先日来、シバ王国のことを取り上げてきましたが、先月6月30日のわたしの記事「(続)シバの女王+バラモン教・シバ神」の記事の最後のところにも載せましたが、「エチオピア帝国」(=シバ王国のひとつ)のソロモン朝の1916〜30年に王位についていた『ザウディトゥ』という女帝がいました。以下のサイトの写真を見てください。さらに、その下にある英王室ウィンザー朝のエリザベス2世の写真も見てください。(ファイルから新規ウィンドーを出して、両方のサイトの写真を比べてみるとよく分かりますよ)

エチオピア帝国ソロモン朝「ザナディトゥ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%82%A6
%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%A5

英国ウィンザー朝「エリザベス2世」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/uk/royal.html

「イギリス女王エリザベス2世のポートレート写真集」
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/200804
24_the_queen_in_portraits/

3番目の「エリザベス2世のポートレート集」の一番上の写真は、エリザベス2世の替え玉です。先日、カナダや米国に行ったのもそうです。何度も言いますが、この10年位の間、女王は日本に不法侵入し、不法滞在しています。日本政府は暗黙の了解をせざるを得ない状況にあります。以前、わたしは、本当の女王は、髪が黒くて、目は空色といいましたが、実は、それは、わたしが、三回目に見た時にそう思ったのですが、その三回目は人違いだったようです。といっても、サタニストの需要人物だったのですが。それ以前に、今、思うと確かにエリザベス女王だったと思われる人物を一、二回見た時は、目は黒か茶色だったような。

とにかく、1番上のサイトの「ザナディトゥ」の写真と2番目のサイトの「エリザベス2世」の写真、さらに、3番目の「ポートレート集」の1972年のバルモラル城での家族写真の’女王の顔を見比べて’みてください。2番目の写真はかなり化粧をしているし、公式写真として修正も加えてあるかもしれませんが、その顔の印象はよく分かると思います。これらの写真からわたしが受ける印象は、「ザナディトゥ女帝」と「エリザベス女王」はかなり血縁的に近い存在ではないかということです。以前にも、「エドワード8世」の愛人だった「テルマ・ファーネス」という女性の母親は、「チリ人」の母親をもつということでしたが、「シバ王国」の王族だった可能性もあります。「チリ」は過去に英国の植民地であったし、現在も深い関係にあります。もしくは、「エリザベス2世」は、直接「エチオピア帝国」から来て、英王室の「ジョージ6世」(その時は王子だった)の養女となったのかもしれません。そして、彼女は、このエチオピア女帝「ザナディトゥ」の孫だったのかも?非常によく似ていると思うのですが。


さらに、以下のサイトのエチオピア帝国の女帝「ザナディトゥ」の父親である皇帝「メネリク2世」の写真と英国の「ヴィクトリア女王」も見比べてみてください。

エチオピア帝国、ソロモン朝「メネリク2世」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%8D%
E3%83%AA%E3%82%AF2%E4%B8%96

英国、ハノーヴァー朝「ヴィクトリア女王」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%
AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E3%82%A4%E3%
82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%A5%B3%E7%8E%8B)

「ヴィクトリア女王の偉大さ」
http://www1.c3-net.ne.jp/ywatari/VC6.htm
(ヴィクトリア朝の偉大さとかのこのブログでの宣伝はサタニスト側の宣伝ですから、そのつもりで)

「メネリク2世」と「ヴィクトリア女王」も非常によく似ています。多分、ヴィクトリア女王の実際の肌の色はもうすこし浅黒かったのではないかとおもわれます。昔の写真やポートレートなどは修正が多いですから。しかし、髪は染めていたと思われますし、肌も少しは漂泊していたかもしれません。有色人種と思われることを非常に恐れていたようですから。


つまり、ヒッタイト=サクソンですが、ドイツのヘッセン家のひとつであるハノーヴァー家「ザクセン・ブルグ・ゴーダ」家から「ジョージ1世」が英王室に行き、英王室「ハノーヴァー朝」となったのですが。ザクセン・ブルグ・ゴーダというのは、ザクセン=サクソン=スパルタ=ヒッタイト=ヘテ人で、ゴーダ=東・西ゴート=マケドニア=シェバ人なのではないかと。そして、真ん中の「ブルグ」は彼らがハサミ打ちにして滅ぼし(1032年、神聖ローマ帝国ザクセン朝ハインリッヒ2世とサヴォイ王国とで)、支配下に入れた「ブルグント王国」の名前から「ブルグ」と入れたのではないでしょうか?

そうすると、英王室「ハノーヴァー朝」=「ウィンザー朝」も、「シバ王国」とのつながりは強いわけで、「エチオピア帝国」(シバ王国)から、直接に、養子を迎(むか)えることもあったかもしれません。彼らは、純粋な血流を重んじるということですから、シェバ人の原種、有色人種の王族である可能性が高いと思われます。


なのに、ニュー・ワールド・オーダーによって、なんで有色人種の絶滅を計画しているのでしょうかね?不思議ですね!それに、エリザベス2世は人種差別主義者らしいのです。やっぱり、自分の出自を隠しているうちに、有色であることへのコンプレックスを意識するあまり、差別意識が育ってしまったのでしょうか?
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# by Ulala-lov | 2010-07-11 13:05 | シバの女王 | Comments(12)

今度の選挙は、民主党は消費税を上げるとかって言いだすし(裏で、Qベス以下サタニストの脅迫があったにちがいありませんが)、ん〜、かといって、自民党もますます混迷しているようですし。はっきり言って、’うららおばさん’も、「どこのだれに投票したらいいのか? よく分かんないわ〜 困ったな〜 」って思っていたのです。やっと今日になって、今度の参議院選挙に関して、具体的に参考になりそうなブログ記事を幾つか見つけましたので、みなさんにも、参考にでもなればと思い紹介しますね!


