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B.C.13Cにモーゼがユダヤの民を率いてエジプトから出ていき、40年間あまりもシナイ半島をさまよって、昔、祖先アブラハムが神様の啓示により与えられた約束の地「カナン」にやっとのことで戻ってきます。

「人類史の系図・始祖アダム〜主イエス・キリスト」
http://www.chojin.com/keizu/adam3.htm
「ユダヤ人とフェニキア人の歴史」
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/%E3%83%A6%E3%83%80%
E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%83%95%E3%82%
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帰還に40年あまりも長くかかってしまったので、その間に、ユダヤの民の中には、モーゼのことが信じられなくなって、ユダヤの神の御心から遠ざかり、やけになって歌い踊り狂ったりとバカ騒ぎをし、牡牛の像を拝んだりする者たちも現れたとのことです。(この時、すでに、ユダヤ教から離れて悪魔教を信仰していた人たちが一部いたのでした)

しかしながら、その後も、よき指導者に恵まれ、B.C.10Cには、ダビデが南部のユダ、ベニヤミンの2部族から選ばれユダの家の王になり、数年後には、北部イスラエル10部族(ルベン、シメオン、レビ、ダン、ナフタリ、ガド、アセル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ)から王権を委ねられて、両方の王位を統一した「古代イスラエル王国」の王となり繁栄をきわめるようになります。

ところが、この時、すでに、悪魔教の影がダビデに近づいていたのです。ある日、ダビデはヘテ人(=ヒッタイト)ウリヤの妻『バテ・シェバ』が体を浄めているところを見てしまい、ひとめぼれし、不倫をして妊娠までさせてしまったのでした。その上、ウリヤをわざと激戦地に派遣し、戦士させ、バテ・シェバを何番目かの妻として迎えたのでした。ダビデはそのことを予言者ナタンにとがめられ、心から懺悔(ざんげ)し神様に悔い改めの祈りをしたので、神様から許されたのです。しかし、神様は完全には許されず、パテ・シェバとの第一子の命を奪われたのでした。

ところが、私も「これって、バテ・シェバの策略なんじゃあ?」って疑っていたのですが、『やっぱり!』でした!詳しくは、下のサイトをご覧ください。

「ダビデ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%93%E3%83%87
「巨人ゴリアテ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%
A2%E3%83%86

「バテ・シェバ」
http://homepage2.nifty.com/enoch/sermon01y12m02d.ht

[たまたま、このサイトは、このキリスト教会の牧師さんの説教の文に行き着きました。バテ・シェバの罪に関しては大いに当たっていると思われましたので、このサイトを選びました。しかし、このサイトの下のほうで、『バテ・シェバやダビデやソロモンの罪が神に許されるため、イエス・キリストがダビデの家系に救世主として現れられた。』というところは、ちょっとよく分かりません。いろいろな解釈があると思われますので。わたしとしは、罪の救済ということに関しては、牧師さんは、もう少し厳しさを説いていかれたほうがよいように普段から思っています。というのも、なんだかほとんどの教会は『オプス・デイ』とかっていう組織(つまり、この「ヒッタイト」たちサタニストの組織)に、長い間、乗っ取られているので、悪に対して、極めて寛容すぎるように思われます。]


「バテ・シェバ」は、「ハム」の息子「クシュ」の息子「ラマ」、そのまた息子『シェバ』の子孫だったのではないかでしょうか?

また、聖書の創世記を見ると、『シェバ』族はこの<ハム→クシュ→ラマ→シェバ>と、もう一方で、<セム→アルパクシャデ→シェラフ→エベル→ヨクタン→シェバ>というふうに「ハム」と「セム」両方の血流から出ているので、どこかでつながっているのではないでしょうか?

この『シェバ』という家名は、「創世記」の中で、アブラハムが「ベエル・シェバ」と名付けたペリシテ人の地に長く滞在したとしてでてきます。どうも、アブラハムが何度も井戸を掘ったのみペリシテ人の王アビメレクに妨害され、やっと、何回目かに掘った井戸の使用ができたので、その井戸の所で、アビメレクとの契約をした場所をバエル・シェバと読んだそうなのです。ネットで見ると、「誓いの井戸」として訳されていますが、私は、多分、「シェバ(地名)の誓い」という意味なのではと推測しています。
「シェバ人」は聖書の『ヨブ記』(最も古い時代設定では、B.C.1800~1300年頃の間のでき事)では奪略集団として描かれています。

「創世記;アブラハムとアビメレク」
http://www.nunochu.com/bible/01_genesis/gen34.html
「ヨブ記とシェバ人」
http://www.ubf.or.jp/modules/dailybread/dailybread-20090801.html
(15 のところにシェバ人のことが書いてあります)
「ウツ」
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/1c/6d/a2/fae33af42f8401a3b7d6f
5726cfa0f2d.htm

『バエル・シェバ』は私の聖書の地図を見ると「ガザ」に近いところです。上記サイトのカナンの地の地図を見ると、「エドムという国がシェバ人からの攻撃を受けやすかった」と『ヨブ記』に書いてあるということから、やはり、この周辺に『シェバ人』の居住地域があったと思われます。

そして、ヘテ人(=ヒッタイト)は、すでに、このダビデ王の時代には、地中海諸都市での覇権、東欧・北欧、アナトリア、ギリシャ、中央アジアなど、かなり大きなヒッタイト帝国を築いてたのです。まだ、中東では、アッシリア帝国やエジプト王国があったので、それ以北のほうでですが。

ですから、ヒッタイトにしてみれば、ダビデ王のイスラエル王国の戦闘による国の領域拡大と繁栄とは、貿易の上からも、領土の面でも大きな脅威だったはずです。そこで、ヘテ人の女では怪しまれるので、シェバ人の女、バテ・シェバを使って、ダビデにハニートラップを仕掛けたのでは?

バテ・シェバの自分の夫を犠牲にしてまで、ダビデを誘惑したりする方法や王位継承の順位の下だったソロモンを世継ぎとするように老いたダビデにきつく迫って決断させるあたりは、彼女は悪魔教を信じていたと思われるのです。ですから、息子ソロモンも彼の統治の前半は知者としての善い統治をしていたにもかかわらず、後半には、妻700人、そばめ300人を所有し、それらの妻やそばめの信仰している悪魔教をも信仰するようになったという。これが、ユダヤ教の神からの怒りをかい、ソロモン王の晩年の政治に悪影響を及ぼしたのだろうけれども、そもそも、そのような悪魔教の信仰をもつように巧妙に、ソロモンを導いていったのは、母親のバテ・シェバの幼い時からの教育だったのではないかとわたしには思われます。つまり、ヒッタイト王族のサタニスト集団のイルミナティのような秘密結社がすでに存在していたのではないかと。。。

「ソロモン」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%
「列王記:ソロモン」
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/39retuouki.html
83%A2%E3%83%B3
「ソロモン王の指輪」
http://mononofu.sakura.ne.jp/arm/2009/06/post-19.html
「ソロモン王の召喚術」
http://tokyo.cool.ne.jp/seraph/solomon.htm
「ソロモンの大いなる鍵」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AD%E
3%83%A2%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%A4%A7%E3%
81%84%E3%81%AA%E3%82%8B%E9%8D%B5

これらの黒魔術のシリーズ本が、現在もサタニストのトップに受け継がれているのでは? ヴァチカンの図書館かエリザベス女王、チャールズ皇太子とか、私たちが知らないメディチ家の当主などが管理しているのではないでしょうか?


