大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

〜〜〜引用(p387〜395)〜〜〜簡略版〜〜〜〜〜

>> 付録2....『悪魔シバ』

シバの女王を追い求めるにあたって私が望んだのは、まず伝説を徹底的に調査したうえで、いったんその結果を忘れることだった。地の通った歴史上の人物としての女王に注意を集中するためだ。わたしの試みは成功したと思っていた。ところが、女王にまとわりつくイメージに、しだいに悩まされるようになった。邪悪な女、妖婦(ようふ)、悪魔の女王といったイメージだ。こうしたイメージの原型のひとつとして挙げられるのが、カール・ゴルトマルクのオペラ『シバの女王』だろう。この作品でシバは哀れな愛人を死に追いやり、ソロモンを「恐ろしい復讐のとき」で脅かす。また、ギュスターウ゛・フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』では、気の毒な修道士の心を容赦なくかき乱した、紅海の岸辺を足どり軽く去っていく。

さらに、1623年に発表された寓話小説『現世の迷路と魂の天国』で、プラハの作家コメニウス(ヤン・アモン・コメンスキー)が描いたシバの女王はぞっとするほどグロテスクだ。ソロモンが賢者たちを従えてシバの玉座に近づいてみると、彼女のウ゛ェールはクモの巣だった。知者シバは虚飾の塊に成り果てていた。赤すぎる頬はひび割れ、手はがさがさに荒れ、体はむくみ、悪臭まで放っている。

1600年代から現在に至るまで、文学作品や抒情詩に登場するシバの魂は、幾度となく地獄落ち紙一重のところまでいっている。

こうしたシバの女王のイメージはどこから生まれたのだろう。はじめはまったく見当がつかなかった。だが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの、あまり知られていない民間伝承によって、シバの女王は悪者に仕立て上げられたのではないかと、だんだんに思うようになった。中世の伝説やルネッサンスの絵画で信心深い人物の役割を与えられていることを考えると、キリスト教がそうしたイメージのいちばんのもととは考えづらい。だが、あのガチョウ足はどうだろう。あれでは悪魔の割れた蹄に悲しくなるほど似ているではないか。ほかにも、いにしえのイングランドではシバの女王を「悪魔の貴婦人」というお化け扱いにしている。イスラム教とその語り部たちにとっては、シバの女王は信者のひとりだ。コーランにもシバが唯一神を受け入れる一節がある。「いま私は、スライマーンとともに万有の主アッラーに帰依いたします」。とはいえ、女王は霊鬼ジンの娘とされている。

ではユダヤ教の民間伝承はどうかというと、。。。どの資料もアラム語で書かれたカバラの文章にさりげなく言及している。そうした文章が書かれたのはアラム語が話されなくなった何世紀も後で、どうやら秘伝の知識を後世に残すためらしい。生まれつき私は、秘密の活動や伝承には懐疑的だ。さらにフローベールが怪しげなシバの女王を創りあげた背景に、カバラとのつながりが隠されていることがわかった。フローベールはエリファス・レウ゛ィというカバラ主義者と知り合いで、このレウ゛ィが、19世紀にフランス中を熱狂させた神秘主義復活の熱心な推進者だった。

専門家の指針が必要になったので、ロサンジェルス在住の改革派と正統派のラビに話を聞いてみると、みな、シバの女王によるソロモン訪問の話を、単純明快な出会いと見なしていた。新興の古代イスラエル君主国の宮廷で起きたひとつの出来事というわけだ。そして、シバの女王を悪魔扱いするような人がいると知って驚いていた。

そこで私は、もっと神秘的なユダヤ教文化圏に住むラビを探し求めた。その結果、まずアメリカで、続いてイスラエルで、私の質問に答えられるという人が何人か見つかった。だが、いざとなると口をつぐんでしまう。私はイスラエルの山岳部の町サフェドへも出かけた。サフェドは16世紀以来、神秘主義が渦巻ききらめくカバラの一大中心地だ。カバラは、カオスから秩序を生み出すために天使が悪魔と戦っていると説く。シバの女王もこの戦いに加わったのだろうか。前もってエルサレムから電話したとき、サフェドの賢人はきっと私が洞察を得られるだろうと保証したが、見つけだして話を聞こうとすると、「あなたに明かりを灯してはあげられません」という、そっけなくも断固とした返事が返ってきた。

シバの女王が悪魔扱いされるようになった経緯について少しでも知りたければ、自力でやるしかないのだと私は悟った。ジグゾーパズルのピースをあちらでひとつ、こちらでひとつと拾っていくうちに、あきらめがついた。いつまでたってもパズルが完成することはない。どうやら、一群の伝承が口から口へと伝わってきただけで、紙に書き留められることはついになかったのだ。私が質問攻めにしたラビたちの返答があいまいだったのも、いたしかたないと最後には納得できた。彼らが堅持している信仰を、私が誤解していたとしたら謝罪したい。

シバの女王の陰の面について少しでも調べたことのある学者なら、5世紀末に書かれた『タルグム・シェーニー』の名をかならず挙げる。これは、旧約聖書の「エステル記」に関する興味深くはあるがとりとめのない注釈書で、エステルの話から突然脱線してシバの話に移る。シバは、本来なら男性が担う役割を肩代わりするような女性として描かれている。大胆かつ巧妙で、ユダヤ人が理想とする従順な妻や、面倒見のいい母親とはかけ離れた女性だ。「あの女はいったい何さまのつもりだ。シバの女王でもあるまいし」と男がぼやくとき、頭に浮かべるタイプの女性だ。とはいえ、『タルグム・シェーニー』に出てくるシバの女王は悪魔などではない。そうなるのは、もっと後のことだ。さらに知名度の低い文献を調べていく作業は、昔、巡回カーニバルの遊園地によくあったお化け屋敷の中を手探りで進んでいくようなものだった。作業を始めた当初、見つかるものといえば、『タルグム・シェーニー』と同じように、まったくの小心者か小さな子供を驚かすのが関の山の内容ばかりだった。