「日本がアブナイ!」、7/7『税金と民主主義〜管の消費税議論の呼びかけは、。。。』
http://mewrun7.exblog.jp/

まあ、この際、税制に関して、根本的によく検討して、超党派でもっとよい税制度はないか考えてみようというのはいいことなのかもしれませんね。でも、消費税10%はちょっと止めてほしいな。一度、食品や日用生活必需品などの消費税をなくした後、ほかの消費税を年金の原資として7%くらいにっていうのなら、まだ分かるのですが。。。でも、現状5%のままで、食品などはゼロ%にというのが理想なのですが。



「世に倦む日日」、7/7『星に願いを、消費税増額阻止の民意を、民主・自民の現有割れ』
http://critic6.blog63.fc2.com/

『小選挙区』は、超保守(自民の清和会や「日本会議」(自民が多い、民主は少数)のメンバーとかはダメだし。超左翼もダメだし。

まあ、『売国奴と思われる候補者には絶対に投票しないこと!!!』

今は、「国民新党」が一番頼りになる存在かもね。自民か民主かを選ぶ際には、概して、自民よりは民主のほうがましかな?でも、本人しだいのところがありますから、よ〜く候補者の情報を収集して判断してください。その際には、ネット上のウソの情報に気をつけて!

『比例』は、ぜひ、「国民新党」、「社民党」(やっぱり、福島瑞穂代表、保坂展人候補などがイイかな?)に!!

つまり、この二党の反対意見が、『アメリカの外圧』を抑制するストッパーの役目をしてくれます。ですから、とっても大事です。


また、以前の記事をちょっと見たら、こんな結構重要そうなブログ記事を発見!!

「ジャパンハンドラーズと国際金融情報」
6/10 『日本は中国の属国になる」論の前にやるべきこと。まず。。。』
http://amesei.exblog.jp/11293064/

アメリカは、まだまだ、日本郵政民営化で、日本の資産を狙っているらしいです。民主党が国民新党とともに提出した郵政改革法案を民主党が廃案にしたら、それこそ、日本の大きな資産をアメリカに奪われてしまうということですね。大変だ〜、やっぱり、民主党単独過半数は危険みたいです。なにしろ、どんな政党が与党になっても、アメリカの外圧には勝てないんですよ〜。サタニストたちが尻尾を巻いて逃げていかない限りね。早く、宇宙にでも逃げていってくれ〜

ですから、第三、第四のまともな政策の政党が、与党に圧力をかける必要があるんですね〜

やっぱり、今度の日曜もとっても’大事な’参議院選挙の投票日です!!

♡ みなさん、選挙に行きましょう〜!!!

♥ 清き一票をお願いします!  

♡ パッチリと目覚めてね!    #_#/♢



* コメント欄も見てくださいネ!
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# by Ulala-lov | 2010-07-07 23:39 | Comments(14)

昨日の記事では、まだ、タイトルの「シバ王国」に関して書く前に、文章が長くなりすぎてしまいましたので、日にちを変えて今日の記事として「つづき」を書くことにしました。

昨日は、トロイ戦争でギリシャ軍に焼き討ちにあい、逃げたアエネアスが、’なぜ’イタリアの中部をめざして、たどり着いたのか?という疑問について考えました。わたしの考えでは、アエネアエスは、ギリシャのスパルタ、マケドニアなどはもちろんのこと、その仲間のフェニキア人などの’ヒッタイト勢力’の追跡を逃れるため、
イタリア中・北部に定住していた同じケルト系民族のエトルリアという国を頼って行ったのではないかと推測しました。(昨日までの復習をかねて)

そして、アエネアエスの子孫は原住民のラティヌス王ともエトルリアとも友好関係を築いて順調に定住していったのでした。その中で、一族内でのごたごたもあったものの、それも乗り越え(弟を殺したというのはどこまで真実かまだ分かりません)、ロムルスが『王政ローマ』の創始者となり、ローマ建国を果すわけです。

リヴィウスの『ローマ建国史』
http://tomochan2002.at.infoseek.co.jp/livius.html#_Toc440263075

○さて、上のサイトの「8.元老院の創設」のところに、これらの政治制度は隣国「エトルリア」の政治制度をとりいれたものというところがあり、やはり、隣国エトルリアは頼れる兄貴的な存在の国で、政治制度、その他多くの面で模範としていたということが分かります。

・12人のリクトル(官吏)を任命 ..... エトルリアで、12の部族が集まって王を選んだ時に各部族が一人ずつリクトルを出したことに由来しており、ローマもそれをまねた。(なんだか、ユダヤの12部族と似ていて不思議ですね)

・人口増加政策をとり、近隣諸国から大勢の避難民を、自由人、奴隷の区別なく受け入れた。

・国力の充実にともない、国の運営に知恵を授ける100人の「元老」=「パトレス」(国父の意、後の「パトリキ」貴族のこと)を任命した。



○「9.サビニーの女たちの誘拐(ゆうかい)」について

ところで、近隣から、避難民を受け入れたからか?とにかく、子孫を残すため妻となる女性がとても不足していたということです。そこで、「ロムレスは、元老たちの意見により、近隣の国々に使節を送って、民族間の結婚を含めた同盟関係を申し入れた」とあり、ここまでは、しごく紳士的で、ふつうなのですが。。。

しかし、「ローマ」という強国の勢いを恐れた近隣諸国は冷たく追い返したとのことでした。ところで、このあたりからが、ちょっと。。。なんだか、変なのですが。。。

・ローマの若者たちはひどく怒って’暴力沙汰’は避けられない情勢だったとか。
ちょっと、ちょっと、そこまでいくかな〜???だって、ちゃんとした年配の国の使節が交渉に行ったのですから、帰ってきたら、元老院などにちゃんと結果を報告をし、再度検討されていたはずですから、元老院も、ローマの若者も、そんなに過激な反応をしたとは考えられないのですが。

でも、「ロムルスは怒りを内に秘め。。。。」???
・適当なきっかけをつくるために、ロムルスは馬の神「ネプチューン」を祭る競技会『コンスウァリア祭』を開くとして、近隣諸国に開催を知らせ招待した。
しかも、
・国民は知恵を出し合って、この祭りを魅力的で話題性のあるものにするために’懸命に準備’した。

何かおかしい???そんなに怒り心頭で怒っていながら、近隣諸国を招待するための競技会の開催を決め、そんなに懸命に準備するでしょうか?