(済みませんが、本文が長くなってしまったので、次回につづきを書きます。)



* コメント欄も見てくださいネ!
# by Ulala-lov | 2010-06-26 07:17 | シバの女王

ネットの情報も「悪い魔法使いさん」サイドの情報が氾濫(はんらん)していて、「善い魔法使いさん」サイドの情報には’フィルター’がかけてあったり、’アクセスランキングの下位’のほうになっていたりでなかなかうまく検索できません。

図書館に行って調べたいのですが、近頃はちょっと体調もくずしていますし、「Qベス親衛隊」なんだか「ソ○蚊岳界」なんだか分かりませんが、しつこ〜く付きまとうので、『行きも恐いし〜、帰りも恐い〜!』状態でちょっと遠くなので簡単には行けないのです。

それで、だいぶ前に借りた本などを読んだり、ネットをいろいろ検索して整合性があると思われるものをパズルのように組み立てて考えるしかないのですが、わたしもウッカリ、サタニストさんサイドの情報を間違って入れているかもしれませんので、まあ、歴史上の真実に70〜80%くらい合っていればいいかな?と思って書いています。なので、お読みくださる皆さんも、そのおつもりでいただければ幸いです。


まず、前回のイタリアの「ベニスの商人」と呼ばれていた人々が何者なのか?について

『フェニキア人』(=カルタゴ人)
        +『ユダヤ人』(カナンの地の「ユダ王国」にいたセム系ユダヤ人)=『ミズラヒム』としておきましょう。
                   +『サビーニ人』などのイベリア人(ラテン系原住民)?
                      or 植民都市支配者『スパルタ人』?

かしら?と思ったのですが、まだまだ、いろいろ奥深そうです。

フェニキア人はカナン人とのことですが、彼らはどこから来たのでしょうか?聖書ではノアの息子ハムのまた息子が「やんちゃ坊主カナン」となっていましたね。

「ユダヤとフェニキア人の歴史」 ;ブログ〜縄文と古代文明を考えよう!〜より
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2009/09/000913.html
(比較図をクリックすると単独でやや大きめサイズで見ることができます)

フェニキア人は、ユダヤ人が移住してきてからは主にレバノンとシリア*に居住していたようです。(カルタゴを建国した後、レバノンやシリアのシドンなどの殖民都市は無くなってしまいました)しかし、上記ブログの比較図によれば、フェニキア人のその起原は、なんとアラビア半島の半遊牧半農耕民だったということです。下のサイト*を見ると、アラビア半島には現在サウジアラビア、クウェート、アラブ首長連盟、イエメン共和国、カタール、オマール王国があります。また、カナン人はカナンの地へ行き、原カナン人と混血する一方、メソポタミアにも進出していったとのことです。

*1 「中東の地図」
http://homepage2.nifty.com/cns/middleeast/map.htm
*2 「アラビア半島」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E
3%83%93%E3%82%A2%E5%8D%8A%E5%B3%B6

そして、フェニキア人はB.C.814年に地中海沿岸の北アフリカに「カルタゴ」を建国し、国は繁栄を極めるのですが、B.C.4C前半には「アレキサンダー大王」に征服され、ギリシャ(=マケドニア人が主な支配者)の属州に。しかし、大王の死後、帝国が四つに分裂、プトレマイオス朝の支配下になったものと思われます。さらに、ローマ帝国に征服されますが、3回のポエニ戦争でハンニバルに率いられるカルタゴ軍はローマ帝国を震撼とさせます。結局、カルタゴはB.C.146年にローマ帝国に滅ぼされます。と言っても、また、属州に戻っただけなんだし、実際は、スペインやイタリア半島に多くカルタゴ人が植民して勢力を拡大したということなのでは?つまり、カルタゴはその存在感を大いに示し、自治国『ヴェネツィア』などを拠点にローマ帝国の中にちゃくちゃくと食い込んでいきます。

私が読んでいるクリス・カー著『ローマ皇帝歴代誌』によれば、「A.D.193には北アフリカのレプティス・マグナ(ローマ帝国領カルタゴ属州の都市)で生まれで、フェニキア人の皇帝「セプティミウス・セウェルス」が登場してきます。さらに、その子孫も次々と皇帝になっています。A.D.235年にアレクサンデル・セウェルス帝は反乱軍に殺され、セウェルス朝は終わります。ローマ帝国はゲルマン人などに悩まされ、国境地帯は新たな脅威と圧力に悩まされるようになるのと同時に国内には新たな問題と分裂が生じたとあります。2世紀の皇帝たちは身分の高い男たちの中から選ばれたが、3世紀になると、軍人のなかから選ばれるようになり、卑賎(ひせん)な生まれの者が多くなったとのことです。(まあ、高貴とか卑賎とかは、ちょっと昔の基準という面もあるかと)

「東方では復興したペルシャに、北方ではゲルマンのアレマンニ族とゴート族に攻め立てられ存亡をかけて戦われたそうです。また、皇帝も属州の各地から選ばれるようになり、ペルシャ出身の皇帝なども現れます。そして、4世紀初頭、コンスタンティヌス帝によって、ローマ古来の神々が捨てられ、キリスト教がローマの支柱とされた。」とのことです。その後、A.D.364年以降、東西に分裂します。西ローマは476年に滅亡します。

ということからも、

アラブ人→カナン人→フェニキア人→カナンの地のユダ王国のユダヤ人と同化(王族のこと?ある程度の庶民も?)+ギリシャ人?(特にスパルタ人)→カルタゴ人(政治形態がスパルタに類似)→ヴェネツィアなどの商人→彼らのような商人に後押(あとお)しされた〜フェニキア・カナン系=アラブ系〜のローマ帝国皇帝もかなりいたということです。



また、ユダヤ人のほうを考えると、B.C.3000年頃に、古代メソポタミア文明のシュメール王国またはバビロニア王国からアブラハムが家族を引き連れてカナンの地へと移住し、B.C.1600年代に、飢饉(ききん)のため古代エジプトにまた移住。

B.C.1200年代に、また、カナンの地に戻る。<この頃に『イスラエル』と名乗るようになったらしい。>
ということは、ユダ王国のユダ部族からユダヤ民族になったのではなく、<もともと『ユダヤ』という民族だったということだったんですね〜!> @o@ '目からうろこ!' でした〜  多分、アブラハムからかな?
それとも、シュメール人からかな?