ところが、だ。

「母上!」ターバンを巻いた男の悲痛な叫び声。男が叫んだ相手はシバの女王。して、この男の正体は?この稿本は中世のはじめに書かれた『ベン・シラ偽書』(偽書と言われるのは、これを書いたとされるバビロニアの廷臣が、じつは架空の人物だからだ)で、ターバンを巻いた男は邪悪なネブカドネザル2世だ。もちろん歴史的に見て、このふたりが母と子の関係にあるはずがない(生きていた年代が異なる)。シバがソロモンと情を交わし、ネブカドネザル2世を生んでいなければ、ソロモンの神殿はいまだそびえたつづけ、バビロン捕囚もなかったかもしれない、というのだ。こうして、シバの女王の役柄が決められた...イスラエルの民に果てしない悲しみをもたらした元凶という役柄が。

そして、シバの女王は魔術師、もっとひどい場合には魔女にされた。女王の陰の面について綿密な調査をしてきた数少ない研究者のひとりが、こう洩らしている。「汚らわしいことこのうえない魔女」

この点については、カバラの中心的書物『ゾハール(光輝の書)』で明らかにされている。ソロモンの神殿が最終的に破壊された後、選ばれた者だけの知識を守るために編集されたとされる『ゾハール』は、じつは1280年ごろ、スペインのカバラ主義者モーセ・ド・レオンによって、様式化されたアラム語で書かれた。その第三巻に、シバの女王がソロモンに謎をかけるばかりか魔術に関する鋭い質問を浴びせるくだりがある。女王は、異教徒の預言者バラムの骨が変化(へんげ)したという魔法のヘビのことに夢中になっていた。そのくだりはこうだ。

 我ら[カバラ主義者]は、アシュモダイ[ソロモンの身近にいた魔術師]がソロモン王に献上した[アシュモダイの書]の中に、強力な魔法をかける方法を見いだした。バラムが倒れた岩がどこにあるのか分かれば、そこにこの邪悪な異教徒の骨から生まれたヘビたちがいる。ヘビには頭と胴としっぽの三つの部位があるので、もし一匹殺せば、その頭を使ってある種の魔法を、胴を使えば別の魔法を、しっぽを使えばさらに別の魔法をかけることができる。シバの女王がソロモン王に問うた質問のひとつは、三種の魔力を持つ骨のヘビを、どうやって手にするかというものであった。

このあとに続く文は、くだんのヘビを手に入れた者はどんな武器による攻撃にも傷つけられることはないと請け合う。ヘビたちが武器の使い手に魔法をかけるからだ。『ゾハール』には、これについて詳しい説明があり、「明かすことのまかりならぬ秘密の奥義がある」と書かれている。だが、さらに読みすすめると、「.....だがそれは、ここに居並ぶ我らが同志[モーセ・ド・レオンの同輩カバラ主義者]が、私の教示を受けて、この世の秘密を知るようになるためにほかならないとしている。『ゾハール』のその後の巻では、シバの女王が魔女あるいはそれ以下のものだったことがほのめかされている。難解でこみいった文章だが、女王はsa'irという、砂漠から生まれた悪魔のたぐいで、町や村に災いをもたらす者にまちがいないと結論づけている。
 
 最初は魔女....そして、今や悪魔だ。

悪魔たるシバの女王がもたらしうる厄災は、スペインのラビ、モーゼス・コルドベロが『ゾハール』を下敷きにして著した作品『セフェル・パルデス・リムモニム(リンモン市の楽園の書)』の中であかされている。コルドベロはシバがジフテリアをまん延させたように描いた。いや、彼女こそジフテリア'そのもの'と断言している。女王の邪悪さは、この世の末日に彼女がローマの通りを歩き回る時に頂点を極める。

これでもまだ物足りないと言わんばかりに、カバラの神秘の暗黒には最後の戦慄の筋書きが用意されている。コルドベロは、なんとシバとリリス*を同一人物としたのだ。伝説では、アダムにはイウ゛の前にリリスという妻がいたことになっている。リリスは夫を置き去りにしし、神に遣わされた天使が夫のもとへ戻るよう命令しても従わず、あげくの果てには魔女のなかの魔女になってしまったー悪魔の女王、売春婦、毒婦、悪魔の祖母....そして悪魔の妻。

*リリス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%B9

シバの女王とリリスが同一の人物などという夢想は、ラビのコルドベロのものだろうか。それは疑わしい。シバとリリスの同一化は、カバラとユダヤ神秘主義の教義として長いあいだ進められていた証拠がある。ふたりを同一視する見方は『ゾハール』の行間にうかがえる。また、失われた原本が旧約聖書の時代にまでさかのぼる可能性を示すタルグム(注釈書)もある。このタルグムは「ヨブ記」第1章15節を、「突然、エメラルドの女王リリスがヨブの牛とロバに襲いかかり、略奪していきました」と、いいかげんに翻訳している。正しい聖書の記述は、「シェバ人が襲いかかり、略奪していきました」だ。リリスについてはひとことも述べられていない。

リリスは女として、これ以上ないほどの恐ろしさを持っている。復讐心に身を焦がし、奔放さにはきりがない。独り寝の男の寝室へ、夢へと入り込み、男と交わる。出産をしている母親に忍びより、揺りかごの中の赤ん坊を絞め殺す。リリスは怪物であり、美しい髪をなびかせる美女でもある。日の高いうちは紅海の岸辺にある洞窟を隠れ家とする。周りはイバラやイラクサの茂る、血みどろの荒れ地だ。「イザヤ書」第34章14節にはこうある。

荒野の獣はジャッカルに出会い
ヤギの魔神はその友を呼び
夜の魔女は、そこに休息を求め
休む所を見つける。

だが、彼女は休みなどしない。好色な悪魔たちと交わり、悪魔の子リリムを次々と産む。たとえ神がリリスを罰するために、一日に100人のリリムの命を奪っておかまいなしに。そして夜ごと跳梁(ちょうりょう)*し、人間を誘惑し、その子供たちを殺す。