そこまで、熱心に企画したということは、自分たちの国「ローマ」をよりよく近隣諸国に知ってもらい、友好関係を築こうとしていたのではないでしょうか?もちろん、それがうまくいけば、嫁さん不足も解消できるだろうとの計算はあったでしょうが。とにかく、みんな嫁さんをもらうため一生懸命努力したってことじゃないの???

とにかく、当日は、「近隣諸国からたくさんの人々がこの祭りに集まってきた。特に、サビニー人は妻子を連れて全員がやってきた。彼らは、ローマ人の家庭に丁重に迎えられると、町並みと城壁と多くの建物を見て回った。そして、こんな短期間にローマが発展していることに驚いた。」という感じだったのです。いいムードで進行していたわけです。

ところが、またまた、???
「競技会が始まると、客たちが競技に夢中になっている間に、予定していた行動が始まった。???ローマの若者たちが、合図とともに一斉に走り出して、娘たちをさらっていったのである。」???そんな新興国であるローマが近隣諸国すべてを敵にまわすような危険をあえて、また、大げさに、招待してまで、行うなんて!??? 
「まさに、アンビリーバブル!」なのです

では、この「サビニー族」とは?いったいどんな民族なのでしょうか?

「サビニ人」
http://wapedia.mobi/ja/%E3%82%B5%E3%83%93%E3%83%8B%E4%BA%BA

好戦的で城壁を持たない町に住んでおり、サビニ人は自らの起源を「スパルタからの移民であると言っている」と言われているそうです。この当時は、城壁をもった街がほとんどでしたから、やはり、そうとう、戦闘には自信があり、他の民族は恐れていて、サビニに攻撃をしかけてくる可能性がなかったためではないでしょうか? ’好戦的’というのも、やはり、ヒッタイトやシェバ人の特徴ですよね。

「サビニ人」
http://art.pro.tok2.com/D/DavidJL/Sabine.htm

★★★ あのサビニーの花嫁誘拐の伝説はフィクションという説もあるとのことです。

また、「サビニ」はローマの北東ティべリス川一帯に住んでいたとありますが、昨日のフェニキアの植民地の地図を拡大して、イタリアの植民地を見ると、そのサビニの辺りはやはりグレーのギリシャやフェニキア以外の植民地になっています。スパルタから移民してきたと考えるとドーリア人、つまり、北欧かドイツから南下、あるいは、小アジアから来たヘテ人(ヒッタイト)かシェバ人かと思われます。仲良しワルワルコンビなので、通婚も多くて、混血も多かったことでしょう。それにしても、スパルタならギリシャの植民地になっていないのはなぜなのでしょうか?

(ところで、そのローマの北東の植民地の地名って、「フェラーリ」ですよ〜あの有名なイタリアの自動車会社の名前と同じですよ〜!サビニ人として大活躍しているよい例でしょうか?

「ティヴェレ川」
http://wapedia.mobi/ja/%E3%83%86%E3%82%A3%E3
%83%99%E3%83%AA%E3%82%B9%E5%B7%9D


さて、『サビニ』という名前を考えてみましょう!!
あの「サヴァ、シェバ、シバ」と似ていませんか? 
「サバ」とも言われるのですが、サバの語尾にイタリア風に『○○〜ニ』は、多分、『〜人』を表しているのではないでしょうか?(わたしは、イタリア語は勉強したことがなく、よく分かりませんが)

そうすると、いろいろなことがよく繋(つな)がってきます。
つまり、☆☆☆イタリア半島の「サビニ」は『シバ王国』の植民地のひとつであった。となると、住んでいたのはシェバ人ではなかったかということです。

先日来、話題にしている中東や東アフリカの『シバ王国』の他にも、東南アジアのボルネオ島の東部にも『サバ州』という今はマレーシア領の植民地も以前もっていたようです。1963年にマレーシアが領有する以前はイギリスの保護国で、北ボルネオ会社が設立し当初は経営もしていたということです。

「サバ州」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%90%E5%B7%9E

「ボルネオ会社」(大英帝国の会社だった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%83%9C%E3%83
%AB%E3%83%8D%E3%82%AA%E4%BC%9A%E7%A4%BE

さらに、その古くは『スールー王国』というアラビア系のスルタンの支配するイスラム教国だったとか。

「スールー王国」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3
%83%AB%E3%83%BC%E7%8E%8B%E5%9B%BD

つまり、「イエメン」の『シバ(サバ)王国』の支配下にあって、名前を『スールー王国』にしていたということでしょうか?かなり昔から、イエメンもイスラム教の国のはずです。それにしても、スールーってなんだか、ドイツの「スーレー協会」を連想してしまいました。

それから、お隣で、かつては同一国だったかもしれない「ブルネイ王国」の王子は、わたしが以前このブログで、

「英王室を中心とする『ヴィクトリアン・オーダー』というイギリスの騎士団って、もしかしたら、『イルミナティ』のことではないかしら? 英王室ハノーヴァー朝のヴィクトリア女王の時に結成(英王室では。イルミナティ自体は何千年も前に結成)され、現在は、ウィンザー朝のエリザベス2世に忠誠を誓っているらしいけれど。」←訂正:フリーメーソンでした!(2012.05.23)

と書いたことがあったのですが、この騎士団の上位43名のうちの28番目に’ブルネイ’の「アル・ムハディ・ビラー」という王子様の名前が載っていますし、サイトの中にその王子の写真ものっていました。

「ロイヤル・ヴィクトリアン・オーダー」
http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Victorian_Order

(サイトの真ん中くらいに、「『サヴォイ・チャペル』」という、この騎士団のためのチャペルの写真と説明がのっています。「○○〜イ」は英語風で、「○○〜の」という意味です。ですから、「サヴァの、シバの、サバの、シェバの」チャペル、つまり、このチャペルは『シバ王国(または、シェバ族)のチャペル』という意味か、あるいは、『シバ神のチャペル』か、または、『サヴァにその両方の意味が重なっている』意味なのか。。。のいずれかなのでは?)

