大変済みませんが、この記事もまだ書きかけです。


[[[ 大自然を求めて〜エチオピア ]]] 
http://obaqtrip.kuronowish.com/oversea/032etiopia/032etiopia.html
(マゴがどこで出てくるか、また、後で見て探しておきま〜す!)

みなさんも、上のアドレスのブログの中の写真を下のネットで私が調べた参考資料を見たうえで、地図と共に、もう一度よ〜く見てみてくださ〜い!!
(このサイト主さんは私の知らない方でただ単にネットから見つけて掲載させていただいております。勝ってながら貴重な情報をありがとうございます!♡また、参考資料とさせていただいた他のブログのサイト主さんたちにも同様にありがとうございま〜す!♡)


☆〜以下のリンク先は、上の写真集を見る時の参考資料です〜☆
エチオピア
* http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%81
%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2
* http://atlas.cdx.jp/nations/africa/ethiopia.htm
エチオピア地図
http://www.qualia-earth.com/area/ethiopia.html
ヴィクトリア湖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%AF%E3
%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%B9%96
ナイル川
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3
%82%A4%E3%83%AB%E5%B7%9D
青ナイル川
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E3%83
%8A%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%B7%9D
エチオピア高原
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%
82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E9%AB%98%E5%8E%9F
グレート・リフト・バレー(アフリカ大陸の大地溝帯)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1
%E3%82%A4%E3%83%AB:Great_Rift_Valley.png
オロモ人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%
AD%E3%83%A2%E4%BA%BA
Oromo Community Festival - GO 豪 メルボルン
http://www.gogomelbourne.com.au/events/report/538.html
オロモ語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83
%AD%E3%83%A2%E8%AA%9E
FAIRTRADE FOR YOUTH:ひきこもりの ひきこもりによる ひきこもりのための会社
http://www16.plala.or.jp/africanhistory/abyssinia.htm#Zagwe
海外フェアトレード情報:エチオピア難民が経営するフェアトレード・コーヒー会社業績拡大中
http://ftgiftshop.exblog.jp/15605065/
エチオピア難民ランナー支援 - <難民支援:わかちあいプロジェクト>
http://www.wakachiai.com/wp/refugee/ethiopia.html
ボドーのブルジャンピング(ハマー族)
http://www.yatra.jp/bodobulljumping.html

☆★☆★☆
「オプション取引」とは(=なぜかエチオピア)〜知って得する外為用語
http://www.tellhownj.com/002.htm

宗教...キリスト教コプト派(=エチオピア正教会)50%、ムスリム30%、その他。エチオピアの暦での1月1日は、グレゴリオ暦(私たちの一般に使っている太陽暦、西暦)の9月11日。また、グレゴリオ暦から7年遅れで、エチオピアの2000年1月1日は、グレゴリオ暦の2007年9月11日。

ということは、2001年9月11日の同時多発テロ9.11は、エチオピア暦では1994年1月1日となるんですけど。。。アングロサクソン王族の暦で「正月」にテロ起こす? 

まあ、1994年(=西暦2001)というのはエチオピア暦による重大な数字的な意味はないのかもしれませんが。。。とはいえ、なんにしても西暦2001年は、「ブッシュJr.(=アングロサクソン王族)が米国大統領に就任した年!」でこれはこれで意味があるわけですし、さらに、2011.9.11』は、1989年の旧ソビエト連邦崩壊に伴って1991年9月11日頃発行された金融マフィアたちの米国金融債「なんとか?債」の10年後償還日頃だったらしいですよ。)

百珈苑BLOG 〜2010-04-24
http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100424
モカに始まり....エチオピア編8栽培地補足
http://cafebimi-cafebimi.blogspot.com/2010/
08/blog-post_10.html
モカに始まり....エチオピア編
http://cafebimi-cafebimi.blogspot.com/2010_07_25_archive.html
http://cafebimi-cafebimi.blogspot.com/2010_07_18_archive.html
ハラール(エチオピア)- CENT Japan pedia
http://pedia.japan.cnet.com/svc_wiki/wikipedia/%E3%83%8F%E3
%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E3%82%A8%E3%83%
81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2)
(古く[古代?]からのゲイの街だったということですか〜?先住民はハラリ人で自らをゲイ・ウスと称するセム系民族で、アスクム王国の出自ということは「シェバ人(=ヌビア人)+ヒッタイト人」=サバ王国人*、後のスパルタ人、ユダヤ人(スファラディム)、サクソン人ということですね。)