* 自由にはねまわること。

リリスというイバラにからまったシバの女王は、いたるところでカバラ主義者にあしざまに言われた。あるポーランドの稿本は、「ご承知の通り、シバの女王は悪魔である」で始まり、悪事を働こうと夜空を飛ぶ時に月の光を遮る、と非難する。イタリアの文献には「悪魔たちの母」とある。ドイツでは「厄介者ならびに異端者の名簿」に名を連ねている。この名簿は14世紀から19世紀に入るまで延々と編集されたものだ。

ライン地方の町ウ゛ォルムスでは、あるカバラ主義者が夜になると屋根裏部屋で、肌もあらわなシバの女王を、配下の騒々しい軍勢とともに呼び起こした、と言われている。「女王と軍勢は、踊り、飛び跳ね、そして去っていく」と、その話にはある。女王らを呼び起こす技は、たったひとりで、清潔に整えられた部屋で、安息日のあとか水曜の夜のどちらかのみに行う、という具体的な条件がある。口にする呪文は暗記していなければならず、一字一句まちがってはならない。だがその後、呪文はわからなくなってしまった。それでよかったのだ。(呼び起こすというのは、女王の霊を霊媒術で呼ぶということみたいです)

シバの女王とリリスを巻き込んで、ふたりを悪魔にしてしまった迷信は、まさしく迷信に他ならず、ユダヤ教信仰の本流から外れたものだった。だが、それにしてもずいぶんと浸透したものだ。リリスから身を守るために、魔よけの力がヨーロッパ中で頼りにされた。

私はシバの女王をリリスとは対極にある女性として敬うようになっていた。炭火ではなく星のごとく輝く瞳を持つ女性として。



*コメント欄も見てくださいネ!
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by Ulala-lov | 2011-08-15 05:17 | Comments(7)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。


〜〜〜引用(p.375〜386)〜〜〜簡略版〜〜〜〜〜

エピローグ 『シバの墓』

「命が終わるとき、あるのは砂漠の風のささやきだけ 
ラクダの鈴の鳴る音だけ」 
       
ー ベドウィンのことわざ、サバ人への哀歌


ローマからバビロンに至るまで、古くから神殿では天に向けて乳香が焚かれ、「神々の食物」として捧げられてきた。大理石の宮殿や屋敷では、乳香の樹皮を 溶かした香油が絹の衣をまとった女性に愛用された。ローマ帝国の遠方の属州では、「破れた化膿部分」を手当てし、「地の出た傷口をふさぎ、尻にできた悪性腫瘍の痛みを和らげる」ため、軍隊が乳香を用いた。裕福な者が死ぬと、神聖さと俗習がないまぜになった儀式が行われ、遺体を焼く薪の上におびただしい量の乳香が盛られた。大プリニウスによると、皇帝ネロの妃ポッパエア・サビナの葬儀の折には、アラビアで採れる一年分の乳香を積み上げて亡き妃を神々のもとへ送ったという。プリニウスは帝国世界の節度のなさにうんざりし、皮肉まじりにこう述べている。「死すら飾り立てようとする人間の贅沢が、アラビアをかくも幸福にしている」

この文章が書かれた頃、新興のキリスト教がローマ帝国に浸透しつつあり、それにともない、死者は火葬せずにそのまま土に返すべし、という考え方が広まりはじめていた。キリスト教が、肉体の復活と永遠の命を約束していたためだ。神をわずらわせて、ばらばらになった骨を組み立て直してもらうだけでも恐れ多いではないか。なぜわざわざ肉体を灰にして事をめんどうにすることがあろう。(それに、せっかちな 者にしてみれば、遺体がそこなわれていなければいないほど早く天に昇れるわけだ)

ローマ帝国でキリスト教が公認されると、土葬が火葬に取って代わり、乳香の需要は急落した。南アラビアのサバ王国は、しかたなく農業経済に頼るようになったが、そこにも問題があった。マアリブでは、毎年の洪水が3000年近くも続いてきたせいで細かい砂がたい積し、農地の高さが、一番高いところにある運河とさえほとんど変わらなくなっていた。そのため、高低差を利用した灌漑ができなくなるのは時間の問題だった。紀元340年の秋、豪雨でマアリブの偉大なるダムに亀裂が走った。水門塔から見つかった碑文によると、このとき行われた大規模な修復工事には3万人が動員されたという。そして600〜630年頃、偉大なるダムはついに決壊し、二度ともとに戻せなかった。

かつて燦然と輝いたマアリブとシルワ、そしてこの二都を首都として栄えたサバ王国は、トカゲがうろつき、無気味な声で泣くフクロウがたむろする場所となった。サバ人が誇った文明は、あまりにも急激に完璧に失われたため、'王家の墓の場所はことごとく忘れ去られてしまった'。 墓がどこに埋もれているにせよ、とうの昔に荒らされていることだろう。古代アラビアでは墓泥棒が横行した。アッタル神(女神アスタルテの化身)の重要な仕事のひとつは、死者の平安を乱す者に災いをもたらすことだったし、イスラム教以後は、コーランが盗掘をくりかし禁じている。それにもかかわらず、墓を見つけて埋葬品を盗むのはスリルがあり、いい金儲けでもあった。920年頃のイエメンの遺跡に関する著書で、歴史家のアブ・ムハマンド・アル・ハムダーニはこう記している。

私の祖父は、アル・ヤマン(=「イエメン」のアラビア語名)  の総督だった頃、よくジャーヒリーヤ[イスラム教以前の]時代の墓を荒らして宝物を手に入れたという。.....(省略)