途中のことは図のとおりですが、結局、B.C.50年前後にはローマの属州になっていて、A.D.70年にローマへの度重なる反乱により、とうとう滅亡させられ、中東各地にディアスポラ(民族離散)したということになります。

したがって、この頃、カルタゴやカルタゴの植民都市の多いスペインやイタリアの諸都市(自治都市ベネチアなどにも)へと、たくさんの「ミズラヒム」が移住していったとことでしょう。


さらに、『国際金融』という観点からフェニキア人、ユダヤ人を見ていくと、以下のサイトがうまくまとめられていると思います。リンク先を見るとよく説明されています。

「裏の支配勢力〜その起源は?〜」 ; ブログ〜縄文と古代文明を探究しよう〜
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2009/08/000899.html


ただし、上記のサイトのリンク先でカルタゴの政治形態が民主的な感じで書かれているのはちょっと疑問です。スパルタに似ていたということは、政治形態はスパルタと同じ寡頭(かとう)政治のようだったと思われます。

「スパルタ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%
83%AB%E3%82%BF

上記サイトにあるように2王家を頂点とするピラミッド型の締め付けのきつい全体主義国家だったことが分かります。

ウル第三王朝のところのリンク先を見ると、シュメール人はギリシャのアテネのような民主的な都市国家からなっていたようですし、周辺地域とも友好的な交易によって繁栄していたとのことですね。(サイトの右端がサタニストからの改ざんで見れませんが)
すでに、B.C.2000頃には、「私的な交易商人」が登場していて、現在のような金融システムを築いたと書いてあるのでしょうか?

それから、凶暴なアッシリア帝国などとありますが、わたしは疑問に感じます。聖書では、ニムロデは神に祝福されバビロニアやアッシリアを築き、その王となるようにされたと書いてありますので。

また、国家官僚が築いた市場の基盤というところは、アラビアか他のフェニキアやスパルタなどの交易のやり方について説明しているのではないでしょうか?

また、900年前に、「テンプル騎士団」のところに、掠奪、強盗、金貸し、保険とありますが、掠奪や強盗や金貸しをしていたのは、「聖ヨハネ騎士団」(=ロードス・マルタ騎士団)とドイツ騎士団です。
テンプル騎士団は、東ローマ帝国から奪われた『聖地エルサレム』をペルシャから奪還するために形成されたまともな騎士団です。


★ ヒッタイトはB.C.2000〜1000年頃に世界中に拡散し、歴史上、非常に重要な民族だと思われます。彼らの影響は現在に至るまで大きく及んでいるものと考えられます。  ーー; あ〜ぁ〜

ヒッタイト=ヨーロッパではゲルマン民族であり、ギリシャではドーリア人=スパルタ、マケドニア人でもあり、ヒッタイト=スキタイ人でもあり、小アジアにも進出し、アラブ人と混血または支配し、フェニキア人となったり、
アッシリア帝国を滅ぼし、メディア王国(アラビア系)を征服、拡大させた。中東やインドや中国までも支配を広げていった可能性が高いとか。


「メディア王国」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%
E3%82%A3%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD

「古代オリエントのメディア王国」
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/orient.html

これって、もしかして、婚姻により、結局、ヒッタイト(=スキタイ)に乗っ取られるハメになったんじゃないの?

「突厥(とっけつ)の鎧(よろい)」 〜スキタイ(ヒッタイト)?〜
http://www7a.biglobe.ne.jp/~eurwing/kodai/tatara.html

上でちょと違うかもしれないのは、聖書のヘテ人はハッティ族のことだと下のほかのサイトに説明されています。また、ヒッタイト=スキタイと言われています。それから、ヒッタイトはイラン系とありますが、もしかしたら、トルコ系かもしれませんし。。。とにかく、あの辺りは、いろいろな民族の境界が交わっている地域なので、実際には国境と同じで境界線などはないのですが、ヤペテ(白人)のケルト系やセム(黄色人種)のスラブ系やトルコ系やアラブ系などの混雑したような感じの人種になっているのかもしれません。
それにしても、結局、ヒッタイトは、縄文時代末頃に日本にまで来ているってことですか〜?

ブログ「地球人の歴史」;『7. 馬に乗る人々』
http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history07.html

約1万5000年前に氷河期が終わり、地球の気候がしだいに温暖化していったようです。しかし、氷河期といっても、なんでも、ヨーロッパ・中央アジアの北部とか北米とかで氷床が拡大した寒冷期に用いられるとのこと。したがって、地球全域に及ぶわけではなく、アジア地域は氷床が発達せず寒冷な地帯であったらしいとのことです。そして、その最後の氷河期以降も、ミニ氷河期とミニ間氷期を2〜3000年おきくらいに繰り返しているようです。

「氷河期」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E6%B2%B3%E6%9C%9F
(今から、3000年位の亜氷期のザブボレアル花粉層の期間の中程以降、つまり、B.C.2000年位から気温が下がってきたということですね)

上記のサイトの下のほうに「草原から吹く暴風」のところの地図のところの「スキタイの侵攻とアッシリアの崩壊」は重要なところです。アッシリア帝国はB.C.607年に滅亡したとのことです。

よく、スキタイではなくヒッタイトに滅亡させられたとか、逆に、アッシリア帝国にヒッタイトが滅亡させられたとかってネットの情報は混乱しています。(サタニスト・サイドの雇われブロガーのせいです!)

でも、このサイトの説明が一番しっくりします〜


「アッシリア滅亡後のオリエント」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/
maps/after_assyria.html

「キュロス2世」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%
82%AD%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%82%B9

「アケメネス朝ペルシャ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%
B1%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%9C%
9D%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2


「ヒッタイト帝国の概要」
http://homepage1.nifty.com/teruminasu/gaiyou.html
(このことから、アナトリア半島に本来住んでいた原住民はハッティ族でした。ハッティ族のことをヒッタイト人(聖書ではヘテ人)と歴史学者たちが間違えていたらしいのです。)


「西部トルコ(3)」
http://www.nishida-s.com/main/categ2/wturkey-3/wturkey-3.htm

初期青銅器時代のところを見ると、金・鉄製の短剣が展示してあり、B.C.2500〜2200年の文化層から出土。B.C.2200年以前にすでに鉄の発明を『ハッティ族』がしていたということですね。
フリギア王国のミダス王の墓があるとか。フリギア(フリギュア)ってフェニキアによく似ていますよね!


「失われた古代都市;ヒッタイトの謎の都市 ハットゥシャ」
http://www.nhk.or.jp/dramatic/backnumber/89.html
(下のほうの番組内容のところを見ると)

王から平民まで、鉄の結束を誇り、非常に厳しい規律に従っていたこと。極めて高度に訓練された強大な軍隊を持っていたとのことで、やはり、スパルタに共通するものが伺(うかが)えます。

「ヒッタイト帝国とミタンニ」
http://www.m-n-j.com/medianetjapan/frog/hatti.htm


上記のいろいろなサイトを’私的歴史探検’で、『まとめ』てみますと、


『ヒッタイト』というトルコ系かイラン系またはスラブ系の「白人×セム系の有色人」が黒海の北のほうにいて、気候の寒冷化と人口増加?により、まず、黒海付近から南下して、アナトリア半島に至り、原住民のハッティ族を征服し定住する。ハッティ族がすでに鉄を精製し、刀を作っていたので、これを手中に納める。鉄の戦車や刀で優位にたち周辺国を征服していく。

(しかし、ヒッタイトがヘテ人であるなら、聖書ではヘテはカナンの息子ですので、その子孫のカナン人とヒッタイト人とは、非常に近い血縁関係にあることになります。そうなれば、ヒッタイト人はもともとは、地中海東岸のカナンの地の出身で、もとはハム系の人種ということに。一旦、温暖化時期に北上して、黒海の北方のほうで放牧民となっていたのが、気候の寒冷化などで、故郷の近くに戻ってきたのかも?すると、めっちゃ混血しているのでは?でも、「サクソン王族」だけはゲルマン(北欧あたりに行った)の純血を保っているとしたら、『ハム系+ヤペテ系(ケルト?)』ということなるのでしょうか?それとも、より純粋に、ハムの息子のカナン、そのまた息子の『ヘテの直系』のみでしょうかね?)


