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シバの女王とは。。。11 その1

2011−05−29

かなりな訂正をしました〜!オリーブ色(深緑色)文字が間違いで、ピンク色文字が訂正や加筆した箇所です。この本の間違いを訂正するというのは、作者のニコラス・クリップさんには大変失礼なことではありますが、おそらく、真実ばかり書いていたらアングロサクソ脳族の出版物検査に合格しなくて出版できなかったのではないかと推察されます。また、ピンク色文字ののところも新たに追記しました。2014.06.16 2:30 p.m.

(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜

<<シバとソロモン>>

サナアからフランクフルト行きの飛行機の中で、ソロモンの宮廷の話以外に、暗にシバに言及している文がないか、聖書を調べ直してみた。まずこれをやってみると、思いがけない発見があった。

サバ人は商人にして襲撃者、背の高い人々、香料と金を豊富に持つ民として(征服したプント国から奪ったので)、「創世記」の系図の中に十数か所登場していた。だが、どれもほんの数語程度の言及で、余談の域を出ない。聖書の信憑性を示すひとつの論拠だろう。聖書は知らないことについては語らないのだ。(上手にウソは語るけれども都合の悪いことは語らないのです。)

ヘロドトス*やストラボン**、大プリニウス*** ら、後の歴史家たちも、この遠い国のことに触れているが、それもほんのわずかにすぎない。古代ローマ人は「幸福なアラビア」という言葉を作りはしたが、彼らの地図には、そこへどうやって行くのか、そこに何があるのかは、いっさい記されていない。サバ人の失われた世界をよみがえらせるのは、今も今後も考古学者の任務ということになる。

*ヘロドトス
** ストラボン
*** 大プリニウス

彼らの作業はまだ始まったばかりで、古代の世界で行われたことを一本のロウソクで照らしているようなものだが、そのおかげでサバ文明の起こりの概略がすでにわかっている。の文明は、以下に示すように、ソロモンの時代に転機を迎えた。

話は、自然の手によって滑(なめ)らかに仕上げられた空白の石板から始まる。

8000年前(B.C.6000年ごろ)、アラビアはこの世の地獄だった。わかっているかぎり、アラビア半島には人はひとりとしておらず、もっとも過酷な状況に耐えうる動植物しか見られなかった。この約1万2000年前(B.C.1万年前)、『ミランコウ゛ィッチ効果』*と呼ばれる現象のせいで地軸が傾き、それが、氷河期とは正反対の状況を引き起こした。地球をめぐる帯状のサバンナ地帯では、気温が摂氏60度を超えた。雲は空から一掃された。アラビア中のあまたの湖が干上がり、木々は裂け、獣も鳥も死に絶えた。新石器時代人**で体力のある者は北方へ、より安全な『肥沃な三日月地帯』***へと逃れた。

*ミランコウ゛ィッチ効果
**新石器時代
***肥沃な三日月地帯

8000〜1万年前(B.C.8〜6000年ごろ)、地球はまた落ち着きを取り戻し、地軸はぐらつきながらも以前の位置に戻り、いずれサバ人が自らの文明の起こりを記すことになる石板を提供してくれた。

文明誕生の種子は砂漠に蒔(ま)かれた。そこでは、穏やかなそよ風と雨季に降る雨が、『肥沃な三日月地帯』に住む冒険好きな人間(や除(の)け者にされた人、はみ出し者たち)(プント人=ラピュタ人)を瞬(またた)く間に北方から招き寄せた。

その移動ぶりは、彼らが前へと駆りたてる家畜を描いた岩石彫刻(ペトログリフ)に記されている。これらの人々はうまく適応し、それから200年もしないうちに彼らの野営の焚き火がアラビア中で赤々と燃えるまでになった。

学者はこの移住者たちを無視しがちだった。彼らの説では、ずっと後の移住者、それもはるかにすぐれた部族の人々だけが、進んだ国家の基礎を築くことができたというのだ。だがそれはちがった。最近になってわかったのだが、サバ(↔プント)の文明は地元で発生したものだった。今や、彼らの歴史は解明され、実証されている。

ラムラ・サバテインの懐深くにある砂丘群の中で、デウ゛ィット・メルツァーとリカルド・モンテ
・ローザと私は、(BC1500年頃より侵略してきた)サバ人より昔の人々(=プント人)を葬ったアル・アラムの共同墓地をすでに探索ずみだ。私たちはまずその墓の多さに恐れいり、つぎに、はるか彼方の古代遺跡、アル・ウクラやティムナやマインを指して並んでいる石の列に好奇心をそそられた。紀元前3〜5000年のものと思われる、このアル・アラムの分岐した石の列を見ると、塩や黒曜石、ことによると香料までもが、この土地を通って交易されていたこと、そしてその交易を支えたキャラバンが、広大でつねにその姿を変える砂漠に精通していたことがうかがえる。