1990年代のはじめ、南北統一によりイエメンの混乱が少し収まると、ドイツ考古学協会とアメリカ人間研究財団(ウェンデル・フィリップスが設立し、その早すぎる死のあとは、献身的な妹メリリンが運営にあたっている)が共同で、イエメン政府に新たな調査計画の許可申請をした。アメリカの調査隊が楕円*の内側を、ドイツの調査隊が外側の例の灰色の部分を、それぞれ発掘するというものだ。計画は認められ、まずブルクハルト・フォークト率いるドイツチームが現場に到着した。彼らは肝をつぶし、歓喜することになった。灰色の砂を何センチも掘らないうちに、数枚の屋根板が出てきた。そしてそれを皮切りに、複数階からなる迷路のような霊廟(れいびょう)群が姿を現しはじめた。そこは使者たちの沈める都で、縦横に通路が配され、異なる階層への出入口につながる階段もある。はるか昔の盗掘によって中は散らかり放題だったものの、埋葬布に包まれたサバ人が何千人となくぎっしり詰まっていた。多くは塵と骨だったが、保存状態のよいものもあった。

* 楕円...マフラム・ビルキース(=月神殿)
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_p.html
(サイトの真ん中よりやや下くらいに月神殿を上空から撮影した写真があり楕円形の壁が見えます)

フォークトの同僚のホルガー・ヒトキンとイリス・ゲルラッハ は、おびただしい数の副葬品を掘り出し、その目録を作った。動物の小さな像、生け贄を乗せる皿、エジプト風の小像やスカラベ(タマオシコガネをかたどった古代エジプトの工芸品。太陽神の象徴として神聖視され、印章や首飾りにつける護符として用いられた)、そして化粧道具、死後にどこへ誘われようとも、サバの女性は化粧用の鉢とアイシャドーと口紅には困らないですむことだろう。碑文も見つかった。王族のものこそなかったが、一枚は、ふたりのムカルリブに仕えた従僕の碑文であることがわかった。石灰岩(せっかいがん)の柱も出土し、その窪(くぼ)みに収まったアラバスター製の顔の彫刻**は、一度見たら忘れられぬまなざしで前を見据えていた。

** マアリブのマフラム・ビルキースから最近出土した埋葬用の石柱に彫られたサバの女性の顔
http://www.atc.ne.jp/seikindo/html/sibano.htm
(わたしが引用しているニコラス・クラップ著「サバの女王」の本の表紙の左上の写真がそれです)

フォークトの調査隊が発掘しているのは、掛け値なしに巨大な共同墓地だ。楕円形のマフラム・ビルキース神殿を取り巻く、これも楕円形の領域には、2万を超える遺体が眠っているかもしれない。では、王家の墓が見つかるとしたらどこなのだろう。論理的に考えるなら、神殿の壁の近くだろう。その内側ということさえありうる。ある考古学会議で、私はアメリカの調査隊のリーダー、ウィリアム・グランツマンにその点をたずねてみた。

「論理?」とグランツマンは私の言葉をくりかえして笑った。「論理ですって? サバ人の? たとえば、彼らはこんなことをしたにちがいないと、なんでもいいから考えてみるとしますよね。でも、事実はぜったいにそれとはちがいます。何度やっても予想を裏切られます。まんまとこちらの予想の裏をかくんですから」。。。(以下省略) 


>> 付録1....『シバの名前』

「シバ」とは地名、部族名、国名であって女王の'個人名ではない'。「シバの女王」という呼称は、たとえば「イングランドの女王」という呼称と同じだ。女王のほんとうの名前については諸説がある。

*「アウロラ・コンスルゲンス(立ち昇る曙光)」は錬金術の世界に伝わるシバの女王の称号であり、同じ出所で「南の風」の呼び名もある。

*「バルアマ」、「バシャマ」このふたつはビルキースに代わるアラビア名。「香料」を意味すると思われる blm の三文字に由来するのかもしれない(ちなみに、芳香性含油樹脂「バルサム balsam 」の語源も、この blm だ)。

*「ビルキース・スンボ」西アフリカの伝説上の人物で、シバの女王と同一視されている。ナイジェリアのジャングルを切り開いたところにある彼女の墓は、今も巡礼者たちの崇拝の対象となっている。

*「ビルキース」、「バルキース」アラビア語の(そしてもっとも一般的な)シバの女王の呼び名。これに関しては少し意地の悪い見かたがある。ギリシア語で「妾」を意味する pallakis が、古代ヘブライ語に取り込まれて pilgesh となり、さらにアラビア語に入って「ビルキース」になったのではないかと言われている。前出のバルアマの場合同様、blm という語源の変形に由来するという説もある。

*「エーティ・アズレブ」エチオピアの儀礼用言語ゲエズ語で「南の女王」を意味する。

*「ハバシア」謎に包まれた東アフリカの人物。エチオピアの古名「アビシニア」の変形かもしれない。

*「マケダ」エチオピアに伝わる国民史詩『ケブラ・ナガスト』に登場する名前。アラビア語とゲエズ語の両方で「女王」の意味するマルカトに由来する。

*「マルカト」ユダヤの民間伝承での名前。古代ヘブライ語で「女王」を意味するマルカから派生した。

*「ニカウレ」、「ニカウリス」ヨセフスの『ユダヤ古代誌』に登場する名前。これらはニトクリスが訛(なま)ったものかもしれない。ニトクリスは、ヘロドトスの『歴史』に出てくるバビロニアとエジプトの女王に共通する名前だ。あるいは、ニカウレは、古代ギリシャの翼のある勝利の女神ニケに手を加えたものかもしれない。

*「南の女王」「マタイによる福音書」第12章42節、「ルカによる福音書」第11章31節に登場する女王の称号。

*「シビラ」女王が、バビロニアやエジプト、ギリシア、ローマの人々に助言する異教徒の巫女の一種シビルだったという説から生まれた名前。

この他、シバの女王は新約聖書のカンダケ(ヌビア語で「皇太后」を指す kandake から派生)、パルミラの女王ゼノビア、ユダヤ教で魔女の中の魔女とされるリリスと混同されてきた。
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by Ulala-lov | 2011-08-14 00:28 | Comments(0)