* サバ王国人...これからは、「サバ人」と呼ぶことにします。サバ人はヌビア地方出身のシェバ人と中央アジア(東アジアかもしれないんですけどね)出身の西方テュルク(=トルコ)系アムル人の混血した南アラビア系民族で、シェバ人というのは、古アフリカ原住民たちが、一番勇猛なハマー族か、ツァメイ族か、マサイ族、フォン族?{シャーマン民族らしいのですが、なぜかここには出てきません}により統一された民族名なのでは。なので、とにかく、エチオピアあたりのアフリカ古民族はシェバ人と呼ぶことにします。そして、シェバとヒッタイトの合体民族が、サバ人としときますよ〜 この人たちがローマ帝国の礎(いしずえ)を築いた二大民族ラテン人(イタリア原住民と混血したトロイ人{=ケルト系シュメール})とサビニ人のサビニのほうですからね〜。

アダル・スルタン国
http://133.205.157.69/j/53/2e/77/d653e88ead20889f564b
6cc613439f2a.htm
スルターン
http://133.205.157.69/j/29/0d/e1/397404d350080e4e54c3
c7465bc3fc39.htm
エリトリア
http://atlas.cdx.jp/nations/africa/eritrea.htm (エチオピア正教が主流の国)
http://africa-rikai.net/edudata/ERITREA.html(イスラム教徒が主流の国)
ティグレフォーラム2008年新春の集い
http://www.tigrenet.ne.jp/seminar/20080201_tud
oi_zenkoku.html
シュベリ川
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E3%82%B7%E3%82
%A7%E3%83%99%E3%83%AA%E5%B7%9D
ジュバ川
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E3%82%B8%E3%83
%A5%E3%83%90%E5%B7%9D
ジュバランド
http://pedia.mapion.co.jp/art/%E3%82%B8%E3%83%A5
%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
(ジュバ=シェバでしょうね)

エチオピア連邦民主共和国大使館HP
http://www.ethiopia-emb.or.jp/
歴史
http://www.ethiopia-emb.or.jp/front/tourism/history/#a
文化
http://www.ethiopia-emb.or.jp/front/tourism/culture/
自然・国立公園
http://www.ethiopia-emb.or.jp/nature-npartk/

南部に『マゴ国立公園』がありました〜!!  あった、あった!ここが『マゴ』という地名なんですね〜!そして、メディアやペルシャの司祭マゴ(=マゴイ=マギ)の語源なんでしょうかね〜 多分ね〜! @_@
日本エチオピア協会
http://www.ethiasso.jp/kyokai1.html
エチオピアってどんな国?
http://www.ethiasso.jp/ethi.html
エチオピアトピックス
http://www.ethiasso.jp/topics1.html

エチオピアの地図
http://www.worldmapfinder.com/Map_Detail.php?MAP=79596&FN=map_of_ethiopia.jpg&MW=2335&MH=2545&FS=1463&FT=jpg&WO=0&CE=1&CO=68&CI=0&IT=0&LC=3&PG=1&CS=utf-8&FU=http%3A%2F%2Fwww.ethioembassy.org.uk%2Fimage%2Fmap_of_ethiopia.jpg&SU=http%3A%2F%2Fwww.ethioembassy.org.uk%2Fabout_us%2Fmap.htm
(南部のわりと大きな湖の近くに『Godo』(=ゴドー=神?)という地名もありますね〜!)

UN(国連)世界食料計画の地図
http://wrma.org/wrma/library/map_woredas.jpg

南西部の深緑の地域に『Goma』(=ゴマ)の地名があります。古代からの胡麻(ごま)の原産地でもありますからね〜! ゾロアスター教の祭司「マゴ」と関係あるんでしょうかね?(なにしろ、祭司も商売に関わっていたそうですからね〜)

それから、ゴマのすぐ東南に淡緑色の地域で『Mana』(=マナ)という地名があるのですが、旧約聖書の「出エジプト」でモーゼが率いるイスラエルの集団はシナイ半島の荒野で、神が与えられたマナを食べて生き延びたとあるのですが。。。それに、HOSANAという都市もあるみたいなのですが、「ホサナ」*という言葉は、エルサレムの民がイエスに投げかけた言葉ですが、ということはユダヤ教で使われていた言葉ということになりますが。。。やっぱり!『シバの女王』が考えたのかしら。。。