その一派はギリシャにもドーリア人として侵攻していき、「スパルタ」、「マケドニア」という都市国家を建設する。特にスパルタは、航海術に優れている先住民のアカイア人やイオニア人を奴隷として、地中海で交易をしたり、植民地を増やしたりする。

さらに、ヒッタイト人はカナン人と混血あるいは手を結びフェニキア人として地中海の交易や略奪をしたり、植民地を増やしたりする。わたしの勘ですが、フリュギアに滅ぼされたのではなく、単に名前をヒッタイト王国からフリュギア王国に変え、その一部の人々が南下して、ティルスやシドンなどの地中海東岸にフェニキア人都市を建設し、そこから、さらに地中海南岸にファニキア都市を作るようになったのでは?フェニキアというのはB.C.1000年くらいから非常に繁栄をきわめるようになる。

「地中海の覇者フェニキア人」
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0410/index2.shtml
(中程の左端の地図をクリックすると拡大され、よく分かります)


一方、黒海北部にいたヒッタイトはB.C.1000年頃に、馬具が発達すると、スキタイとして中央アジアの遊牧民として、周辺国家を侵略したり、シルクロードの交易に携(たずさ)わったり、略奪もしたりもしたのではないでしょうか。鉄の伝搬をしながら東方アジアにまで進出し、陰の支配者として国政を裏から操ったりする?


また、B.C.2000年頃に、西方に侵攻し、ヨーロッパや北欧のスウェーデンにまで侵攻する。
〜『世界の国ぐにの歴史:北ヨーロッパ』 滝尾紀子 著〜より
(先に、年代をB.C.1000年頃としていたのは、わたしの勘違いで間違いでしたので訂正しました)

× 特徴として、彼らの侵攻先各地に巨大遺跡群を残している。←済みません。わたしの記憶違いで、間違いでした!ゲルマン人(=ヒッタイト)ではなく、その先住民でした。多分、ケルトだと思われます。

ケルトはゲルマン以前に、ヨーロッパ大陸に広く分布していた先住民族だったと思われます。
しかし、B.C.2000年頃のヒッタイト(=ゲルマン;侵略先により名前を変えている)の東ヨーロッパ(ドイツあたりまで)や北欧への侵攻によって、かなりのケルト系民族が’だんだんと’より北方に移住というか逃げざるをえなかったようです。ゲルマン民族のなかでも、サクソンなどは、征服民族を絶滅させるので、かなり多くが殺されたのではないかと思われます。

この巨大遺跡群は、ケルト(多分)が定住し始めると祖先の墓として作られるようになったようです。(イギリスのソールズベリーのストーン・サークルなどは占いとか、神儀とか、暦や時計のような働きだったかも?)

北欧は氷河期にはだれも住んでいなかったので、(エスキモーのような少数民族は少数いたかもしれませんが)、ケルトは戦うことなく、定住するようになったものと考えられます。

                                                                 以上です。

この北欧に関しては、また、次回、書きます。


p.s.

本文中の昨日書いたところをところどころ訂正やら加筆をしたりしましたので、申し訳ありませんが、もう一度読んでいただけたらと思います。



* コメント欄も見てくださいネ!
# by Ulala-lov | 2010-06-22 15:47 | アングロ・サクソン王族

『パリュミラ』とはナツメヤシの産地として知られた古代シリア中部のオアシス都市。B.C.4C~A.D.3C頃に、最も繁栄していましたが、「ゼノビア」という王妃の野心から、ローマ帝国と敵対し、一時は広大な領土を獲得したものの、結局、ローマ帝国との戦いに破れ、滅亡に至ったということです。

「古代の地中海沿岸のシリアやフェニキアと、東のメソポタミアやペルシャを結ぶ交易路となっており、パルミラはシリア砂漠を横断するキャラバンにとって非常に重要な中継地点であった。殊(こと)に、B.C.3C頃から繁栄を極めるようになった」とのことです。また、「アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していた」とか。。(詳しくは以下のサイトで)

「パルミラ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%
83%9F%E3%83%A9
ブログ:’帝国時代’ 「蜃気楼都市」
http://www3.ocn.ne.jp/~mknight/AoE/aoe_html/shinkirou.html
「パルミラ」
http://www2.mmc.atomi.ac.jp/web01/Dictionaries/Dictionary%20of%20East%20&%20West%20Art/
items/
「中近東の旅」
http://yasyas.web.infoseek.co.jp/middle-11.htm
Place_Palmyra.htm



7万年前の旧石器時代の石器が発見されていたり、B.C.2000年前の粘度版から都市の名前タドモルという記述があったり。旧約聖書では、古代イスラエルの国王「ソロモン」が荒れ野に「タドモル」の街を築いたとあるとか。この「タドモル」という都市が「パルミュラ」(パルミラともいう)のことなのだそうです。

ソロモン王* はその治世の前半は「知恵ある王」として比類なき繁栄をもたらす善い政治を行うのですが、なぜか、後半の治世は魔術などに凝(こ)ったりして、悪政を行っていたそうです。多分、側室などにフェニキア人などの女性がおり、魔術に魅了されるようになったのかもしれません。


「ソロモン」   
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82
%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3
「ソロモン72柱」   
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83
%AD%E3%83%A2%E3%83%B372%E6%9F%B1 
「ソロモン王の指輪」  
http://mononofu.sakura.ne.jp/arm/2009/06/post-19.html
「ソロモン王の召還術」   
http://tokyo.cool.ne.jp/seraph/solomon.htm



< パリュミラの女傑「ゼノビア」の反乱の概略 >

A.D.260年、ローマ帝国のウァレリアヌス帝がサーサーン朝ペルシャとの戦いで捕らえられ亡くなると、パルミラの支配者オダエナトゥスは復讐としてペルシャ領内に遠征し、その都クテシフォンにも2度侵攻した。このことにより、ローマ帝国から信頼を得て、ローマの東の守りを任され、その本拠地パルミラはローマから半独立状態にあった。

しかし、A.D.267年にオダエナトゥスが甥に殺されると、2番目の妻「ゼノビア」は息子「ウぁバラトゥス」を擁立しパルミラの実権を握った。「ゼノビア」は哲学者たちを顧問に迎え、270年、ローマ帝国との関係を断ち、アラビア属州ボスラを征服し、さらにはエジプトまで遠征し、小アジアのほとんどを征服し、パルミラ王国を打ち立てた。息子ウァバラトゥスを皇帝と宣言した。

それから数ヶ月足らずで、アウレリアヌス帝に敗れ、パルミラは完全に破壊され彼女は捕虜となった。最終的にどうなったか分からない。一説によれば、彼女は274年秋、ローマで行われたアウレリアヌス帝の凱旋式に「主要展示物」として登場した後、ティヴォリの別荘に軟禁されたが、名誉ある扱いを受けて余生を送ったという。
                             〜 以上