自由自在に姿を変えることを「七変化」*とかっていいますが、スライマーン=ジョゼッペ・マッツィーニの場合も、数えきれないくらいあまりに多く姿を変えて歴史に登場していて、これまで、わたしが見つけたものだけでも、最低でも、20人くらいはいます。とすると、それ以前でも、同じように七変化して世界の歴史を操ってきたことから考えると100〜1000人くらいの人間になって活躍してきたと推察されます。まさに、『怪人百面相』なのです〜!
(済みません!オグはアイゼンベルグのことかもしれません!訂正:2014.04.09)

それも、王、政界・財界・軍人のトップ、芸能人、音楽家、技術者、医療関係者、反政府運動、市民団体のリーダーなどとほんとうに幅広い分野に潜入して活躍してきたみたいです。

* 七変化(しちへんげ)
http://ocndictionary.goo.ne.jp/srch/jn/%E4%B8%83%E5
%A4%89%E5%8C%96/m0u/
[同義語]
「変身」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E5%A4%89%E8%BA%AB
「変幻」(へんげん)
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E5%A4%89%E5%B9%BB

この前の8月9日のブログでは、歌手の藤島一郎や、作詞家、作曲家として活躍していたことを書きましたが、他にも、多くの歌手や俳優として大活躍していたと思われます。

まず、第一人者としては、石原プロ社長だった「渡哲也」もジョゼッペだろうと思われます。You Tubeの画像が見れないので(わたしのソフトのせいか、ハッカーのせいか分かりませんが)紹介できなくて残念ですが、先日の藤山一郎の「影を慕いて」のビデオの歌を聞かれれば、渡哲也の声と非常によく似ていることがお分かりになると思います。

渡哲也
渡哲也 ウィキペディア
石原プロモーション l 渡哲也
(身長が180センチとありますが、ジョゼッペの本当の身長は163センチくらいです。経歴などはいつものことながら大半がねつ造です。)

くちなしの花  石原裕次郎 & 渡哲也
(15センチくらいのシークレットブーツを履いて、お尻に何かを入れて座高も高くしているようです)

渡哲也 画像集

山本ジョージもジョゼッペです。
山本譲二 ウィキペディア

山本譲二 YouTube
最後のほうの場面で足元を見ると、かなりヒールの高い靴を履いています。

山本ジョージ 画像集

渡哲也社長辞任 まき子さんが全権会長に - 芸能ニュース
: nikkansport.com
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/
p-et-tp0-20110512-774456.html

渡哲也、辞任!”一枚岩”だったはずの石原プロにささやかれる解散説 日刊サイゾー
http://www.cyzo.com/2011/05/post_7317.html
(右端の写真の館ひろしの横に立っている渡哲也ってなんか不自然でしょう〜身長をむりやり伸ばしてますよ〜改ざんですよ〜)

渡哲也"弟分"原田さんの訃報を悼む - 芸能 - SANSPO.COM
http://www.sanspo.com/geino/news/110720/gnj1107200509017-n2.htm
(座っている写真ですが、頭の大きさ(普通)と体の長さのバランスを考えても、そんなに背が高い人には見えせんよね!)

石原プロになぜ入ってきたか、というか、なぜ石原プロを彼が作ったか?なのかもしれません。つまり、石原裕次郎の人気をずっ〜と利用してきたのです。

あの有名な映画というか、わたしたちは確か中学校の時だったかに学校で見たので、そのせいもあるのでしょうが、とにかく、あの『黒部の太陽』という黒部ダムの建設の苦闘を描いた映画は、今になって考えてみれば、大手建設会社がダム造りを国民に承認させ大規模な予算を得るために、周到に考えられた洗脳的手段だったのかなあと。。。気づいたのです。日本国民の愚民化策『3S政策』のうちの「スクリーン」によるものですね!その他、裕ちゃんの青春映画などでも、まずは、自由恋愛を日本に導入していき、ちょっとしたやんちゃ坊主的な乱闘にも慣れさせる。そこまでが裕ちゃんの役目です。そして、少しずつ少しずつ、「新しい民主的な社会」、「自由」という名のもとに、フリーセックスだの猟奇的殺人だのオカルトだ暴力だのという風紀の乱れた強烈な映画へと日本人を導いていくという作戦をこままでずっと展開してきたわけですね。まあ、他の国もみな似たりよったりです。だから、世界中がおかしくなっちゃったんでしょうね〜。

そして、兄の石原慎太郎氏も同様に操っているのではないかと考えられます。石原という姓からも分かる通り、おそらく、石川(蘇我氏系)と原(ヒッタイト系)の両方の血筋が入った家系だと思われます。父親が石原莞爾(かんじ)という人かその親戚だと思われます。

石原莞爾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%
8E%9E%E7%88%BE

でも、石原裕次郎こと裕ちゃんは、きっと、ジョゼッペたちに利用されることを嫌っていたんじゃないでしょうかね?だから、サタニストたちに俳優業でも一時干されたりして金銭的にも困ったり、病気にされて、とうとう亡くなったんじゃないかしら?と今では推察されるのですが。。


また、東海林太郎、井沢八郎、春日八郎などもみな声がよく似ています。わたしがネットで調べるとサタニストたちが邪魔してきて、クリックしてもサイトを開くことができませんので、みなさんがネットサーフィンで調べてみてくださいね!
東海林太郎 ウィキペディア

満州鉄道に勤めていたことからもジョゼッペ=甘粕正彦=東海林太郎であったことが分ります。

東海林太郎
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by Ulala-lov | 2011-08-13 17:07 | ジョゼッペ&後藤象二郎親子 | Comments(4)

みなさん、長崎の原爆の日に『長崎の鐘』の歌を歌うのは止めてください!