「ブルネイの歴史」
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page082.html
マレーシアの国土と都市について(地図)
http://malaysiajp.com/geography/

古代に、マレー半島に金がとれたのですね。そのため、この辺りは古代から植民地化されていたみたいです。また、他のブログでみたのですが、奴隷貿易もさかんにおこなわれていたとか。それで、古代の「海のシルクロード」*がマレー半島のところを通っていた理由が分かりました。

* 「シルクロードの概況」(下のほうに「海のシルクロード」についての記述があります。)
http://www.miryokuxian.com/info01.asp

「激動に巻き込まれる南洋の楽園・ブルネイの宮廷内紛」
http://tanakanews.com/980801brunei.htm

上のサイトの最初のほうを読むと、「ブルネイ王室」は「日本皇室」の次に歴史の古い王室なのだとか。そうすると、国の歴史はそれ以上にかなり古いのではないでしょうか。それに、紀元前1000年ぐらいの鉄器が発見されているということなので、やはり、ヒッタイト(ヘテ人)かシェバ人が征服して、植民地としていた可能性は大いにあるようです。


つまり、シェバ人の植民地は、世界のあちこちにあって、いままで『シバ王国』として分かっているものだけでも、以下のようになります。

・アラビア半島の「イエメン」(南西部)、「クライヤ」(北西部)
・東アフリカの「エチオピア」、「エリトリア」(かつては、エチオピア帝国の一部であった)、「ザイール」、その他?
・イタリアの「サビニ王国」
・ボルネオ島のマレーシア領「サバ州」

結構たくさんありますね。でも、まだまだあるかもしれませんね。インド(ヒッタイトと共有)を含むオリエント(アジア地域)などにも結構あるような気がします。’古代の昔’でも、すでに、ヒッタイト人とシェバ人は、世界の相当な数の国々、つまり、相当な地域を植民地化していたということですね。

その後、植民地をさらに拡大し、中央ヨーロッパ、東アジア、北米、中南米にも進出。。。

特に、シェバ族と「サヴァイ家」とのつながりは、いままでのことからシェバ族=サビニ族なので、より簡単に推察できます。

・『サヴォイア家』は1713年、北イタリアの統一し、「サルデーニャ王国」を樹立し国王に。さらに、1861年には、イタリア全土を統一し、イタリア王国の国王として君臨。



★★★ サビニ族は、この「サビニの女たちの誘拐(ゆうかい)」からローマと戦争を起こし、そして、「ローマ」という国の『共同統治』という’大きな利益’を得ているのです。

(シェバ族の王族たちの声) 
 
「ヤッター!! またしても、してやったりー!!!」
「今までも、’バテ・シェバ’で成功! ’シバの女王’でも成功!!。。。こんなうまい手、一度使ったら、止(や)められないさ〜」

<わたしの推理>
ギリシャのスパルタ、マケドニア(ドーリア人=ヒッタイト、シェバ)などからなるギリシャ軍から逃れたトロイア王家の一族がイタリアでローマという強国を築きはじめていた。そのことに、以前から危惧(きぐ)をいだいていたヒッタイト、シェバはなんとか戦争を起こして、早めにローマを叩いておきたかったが、なかなかそのチャンスがなかった。

そんな時に、ローマから花嫁募集の使節がやってきた。これは、戦争を起こすためのよいキッカケだと考えて、フォールス・フラッグ(戦争を始めるための口実を作るため、敵のほうから攻撃してきたように見せかける自作自演の攻撃)を振るための演出を考える。そして、ローマから来た使節には、もったいをつけて、はぐらかした生返事をして、相手をじらせて、より有利な状況をつくる。

そして、ローマから競技会への招待があったので、その時に、自分たちの娘たちがローマの若者たちをハニー・トラップで誘惑するように指導する。そして、自分たちサビニ族だけでは、怪しまれるので、他の近隣諸国にも、同じような手を使うように事前に根回しをする。そうすれば、強国「ローマ」をやっつけることができ、おびやかされることもなくなるから安心だとか適当な理由をつける。多分、ローマ人は凶暴だとか女をレイプするとか悪いうわさを流したりしたかもしれない。

当日に、「サビニ人は特に、家族全員でやってきた。」ということからも、サビニの気合いの入れ方は他の部族よりも、突出していた。そして、実際、そのハニートラップが成功したら、なるべく、それをおおげさにスキャンダラスに吹聴し、近隣諸民族の怒りを煽るようにしむける。

実際、近隣諸国は、ローマに対して、戦争を仕掛けるようにサビニ王「ティトス・タティウス」のところに集まっていったが、彼は呼びかけには、すぐに応じなかったので、他の諸国は、怒りにまかせて、それぞれ別々にローマを攻めた。そのため、兵力もそれほどではなく、次々にローマに負けてしまう。

そして、最後に、サビニとの戦いになったが、サビニはローマの砦(とりで)の鍵をもつ娘「タルペーイア」をたぶらかして錠を手に入れたものの、冷酷にも、この娘を殺してしまう。そして、一旦は、サビニが優勢になるものの、その後、ローマが盛り返し、優勢になった。しかし、この時、ローマ人の妻となっていた「サビニの娘」たちが、両軍の中に割って入ってきて、お腹の父と夫という両者が争うなら、死んだ方がましだとかう。(はっきり言えば、サビニが負けそうになったので、慌てて仲裁に入った抜け目のないサビニ娘たちなのです)

そして、両者の和解後、サビニ人はローマ人と1つの国家を形成することに合意し、サビニ王「ティトゥス」は、「ロムレス」と2人でローマ王として君臨することになり、また、サビニ人からは100人のパトレス(貴族)が選ばれローマの元老院に送られた。

あ〜あ、ロムレスもそれまでのローマの元老院の人たちも人が良すぎるような。。。まあ、これもハニートラップの相乗効果でしょうね〜 結局、ヒッタイトやシェバ族の思いどおりになっちゃったんじゃないのかなあ?

