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(続1)幕末〜明治維新を駆け抜けた志士龍馬をヤッたのは誰?


さてさて、龍馬といえば、亀山社中=『海援隊』や〜! ですね。   ○(^_^)○ エイ、エイ、オー!

亀山社中(長崎、商社)
http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/life/4.php

海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔を併せ持つ特異な組織で、各藩の脱藩浪人が中心であったとのことです。

さて、幕末には、「尊王攘夷派」、「佐幕派」、「公武合体派」と大きく分けて、三つの主流となる思想があったらしいです。

幕末
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB

海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E9%98%B2%E7
%A6%A6%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%8E%9B

それにしても、老中の「阿部正弘」(備後福山藩=広島県東部の藩主)がペリーの黒船来航後に斬新にも諸大名や庶民に至るまで広く意見を聞き、大胆な能力主義の人事登用を行ったことが、皮肉にも、諸大名や朝廷が中央政治に進出する足がかりとなって、幕藩体制崩壊の呼び水となったとは。。。とほほ〜で、有能で汚職などにも毅然と立ち向かうりっぱな阿部老中様だったようなのですがまことに残念なことなのでした。やはり、アングロサクソン王族の奸計*にはかなわず〜!だったのでしょうか?
* 奸計.... 悪いはかりごと。悪だくみ。

しか〜し! この福山藩主「阿部正弘」といい、土佐藩主の「山内容堂」*といい、なにやら、非常に多くの藩主が急に病でなくなり、それを継いだ息子も病弱とか急死したりしていて、まさかの分家の5男とか、まあ、容堂は長男ですが、そんな予想外の藩主が次々と誕生するなんて、これもスゴ〜く変ですよ〜!! 
* 山内容堂〜みねうち道歴史人物         http://www10.ocn.ne.jp/~kenjiro/ijin/youdou.htm

そういえば、江戸幕府の「徳川家斉」(いえなり、1773〜1837年)も69歳で不審な死をとげているし、その後を継いだ「徳川家慶」(いえよし、1793〜53年)なんか’暑気あたり’で61歳で急死したのだとか、ほんとうかな? (サタニストが’食あたり’をもじって事実を改ざん?)さらに、その後の「徳川家定」*(1824〜58年)は、病弱で(毒を少しづつ盛られていたのでは?)、将軍となっても、幕政は老中の阿部によって主導され、阿部が亡くなる(しかし、これも毒殺?用済みで知り過ぎていた為?)と老中「堀田正睦」**(この人の藩主就任劇も奇妙)に変わった。家定は、わずか34歳で亡くなっています。そして、またまた、その後を継いだ「徳川家茂」***(いえもち、1846〜66年)などは、20歳で急死しています。そして、最後の将軍一橋家の「徳川慶喜」****(よしのぶ、1837〜1913年)Jとなるのですが、この人は長生きしてます。この違いはなんなんでしょう。つまり、慶喜はアングロサクソン王族にとって都合のよい人間だったということでしょうか?それにしても晩年の写真をみると、耳の先がとがっていてすごく大きいのはなぜ? ジョセッペは、佐久間象山 *として水戸の藤田東湖**と交友を深めていましたし〜 

*  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%9A
** http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9D%A6
*** http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82
*** http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

*佐久間象山
http://www.geocities.jp/str_homepage/rekishi/bakumatsu/jinbutsu/meikan/shozan.html
**藤田東湖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96


英国王室がドイツ「ハノーヴァー家」に乗っ取られた時や、「ヴィクトリア女王」、「エリザベス女王(2世)」の戴冠の時もそうなんですが。。。どうも、旧来の「王」や「藩主」を’毒’などで暗殺して、フリメーソンの最上階付近にいる血統の人間に「王・女王」★や「藩主」を継がせていったのでは?とも考えられます〜 アングロサクソン王族のモットーは『邪魔者は消せ!』ですからね〜

★フリーメーソンの女王....アングロサクソン王族シャーマンの中でも、『ヌビア人原種の女王=巫女シャーマン(女祭司)の長』が’一番最高位’にいるようです。(かつての邪馬台国の『卑弥呼』と同じような。ということは、もしかしたら、卑弥呼も同じヌビア人原種の巫女シャーマンの長が渡来してきていたのかもしれませんよ) しかし、例えアングロサクソン王族といえども、フリーメーソンに参加して積極的に彼らの悪魔の陰謀を率いていく王でなければ暗殺されてしまいます。どうも、エドワード7世や*ジョージ5世**やジョージ6世は悪魔的な方ではなかったのかもしれません。これらの王の在位期間はみな比較的短期間です。おそらくフリーメーソンに暗殺されたのでしょう。というのも、エドワード7世の妻アレクサンドラ(デンマークの王女だった)は、夫は浮気ばかりしているし、故国ドイツがデンマークの領土を奪ったのでドイツを嫌っていたようなのです。それで、息子にはそういった観点からの教育をしたことでしょうから。それに、ヴィクトリア女王の夫の「アルバート公」=おそらく「シーボルト」も悪魔的な人ではなかったようですから、エドワード7世も浮気症ではあったものの悪魔的な人ではなかったのかもしれません。なので、ヴィクトリア女王は、ジョージ5世の妻には気の強いというか、おそらくフリーメーソンの最高位のメンバーの一員として悪魔的にやっていける気丈な女性を望んでいたようで、それでメアリー・オブ・テック(ドイツ南部のヴュルテンベルク公国の王女)を選んだようです。そして、彼女がエリザベス2世の教育をしたのです。