どうかお願いします。

なぜって、あの歌は、原爆を落とした張本人が作詞作曲し、みずから歌っているからです。まさに、悪魔のしわざとしか思えません! 

それでは、原爆で亡くなった人々や原爆病を今も患っている人々たちをひどく冒涜していることになりますし、あまりにも気の毒です。 〜〜。。。


以前から気づいていましたが、藤島一郎はジョゼッペ・マッティーニです。戦時中は日本国民の戦闘意欲を煽る軍歌を作詩、作曲するなどし、その歌も自(みずか)ら歌っていたようです。さらに、原爆を落とした超本人がジョゼッペ、エリザベス女王、アイゼンベルグ、ハリマン(=ハリアン=ヒッタイト)家一族、モルガン家一族、トルーマン(=トル{ク}マン)米大統領たちです。そして、藤島ことジョゼッペは、しゃしゃあと「長崎の鐘」を作詞、作曲し、歌っていたのです〜  まさに、’珍’ 魂歌(チン!こんか)です!

藤島一郎〜スパイシー
http://spysee.jp/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E4%B8%80%E
9%83%8E/1302979/
(「影を慕いて」のビデオの画像に藤島一郎が出演しています。ただし、サイトの冒頭の少女の写真や関係のある人々のところは藤島一郎とは関係がなく違っているようです)

長崎の鐘
http://takurou.co-site.jp/natumero/26-30/nagasakinokane.htm

世界名鐘物語「日本」ー 長崎の鐘 
http://www.carillon.co.jp/nagasaki.htm

広島の原爆投下*は8月6日8時6分で、長崎原爆投下**は8月9日11時2分です。9.11はエチオピア暦の正月、元旦1月1日です。つまり、6はシュメール人にとって時や生死を表す重要な数字であり、これを逆さにして、9にするということは、今までのゼウスを中心としたシュメール人世界を完全に転覆して、ジョゼッペを中心としたサクソンの新しい世界にするクーデターを象徴しているようです。

* http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82
%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%
E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

**http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%8
2%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86
%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B

また、広島の原爆のコードネームが「リトルボーイ」だったということから、これは背の低いジョゼッペを表しているような気がします。(以前は、’ちっちゃなかわいい坊や’との皮肉だと言いましたが、その意味も考えられますが、’ジョゼッペから’という意味も考えられます。そして、長崎の原爆のコードネームが「ファットマン」だったのは、やはり、その当時日本への対日焦土化作戦を考え出した太平洋第20爆撃集団司令官だったカーチス・ルメイ*こと、おそらく、ヘンリー・モルガンかジーニアス(ジュニアス?)・モルガンかのどちらかでしょう。

カーチス・ルメイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%
E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4

「長崎の鐘」の作詞はサトウハチロー、作曲は古関裕而(こせきゆうじ)です。

サトウハチロー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4
%BA%95%E9%9A%86_(%E5%8C%BB%E5%
AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB)

サトウハチロー略歴〜サトウハチロー記念館(岩手県) 
http://www.okaasan-no-uta.jp/hachiro/index.html

父:佐藤紅緑(さとうこうろく、1874〜1949年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%B4%85%E7%B7%91
この紅緑が海外文学の翻訳などもしており、おそらく、ジョゼッペなのではないでしょうか。従って、ハチローはその息子ということでしょう。

おそらく、「長崎の鐘」は、作詞、作曲ともジョゼッペ・マッツィーニがして、藤山一郎として歌っていたのでしょう。ハチローを作詞家として有名にするため、また、そこからの著作権料で食べていけるようにするため息子に作詞の著作権を与えたのでしょう。

古関裕而(こせきゆうじ、1909〜1989年、作曲家)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%96%A2%E8%A3
%95%E8%80%8C
福島市古関裕而記念館:プロフィール
http://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/profile/index.html

ちょっと、変装して額の生え際のラインをツケ毛などで変えていますが、額がすごく広いことや、何となくの感じで、ジョゼッペ=佐久間象山の顔に似ていますよ〜

ジョゼッペ・マッツィーニ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82
%BC%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%
83%83%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B

佐久間象山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9
%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1

福島市とも縁が深いらしいのに、自分が勝俣会長として陣頭指揮して今年3.11に福島原発事故をわざと起こさせるなんて!まあ、広島県にも縁が深いのに原爆落としてますからね〜 やはり、本質的に他人に恨みを持ちやすい異常性格なんでしょうね!

戦時中に軍歌をたくさん作曲していますし、戦後は、陸軍自衛隊の歌もたくさん作曲しています!

この「長崎の鐘」の歌のもととなった小説「長崎の鐘」を書いた永井隆という医学博士について調べてみました〜 すると、やっぱり、ジョゼッペ=スライマーンでした〜!

永井隆(医学博士)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%8
6_(%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB)

永井隆画像
http://imagesearch.excite.co.jp/detail/?search=%E6%B0%B8%E4
%BA%95%E9%9A%86&start=0&look=excite_jp
(目蓋の目尻のところアイラインが見えてますよ〜!つまり、変装してるってこと)

永井隆 略歴表
http://www.geocities.jp/bane2161/nagaitakasi.html

永井博士の経歴も随分怪しく、島根県の雲南市で育ったとありますが、これは、比喩で、おそらく、永井博士はジョゼッペ=スライマーンで、中央アジアではテュルクの祖「オグ」と呼ばれ、朝鮮半島の百済からやって来た布都(フツ)のことでしょう。その前には、中国の雲南省に住んでいたのでしょう。そして、朝鮮の百済で新羅との戦いに破れて日本にやってきた。つまり、フツ=百済の豊璋(ほうしょう)=中臣鎌足=藤原鎌足で、フツの息子フツシ=自称「須佐男命」と共に、日御崎(ひのみさき、島根県)より奥出雲、つまり、島根県雲南市三刀屋あたりに入り、そこで定住していた。しかし、その一方で、九州の宮崎県の日向へも赴(おもむ)き、卑弥呼と婚姻を結び子供を得ていた。その後、「大国主命の後継者問題」*を機に九州勢と三刀屋のフツシたちが共謀して、’待ってました’とばかりに蜂起し、山を越えて石見銀山にいた大国主の命たち一族を裏山から攻め込んで征服したか、あるいは、裏山と海側からとの挟み撃ちにし、さらに奈良の元祖大和朝廷へも攻め入ったというところでしょう。それが、紀元後3世紀ごろのことなのか、7世紀の「大化の改新」の時なのかよく分かりません。ジョゼッペ=スライマーンを中心としたサクソン軍団による事変=クーデターがあったのは確かですが、年代は改ざんされているのかもしれません。