この時代、砂漠の外れの集落では、突然、それもしばしばすさまじい勢いで襲いかかる洪水を灌漑に利用していたらしい耕作地跡が広く見られる。この人工灌漑設備が整ったのは、紀元前3200年だった。それよりもっと早かった可能性もある。共同で利用するためのこの灌漑設備のいたるところに散らばった人々は、家族ごとに、雑に積み上げた石や加熱処理していない泥レンガでできた藁ぶき屋根の、丸い小屋に住んでいた。時代が進むにつれ、10家族ぐらいが集まり、周囲に塀をめぐらせて小村落を作った。それらの村落は、どれもせいぜい100人程度の規模で、独自の長がいた。

サバ人(↔プント人)の先祖は幾世代にもわたって、星の関する知識や不毛の地で生き延びるのに必要な知恵を伝えていった。

それからの何世紀かは、何事もなかったように過ぎ去った。変化といえば、新石器時代から青銅器時代へとひっそりと移行したことぐらいで、陶器や金属の道具が石器とともに使われだした。(ずっ〜と昔から陶器や金属の食器を使っていた。)その間に、南アラビアの人々は、周囲の荒涼たる丘に自生する節くれだった木(乳香樹)や、みすぼらしい低木(ミルラ)の樹液を燃やし、その香りを楽しむようになる。彼らは孤立して暮らしてはいたが、自分たちの故郷である『肥沃な三角地帯』とまったく交渉がなかったわけではない。陸路での接触があった証拠として、早くも紀元前2650年には、シュメール人(=ここではメソポタミアを征服したサクソン王族たちのこと)の石板に乳香を表すと思われる言葉(「シム・ギグ」)が記されている。それよりもさらに前(後)の紀元前2500年(←間違い。実際は紀元前1500年頃にエジプトに征服されて以降)の碑文は、「サバ・ウム」(=サバ国)や「グ・テ・ブ・ウム」(マケドニア系?)との交流について語っており、これは、サバと隣国カタバン*に言及した最初の文章かもしれない。

* ティムナなどの都市のあるカタバン王国はサバ王国の東隣に位置し、さらにカタバン王国の東にはハドラマウト王国があったみたい。みんな南アラビアの香料ロードに位置する古代の国々で現在はイエメンの領土。

*ティムナ

海路に関しては、アラビア半島の沿岸を行き来する外国船はあったが、その乗組員があえて危険を冒して海岸沿いの険しい山地を越えていたかどうかは疑わしい。仮に彼らが内陸の品を手に入れることがあったとしたら、それは主に、プント*と呼ばれていた沿岸の部族から物々交換で得た(あるいは、強奪した)のだろう。

** プント(巻末の注釈によれば)
エジプトの女王ハトシェプスト***は、エジプトにとって香料と香辛料の供給源だったプントに遠征軍を派遣し、(プント人を奴隷化してヒムヤル王国と改名させて属国化していたようです)その様子は、ルクソールの王妃の谷にある、女王の葬祭殿の浅浮き彫りに描かれている。近年、ブルクハルト・フォークの指揮のもと、ドイツ考古学研究所の調査隊が地中から掘り出した証拠によると、プントは紅海に面した今日のアッ・サビアからインド洋に面したアデンまで広がる南アラビアの沿岸平野の三日月地帯だったらしい。

**プント国

*** 女王ハトシェプスト(18王朝5代目のファラオ、B.C.1497〜1458年ごろ)

< p.s.1 > 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

このハトシェプスト女王こそが旧約聖書に出てくる『シバの女王』(=" 後の「新生ヴィーナス」" の母親)だったようです!もともとは、『レア』ですが、『シバの女王』になり、『シバの女王』としても何度も名前を変えてリセットして何人もの王女や女王として生きていただろうし、また、『新生ヴィーナス』となり、『ヴァッカス』となって、現在も生きているのです。また、彼女はエジプトで信仰されていた『イシス女神』でもあったようです!!

ということは、王の弟(実際は妹というか。でも、まあ両性具有)が兄である王を惨殺して王位を奪ったという「エジプト神話」の兄殺しのセト(=セツ)は、きっとハトシェプスト女王のことじゃないでしょうかね〜?!


男性として王位についたハトシェプスト - さとしの独断人物伝・・・👿👽

上のサイトの説明から、ハトシェプストは父「トトメス1世」の下位の側室だった『イシス』*(との間に生まれた息子「トトメス2世」** を婿養子とする結婚をし、実質、トトメス2世を裏で操っていたということのようです。

* 「イシス」は、ヤハウェ王族(人間の王族)で、ルーシー(人間の祖。後の→ユリア→マリア)であり、巫女でもあったのかも?それでアングロサクソン王族たちに王室を乗っ取られた後、トトメス1世の下位の側室にされ、一方、ハトシェプストはイシスに成りすまして、人々に『イシス女神』として崇めさせたのかも?