* エドワード7世
http://blog.goo.ne.jp/marifle1010/e/35f8cd48fdc077a89114f02fe8260bc6
http://ww1.m78.com/question/edward%207.html
(ヴィルヘルム2世は、ドイツ帝国主義者の覇権主義者でしたから、彼にエドワード7世が嫌われていたということは、悪魔的ではなかったということになるのでは?それにドイツに包囲網を築いたとかって。でも、第一時世界大戦でもドイツは負けたけれど、イギリスでのアングロサクソン王族の権力は衰えなかったみたいです)
** ジョージ5世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82
%B85%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9
%E7%8E%8B)

となれば、阿部正弘老中はなかなかのくせ者なのかも? 老中首座であった水野忠邦を邪見にしていたみたいだし、最後には水野忠邦を蟄居させています。となると、水野忠邦はほんとうは良い老中だったのでは? ま、まさか阿部老中首座は、アングロサクソン王族に都合の悪い人間たちを汚職の罪をきせてたくさん処分したんじゃないでしょうね?


1. 尊王攘夷(=王を尊び外圧・外敵の撃退を旨とする思想=鎖国の維持+討幕、天皇による国政主導)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%94%98%E5%A4%B7
尊王論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96

(「尊王攘夷」からの引用)
大きな流れとしては、江戸幕末では「開国」を主張する徳川幕府や薩摩藩と、「攘夷」を主張する長州藩の対立となった。ところが、欧米列強の圧力により修好通商条約に天皇が勅許を出した(1865年)ことにより「尊王」と「攘夷」は結びつかなくなった。また、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきだとする大攘夷論が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という相反する対外思想が「討幕」という一つの行動目的へと収斂(しゅうれん)*される可能性を生んだ。土佐藩の坂本龍馬らの斡旋・仲介・手助けもあって、幕末日本の薩摩と長州の二大地方勢力は討幕へと向かっていくことになる。 *収斂する....収める。縮める。
(引用おわり)


2. 佐幕(さばく)(=幕府を補佐する意=鎖国が本音だけれど仕方なく開国に同意+幕府の権威を今までどおり維持、反朝廷派)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B9%95

会津藩を始めとする約20に及ぶ諸藩と主要幕臣7名(奉行に加えて、新撰組の近藤、土方が入っている)

レオン・ロッシュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83
%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

この人は、ちょっと内戦を煽っていそうな感じがします。

痩せ我慢の説〜福沢諭吉の著。勝海舟、榎本武揚らには忠君愛国の情がなかっとの非難。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%98%A0%E6%88%91%E6%85%A2%E3%81%AE%E8%AA%AC


3. 公武合体(=幕藩体制の再編強化=開国+朝廷の権威と幕府・諸藩の武の結合)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90
%88%E4%BD%93%E8%AB%96

大政委任論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96

つまり、いままでは、朝廷の権威をないがしろにしてきたところが'まま'(yoku)あったので、朝廷の権威も少し高く揚げ幕府との協力体制強化をとる1と2の主張の間をとった妥協案というところでしょうか?



尊王攘夷=討幕派・・・。って訳でもないですよね?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138548521

いいえ、尊王攘夷=討幕派です〜!ってことみたい。要するに、黒船来航以来、西洋諸外国は軍艦という武力で威圧して通商条約という不平等条約を求めてくるようになったのです。しかし、その交渉において、ただおろおろするばかりの徳川幕府に対して、先進的な考えをもつ有力諸藩などは不満がいっぱいで討幕を考えていた。ただ、それを全面に打ち出すと謀反(むほん)とされるので、「勤王」という言葉を全面に押し出して体裁をつくろっていたということみたいです。そして、その討幕派といっても、当初は、攘夷派もいれば、開国派もいたということです。しかし、1863年と1864年に「下関戦争」*では、長州藩が英、オランダ、仏、米の四ヶ国と戦いボロ負け。また、同じく、1863年に薩摩藩が生麦事件を発端として英国と「薩英戦争」**を始めてしまったのです。最初こそ有利に戦ったものの、後に完敗します。そして、薩摩藩も長州藩も西洋諸国の戦力にはとうていかなわないことを悟り、攘夷なんてとても無理であると悟ったようなのです。それで、両藩共に一転して開国派になったのでした。そして、その後は、諸外国に学べと秘密で藩士たちを留学させたり、武力増強に懸命に励んだりしたのです。なるほど〜 上の質問サイトの回答で、やっと当時の状況が少し理解できましたです〜 Thank you So~~ much!