* 大国主命の後継者問題
詳しくは、このブログ記事の左端の「カテゴリ」の欄の「藤原氏」のところをクリックして、3月22日の「藤原氏とアングロサクソン王族〜きつねのさいばん」の記事を見てください。

そして、永井博士は、長崎医科大学で放射線科を専攻したとあり、この辺からも、核爆弾と人体への影響などに興味をもっていたり、詳しかったのではないかと思います。というのも、スライマーンは、旧約聖書の中でも、ロトとして登場し、ソドムとゴモラの町を核爆弾のようなものを使って壊滅させているからです。その時に、おそらく、わざと妻をその地に残して死なせています。(長崎の原爆投下でも緑さんという奥さんを放ったらかして死なせています)そして、その後、ロトは自分の娘たちと交わっています。(旧約聖書では、娘たちが父を酔わせて、子供をつくるため交わったとありますが嘘でしょう)その娘たちから生まれた子孫が、長女からのモアブ人、次女からのアモン人(=ベンジャミン族=マケドニア人=オグ族などのセルジューク・トルコ)ということらしいです。ということは、モアブ人が(=ユダ族=サバ人=スパルタ人=「オスマン・トルコ?=ヒッタイト」+シェバ)ということですかね?
<創世記:19章24〜38 http://homepage3.nifty.com/IUCC/bible//o0119.html>

また、浦上天主堂の近くに住んでいたというのも、この辺りに住んでいた本当に心の清らかなクリスチャンたちの動向をスパイしたり、トーマス・グラバーの息子「倉場富三郎」(フリーメーソンと相反するの立場のグループのリーダー格だった可能性あり)の動向を探ったりしていたのではないかと思われます。満州でも甘粕正彦としてあれこれ活躍していたようですが、飛行機で日本と中国を行ったり来たりしていたんでしょうね〜!

さて、1945年の永井博士に関する記述はとても奇妙です。
・6月...長年の放射線研究による被爆で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。
・8月9日...長崎に原爆が投下される。爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆する。右側頭動脈切断という重傷を負いながらも布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力する。そんな重傷を負って動けるんでしょうか?おそらく、遠く離れた地へ避難していたんでしょうに。
・8月10日...帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見、骨片を拾い埋葬する。(自分だけ逃げていた地から帰ってきたというわけです)
・8月12日...救護班を組織し、被爆者の救護にあたる。(二次被爆が考えられるので、本当に救護していたかどうか疑わしいものですが、もし、救護班として働いていたとしても、放射能被爆の影響の研究のためで人々を本当に救うためではなかったと思われます。)
・9月10日頃...昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として一句。「光りつつ秋空高く消えにけり」だれの句だったんでしょうかね?ジョゼッペの句ではないような。。
・9月20日...再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散となる。
・10月15日...「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成。長崎医大に提出。

昏睡状態に二度も陥った重病人がわずか一ヶ月足らずの間に、回復した上にレポートを作成して提出って。。。なんか信じられない。。。??? 原爆という超珍しい爆弾での多くの人の怪我や病気の報告だけでも、元気一杯の人がレポートまとめるとしても、最低でも2週間、いや、1ヶ月くらいはかかるでしょうにね〜 きっと、部下みんなに指示してレポートをまとめさせて、自分が最終チェックしてアメリカのサクソン系医療研究機関に提出したんでしょうね〜! その極一部で、あまり重要ではない部分を長崎医大に提出したのかもしれません。

また、海外の大物たちや天皇陛下までが次々と見舞いに訪れています。やはり、普通の人間じゃないでしょう!

・1948年にヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。
・1949年
5月27日...昭和天皇に謁見する。
5月30日...ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿が見舞いに訪れる。
8月1日...長崎市長から表彰を受ける。
12月3日...長崎名誉市民の称号を受ける。
・1950年にローマ教皇特使としてフルステンベルク大司教が見舞いに訪れロザリオを下賜される。
・1951年に亡くなり、献体(けんたい、医学の向上のための解剖に自らの遺体の使用許可を生前に承認し、死後一時的に病院側に捧げること)し、長崎市公葬になり国際外国人墓地に葬られる。

なんだか〜嘘ばっかり、献体だなんて〜今も生きてるし〜 カトリックになって間もない信者にいくら原爆の救護に当たった医者だからって、ローマ教皇の特使や大司教、昭和天皇までが次々と見舞いに来ますかね〜? そうとうな大物だから、連絡のために会いに来たんでしょう。

永井記念館
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/abm/
insti/nagai/index.html

ここは、長崎ん町 如己堂(にょこどう)・長崎市永井記念館
http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa3.html

永井隆記念館-雲南市ホームページ
http://www.excite.co.jp/search.gw?search=%E6%B0%B8%E4%
BA%95%E9%9A%86&submit.x=0&submit.y=0&sstype=excite_
d&target=combined&look=excite_jp&charset=utf8
(ここの銅像が一番内田一九に似ているかも。まあ、甘粕正彦から眼鏡をとって髪型を変えたりすれば、一九さん!=佐久間象山のチョンマゲ頭から現代風のおじさんの髪型にしてもそうなるかも?)