「ゼノビア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83
%93%E3%82%A2


わたしが思うには〜、「ゼノビア」はとても美人だったのでアウレリアヌス帝の第?番目かの妻になったのでは?
そして、北イタリアの『サヴォイア』と名付けられた土地を与えられたのでは?だって、ほんの一時的とはいえ、「ゼノビア」によってパルティアは広大な王国になっていたのですから。。。その代わりとして。
ローマ帝国はその時の皇帝や元老院にもよりますが、割と寛大な措置取るんですよね。それに、「ゼノビア」が妻となっていればよけいにそうかも?ですね。

それから、そのずっと前の、B.C.2Cにカルタゴの「ハンニバル・マーゴ」* がイベリア半島(スペイン)南部からイタリア半島の諸都市を征服していました。

* 「ハンニバル・マーゴ」
http://plaza.rakuten.co.jp/degiclobunko/diary/200702250000/

しばらくして、結局、ローマ軍に破れ、ハンニバルはカルタゴに逃れ、政治家として活躍したのですが。「サクソンの軍隊は戦地の敵の兵士も庶民も含め皆殺しにするのが常でした。」* 従って、その一時的に奪った領土には、すぐに、カルタゴの権力者たちが家族を引き連れてきて定住していたと思われます。

一方、ローマ帝国は戦いに勝っても、その元の土地の支配者をそのままローマの所領の責任者として、植民地の経営を任せたりしていたようです。ですから、この場合も、後からローマ軍がハンニバルに勝利しても、そして、万が一、ローマ帝国の支配階級をその土地の責任者に任命したとしても、庶民はすでにカルタゴ人ばかりということになってしまっていてるのでどうしようもありません。そのまま定住させていたのではないでしょうか。

*  ジェノサイドー民族浄化 .... サクソン王族、カナン=フェニキア=カルタゴ王族も、今もそういうところが’ちょっと’ありますよね〜。

あっ! 忘れてました! ’ちょっと’ 〜じゃない! 〜 ですよね〜!!!

17〜8世紀のアメリカ・インディアンとかの歴史を見てもそうですし。。。

それに、今、なんといっても、彼らが進めている『ニュー・ワールド・オーダー』という、人類の95%を削減し、世界政府樹立、全体主義監視社会をつくるという悪魔の計画のことを忘れてはいけません!!

彼らの体内には、ずっと古代の祖先から綿々と受け継がれてきた残虐で巧妙な「悪魔的・絶対君主主義的支配」という恐ろしい支配欲(または、権力欲)が渦巻いているのです〜

「名君」じゃなく〜、そんなに「暴君」にあこがれるって、なんだか信じがたい人たちです〜

ルシファーの堕天使に黒魔術でもかけられているのは、自分たちのほうじゃないか?と早く気がついてほしいですね〜

ちょっと、話が横道にそれてしまいましたが、もとに戻ります。つまり、わたしの憶測によりますと、ローマ皇帝「アウレリアヌス」は、捕虜となった女傑「ゼノビア」が北部イタリアに定住してしまったカルタゴ人と同じフェニキア人?なので、北部イタリアの地域の一部を『サヴォイア』として「ゼノビア」に支配させたのかもしれません。

なぜ、サヴォイアと名付けたか?と、わたしが推察しますと、<「ゼノビア」はアル・ザッパの娘、「バット・ザバイ」という名で碑文に記されている。その意味は、(おそらく彼女の母親に由来するのだろう)「美しく長い髪の人」である>と、わたしの読んでいる「ローマ皇帝歴代誌」クリス・カー著にはそう書いてありますが。。なんだか違うような。

なぜ?って、バット・『ザバイ』って、『サヴォイ』にそっくりじゃないですか? ネ!

サクソンは騙(だま)しますからね〜この著者がそうなのではなく、その事実を知っているサクソン王族がそうなので。

それから、古代ローマの建国史などに、初期のローマは『サビニ人』* と戦い、和議を結び、『サビニ族』の首長が二代目のローマ王になっているのです。なので、ゼノビアの母はイタリア半島にやってきたトロイアの子孫たちが、ローマ建国の初期にサビニ人の娘たちと通婚し、和睦したという伝説のある、イタリア古来の原住民サビニ人だったのではないかしらと思うのですが?

* 「サビニ人」
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B5%E3%83%93%E3%83
%8B%E4%BA%BA/

「ヌマ」 (古代ローマ第二代目の王)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8C%E3%83%9E/

なんかこのヌマはとても宗教を重んじていたみたいです。しかし、ローマ帝国の人々はキリスト教を受け入れる前は、イシス女神を信じている人が多かったということなので、ちょっとこのヌマの重んじた宗教というのも怪しいというか、心配ですね〜。それから、ヌマたちはローマの北東の町クレスに住んでいたということです。もちろん、クレス*以外にも、もっと広い範囲にサビニ人は住んでいたようです。

わたしは、サビニ人は古代西ヨーロッパの原住民イベリア人*で、中でも、ラテン系民族の一部族なのではないかと思いますが、一部、スパルタ人が起源とかっていうのも、あるブログで見たのですが、なにしろ、スパルタ、アテネなどのギリシャの戦士や商人、さらに、フェニキア人が地中海の沿岸に多くの植民都市を持っていたとのことですから。イタリア半島にやって来ていて、すでに原住民のサビニ人を支配していたのかもしれません。そのあたりは、まだ、よく分かりません。

* 「イベリア人」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%
83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA

* クレス 
このクレスという地名から〜ローマ帝国の名門「クラウディウス家」になったようです。 ところで、あのユリアス・カエサル(シーザー)と共に戦っていた名将マルクス・アントニウスは後に、シーザーの死後の後継者争いで、オクタビアヌス(=アウグストゥス帝)のライバルとなり、やがて、敗北するのですが。彼はクラウディウス家の人間で、実は、なんと、この『サビニ人』の子孫なのです。

ということは、「ゼノビア」の母がサビニ人の名門の生まれなので『サヴォイ』という家名を持ち、パルミュラの王に嫁いだということなのかもしれません。当時は王族は政略結婚があたりまえの時代ですから、可能性はあるかもしれません。もし、そうだとすると、『ゼノビア』は母親の実家のある国に帰り、「トリノ」一帯の地域を『サヴォイア』として、その支配を任されたのかも?

「クラウディウス氏族」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%
82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%
E6%B0%8F%E6%97%8F

いづれにしても、「ゼノビア」が魔神「バール」を信仰していたことはほぼ間違いないでしょう。パルミュラには地下古墳からそういった証拠があるようです。


p.s.