* BLurtlt: 「ホサナ」とはどんな意味ですか?
http://jp.blurtit.com/q665012.html

その他、地名をみると、いろいろ日本に関係している地名とか名前とかあって面白いですよ〜 英語にも出てくる単語もあるし〜。Bench、 Hamer (=Hammer?)、Dara (=Daller?)など。

また、アジスアベバの西の肌色の地区のすぐ北側には、Limu(=リム)という地名が。英語のlimb は「手足」{=腕、脚}、または「★魔法」の意味ですよ。でも、古代メソポタミアの「マリ王国」のジムリ・リムさんや古代シリア・レバノンの「ヤムハド王国」の『リム家』もこの地の出身なのでしょうか? どちらにしても、何らかの関係があるのかも。。。

ROBEという都市もありますが、robe は英語で「長くてゆったいした外衣、ドレス、礼服、式服、官服、職服」のことで、ちょっと高級なよそ行きの服って感じがします。これも、この地名に由来していそうな気がします。
本来の英語では、クローズとかドレスとかスーツとかユニフォームって単語を使うんですけどね。ちょっと特別な感じのする言葉でもあります。

♡☆★☆★☆♡
上のブログの写真集『大自然を求めて〜エチオピア』を再びじっくり見た'うららおばさん'の感想:

まず、オロモ族が具体的に現れないことから、どうも、この人たちはアムハラ族の支配下でかつては奴隷となって働いていた人たちなのでは。そして、現在はコーヒー園などの貧しい農奴のような労働者とか、都市部の貧困層となっている人たちなのではないかと思われます。オモロ族もアガグ族もクシュ語を話していた民族だということで、おそらく、エジプト文明を築いたクシュ人だと推察されます。つまり、紀元前1万年前後からこの地方に住み、ノアの洪水時期(おそらく、B.C.9〜8000年代頃)にもあまり影響を受けなかったシュメール人*たちで、彼らはB.C.8〜6000年頃の極暑の時期には、低地帯からここのエチオピア高原やウ゛ィクトリア湖のある高原に移住していたのではないかと思われます。地元のガイドの話では、オモロ人はA.D.15Cにウ゛ィクトリア湖付近から移動してきたとの説明だったそうですが、実際は、B.C.6000年頃以降の話で、地球の気候が温暖になったので一番高い高原の頂上付近からやや下のほうへ降りてきて移住してきたクシュ人(=オモロ人)たちと思われます。

* シュメール人....今から1万5000年前ぐらい(B.C.13000年前後、諸説あるみたい)に終了したウルム氷河期**の間やその終了直後は、おそらく、メソポタミア→シリア→エジプト→ヌビア地方の一角(ソマリアか?)と移住拡大して古代’中東の三日月地帯’に住んでいたのでは。

**「氷河期と超大陸」〜岸波通信
http://www5f.biglobe.ne.jp/~daddy8/z/20r.htm
(氷河期とは、地球全体が氷に覆われるのではなく、地球の平均気温が下降し、極地の氷床や高緯度地域の氷河群が拡大した時期のことで、過去数十万年では北アメリカとヨーロッパに氷床が広がっていた時代を指すとのこと。つまり、「高緯度地域」に『氷河』が広がっていても『赤道付近』では『熱帯性気候』が維持されている場合もあるわけで、あくまでも長期的に見た平均気温の問題なのだと書かれています)

「佐渡の1万年後、10万年後の姿」〜人類の死滅
(あと4〜5千年後にまた9万年の氷河期がやって来るとか)
http://www.sado.co.jp/usami/ginruinomirai.htm
(年代について、サタニストらに改ざんされておかしくなっているところがあるみたいです。常識を働かせて変なところは修正して読んでみてください)