** トトメス2世

ハトシェプスト=『シバの女王』(アナンヌキET女性)は両性具有だもの男のファラオのようでもあったのでしょう。

メトロポリタン美術館のハトシェプスト像:ニューヨーク日記

★★★ ハトフェプスト女王は、上のサイト👿👽に書かれているようにヌビアのクシュ王朝に軍事遠征に行ったり、南アラビアのプント国に軍事遠征に行ったりと外国へ何度も軍事遠征に出かけていますよね〜!大規模じゃないとありますが、果たしてそうだったのでしょうか?多分、ほんとうは非常に大規模だった気がします〜!だって「神の国」と呼ばれていた「プント国」を征服したくらいなのですから。。。なので、ハトシェプスト女王が平和主義者というのは大いに疑問です!!!021.gif021.gif026.gif

ハトシェプスト 不思議館〜女王にまつわる奇談
(引用)
・「戦争を好まずに他国との交易ルートの開発にひたすら力を注ぎ、そのかたわら巨大な記念物と数々の神殿の建設を行うというものであった。」
・「第二層の神殿の壁画には、国外への通商遠征にかんする記録が描き込まれた。」


ハトシェプスト女王が平和を愛したなんてとんでもな〜い!交易ルートの開発とはサクソン軍団の場合は大軍を率いて交易ルート上のヤハウェ系都市国家群に戦争を仕掛け、征服していくことに他ならなかったのですから。国外への通商遠征とは、要するに海外に戦争のために大軍を率いて遠征することだったのです!ですから、ハトシェプスト女王の実像は、非常に強欲で戦争好きな女王だったということになります!!*

エジプト新王国の戦い

ハトシェプスト_(漫画)

(この漫画はフィクションの部分もありますが、重要なあらすじは史実に基づく事実のようです。)

どうやら、王位継承者である次男のアメンモーズを殺したのは第2王妃(ハトシェプストの夫{腹違いの弟}の母親)だったようですが、巫女(召使いでは?)を使って第2王妃をそそのかし兄に毒を盛らせたのもハトシェプストの仕業かも?『シバの女王』(アナンヌキET女性)ならやりかねませんね〜。さらに、自分の夫「トトメス2世」の"夫殺し" もハトシェプストの仕業だったようです!!!


古代エジプト 男装の女王 - ナショジオ・・・👿💀
(最下部のをクリックして1~8までの記事を読んでネ。ただし、ハトシェプスト女王と息子のトトメス3世との関係が万が一良かったとしても、だからといって、ハトシェプストが意外に良い施政者だったのかもしれないというのはおよそ勘違いでしょう。)

ん〜、すると、男性の麗人「川島芳子」もハトシェプスト女王のクローン子孫かも。。。なんか〜 偽・倪桂珍に似ているような。。。

男装の麗人川島芳子生存説 その信憑性とは

金の延べ棒など用意しなくても、中国政府にも日本政府にも、その中枢部に部下がいるのでしょうから、絶対に処刑などされる心配はなかったはずです。

それから、このブログ主さんにお知らせしたいのですが、恐竜タコ女王たちは"やりたい放題やってる" のですから、「晩年くらいは幸せに生を全うしたと考えたい」などと心配されるには当たらないのではないでしょうか?!

「男装の麗人」 川島芳子 2/2 - 美しき日本のために

やはり、替え玉が処刑されたか、最初から死体を用意していたかでしょう。


上のサイト👿💀の1の記事のミイラの写真から:口がかなり大きいくて、非常に薄い唇。下の歯が非常に長い。そのためか口の下の部分のアゴがとても長い。(これはピーター・オトゥール=アイゼンベルグやカミラ妃のアゴもそうですよね〜!)頭頂部が山形。

(↑このミイラは、ハトシェプスト女王のミイラではなく、もっと昔の『レア』の姿で統治していた時代のタイプではないかと。。。『レア』の身体としては、すでに、お払い箱になった抜け殻なのでミイラにしたのかも?)

8の記事のレリーフから:鼻が非常に低く、下アゴが突き出ていたことが分かります。目も細いみたいです。また、女性にしては首がとても太いですよね。


ヘビの骨格
大きな動物も飲み込めるように口の骨が中央で開くんですね〜

ヘビの骨格:hibakari
上から3番目の写真を見ると、へびの頭蓋骨の形が分かります。

そうだ、海、行こう。 part1- 原人のCatch & Eat

シロヘビの写真が載っています。また、ウーパールーパーも何か関係あるかも?触覚があるでしょ〜
もともとのタコ型のアナンヌキET男性には2つの触覚が、アナンヌキET女性には1つの触覚が頭にあるらしいのです。

ウーパールーパー
メキシコサラマンダー
ウーパールーパーとは ニコニコ大百科
いままでペットとして売られていたのに食用にするなんて〜 可哀想すぎます〜 😭

癒されるかわいいウーパールーパー - NAVER まとめ

11 その2につづく)
by Ulala-lov | 2011-05-29 14:47 | シバの女王