この記事の真ん中へんに、「ハンニバル・マーゴ」について紹介しましたが、また、ふと、気付いたのですが、
昨日の記事に、リンク先として紹介した「晴耕雨読」さんの『有力国際金融家』の記事のところに、最強の国際金融家の具体的な名前は、おそらく「マゴ家」の流れをくむ家族が最上位に位置しているようだと書かれています。「マゴ家」とは、このローマ帝国を震撼(しんかん)とさせた「ハンニバル・マーゴ」の家名のことでしょう。

また、次のようにも書かれています。
「ファミリーネームは別のもので通しており、表面的にはキリスト教徒で通しており、キリスト教自体が、彼らの代理人によってローマ帝国の国教にまで高められたと思っています。戦争に負けたカルタゴの国際金融商人が、宗教(キリスト教)という手段でローマ帝国をのっとり解体していったという「陰謀史観」です。」

わたしの勘では、このマゴ家が『メディチ家』なのではないかと思います。

メディチ 『Medich 』は ’地中海の’という意味の 『Mediterranean』 から来ていると思われます。

さすが 『地中海の覇者』!!  なのですから。



* コメント欄も見てくださいネ!
# by Ulala-lov | 2010-06-15 08:00

なんだか〜「闇の勢力」の『奥の院』をつきつめていくと、ロシアの民芸品の「マトリョーシカ人形」のような感じがしてきます。その闇はどんどん奥深くなっていて、「入れ子構造」のように、中から次々と新しい『奥の院さま』が現れて来るような。。。     〜〜; ハァ〜 いい加減に疲れるワ〜

「マトリョーシカ人形」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%
83%BC%E3%82%B7%E3%82%AB%E4%BA%BA%E5%BD%A2

な〜んだ、日本でもなんだか見たような気がしていましたけど、日本のほうが起源だったんですね!
それにしても、お人形さんたちナカナカ〜可愛いですね〜♡


さて、昨日のつづきの「メディチ家」の血流はどこから?ということですが、

カナン人(=フェニキア人)+スファラディム・ユダヤ+おそらく「北部イタリアの原住民」

なのではないかと思うのですが。。。

「浸潤する黒い貴族」 デービット・アイク
http://mblog.excite.co.jp/user/satehate/entry/detail/?id=8233710

「有力国際金融資本」  ブログ:晴耕雨読
http://sun.ap.teacup.com/souun/653.html

「CPA東郷の使命判断」
http://www.cpa-togo.jp/jirei/131.htm


そして、フィレンツェに近い場所に、あの故ダイアナ妃を暗殺したという噂もあるサヴォイア一族のかつてのサヴォイア伯領があり、1861年にイタリアが統一された後には、サヴォイア一族がイタリア王国の君主として統治していたのです。第二次世界大戦後、共和制になり国外追放されたとのことです。戦時中のイタリアはヒトラーと連携していて、ファシズムが吹き荒れ、国民は悲惨な目にあったようですからね。

「サヴォイア家とは」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki%E3%82%B5%E3%83%B4
%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E5%AE%B6

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%F4%A5%A
9%A5%A4%A5%A2

「開祖ウンベルト1世はラテン民族(多分、古代原住民のサビニ人かエトルリア人)とケルト民族(多分、アカイア=イオニア人)からなる北イタリアの血筋(つまり、ローマ帝国の初期の血筋)に加え、オック人*やサクソン人の大貴族とも縁戚にあった」ということです。

「ローマ建国史」 (かなり長いです。短いのはウィキのほうです)
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/livius.html

http://ja.wikipedia.org/wiki%E7%8E%8B%E6%94%
BF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E

このサビニ人というのが、サヴォイア家と関係あるのかなとも思うのですが。。。

「サビニ人」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%93%E3%83%
8B%E4%BA%BA

* オック人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AF%E3%
82%B7%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%A2


さらに、伯領になったきっかけは、あのニーベルングの指環とか二ーベルングの歌で有名なジークフリートの膨大な財宝を受け継いだ「ブルグント王国」の1032年の崩壊に、サクソン王に加勢した功績で伯爵の称号を得たためなのでした。きっと財宝の分け前もたっぷりもらったに違いありません。

「ニーベルングの指環」
http://homepage1.nifty.com/rinus/dvd/ring_of_the_nibelungs.html

「ニーベルンゲンの歌」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%83%8B%E3%83%
BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B2%
E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%8C/?from=websearch

「サヴォイア伯国」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%
82%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E4%BC%AF

「イベリア人」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%A
A%E3%82%A2%E4%BA%BA

現在のサヴォイア家の子孫たちはこんな悪いことしてるみたいですよ〜。

「元イタリア王家サヴォイア・スキャンダル」
http://blog.livedoor.jp/dabrescia/archives/50504777.html

http://www.balchder.jp/ineffabilis/Europe/Euro015_SavoyArrested.htm

それから、メディチ家とサヴォイ家はなにか結びつきが深いような気がします。銀行業をするには、海辺のほうが便利だからメディチ家と名を変えたとか?または親戚なのでしょうか?

「サヴォイ・キャベツ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83
%99%E3%83%84

サイトの下のほうの「品種」のところに「サヴォイ・キャベツ」の説明があります。サヴォイア家のシンポルになっているとかって以前はウィキに載っていたのですが消されています。

「起源」のところを見ると、「古代よりイベリア人が利用していた原種がケルトに伝わり、ヨーロッパ中に伝わったとされるが、当時は野菜より薬草として用いられ、古代ギリシャ、古代ローマでは胃腸の調子を整える健康食として食されていた。」とあり、もしかしたら、メディチ家が薬屋から始まったというのも、このキャベツからかも?それで、一層、サヴォイ家と関わりがあるような気がするのですが。



「ジョバンニ・ディ・ビッチ」 (1360〜1429年)と同年代くらいのサヴォイア家の当主を探したら、アイモーネ・サヴォアの娘ビアンカがミラノ公ガレアッツォ2世ヴィスコンティと1350年に結婚しています。そのガレアッツォの息子がジャンです。

「メディチ家」 (ジョバンニのところをクリックすると詳しく説明されています)
http://contest2007.thinkquest.jp/tqj2007/90375/family_tree.html

「ジャン・ヴィスコンティ」 (1351〜1402年)
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3
%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%82%A
2%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%
83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B3
%E3%83%86%E3%82%A3

父ガレアッツォ・ヴィスコンティ2世と母『ビアンカ・サヴォイア』との間に生まれる。ミラノ公国を受け継ぐ。ロンバルディア地方への勢力拡大に乗り出した。ということで、ロンバルディアのデル・バンコ銀行(=ウォーバーグ家)とも関わっているかも? それにしても、コジモ・メディチにとてもよく似ていますね!

「ジョバンニ・ヴィスコンティ」 (1388〜1412年)
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%
E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3
%82%A2%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%
82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3

メディチ家のジョバンニやロレンツォやジュリアーノになんだか似ていますね!

イタリアの地図を見ると、サヴォイア家の支配していたサルディーニャ王国の首都だった「トリノ」のある『ピエモンテ州』の南南東に隣接してメディチ家のある「フィレンツェ」を首都とする『トスカーナ州』がありますよ〜

「トリノ」 
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E/?
from=websearch



* コメント欄も見てくださいネ!
# by Ulala-lov | 2010-06-14 22:20

2010−06−13

(この記事は、2016.03.23にあちこち訂正加筆しました。)


あのシェークスピア劇の「ベニスの商人」に登場する血も涙もない悪名高いユダヤ商人シャイロックは本当にユダヤ人なのだろうか?とふと疑問に思うようになった今日この頃です。

「メディチ家の家系図」

「エリトリアの首都アスマラ、最後のユダヤ人」
(このラビはイタリア学校に通っていたということなので、多分、イタリア系ユダヤ人なのでしょう)

「エリトリア」

「エリトリア大統領」
(パレスチナ、アラブ系もしくは、アフリカ系の方でしょうが、アスマラのラビとは風貌が全然違うでしょう!)