氷河期に人間は生きていけるのか? l かりんのひとりごと
http://love.mania.daa.jp/?eid=989745

「ウルム氷河期」〜夢日記
http://datasea.seesaa.net/article/195053740.html
(つまり、ウルム氷河期が到来した今から10〜7万年くらい前に、北ヨーロッパに住んでいた「ノア?の一族ら」(=シュメール人)は、南下してメソポタミアなどの温暖になっていた地域に住んでいたということなんでしょうねぇ。ところで、あれっ、B.C.2024年に、ニヌルタ(ニムロデ?)とネルガル(?)連合軍、ソドムとゴモラを核兵器で攻撃とありますよ!旧約聖書では、ソドムとゴモラを破壊したのは、ユダヤの神で、アブラハムの従兄弟のロトが関係していたはずですが。ちょっと気になりますね〜確かに、この時、核爆弾をつかったのではというのは聞いたことがあります。後ろを振り返って立ち止まったロトの妻が石になったとかいうし。また、モヘンジョダロ文明[=シュメール人の文明]の破壊にも使われたらしいですね〜 どうもヒッタイトとシェバの攻撃だと考えられますが。B.C.21~22C頃、ヒッタイトがアナトリア半島にいたシュメールの都市国家群を次々に征服し、シュメール人を奴隷化、また混血化したことにより、鉄を手に入れたり、恐ろしい核爆弾のような発明も賢いシュメール人にさせたためでしょう。)


シュメールが涼しい所を求めて高原に移住した際、それらの高原には、旧原人のルーシーやその他のもっとずっ〜と太古から生存し続けていた古アフリカ原住民のたくさんの部族たちも同様の理由で移住していたと考えられます。その原住民たちが、現在、エチオピア最南部の『南部諸民族州』(おそらくアフリカ原住民諸民族保護地区のような州)に集められて住んでいるのでは。ここに『マゴ国立公園』、『オモ国立公園』があり、2年前に(おそらく、A.D.2000年代に)両方の公園ともドイツ人が買い取ったなんて、そこに住む諸部族もその支配下に入るわけでちょっと心配なような。。。そのドイツ人の裏にいるのがサクソン王族じゃなければいいのですが。。。

わたしは、アガグ族というのは、このオモロ族の中の中心的な王族的な部族でシュメール人だったのではないかと推察しているのですが。。。オモロ人の多くはシュメール人と原住民との混血なのではないかと。。。


ところで、「大自然を求めて」の写真集の「2.ジンマへの移動-1」を見ますと、
エチオピアの失業率は55%で、平均寿命 男性43歳 女性47歳 平均45歳 エイズがまん延しているため平均寿命が下がっている(エイズの撲滅に効果を発揮している国はウガンダだそうです)。

★★★★★エチオピアの一般庶民は かなり過酷な生活みたいですね。きっと、貧富の差がめちゃくちゃ激しいんでしょうね。

『シバの女王』の本家本元がこんな国になっているんですから、サクソン王族が世界を完全征服した後には、それが世界中の全ての国に拡大され、もっともっと悲惨な状態になるということですよ〜 人口も5億人まで削減されますしね〜   エチオピアの南部諸州の諸民族もそれぞれ5000人にほぼ統一されてましたしね〜。みんなサクソン王族・貴族の観光客のために民族衣装を着て、踊ったりしてお金を稼ぐようになるのでしょうか?  あ〜、やだやだ〜〜! まっぴら、ご免だ!!  ><;
          

* 「その2」につづく
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by Ulala-lov | 2011-06-29 15:18 | シバの女王 | Comments(0)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

>>> やっと、また、ニコラス・クラップ著『シバの女王』の本に戻ります!

(引用再開)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<天界の女王アステルタ> の続き。。。

ツェーレンは、ソロモンに関するこのくだりを、シバの女王の来訪に対する返礼と見る。彼は、「シバの女王」が『アスタルテの化身』であり、ソロモンを讃えるために「列王記上」に組み込まれたという見解を示している。ソロモンを賞賛することで、シバ、つまり、アルタルテは、王が偉大で聡明な君主であることを裏書きすると同時に、ヤハウェイがイスラエル人の最高の神として君臨することを正当化している、というのだ。

アスタルテはシバの女王の姿を借り、誉めちぎる。「あなたの臣民たちはなんと幸せなことでしょう。あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主は讃えられますように」