そして、自分の妻が誘惑したとは言えないし、それさえも気がついていないのか?そして、そのローマの若者がサビニの娘を誘拐したという話は、ずっと後世まで尾ひれ葉ひれがついて大げさに宣伝され、「ローマ帝国」での、いえ、それだけに留まらず、その後、現代にいたるまで、ヒッタイト・シェバ族の優位を得るためのかけひきの道具として悪用されてきた。

「サビニの女たちの略奪」
http://wapedia.mobi/ja/%E3%82%B5%E3%83%93%E3%83%8B%
E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%95%A5%E5%A5%AA

だから、上のサイトにあるような情感を煽るようなハレンチな彫刻や大げさな事実とは到底かけ離れているような絵画がたくさん製作されてきたのではないでしょうか?

しかし、あの彫刻や絵をよく見てください。いろいろなところに変な写実が見られるのです。あの
彫刻にしろ、なんで、近くに夫らしき人が。ローマ人は娘たちに誘われて、自宅に連れ帰ったというのに。
誘拐(ゆうかい;正確に言えば、多分、ローマ男子がサビニ娘に誘惑されて共に競技場を立ち去り、ローマ男子の家へ連れていった)の絵画では、なにやら、戦闘中に娘を略奪しているかのように描かれています。

また、サビニ人は色が黒いはずなのに、真っ白な肌に描かれ、反対に、ローマ人(ケルト系)は色が白いはずなのに、肌が黒っぽく、ケルト人の容貌というよりは、まるでヒッタイト・シェバ族の容貌のように描かれています。これでは、まるで、ローマの娘がサビニの男性たちに略奪されているような感じです。〜〜? あれれ〜?

それから、「サビニの女たちの仲裁」の絵画も、ロムルスの妻となったサビニ人のヘルシアともうひとりの女性の足下には、赤ん坊が三つ子プラス双子でも生まれたかのようにたくさんいますが。。。??? 何で?そんなにすぐに生まれる分けないし。。。それに多すぎるし。。。それに、ヘルシアもティトゥスも、もっと色が黒っぽいはずですよ。ヘルシアなんか、まるで、ケルト女性のように描かれています。

つまり、このA.D.16、7世紀の絵画の中には、中東・アフリカからイタリア、そして、ドイツに行ったサクソン王族などが、自分たちを白人としてみられたいという願望が表れています。その他、つじつまのあわないことだらけのケルト攻撃のための’宣伝用’芸術作品なのです。

そして、自分たちサビニ女性は「お涙ちょうだいのいい子ぶりっこ」をしていて、それを美談として伝説化し、またまた’宣伝’しているのです。

「なんとまあ!」と、わたしなどは、まったく、あきれてしまうのですが!!!

p.s.

<サビニの計略の補足>

このローマの内部にはいって、ローマを内側から攻略しようというサビニの計画は、とりあえず、成功したわけですが、多分、これは、第二の作戦だったんでしょう。第一目標は、「ローマを打ち負かして征服することだったけれどかなわず!」でした。しかし、副産物として、自らは戦わずして近隣諸国も手に入れることができたのです。それというのも、サビニ王「ティトゥス」が、近隣諸国の呼びかけにすぐには応じなかったため(わざとですよ!)、近隣諸国はそれぞれ別々にローマと戦い、負けてしまいました。サビニにとっては、これも、自分たちの手をかけずして、近隣諸国をローマに平定させ、最後に戦いに出陣し、「ローマ兵が疲れている時に戦う」という有利な条件を得ることができ、さらに、ローマを打ち負かせば、一気に近隣諸国すべてを征服することができたわけです。

しかし、予想に反して、『それでも、ローマは強かった』。それで、サビニは’これは大変!’と、即刻、計画変更! またまた’サビニ女性を使ったお色気と情に訴える作戦’に出たわけです。そして、ローマと共同統治すれば、ローマがすでに近隣諸国を平定した後なので、自分たちは戦わずして、それらの国々も得ることができたわけなのです。

★★★「サビニ」って、なんて悪知恵の天才なんでしょう!



*コメント欄も見てくださいネ!
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# by Ulala-lov | 2010-07-05 13:21 | Comments(3)

ローマ帝国とシバ王国

先日来より、ずっと、いままで話題にしてきたのは、B.C.10C頃の謎の多い『シバ王国』という小国(けれども、非常に経済的に富んだ重要な交易国)に関してでした。そして、あのイスラエル王国の『ソロモン王』と重大な関わりをもった、当時としては、もっともスキャンダラスな超話題の人物がシバ王国の『シバの女王』でした! 

さて、B.C.8C頃になりますと、地中海で、もっとも大きなトピックスと言えば、やっぱり、あの偉大なる『ローマ帝国』の建国です!そして、あの『シバ王国』は、今度は、イタリア半島の新興国『ローマ』とどういった関わりをもつのでしょうか? ちょっと興味津々(しんしん)。。。なところですね〜!

その当時、すでに表面上はその存在を隠しながらも、陰で世界の至る所で多くの国々を操っていた大帝国『ヒッタイト』にとって、建国したばかりの『ローマ』は、まだまだ恐れるにあらずな存在だったと思われます。

しかし、あのトロイの戦争では、トロイア軍のほうが勝利したと思われていました。しかし、ギリシャ軍は船で敗走して帰国したと思わせて、実は、トロイア人が神聖なものとしている木馬を作って、その中に潜んでいたのです。トロイア人たちは、無邪気にも、その巨大な木馬を海岸からトロイアの街の城壁内に引き入れて、勝利に酔ってお祭り騒ぎをしていたわけです。ところが、夜、トロイア市民が寝静まったころあいをみて、ギリシャ兵たちが木馬から出てきて街を焼き討ちしたわけで、なんかひきょうな戦いをしてギリシャ軍(この頃はスパルタやマケドニアが他のポリスに強い影響力をもつ)は勝ったわけです。

ですから、ヒッタイトもトロイアの王家の子孫やその戦士には一目置いていたはずで、彼らが建国した『ローマ』も早めに叩いて支配下に置いておこうと策略を練っていたはずです。

まず、「ローマ建国神話」についてですが、「神話」、あるいは、「伝説」ということですので、ある程度までは真実だけれども華飾もありというぐらいに考えて読むのがいいのではないでしょうか。リヴィス『ローマ建国史』というサイトに詳しくのっていましたのでご紹介します。「序文、第1章〜第18章」くらいまでを読んでみてください。(後のほうは、興味のあるかたはどんどんどうぞ!)