「ベンジャミン・ディズレリー(ヴィクトリア女王期の英首相=イタリア系ユダヤ)

「黒い髪、大きなわし鼻で、浅黒くて、耳が大きく上端がやや尖(とが)っていて、欲の深そうな顔」っていうのが、よく本などの挿絵(さしえ)に描かれているユダヤ商人の風貌なのですが。。。

わたしが先日、メディチ家って、「あっ、本物のユダヤ人だ!」って思ったのは、こういったイメージがあったからなのですが。。。コジモとかロエンツォとかは、このイメージどおりだったので。ところで、英国の晩年のヴィクトリア女王と怪しいくらい仲良しだったというディズレリー首相(=ジョゼッペ)もちょっと似てますね!!


ところが、今まで、あの典型的なユダヤ商人のイメージは中東出身の人だけど、欲が深くてあんな風貌の顔に?とかって、ずっと思っていたのですが。。。

確かに、色は浅黒くというところは中東の人と一致なんですが〜、なんだか〜、違うみたいなんですよね。。。







酷い!酷すぎて何と言っていいか。。。言葉になりません!! 007.gif007.gif007.gif

■■■ きっと、パレスチナ人は人間(アシュケナージ・ユダヤ)で、イスラエルのスファラディム・ユダヤがサクソン人でしょうね!

B.C.12000年頃、『ノア』の一家は、神様の啓示に従い箱船を造り、すべての生き物を1つがいずつと共に乗船(空を飛ぶ船に乗って)し大洪水に備え避難していました。その洪水の後(およそ3000年後)、船から外に降りると、ノアは、セム、ハム、ヤペテにそれぞれの約束された地に向かわせます。セムは西方と東方へ行き、南欧と南アジア地域の祖先に、ハムは南方へ行き、アフリカ、中東地域の祖先に、ヤペテは北方に向かい西欧北部と中央アジア地域の祖先になったみたいですね。

<p.s.> 旧約聖書は『シバの女王』と『ソロモン王』の二人が真実(もともと人間の王族が書いた古代からの『元祖ユダヤ教』を二人が改ざんしたのかも?この「元祖ユダヤ教」は悪魔書「タルムード」のある恐ろしい「ユダヤ教」ではないそうです。)とデタラメを混合させて、きっと、捕虜にした人間の元王族にでも書かせた書物のようなので、下記のオリーブ色の文字の部分はあまり信用しないほうがよさそうです。一部は事実かもしれませんが。

 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜
ところで、この洪水の後、安心したのかノアが酒に酔っぱらって、天幕の中で裸で(踊っていたのかしら?)いたのをハムが見て、他の兄弟ふたりに知らせたのです。(この時何かふざけたことを言ったのか?後でノアが激怒したのです。)セムとヤペテは父ノアの裸を見ないように、後ろからそっと着物を着せて一件落着したらしいのですが。ノアはハムのことをたいへん怒って、ハムの息子カナンに「のろわれよ。カナン。兄弟たち(セムとヤペテ)のしもべのしもべとなれ。」とかってひどいことを言っているんですよね。

まあ、ノアから見ると孫だからかわいいはずですが、日頃からカナンは’やんちゃ坊主’で手をやいていたのでしょうか?それで、その父親のハムのちょっとした冷たい態度に、「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」
 じゃないけど、ついに、この時、堪忍袋の緒が切れて爆発し、とうとうカナンに呪いの言葉が落っこちたんでしょうか〜???
<しかし、このこと( 『カナンの呪い』 とよく言われているらしいです)は、後に重要な伏線となるようです>  ★覚えておいてね〜!!
ことわざ

そのノアの子セムの子孫のアブラハムが、神様のお告げにより、東方のバビロニアのあたりから、カナンの地(現在のイスラエル、パレスチナ地方)に辿(たど)り着き、イスラエル人(=ヘブライ人)の先祖となったみたいです。でも、実際は、その子ヤコブが『イスラエル』とも呼ばれる「イスラエルの開祖」とされているようです。

「人類史の系図」

そうすると、古代のイスラエル人(ヘブライ人)が人類の祖先ってこと?でも、他にも生き残って祖先を増やした種族はいなかったのかな〜?偶然に、高い山の上に住んでいて、ちゃんと助かった人たちもいるような?例えば、チベットとかアルプスの山々とか、北米、南米にもあるし〜、中国にも。。。日本だったら山多いしね。アフリカにも山あるよね〜少ないけど〜

なんだか、ノアの子孫だけじゃないような。。。。

「ノアの箱船」 
(洪水の原因には諸説あるようです。紀元前4000年前後とかってありますすが、本当は、紀元前9000年ぐらいじゃないのかな?今の世界支配のアングロサクソンがウソの歴史を作っているから。)


それから、ダビデもソロモンもイエス・キリストも何とアブラハムの孫ヤコブ(イスラエルとも呼ぶ)の12人の息子のうちのひとり「ユダ」の子孫なんですよね。だから、イエス様はユダ(部族)の出身だけれど、自分の生まれ故郷の家や町では歓迎されないと神様から言われていて、それで、ちょっと前まで北イスラエルだったガリラヤ地方を巡り歩き、伝道をされていたようです。そして、十字架にかけられるキッカケを作った裏切り者の弟子が、12使徒の中でもユダ(名前からしてユダ部族の出身)なんて、ちょっと出来過ぎ?


また、「出エジプト」も本当の話なのかはちょっと分からないのですが、B.C.18〜16世紀くらいに、エジプトはシリア・パレスチナ系の首長たちの複数の民族集団「ヒクソス」に支配されていたらしいです。その後、またエジプトを追い出されるらしいのですが、「出エジプト」はそのことをかっこ良く言い繕っているのかもしれません。   〜〜? あるいは、反対に、南アラビア(現在のイエメン)から紅海を渡ってアフリカのジブチに上陸する際の出来事かもしれません。

「ヒクソス」

「エジプト第二中期」

聖書解釈ではB.C.16C頃にエジプトからカナンにもどって来たことになっています。これも、エジプト王がヒクソスに対して軍事行動(クーデター)を起こし勝利、ヒクソスが支配をあきらめて、退散した頃と重なるんですよね。

また、「キリスト時代」のパレスチナはもうほとんどの地域がローマの支配領となっていたようですが、かつての『北イスラエル』だった領地は「ユダヤ」と「サマリヤ」と「ガラリヤ」などに別れています。つまり、それ以前に、ユダヤ部族とベニヤミン部族以外の10部族の住んでいた「北イスラエル」の地は失われ(BC721年ごろ、『イルラエル王国』がサルゴン2世率いるサクソン軍団『新アッシリア王国』に滅ぼされたため)、その10氏族はどこかに離散して行ったり、また、奴隷などとして残ったりしたものと思われます。

 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 


新約聖書によれば、イエス・キリストが十字架にかけられた後、アリマタヤ(ユダヤ人の町の名)のヨセフ(町の議員で正しいりっぱな人)たちがイエス・キリストの遺体を引き取りに来たとのことです。

ところが、秘密裏に誰かがイエス・キリストの命を甦(よみがえ)らせ、イエス・キリストは何人かのお供とともに姿を隠しつつ、多分、いろいろ放浪したすえに、アイルランドかスコットランドにたどり着かれたのでは? (いろいろなコッソリ情報やDVDからの推察です)