* 下関戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E8%89%A6%E9%
9A%8A%E4%B8%8B%E9%96%A2%E7%A0%B2%E6%92%83%E4%BA%8
B%E4%BB%B6
** 薩英戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4
%BA%89

薩英戦争の発端となった生麦事件*は、薩摩藩士たちの尊王攘夷思想が強かったために起きたのか?それともイギリス・アングロサクソン王族のフォールス・フラッグ(=戦争を始める口実をつくる工作)の陰謀だったのでしょうか? もしかしたら、その両方ともなのかもしれません。 それに、この島津久光は、前藩主島津成彬とは異母兄弟にあたるわけですが、成彬の藩主就任に関しては、藩内を二分する争いがあったとのこと。しかし、結局、成彬が藩主となり、その後、不審な急死をしているのです。そして、久光の長男が藩主となり、久光は後見人となり実質の権限を握ったのでした。やはり、先にも述べたように、諸藩主の不可解な死と、思わぬ人物が後継者として就任というパターンによく似ています。ということは、土佐藩の山内容堂と同じく島津久光もまたアングロサクソン王族の息のかかった藩主だったということなのかも?

* 生麦事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%
BB%B6

山内容堂(豊信とよしげ) 〜 坂本龍馬人物伝
http://www.ryoma-den.com/jinbutsu/youdou.html
山内容堂
http://homepage3.nifty.com/mrbfkisami02/page030.html

すぐ上のサイトの第2章「安政の大獄」のところに、藩主となった豊信は、「あらたに参政職をもうけ、吉田東洋を任命した。それだけに収まらず、外様大名でありながら、幕政に口ばしをはさんだ。第13代将軍・家定は病弱で子がなかった。大老・井伊直弼は紀州家の慶福(家茂)を推し、水戸の斉昭、越前福井の松平春嶽(慶永)、薩摩の島津成彬*、宇和島の伊達宋城、そして土佐藩主の豊信が一橋慶喜を推したのだ。これに井伊は弾圧を持って応えた、世に言う「安政の大獄」である。豊信は罪人となり、藩主の地位を養子の豊範にゆずり、鮫洲に隠居した。」とあります。
*おそらく、父の島津斉興と異母弟の久光の間違いでは。成彬は家茂を推していたのでしょう。だから、安政の大獄でも薩摩藩はおとがめなしです。結局、家定は1858年8月14日に死亡。島津成彬も1858年8月24日に急死して、島津久光の子が藩主に。実質、久光が実権を握ります。しかし、1858年10月に家茂が将軍に就任。一橋派を弾圧した大老井伊直弼は、1860年に「桜田門外の変」で暗殺されます。

佐久間象山(=ジョゼッペ)の息子かもしれない一橋慶喜を将軍後継者に押したこれらの藩主たちは、アングロサクソン王族の息のかかった人物である可能性が高いと思われます。つまり、古代からすでに、アングロサクソン王族は日本に渡来してきていて、卑弥呼はおそらくそうでしょう。そして、その子孫の秘密結社も古代から存在しているのでしょう。それが、近代にフリーメーソンという名前に統一されたというだけのことでしょう。これらの秘密結社が日本でも、さまざまな政局において脅迫や毒殺などを画策し、自分たちの都合の良いように目的をかなえてきたのでしょう。

また、豊信が吉田東洋(=ジョゼッペ・マッツィーニ)を大抜てきしたことが分かり、さらに、第3章の「風雲」 のところには、「隠居した豊信は初め、忍堂と号したが、水戸の藤田東湖*のすすめで”容堂”と改めた。容堂の容は寛容の容であるが、その後の彼が寛容であったとは言い難い。 」とあり、下の藤田東湖の説明を見てもらえれば分かりますが、東湖と親しかったことからも、ますます、山内容堂がアングロサクソン王族の息のかかった人間であることが分かります。

*この藤田東湖の活躍と 一橋慶喜の不可解な行動により江戸幕府は終了したのです。結果的に、彼らは 明治維新に多大に貢献しています。だから、きっと藤田東湖もアングロサクソン王族系のスパイでしょう。そして、東湖は、関西経済界の基礎築いた「藤田伝三郎」(しかし、多分、五代友厚を暗殺し、大阪証券取引所などの多くの事業の後継者一族となった)の祖先じゃないかと思われます。

それから、佐久間象山は、長州の高杉新作や土佐の中岡慎太郎らとも交友があったようで、そのことも非常に気になります。しかし、象山は、その言動が激しかったらしくあまり人に好かれていなかったようですのでどの程度の影響があったのかはまだ分かりませんが。桂小五郎とは敵だったとか。(うらら。。。違うでしょう!)




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by Ulala-lov | 2011-01-04 04:35 | 幕末と坂本龍馬