永井”ホトケ”隆 OFFICIAL SITE
http://www.hotoke-blues.com/phtograph/photograph_tobita.html
(右側の人、内田一九さんと似てますよ〜!PHOTOGRAPH の PHOTO DIARYのところに、「俺と悪魔のブルーズ第○巻」というのが幾つか出てきますよ!!)


☆ 必聴!!  「長崎の鐘」 〜写真紀行・旅おりおり
http://www.uchiyama.info/oriori/sonota/uta/nagasaki_kane/
(悪魔が自分の悪事に陶酔しているかのような無気味さが伝わってきます)

要するに、罪の意識ゼロ! 脳に欠陥があるとしか思えません! こういう遺伝子の突然変異で脳に感情障害のある人間が時々いるんですよね〜 やっぱり、そういう人は病院に入院して治療を受けるべきだけど。。。 ジョゼッペたちの犯してきた罪はあまりにも重いから、病院云々よりも刑務所に入って、裁判で罪を明らかにし、死刑を待つしかないんじゃないでしょうかね? それに、ほんとうだったら、数千年も前にとっくに死んでいるはずの人間ですからね〜


藤山一郎 クラシックと流行歌
http://biz.second-academy.com/lecture/SUK12405.html

毎月9日 長崎の鐘が鳴る 2011.07.10
http://www.janjanblog.com/archives/45414

長崎の鐘
http://yutaka901.fc2web.com/page2nax06e.html

すぐ上のサイトの被爆者手帳友の会の会長さんの名前が深堀勝一さんというので、ちょっと気になって。。。というのも、「勝」というのは、ジョゼッペ、アイゼンベルグ、エリザベス女王などが好きな名前らしく、東電の勝俣社長がジョゼッペというのも、そういうわけです。なので、調べてみると、なんと、つい最近8月2日に亡くなられたとニュースになっていました。本当に亡くなられたのか、亡くなったことにしたのか。。。ジョゼッペの子孫ということも考えられますが。。ジョゼッペ本人かもしれません。あちこちに家庭を持っていて、それぞれの家族はジョゼッペの本当の姿を知りません。ですから、本当に亡くなったと思っているかもしれません。

深堀勝一氏死去 長崎県被爆者手帳友の会会長
http://yutaka901.fc2web.com/page2nax06e.html

なぜか以下のような会合にも出席しておられましたよ〜

「日中関係の強固な発展を」
http://www.jlp.net/news/980215b.html
(1998年の記事ですかね〜?中国共産党はサクソン王朝絶対主義全体主義国家だということをお忘れなく。)

『空白の20時間ー原爆被爆惨状絵図』〜磯野鱧男Blog
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/50629b06b639fe69c9fc43b0b2a4315a

フチの太い眼鏡で顔が分かりにくいですが、深堀勝一氏は、ほぼジョゼッペに間違いないでしょう。内田一九にはその頃にそんな人だとは知らずに私の近所にあるキリスト教会や社会問題の集会で会ったことがありますので(サタニストのボスたちはいつも向こうから私に近づいて来ていたらしいもんで)、頭のハゲ具合とかまったくよく内田一九に似ています。その教会の執事もしていた内田氏は、すごく善人ぶって平和活動や従軍慰安婦問題などの社会活動に熱心でした〜!今から思えば、自分が問題を起こした張本人のくせに〜、まったくぅ〜何よ!

また、深堀勝一氏は、原爆投下後の惨状の絵をたくさん書いているというのも、救護班としてあちこちけが人を見て回ったりしているからでしょう。しかし、そういった活動をしても、2次被爆による後遺症も出ずに元気で長生きしているところを見ると、放射能被爆に対してなにか良い対処法というか治療法を知っているのかもしれないですね〜 これは、聞き出す価値がありますよ〜!! Q _Q"


><; とにかく、ジョゼッペ=スライマーンは、自分とは全く反対の主義主張の集団に潜入し、または、それを設立し、善人ぶったリーダーとしてみなさんをうまく誘導したりしますからシッカリ気をつけましょう!


少し文章を修正加筆しました。(8月10日 0:15)

p.s.

大国主命の後継者問題は、かなり複雑ですが、私のこのブログのカテゴリの「古代日本朝廷」を見てください。ただし、徐福船団のところはわたしが間違って解釈していました。彼らは、秦の始皇帝の命令で日本征服のために渡来したサクソン系軍団でした。また、フツシは自称の「須佐男命」であり、ほんとうは、大国主命が本物の須佐男命(=すめらみこと=スメル=統める、統治する)、つまりl、シュメール人の王なのでした。

東出雲町の古代の出雲国府跡 〜八雲立つ風土記の丘(ミュージアム)
http://www.yakumotatu-fudokinooka.jp/jyousetuten.html

7世紀に出雲国府ができたということは、その頃に「出雲」が島根の中心になったということで、それまでは、「石見」が島根の中心にあり、かつ、日本の中心である「元祖大和朝廷」(奈良県)Jとも深い関わりがあったということではないでしょうか? ということは、「大化の改新」がシュメール人の元祖大和朝廷が九州を中心勢とするサクソン系王族の倭国連合軍(奥出雲や他の日本の各地からのサクソン軍も参加)に乗っ取られたクーデターの時だったということになるのはないでしょうか?

あっ、それから、奈良の元祖大和朝廷の出自は多分、石見の大国主命の一族で、その石見の一族の者が先に九州勢を中心とする倭国連合軍(出雲軍など他の地の軍も参加)に襲われ、人質にされてしまっていた。その後、倭国連合軍は、その人質たちを先頭に掲げて奈良の元祖大和王朝軍の前までやってきたので、元祖大和王朝軍の王だった長髄彦(ながすねひこ)は自分の身内を殺すことはできず、戦うことができずに降伏してしまった。結局、長髄彦は敵軍に殺害されてしまい、元祖大和朝廷は乗っ取られてしまい、その後のいわゆる「大和朝廷」になったのでは?
(8月10日 2:20 a.m.)
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by Ulala-lov | 2011-08-09 16:32 | 原爆 | Comments(4)