという音。娘にせかされながら、私は写真を撮り、石板の下から滑りでた。日が陰っていた。砂やがれきで茶色に染まった、天にも届きそうな竜巻が、神殿めがけてやって来る。みんな境内の西門を目指して避難している。一行のほとんどは間に合ったが、クリスティーナと私は逃げ遅れた。砂が目を刺し、髪の毛に混じり、首筋から服の中へも入りこんだ。だが、幸いにも竜巻の渦は思ったほど強くなく、気でも狂ったように風が巻き上がるが私たちを空中にさらうほど強くはなかった。

竜巻は数分間、境内をぐるぐる回ったかと思うと、砂漠を東へと蛇行しながら行ってしまった。そのあとは一日中、空が暗かった。空中には塵がただよい、突風に引きちぎられた草木の匂いがたちこめていた。

石板の下側に彫られた像の女性のことに思いをめぐらせたのは、カリフォルニアへ戻ってフィルムを現像した後だった。それからは、彼女のことをよく考えた。

シリアへの旅に同行した考古学者トム・パーカーは、この女性はニケ* だろうと言っていた。ギリシャには翼のある勝利の女神いるが、ニケはその中東版だ。彼は正しかった。姿勢と衣装は有名なパントスのニケの流れをくんでいるが、それだけではない。左手の蔓かヘビのようなものは豊穣の象徴で、蹄を思わせる右手は悪魔の印だ。石板の下の女性像はニケと、もうひとり.....得体の知れぬ者が組み合わさったもののようだった。そのもうひとりは、パルミラに広く見られるアスタルテ*だとあとで分かった。*

サモトラケのニケ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%
A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B1%E3%8
1%AE%E3%83%8B%E3%82%B1

ルーブル美術館(サルゴン2世、ニケ)
http://kirisai.syuriken.jp/france33.html

* 巻末の注より、
パルミラ神殿におけるアスタルテの主たる役割は、ただちには判然としない。これは、この女神がさまざまにその姿や特質、通称を変えることによる。彼女は、碑文や図像では自らの名前で現れるが、同時にアルラート、ベルティ、ベルトゥク、イェディエベル神、あるいは、タドモル神としてもその姿を現す。ジャヴィエ=テクシドルはその著書『パルミラ神殿(Pantheon of Palmyra)』で、これらはすべて天界の女王アスタルテの化身だとしている。

* アスタルテ
IzFACT神話『ソロモン72柱』 29 アスタロト/ Astaroth イラスト&解説
 別名:アスタロス、アスタロート、アスタロテ 
http://izfact.net/solomon/29_astaroth.html

イシュタル女神(=アスタルテ)を表す石碑〜古代オリエント美術:ルーウ゛ル美術館
http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?
CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673225228&C
URRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=1013419867
3225228&FOLDER%3C%3Efolder_id=98527236965
00800&baseIndex=2&bmLocale=ja_JP
(勢力と領土拡大の絶頂にあった(新)アッシリア帝国のアッシリア人に崇拝されていたんですね)

兜をつけたニケと同じく、アスタルテも戦いを好み、天から降りてきては、これぞと思う者に勝利を授ける。怪しい輝きを放つ宝石のように、彼女はさまざまに変化する多くの面を持つ。豊穣の神、性愛の神、運命の女神。「ベルトゥ」(女主人)という名で呼ばれれば、「ベル」(主人)の配偶者ともなる。天空の星すべてのうちでもっとも明るい金星であり、月であり、天界の女王だ。特定の文化に属さず、多くの文化で女王の座を占めた。バビロニア人にとってはイシュタルであり、アラビア人にはアルラートあるいはアッタル、さらに、カナン人やイスラエル人にはアシュトレトだ。