紀元前10世紀、ソロモン(サルゴン2世じゃ?)とヤハウェには、あらんかぎりの助けが必要だった。イスラエル人(本当は、アラム人≒アッシリア人>アッカド人<アムル人にとって)はカナン人(カナン地方の多種な人々)の文化(多種な文化)から脱しようとしていたが、同時に強大なカナン人の神々に背を向けきれずにいた。これらの神々の呪縛を断つのに、そのひとりであるアスタルテを使ってソロモンの英知と神ヤハウェイを讃えさせるのに勝る方法があるだろうか。中東やギリシャ・ローマの神話にくりかえし現れるテーマは、『女神が主人公になりかわって介入する』、というものだ。『その時、女神は’人間の姿’を借りて現れる』。ホメロスの『オデュッセイア』では、「アテナ」は「オデュッセウス」を助けるべく浜辺に現れる。同様に、「アスタルテ」も「ソロモン」の前に現れた。

シバの女王をこんなふうに捉(とら)えるのがいかに神話じみて聞こえようとも、私にはなるほどと腑に落ちるものがあった。たとえ、ごく世俗的なシバの女王が見出せたとしても、少なくとも私の心の中では、アスタルテの影がこの話には見え隠れする。アスタルテは、自らをはじめとする、近隣の強力な自然神たちとの競争でヤハウェに加担すべく姿を現したのだ。自然神は、疫病や飢餓(きが)、嵐、恐ろしい稲妻や雷鳴を呼び起こし、人々の心をつねに恐怖で満たす。イスラエル人はヤハウェを崇めながらも、土着の異教の神々を認めて彼らをなだめなければという、切羽つまった気持ちも抱いていた。結局、ソロモン自身もこうした神々の力に抗(あらが)いきれなかったし、それは、のちの人々にしても同じだった。

予言者エレミアは、ヤハウェが現れて、こうお嘆きになられたと書いた。「ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、天の女王のため捧げものの菓子を作り....」

天界の女王アスタルテ。

夕暮れには、私たちは曲がりくねった道をバスで登り、近くの山の頂きにある、廃墟と化した砦(とりで)の胸壁からパルミラの全景を目にした。眼下に広がる幻想的な美しさを闇が呑み込んでいくのを、私たちは言葉少なに見つめた。パルミラとその亡霊たち。ゼノビア、シバ、そして、天界の女王アスタルテに魅入られた町。

雷鳴が轟(とどろ)き、閃光(せんこう)が音をたてて空中を走る。最初はほとんど聞こえないが、やがてそれが大きくなる。クリスティーナが「私は不気味とまでは思わないけれど、どう思う?」と訊(き)くような調子でこちらを見て、私にも見えるかどうか、足もとをご覧なさいと言った。

私のハイキングブーツの周りじゅうで砂が震えている。小石が宙に跳ねる。稲妻が走る。目を上げると、クリスティーナの髪も、みんなの髪も渦を巻いて逆立っている。雨が降り始め、メガネが曇って見えなくなった。

「パパ、こんな山で砦のてっぺんなんかに登っている場合じゃなさそうね」とクリスティーナが言った。

(引用おわり)〜〜〜〜〜〜〜〜〜

うららおばさん.....その怪奇現象って、砂漠ってすぅごく乾燥してて物すごい静電気作用が起きるからじゃないかしら? それにしても、まるで、映画「エクソシスト」の世界みたい。。。あれ、めちゃめちゃゾゾ〜って感じ〜恐かったピ〜! (あれっ、ひよこ会?)


p.s.

やっと、分かった!分かりましたよ〜! つまり、Arabic group=Amhara族 ( =[シェバ人=ヌビア人=Amreku tribe and etc.]+[ヒッタイト人=ハリアン] ) は、シバの女王の奸計(まっ、この場合は色仕掛け)によりサルゴン2世をその手の上に転がすように意のままにした。二人の間には子供も何人かもうけていた。しかし、サルゴン2世を暗殺したのもシバの女王やヒッタイトたちだったのでは?そして、サルゴン2世の子のセンケナリブもその兄とシバの女王に暗殺されたかもしれないということですし、また、その子のエルサルハドン(シバの女王とサルゴン2世の子。ヒッタイト人の子ではないからか?)もまたなぜか暗殺されますがここでもシバの女王たちが関わっていたかもしれないということです。そして、アッシュールバニパル(おそらく、シバの女王かその子孫とヒッタイトの子孫の混血)の時には、最初のころにはシバがその治世に影響力を及ぼしていたようですが、すでに年老いていたため、そのうちにとうとう隠居してしまったということです。とにかく、そのようにして、新アッシリアも結局、実質、サバ王国に飲み込まれてしまい乗っ取られてしまっていたということではないでしょうか?