リヴィスの『ローマ建国史』
http://tomochan2002.at.infoseek.co.jp/livius.html

目次で見ていくとなんとなく分かりますので、ここにも書いておきます。
1. 始祖アエネアスのイタリア到着
2. ラテン民族の誕生
3. アルバ王国の建設
4. ロムルスとレムスの誕生
5. アミュリウス王の殺害
6. ヌミトル王の復権
7. ロムルス王の誕生とヘラクレス伝説
8. 元老院の創設
9. サビ二ーの女たちの誘拐(ゆうかい)
10. ロムルスの戦いと勝利
11. タルペイアの裏切り
12. サビニーとの戦い
13. サビニーの女たちの嘆願
14. フィデナとの戦い
15. ウェイイとの戦い
16. ロムルスの昇天
17. 王の不在
18.ヌマ王の選出


○まず、1のアエネアスがなぜ、イタリアの中部にやってきたか?ということに関してちょっと興味があります。

下のウィキペディアの「フェニキア」のサイトを見ると、「歴史」の項目に、(多分、B.C.12世紀〜15世紀頃の)地中海沿岸の植民都市の地図があります。それを拡大して見ると、左端に説明があり、四角い「赤」枠の都市名はギリシャの植民都市、「黄色」はフェニキア、「グレー」はその他の植民地で表されています。また、拠点を表す小さな丸印の色は、「緑」がイオニア人、「青」がドーリア人、「青緑」がアカイア人、「赤紫」がアイオア?人(読み方がハッキリ分かりません)で、小さな四角印の「緑」は、複数民族による植民地の拠点を表しているということです。

「フェニキア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7
%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2

そうしますと、アエネアスは多分、Romとなっている辺りにたどり着いたのではないかと思われますが、イタリア半島の中部・北部はグレーの植民都市なので、ギリシャでも、フェニキアの植民都市でもないということです。また、アナトリア半島(現在のトルコ)のイリオン(イリオスともいう=トロイ)はアイオア人です。ギリシャでは、アテネなどはイオニア人ですし、スパルタなどはドーリア人で、その他、アカイア人のポリスもいくつかあります。ほとんどが赤のギリシャと黄色のフェニキアの植民地で、とてもたくさんあります。

わたしが推測しているのは、エトルリアとの関係です。つまり、トロイア王国とエトルリアとは同じ民族か、とても親しい関係があったのではないかということです。

「ある調査では、エーゲ海のレムノス島(ローマ建国の双子の弟レムスに似てますね!)では、紀元前6世紀までインド・ヨーロッパ語族ではない民族が居住していた跡が見られ、その民族の言語がエトルリア人と似ていることが指摘されている」と下のサイトにあります。

「エトルリア」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%A8%E3%83%
88%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2

そして、レムノス島(リムノス島)は地図上では、アナトリア半島北西部沿岸にあるイリオン(=トロイ)の’目と鼻の先’ぐらい近くにあるのです。

「レムノス島」
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%83%AC%E3%83
%A0%E3%83%8E%E3%82%B9%E5%B3%B6

「エトルリア民族」
http://www.k5.dion.ne.jp/~ssb/Toscana/etruria.htm

さらに、エトルリア人はアナトリア半島(=小アジア)のリディアからやってきたという説が最近有力になったと以下のサイトにはあります。

「エトルリア人の正体」
http://blog.ohtan.net/archives/51097360.html

わたしは、国別に言えば、エトルリア人、リディア人、トロイ人、アテネ人とかは、みんな同じケルト系のいろいろな部族がスカンジナビア半島あたりからヨーロッパ中部、東部、南部に南下してエーゲ海沿岸(エトルリア人はさらにイタリアに移住)に定住したのではないかと推測しているのですが。。。そして、民族的、部族的?に言っても、イオニア人、アカイア人、アイオア人はみなケルト系ということなのでは?

「エトルリア人」
http://plaza.rakuten.co.jp/atsuko626/diary/201003160000/

「エトルリア」
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/storia_etruria.html

これらの人びとはみな特徴が似ているような。「海洋民族で航海術にすぐれていること、金属加工が得意、建築術に優れている、詩や音楽などを作るのが好き、陶器などに美しい絵を描いたり、人物の彫像をつくるなど芸術面に優れている、大きな墓をつくり大事に維持する」など。


わたしは、アエネアエスは、エトルリア人を頼って、イタリアにやってきたような気がしてなりません。最初は、エトルリアに保護されていたのでは。そして、現地人ラティヌス王も加わり、3国で共に「ラテン人」として『ローマ』を建国。だから、初期の『王政ローマ』の王5人のうち3人もエトルリア人がなっています。しかし、サビニー人のローマの政治権力中枢への参加については、ちょっといわくがありそうです。


(次回につづく)



*コメント欄も見てくださいネ!
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# by Ulala-lov | 2010-07-04 17:19 | Comments(2)

北欧三国とは、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク。
フィンランド、アイスランドを含めて北欧五ヶ国ともいうらしいです。

「北欧」
北欧 ウィキペディア

な〜んだ、わたしは随分勘違いしてました。ノルウェー、スウェーデン、フィンランドで北欧なのかと思っていました。

さて、最近、わたしが興味をもって、ちょこっと読んでいる本に、といってもまだ最初の方をちょこっと読んだだけですが、滝尾紀子著「世界の国ぐにの歴史;北ヨーロッパ」 岩崎書店があります。(児童書なので、ひらがなが多いですが、わたしは内容がとても分かりやすいので気に入っています)
その中で、北欧の古民族の定住とゲルマン人(=ヒッタイト)の来襲に関する部分があって、とても、重要だと思われますのでここに引用して紹介させていただきたいと思います。

まず、P15の「北極に生きる人」編の『ラップ人(サーメ族)』に関してですが、「スカンジナビア半島北部から、フィンランド北部、ソビエト西北部にわたって、ひくい丘陵と無数の沼や湖がつづく土地が、無限とおもわれるひろさでひろがっている。このひろい平原を、ラップランドとよんでいる。ここは、一年のうち七か月は氷にとざされ、氷点下40度にもなる。以下、省略。。。このような土地にも、ウサギ、リス、トナカイ、アナグマなどの動物たちが住んでいる。そして、その雄大な自然の一部のように、先祖だいだい住みついているのが、ラップ人である。最近は、ラップ人は自分たちのことを「サーメ族」と自称している。」