そして、アスタルテをシバの女王とする者もいる。

シバの女王に関して、ドイツの学者エーリヒ・ツェーレンの記述には、あまりにも複雑な仮説が多いので、私ははじめ疑問を抱いていた。「列王記上」でシバの女王がソロモンにまみえる話*を読み、ついでソロモンがヤハウェに背いて多神教の神々を崇めた話**を読めば、シバの女王の身元について手がかりが得られる、とツェーレンは言う。「列王記上」第11章5節には、「ソロモンはシドン人の神アシュトレトに従った」とある(シドン***はシリアの都市で、パルミラが興(おこ)る以前にさかのぼる)。ソロモンはアスタルテを讃(たた)えて、オリーブ山の南、エルサレムとは反対側にある丘の頂に記念柱を建立した。

* 第1列王記10章(シバの女王がソロモン王を訪問するくだり)
http://homepage3.nifty.com/IUCC/bible//o1110.html

** 第1列王記11章
http://homepage3.nifty.com/IUCC/bible//o1111.html
(11章全部読むと、ソロモンが700人の王妃としての妻と、300人のそばめをもち、その妻たちの崇める異教の神さえも信仰していた。それで、ユダヤ教のヤハウェの神の怒りをかい、ソロモンの後継者からはその権威を失わせると宣言された。神様は、ソロモンの父ダビデの信仰深さに免じてソロモンが亡くなるまでその権威をそのままにしておかれた。そのとおり、ソロモンが亡くなると、イスラエル王国は南の「ユダ王国」と北の「北イスラエル」のふたつに分裂してしまうのでした)

*** シドン(=サイダ[アラビア語で魚の意]ともいう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A
4%E3%83%80

古代レバノンの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%
E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3%E3
%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

シドン(=Sidon) の地図
http://hiki.trpg.net/BlueRose/?RepOfLebanon+UFmaps

中東地図
http://www.meti.go.jp/hakusho/tsusyo/kakuron/
H13/MAP03-02-00.htm

レバノン南部の町シドンで起きた爆破事件 - 月の砂漠ーヨルダンから
http://plaza.rakuten.co.jp/fmtours/diary/20110
5280000/

レバノン旅行記:ベイルート、シドン、ティルス
http://members.jcom.home.ne.jp/tabibito5/syria2.htm

海の要塞シドン  〜世界の記述
http://blogs.yahoo.co.jp/kaientai1867/40779940.html
(後で書きますが、フェニキア人は結局、紀元前9世紀にはアッシリアに征服されました。ですから、その時は、フェニキア人といっても、支配層はアッカド人で、ほんとうのフェニキア人は奴隷にされていたと推察されます)しかし、紀元前603年には新バビロニア*(カルデア王国=どうもシュメール人)によって解放されています。しかし、それも、つかの間、今度は、B.C.539年にアケメネス朝ペルシャに征服されます。

* 新バビロニア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%
AB%E3%83%87%E3%82%A2%E4%BA%BA

(引用一時おわり)〜〜〜〜〜〜〜

上の古代レバノンの歴史のサイトで、「フェニキア時代」の項目のところを見ると、B.C.1400年代にエジプトのトトメス3世によりシリア、レバノンは支配されていた。しかし、エジプトは弱体化していき、B.C.1100年代に独立した。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた繁栄と外国からの自由の時代だったとか。ということはフェニキア人は紀元前3000年頃、いや、もっと何千年(B.C.6000年?)も前からこの地に住んでいた原住民?

さらに、「アッシリア時代」の項目のところを見ると、アッシリアの時代はB.C.895〜608年まで続いたとあります。そして、B.C.750年頃、ティルスとビュブロスが反乱を起こしたが、ティグラト・ピレセル3世*は、反乱を鎮圧し、重税を課したとあります。また、B.C.721年にティルスは反乱を起こしたが、サルゴン2世(B.C.722~705年?)は、ティルスを包囲し、ティルスの民に処罰を与えたとあります。B.C.600年代初め頃、シドンが反乱を起こしたが、エサルハドン王(B.C.681〜668年?)によって、徹底的に破壊され、シドンの民は奴隷化され、また、彼は、シドンの廃墟の上に、新しい都市を建設したとあります。