一方、ユダを除く11使徒たちは世界に向かって伝道の旅に出ていったようです。多分、ヨーロッパが主(おも)だったようですけれど。ペテロはローマに行ったみたいですし。

まあ、それはさておき、よ〜く考えると、12~3世紀ごろのメディチ家の人々とイタリア系ユダヤ人とはやはり、かなり似ているような。。。

と思っていたら、カナンの地って、「ノア」の息子「ハム」のあの前述した★’腕白息子カナン’の子孫が住んでいた土地なんですって。そして、カナン人がB.C.10C頃に、「フェニキア人」と名前を変えたらしいとか。あの有名な地中海の貿易商人フェニキア人は、なんとカナン人だったのですね!*
↑* 訂正:さらに詳しく、正しく言えば、カナン人{=ベニヤミン族=マケドニア人=ジョゼッペの部族 } は、フェニキア人たちの都市国家を次々に侵略・征服し、な、なんと自分たちがフェニキア人に成りすまして海賊をやったりしながら、地中海にも植民地を増やしていった偽フェニキア人だったのです。)

「フェニキア人」

「バール」

「カナンとイスラエルの戦い〜バールとアシュラ」

「神様の異なっているみわざ」

「カルタゴ」

「ハンニバル」

と上のようにたくさんのサイトがあるのですが、まとめると、「カナン人」はB.C.10Cくらいまでには『偽フェニキア人』と自称するようになり、貝殻から紫の染料をつくり、地中海沿岸の古代ギリシャやローマ帝国など多くの国々や都市と活発に交易をし繁栄していた(←訂正:こちらの下線部は本者のフェニキア人のほうで、偽フェニキア人のほうは海賊行為や地中海沿岸の都市に戦争を仕掛けて侵略を繰り返していた)。B.C.800年頃に、偽フェニキア人はカルタゴ(現在のチュニジア共和国)を建国し、イベリア半島南部、シチリアの一部やアフリカの北部の地中海沿岸の諸都市を征服していた。ギリシャとの戦争やローマ帝国とのポエニ戦争などの戦いを続けていたが、結局、A.D.5Cには東ローマ帝国に破れその領土となり、 A.D.6Cには、アラブ人のイスラム帝国ウマイヤ朝に滅ぼされる。


それから、カルタゴの政治形態はスパルタとよく似ていた。これも重要な感じです。つまり、パレスチナ地方(地中海東岸)の主に南ユダ王国のユダヤ人(ユダヤ教を信仰、しかし、実際は悪魔教信仰の一部のハム系=ソロモン王など)*=カナン人(=偽フェニキア人)とシェバ人は通婚していたので、混血していたため、様々な点でその影響をお互いに及ぼしていたものと思われます。これが、民族的なスファラディム・ユダヤ=「悪魔教のヘテ・シェバ人(アラビア半島南部でセム人と混血?)+カナン人(一部のハム系)」で、彼らはあちこちに移住していきますが、カナンの地に留まって定住し、A.D.60年頃のディアスポラで離散し、地中海沿岸都市に移住していったのが、スファラディム・ユダヤの中でも「ミズラヒム」、つまり、スファラディム・ユダヤの中でも、南ユダ王国のセム系の血筋が入っているとされるソロモン王の子孫なのでは?でも、本当は違うかも?多分、『シバの女王』のトリックで、ソロモン王の子孫はサクソン純血種の可能性が高いような気がします。(と勝手に推測!!)

★★★それから、偽フェニキア人(=カナン人)は、「バール(神)」という牡牛の神(本当は、『モレク』という「ヤギの神」を信仰)への’悪魔的な信仰’をしていて、’幼児の生け贄の儀式’などもしていたということです。

また、ローマ帝国との戦い「ポエニ戦争」では、カルタゴ(偽フェニキア人が建国、後には、その市民はカルタゴ人と呼ばれる)の『ハンニバル・バルカ』という将軍が、B.C.220年頃イベリア半島南部から北イタリアまでを征服した。ローマ史上最大の敵と後世に畏怖の念をもって語り継がれた。  ★このことも後で重要な伏線になりますので覚えておいて下さいね。

それで、メディチ家のことに戻りますが、この一族がどこから来たのか不明となっていますが、どうも、いろいろな情報をたどると、『偽フェニキア人』(=カルタゴ人)と『スファラデム・ユダヤ人』(イスラエルにいてキリストを裏切った使徒ユダの家系、後に、5世紀頃、ローマ帝国を怒らせ、カナンの地から追出される=ディアスポラ*)などの混血なのではないかと思われます。(でも、メディチがメディスン=薬の語源となっていることから、もしかしたら、元々は人間の王族の家系だったのをサクソン王族に乗っ取ったのかも。

あっ、それから、肝心なことを忘れていました。前に「イタリア系ユダヤ人」に似ていると言いましたように、イタリアの血筋もひいていると思われます。このことの説明は長くなりそうなので次回にします。

さらに、もしかしたら、白人のアカイア人またはイオニア人(多分、アシュケナジム・ユダヤ=人間)とも混血しているかもしれません。なにしろ、地中海では、ギリシャの人間の商人・戦士とか偽フェニキアの商人・戦士 とかが、船であちこちの都市を移動していて、特に、偽・フェニキアの商人・戦士たち=サクソン軍団は多くの植民都市も築いていたのではないかと思われます。

スパルタ人とマケドニア人のことをドーリア人とも云い、古代ギリシャに侵入してきた際には、多くのアカイア人都市を征服し、相当数のアカイア人を奴隷にして酷使していたとのことです。ですから、アカイア人(多分、ケルト系で船でギリシャに移住してきた?)に船を造ったり、操縦させていたような。ただし、アテネなどなかなかドーリア人に征服されなかった都市もあったようです。(最終的には征服されてしまいますが)

そういったことから、もしかしたら、メディチ家も銀行業務の実質的な仕事や政治家としての細かな秘書的実務を奴隷として使っているアカイア人にさせていたのかもしれません。人間であるイオニア人やアカイア人は商才や芸術などに優れていてとても頭が良かったらしいですから。

つまり、人間のギリシャ系部族にアイオリス人とイオニア人(アカイア人の一部?)がいたということでしょうかね〜!アナトリア半島(現在のトルコ)に都市国家『トロイア』を築き、トロイ戦争で滅亡し逃走して、イタリア半島中部で初期ローマを建国したのはアイオリス人で、シーザーの祖先です。
「ピーター・パン」などでも、スミスィーという船員はアシュケナージ(=ケルト人)風で、フック船長は貴族の格好をしたスファラディム・ユダヤ人(=サクソン人)風ですしね!

p.s.

メディチ家の血筋については、少し訂正しました。そのことは次回詳しく書きます。

(つづきは明日にします。)

[訂正]
(上のアテネはドーリア人に征服されなかったとありますが、違っていたようです。最終的には、アテネも彼らサクソン軍団(=ドーリア人=スパルタ人&マケドニア人)に征服されてしまったようです。
(2013.2.27 10:30 p.m. 訂正)

* コメント欄も見てくださいネ!

# by Ulala-lov | 2010-06-13 04:12 | アングロ・サクソン王族