「ラップランド」

ラップランド Lapland


(本のつづき)
ラップ人が、いつどこからきて、北極圏に住みついたのか、はっきりわからない。かれらのことばが、フィンランド人と似ているので、血縁関係があるかとおもわれていたが、最近の研究で、フィンランド人のように東から来たのではなく、中部ヨーロッパから北方へ移住してきたと考えられるようになった。

いまから一万年以上(BC8000年以上)前、北欧いったいをおおっていた氷河が後退しはじめ人間が暮らせるようになった。(←これは地球に火星の衛星がぶつけられた後は地球は暗闇と非常に寒冷な気候に変わってしまっていたから)
そのときトナカイを追って移動してきた人々が、北欧に住みついた。この人たちの文化がもっとも古いとされている。その後、氷河はますます北へ退き、つぎつぎに新しい移住者がやってきた。先住者たちは、しだいに北へと追われていった。ラップ人はこの先住者たちで、北欧のさいしょの住人の子孫である。それはフィンランドの祖先が、東から移住してくるより、7000年も昔のことであった。ことばが似ているのは、あとから来たフィンランド人と交渉があったからだ、といわれている。」

うらら・・・つまり、フィンランド人(=スオミ人=ゲルマン人=サクソン人)は東からやって来た。★しかし、ラップ人はその7000年も前に住み着いていた。

このことから。。。

ラップ人は
ヤハウェ系(←訂正:人間)の先住民だと思われます。

しかし、フィンランド(スオミ)人は、BC5000年頃に火星から再来したアングロサクソ脳族たちが東の白海(地図の左上の広範囲な地図を拡大すると理解しやすいです。そして、以前の記事に書いたように白海の海底には2つのUFOが着陸しているらしいです。)に着陸後、一端バイカル湖付近まで移動した後に世界中に侵略していったうちの北ヨーロッパに向かっていった一派と考えられます。なので、ラップ人はその7000年も前に住み着いていたということはBC12000年以前のアングロサクソ脳族たちの兵士たちによって追われて寒い寒い北極圏に逃げ延びて住み着いたヤハウェ系の可能性が高いと推察されます。★つまり、スカンジナビアに人間は2回に別れてやって来て住み着いたということになるのかな〜。


中欧旅行6日目@ブダペスト1:Travellog from Toronto!

ロマネスク建築はノルマン人(人間のほうの)による重厚な美しい建築物です。

ロマネスク建築 - ヨーロッパの建築様式:賃貸のホームメイト

ロマネスク建築 - 英国ニュースダイジェスト

聖堂ほか〜代表的なキリスト教の建築物

ゴシック建築 画像集

ゴシック建築はハッキリ言うと、アングロサクソ脳族たちが"タコやダイオウイカの脚" を模してたくさんの細長い塔やたくさんの細長い柱のあるゴテゴテとした装飾過多な建築物です。



さらに、p21からの「古代ゲルマン人」編
しかし、最初は、ラップ人の説明とおもわれるところ、『岩の上のヘラジカ』からです。

「ノルウェーや、スウェーデンの岩の上や岸壁で、ヘラジカ、トナカイ、クマ、アザラシ、クジラ、魚、鳥など、たくさんの動物たちの絵が発見された。いったいだれが、いつごろこのような絵を、刻みつけたり、かいたりしたのだろうか。氷河時代のおわり、紀元前、一万年ごろは、とけた水があふれて北極海とつながり、半島は島であった。これが、陸地の上昇などで、現在の地形になるのには、まだ6000年という長い時間がかかった。
人々が、いつごろから、どこから来たかわからないことがおおい。紀元前6000年ごろには、ここで動物を追って、移動生活をしていた人々がいたらしい。。。。以下省略。ふるい墓も少しは語ってくれる。ある墓では、男が狩りと猟の道具それぞれ一式とともに、ほうむられていた。住居のあとと墓は近くにある。人々は、死者をおそれていなかったし、死後も、生前とおなじように暮らすのだと信じていたようだ。それにしても、北欧の最古の住民についてわかることは、これぐらいのことしかない。」

次に後(のち)にやってきたどうも『ケルト人』らしい民族に関して説明されている『巨人塚』のところです。

「大きな石を組み合わせた、巨大な建造物がある。周囲を見回しても、そのような大きな石がとれる場所はずっと遠くである。『これは巨人がつくったのにちがいない』人びとはそう考えた。スウェーデン南部やデンマークにのこっている巨石の墓。これが墓だとわかるのは、最近の調査によるもので、それまでは、人びとは『巨人塚』とよんでいた。これがきずかれたのは、紀元前2500年〜2000年ごろで、そのころになると、狩りや魚とりの生活から、ゆっくりと農耕や牧畜の生活にうつっていっていた。この巨石の墓をつくった人たちは、どこからこの地方へ移ってきたのか。イギリス、フランス、ドイツにも残っている巨石遺跡と、どのようにつながっているのか、わからないことがおおい。ここへ移ってきたときには、その人びとが木の’すき’でたがやして、小麦、大麦、キビなどを栽培して、ウシやブタを飼っていたことは、わかっている。」

つまり、『ラップ人』が農耕などの定住生活をするようになったということで、ラップ人はな〜んだ『ケルト人』のことだったのか!とわたしは思ってしまったのですが、ちがうかな〜?ここへ移ってきたときには、この人びとたちは定住するすべを身に付けていたということは、ケルトでもいろいろな民族に別れていて後から来たケルトの民族がラップ人に教えたりしたかもしれない。。。

ここからが、どうも『ゲルマン人」の説明のようです。

「紀元前2000年になると、死者一人をほうむった墓も、つくられるようになった。デンマークのユトランド半島の、中、西部からはじまるこの新しい型の墓は、やがてシェラン島*や、スウェーデン南部のスコーネ地方**にまでも、きずかれるよになる。あたらしい集団が移動してきたのである。
* シェラン島(首都コペンハーゲンがある島)
** スコーネ地方
スコーネ
スカンジナビア半島地図