(:当時のアッシリア王)
* ティグラト・ピセル3世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%
A3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83
%BB%E3%83%94%E3%83%AC%E3%82%BB%E3%8
3%AB3%E4%B8%96

B.C.1100年(ほんとうは300年後の800年代、この都市(=ダマスカス)は’アラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家=(新)アッシリア帝国’*の中心になる。アラム・ダマスカスの王はこの地域をアッシリア人とイスラエル人(シュメール人?)とのいくつもの戦争に巻き込んだ(このように嘘が多い。原住民のフェニキア人=多分、シュメール人がエジプトの支配から逃れて独立していたが、頻繁にアッシリアに攻撃され、すでに北部シリアを征服されていた)そうした王の一人、ベン・ハダド2世(=嘘。アッシリアの王シャムシ・アダト1.2.3.4.5世をもじってる? 本当は、「シリアと海岸の12人の王の連合軍」)は、カルカルの戦い**においてシャルマネセル3世(B.C.858〜824年、新アッシリアの王)と戦った。この時は新アッシリアが負けて退散した。しかし、B.C.732年、ティグラト・ピレセル3世(新アッシリアの王)?もしくは、サルゴン2世(こっちみたい!)についに征服され、その後数百年間独立を失った。ところが、B.C.572年には新バビロニア王国のネブカドネザル2世(カルデア人国家の王)の支配下に入る。← <p.s. フェニキア人(ヒッタイト人に奴隷にされていたシュメール人)たちは同じ種族のシュメール人の王「ネブカドネザル2世」によってヒッタイトの支配から解放されたということみたいです。>

*アラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家
アラビア半島(アラビアではなく、メソポタミアだと思われます)から来たセム語派系の遊牧民とウウィキにありますが、これは’新アッシリア’のことのようです。しかし、それは、B.C.800年代になってからのことです。 このB.C.1100年頃には、古代フェニキア人=シュメール人は、アモン人(エジプトのおそらくヌビア人+ヒッタイト人(=アムル人)=シェバ人=アラビア人)に乗っ取られた後、やっと独立したシュメール人たちの都市国家群「フェニキア」(フェニックス - 蘇生、再生の意味)がありました。前述でリンク先として紹介した「レバノンの歴史」のほうの記述が正しいと思われます。(ただし、当時の中東のすべての歴史的年代がもっと以前という可能性もありますが。つまり、アッシリアのサルゴン2世(B.C.722~705年?)がイスラエルのソロモン(B.C.965〜925年頃)とすれば、250〜300年くらいの差がでてきますので。いったい、どちらかの年代が正しい歴史の年代なのでしょうかね〜?)

要するに、アラム人って、結局、アッカド人などアムル人(=テュルク族の一派)のことなんじゃないかしら?アラム語*(=後のアラブ語?)って、結局、アッシリア帝国(アッカド人の王)の言語のことでしょう。

一方、前述のリンク先「古代レバノンの歴史」にもあるように、「フェニキアは、ヒッタイト人やエジプトのアモン人(アメン・ラー信仰の=シェバ)に乗っ取られていたが、B.C.12Cにやっと独立を果たし自由になって貿易で繁栄していた。そして、その頃にシュメール文字をアルファべットに発展させたということです。

そのフェニキア語を新アッシリアの王(アッカド人=アムル人の一派)が、アムル語やアッカド語などと組み合わせて改良して新たな『アラム語』をつくったということでしょうね〜。「アムル」のムとルを引っくり返してアルム、発音しやすくして「アラム」ですからね〜

* アラム語
http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/aramaic.htm
映画「パッション」のアラム語・ラテン語
http://arabic.gooside.com/aramaic/lema/sabaqtani.html

* * カルカルの戦い(B.C.853年とありますが、サルゴン2世の時みたいなので、もう少し後みたい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%
AB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%8
8%A6%E3%81%84