そして、B.C.609年にカルデア王国(=新バビロニア王国)やメディア(おそらくシェバの国、策略でこの時だけ協力)やスキタイなどにより滅ぼされます。しかし、まだ、エジプトの王朝はこの新アッシリアの傀儡のサイス王朝*でした。その後、メディアも、新バビロニアも、エジプトもアケメネス朝ペルシャに征服されたということですが。けれども、アケメネス朝はバビロン捕囚されていたユダ王国の貴族たちを解放したということですから、サバ王国とはほんとうは仲が良かったのかも?

* エジプト第26王朝(サイス王朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8
%E3%83%97%E3%83%88%E7%AC%AC26%E7%8E%
8B%E6%9C%9D

それから、「アケメネス朝ペルシャ」は「メディア」を征服したとありますが、両方とも「スキタイ部族」と「エチオピア系の部族」を中心とした複数の部族からなる集団でほぼ同じ部族集団同士の可能性があります。メディアでは司祭階級をマゴイ族(マギ族)と呼び、同様に、アケメネス朝も司祭のことをマグと読んでいたそうです。この前の記事「『シバの女王』とは。。。パルミア1」で、ネット上で見つけてた「エチオピア」のブログ*の中のたくさんの写真中に、エチオピアに原住民が住む土地の地名に『マゴ』という地名がありました。おそらく、アフリカの地名からこの司祭階級の呼び名がきていると思われます。つまり、★★★『Amuhara のシャーマンたち』です。これも、やはりサバ王国と関係があるんでしょうね。つまり、ヒッタイト人とSheba人が主流になっている国ということでは。。。
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by Ulala-lov | 2011-06-24 19:57 | Comments(0)

大変すみませんが、この記事もまだ書きかけです。

パルミラ(3)のつづきです。

ところで、サルゴン2世のサルゴンはソロモン、スレイマーンとも読まれるそうです。イスラエル王国最盛期の王「ソロモン」となにか関係があるのでしょうか?

また、アッシリアにはサルゴン1世もいました。また、アッカド王国を築いた初代王もサルゴンです。(全部同じサルゴン=スレイマーン=アイゼンベルグなのでは。。。?)

サルゴン(アッカド王)

サルゴン1世

サルゴン2世

アッシリア王サルゴン2世の宮殿の守護獣神像

ルーブル美術館 古代オリエンタルコース〜古代コルサバードの中庭

あら不思議?下のふたつの建物AとBを比べてみましょう!

A. 『コルサバード?』宮殿
(もしかして、サルゴン2世が建てた『ダマスカス』(=コルサバード?)の宮殿なんじゃ〜?)

B. ウマイヤド・モスク
(ダマスカスにある世界最古のモスクで、もとはキリスト教の洗礼者ヨハネ教会だったとか。7世紀にムスリムの支配下に入りウマイヤ朝第6代カリフ、ワリード1世により705年に改築された世界最古のモスク。世界最大級のモスクのひとつ)

ねっ!なんだか建物の構造がよ〜く似ていませんか?それから、中庭の形とか床の感じがそっくり!
(大理石の床でしょうか?)

人魚

ニムルド

アッシリアの神「ダゴン」(海の神で上半身が人間、下半身が魚)≒ 「アスタルテ女神」=アフロダイテ(ギリシャ女神アフロディーテ) ということらしいです。

(最後の段落を引用)「アエリアヌスの伝えるところによれば、セイロンの周囲の大海には無数の魚や鯨がいて、ライオン、豹、やぎ、ぶた、あらゆる動物の頭(上半身)を持った魚がいるという。」

アエリアヌス
セイロン島

『シバの女王』=『新生ヴィーナス』は、いろいろな動物と魚(時には魚と人間)を人工的にハイブリッドして、海のモンスターを造って、ヤハウェ系(人間)の都市国家群を侵略するための海戦に備えていたということです!

センケナリブ(サルゴン2世の王位を継いだ息子)

エルサルハドン(センケナリブの王位を継いだ末息子)

多数の祈祷師や占星術師を周囲においてものごとを決めていたみたい。また、悪魔払いの儀式をたびたび行っていたとか。父親のソロモンは悪魔をおびき出して自分の望みを叶えてもらうようにしてたんですけど、孫のエルサルハドンは反対だったんですね〜!まともな王だったってことですかね?