この集団は、’★ウマに乗り、戦闘用の舟型をした磨製の斧をもつ軍事集団★’ であった。

かれらは、ヒツジを飼いながら移動してきた。かなりのはやさで、’巨人塚をきずいた人びとを征服’して、デンマーク、スウェーデンにひろがっていった。

★★★この人たちこそ、北欧にはじめてすがたをあらわした、★『ゲルマン人の祖先』であることは、学者たちの意見が一致している。」

(つづき)
「それから数世紀たつと、遊牧民であった征服者たちも、定住して農耕生活をするようになった。かれらは、青銅器をもつようになって、生活が急速に変化していった。他の地域との貿易もおこなわれたが、かれらが輸出したのは、’こはく’であった。生活がゆたかになっていったことは、墓の壁にかかれた、岩石刻画でもうかがうことができる。狩や魚とりの時代とは、かなりちがう物が発見できる。まず、船、船の上には、漕ぎ手ばかりでなく、ダンスをしたり、ホルンを吹き鳴らす人ものせている。さらに、車、樹木。動物は、ウシ、ブタ、ウマ、シカ、ヘビなどが、かかれている。盾をもつ人、行進する人、’すき’でたがやす人、とくべつ大きくかかれた人。大きな人物は神をあらわし、この絵のすべてが、豊かなみのりを願う祭りのために、かかれたものと考えられる。」

『沼にしずめられた人』
「1950年5月8日のこと、デンマークのビヤエルズコフの谷のトルント沼沢地で、泥炭を掘っていたふたりの労働者は、腰がぬけるほどおどろいた。泥炭のなかから、男の死体が出てきたのだ。ふたりは、ちかくの警察署へかけこんだ。「殺しです!」うったえをきいて、それっと刑事が現場へとんだ。首にひもがかけられていて他殺体のようである。しかし、死体をしらべた刑事が死体をとどけたのは、検察官のもとへではなく、大学の考古学研究室であった。トルント人と呼ばれるようになったこの男は、だれなのか、なぜ殺されたのか、いつ生きていたのか。コペンハーゲンで、くわしくしらべられた結果、くびにまかれた皮ひもが死因で、死の2時間前に、オオムギのおかゆと、亜麻や雑草などの、かなりとぼしい食事をしたことがわかった。

そして、次のような結論がだされた。かれが生きていたのは、紀元前1世紀ごろ、おそらく、神への’いけにえ’として沼にしずめられたのだろう。その後、おなじような遺体が、700人ちかくも沼の底から発見され、’いけにえ’をささげることがたびたびおこなわれたことが、わかってきた。沼からは、他にもいろいろな物が発見される。日常使っていた道具、家畜など。古代人は、これらの物をささげて、神のいかりをしずめたり、願いごとをしたりした。

自然の条件がきびしい北欧では、農作物が育たず、’ききん’に苦しむことはたびたびあった。人びとはそれを神のいかりと思い、そのいかりをしずめ、ゆたかなみのりを願うために、一人の男を神のもとに送ったのではないか。

かれらの神とは、太陽や森や、自然現象そのものであった。岸壁画や、出土品などから、いま北欧神話として伝えられている神々の原形は、紀元1世紀につくられていたことがわかる。

北欧へ住みついたゲルマン人はその後、一部の人びとが、たびたび南にむかって移動している。かれらに故郷をすてさせるほど、きびしい自然の変化がおこって、食物もとれずに苦しんだことも移動の原因であっただろう。

紀元1世紀になると、ゲルマン諸候はそれぞれ小王国をつくりはじめた。バルト海まで遠征してきたローマ艦隊とたたかったり、ゲルマン人どうしが戦ったりしながら、部族がまとまった国となっていった。

おなじころ、ルーン文字がつくられた。ローマ人との接触によってローマ時代のラテン文字をとりいれ、24のアルファベットをつくった。この文字は、占いによってわかった神のことばや、呪文などを、石にきざんで残した。北欧神話では、ルーン文字を発見したのは、かれらの守護神オーディンであり、その書き方もオーディンによって人びとに伝えられたものだと語っている。現在、ルーン文字を刻んだ石碑が、デンマークやスウェーデンなどに残されている。」

以上で引用おわり


最後の方の北欧神話の守護神オーディンは、実は、実在人物であったとネットの北欧の資料にでていました。神話って、ちょっと空想がかった話のように誇張してありますが、けっこう実話が多いみたいですね。

とにかく、ゲルマン人(=ヒッタイト)の特性として、どんどん他の民族の中へ侵攻し征服していく習性がありますから、最初は、(かなり長い間)、デンマーク南部とスウェーデンを侵略しただけで定住していましたが、その後、東欧やドイツなどにも南下したり、ノルウェーのほうに北上したりと、じっとしていられない民族のようですね。紀元10世紀にノルウェーもゲルマン王に統一され、近代になってはスウェーデン王による同君連合王国になったりしたこともあったみたいですね。

「ノルウェー」
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8E%E3%83%AB%E
%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

「ハーラル1世(ノルウェー王)」
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82
%A6%E3%82%A7%E3%83%BC/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

A.D.890頃に、ノルウェーを初めて統一したこの王は、どうもゲルマン民族のようです。この時、とうとうノルウェーも乗っ取られたんですね。下のような、ベルセルクという恐ろしい親衛隊をもっていたそうです。

「ベルセルク」
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB
%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%AF

「オーラフ2世」
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%
83%A9%E3%83%95%EF%BC%882%E4%B8%96%EF%BC%89/

「スウェーデン=ノルウェー」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82
%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3
%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC

「ノルウェー」
http://www.hoteltravel.com/jp/norway/guides/overview.htm


それから、ラップランドはサンタクロースの地ともいわれているそうで、こんなサイトもありましたよ!
「サンタテレビジョン・コム」
http://www.santatelevision.com/japanese/lapland/index.html



*コメント欄も見てくださいネ!

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# by Ulala-lov | 2010-07-01 23:59 | アングロ・サクソン王族 | Comments(1)