ということで、シュメール人は、せっかくフェニキア(B.C.20C頃にヒッタイト人に征服され、鉄の製法を横取りされていた。その後もミタンニやエジプトなどの征服されてきた)を復活させた。しかし、300年後に「新アッシリア」に征服されてしまったんですね。これにより、「新アッシリア」は、フェニキア人による貿易で非常に繁栄していた地中海東部沿岸の貿易港をもつ都市「シドン」や「ティルス」を手に入れます。さらに、地中海沿岸でアフリカ北部にある「カルタゴ」***(現在のチュニジアあたり)への侵攻していき、その地を手中に納めたようです。フェニキア人(いままでネット上にでていたフェニキア人=ヒッタイト人というのは’ガゼネタ’=ウソの情報だったんですね〜 ーー。) カルタゴはB.C.8C頃にフェニキア人が創った国といわれますがウソですよ〜!

***カルタゴ(B.C.814年説が有力であるが、確かではないらしいです)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83
%AB%E3%82%BF%E3%82%B4
(まあ、ウィキに書かれている細かなことはあまり信じられません。半分くらいあっているかも。でも参考になることもあります。おそらく、ヒクソスのリビアと合併してカルタゴと名乗っていたのでは? とにかく、B.C.6Cにカルタゴは地中海沿岸の古代フェニキア(シュメール人)都市を攻略して、アフリカ北部沿岸地域をすべて攻略した地中海の覇者だったというのは本当かもしれません)

ディードー(伝説ではティルスの女王と言われている)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82
%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BC

どうも、このディードーは、シバの女王のようです。カルタゴの建国は、B.C.800年代前後のようなので、年代的にもシバの女王の時代とされるのがその前後くらいなのでちょうど合いそうです。新アッシリアのサルゴン2世から以降4代にわたってアッシリア帝国の影の力として君臨していたシバはシドンやティルスも我が庭のようなものだったことでしょうし。それらの貿易港の港町では、シバはアスタルテ女神(ダゴン神=海神)の化身として崇められていた女王だったのでしょう。ダマスカスに滞在したり、パルミラもシバの女王の別荘のようなところだったのかもしれません。もちろん、それ以上にパルミラはベル神の聖地、アスタルテ女神(=ベル神の妻ベルトゥでもある)の聖地としての意味が大きかったのは確かですけれどね。そして、シバはサルゴン2世の側室となった後も、女性の貿易商として活躍していたのでしょう。また、アスタルテ女神さながらに、まさに領土拡大の戦士でもあったのかもしれません。

keizo's home/ チュニジア旅行記
http://www4.airnet.ne.jp/keizo/TUNISIA/02_BYRSA/
02_byrsa.html

とにかく、本当のフェニキア人≠ヒッタイト人ということですね! まっ、なりすましフェニキア人(ほんとうは、「アッシリア人=アムル人の中のアッカド人=マケドニア人」や「シェバ人=ヌビア人+アムル人の中のヒッタイト人」)が貿易商人として貿易していたり、海賊になったり、戦士になったりしていたんでしょうけど。

しかし、アフリカ北部の地中海沿岸には、すでに、それ以前のB.C.15〜12C頃に、ヒクソス(アムル人=ティルク族)の一部がリビア(チュニジアの隣)あたりに侵攻していったということです。幼児の生け贄の儀式をしていたのは彼らの時からだったんしょうね。もちろん、「カルタゴ」の幼児の生け贄の痕跡は有名ですが。ヒクソス=ヒッタイト人やアッカド人その他のアムール人(テュルク系)みたいでほぼ同類だから、リビア、チュニジアの隣同士で仲良くしていたかも。。。


’本当のフェニキア人’(シュメール人)は、『奴隷』として、彼らの得意な造船、船の操縦、貿易、会計などをさせられて酷使されていたんでしょうけどね。気の毒に。。。ブツブツ。。。
by Ulala-lov | 2011-06-13 00:00 | シバの女王