とにかく、旧約聖書の列王記上にあるように、多くの異教の神を拝んでいたソロモンは、ヤハウェ神への背きの罪を次の代から受ける(ダビデに免じてソロモンには罰を与えないと言われた)と神から宣告を受けたとあります。まさに、サルゴン2世の次の代センナケリブからこの王家には後継者問題で内紛が続きます。センケナリブは側室のひとりであるナキア*との間に生まれた末息子のエルサルハドンを後継者と決めたために他の息子たちに暗殺されます。しかし、結局、次の王には最初から後継者に目されていたエルサルハドンがなります。そのエルサルハドンもエジプトを征服し大帝国を築くのですが、息子たち**が兄弟紛争を起こしアッシリア帝国は内紛により衰退していきました。その後、メディア王国とスキタイ、新バビロニア王国からの攻撃を受け、新アッシリアはB.C.609年に滅亡しました。

* ナキア(生没年未詳、Zakitu ザクトゥ)

** アッシュールバニパル(エルサルハドンの王位を継いだ息子)

「ナキア」はセンケナリブの寵愛を受けて後宮で強い発言権を得ており、エサルハドンが後継者に選ばれたのも彼女の貢献によるところが大きい。しかし、兄たちによるセンケナリブの暗殺にはナキアも関与していたという説が有力だということです。また、その息子たちの代にまで彼女の影響力は大きかったとのことです。

しかし、この「ザクトゥ」というもうひとつの名前は、エチオピア帝国の「ザグウェ王朝の名前や、同じくエチオピア帝国のソロモン朝の女王「ザウディトゥ」**という名前になにやら似ていますね〜 ! 以前からこのブログでわたしが書いていますように、このザウディトゥ女王さんは、英国ウィンザー朝のエリザベス女王の母親かもしれないと私が睨んでいる方です。そして、この「ナキア」こそ、ビルキース、つまり「シバの女王」ではないかと。つまり、サルゴン2世〜センケナリブ〜エルサルハドン〜アッシュール・バニパルまで4代に渡ってアッシリア帝国を裏で操っていたのは「シバの女王」(後の『新生ヴィーナス』)では。。。

** ザウディトゥ

そして、引用している本「サバの女王」p.269には、サバ王国の歴代王について最近アッシリアのテキストから解明されたというサバ王国の王名表*があり、それと同時期*と思われるアッシリア王の王名表**を比べて見るとシバの女王の活躍した時代と一致する4代にわたる王の統治期間が、サバ王国ではB.C.990〜925年ごろ (65年間くらい)、一方、アッシリア帝国ではナキアの影響力にあった4代の王たちの統治期間は、B.C.722〜627年ごろですが、その最後の王アッシュールの時にはさすがにナキアも年老いて途中で引退しているので、サルゴン2世10年+センケナリブ24年+エサルハドン12年+アッシュール・バニパル15年くらい=61年間くらいに渡っているところがよく似ています。もしかしたら、サバ王国とアッシリア帝国は一体化していたのかも?すると、メネリク1世がエルサルハドンなのでしょうか?(それとも、メネリク1世はエチオピアと南イエメンで独立したサバ王国を統治していたのでしょうか?)

*アッシリア王名表とサバ王国王名表とのシバの女王の時代の 約250〜300年の差は、最近、サバ王国のほうの年代がより古い年代に変更されたため。しかし、そうなると、その当時の中東のすべての歴史について年代を250〜300年くらい古い年代にしないといけないのかもしれませんが。。。それもありなのかな?(となると、フェニキア人(シュメール人のほうの)が自由を謳歌していたという300年間はウソで、フェニキアはB.C.20C頃からずっとヒッタイトに乗っ取られ、本来のフェニキア人はヒッタイト人に支配されて奴隷となっていたということで、それが、今度は、B.C.11C(歴史ではB.C.8C)に、新アッシリアに征服されたということなのでしょうか?アッシリアの前に、エジプトにも征服されていたことになっていますが、このエジプトは、当時はヒッタイト人(=アムル人)+アモン人(Sheba=ヌビア人)が支配していたと考えられますしね。つまり、それ以前に、アラビアではヌビア人とヒッタイト人とが混血してシェバ人となりサバ王国を築いていましたが、紅海を渡りエチオピアから上エジプトへと攻めていき、後には下エジプトも手に入れていたようです。 

一方、アナトリ半島のヒッタイト帝国がどんどん退却していき滅亡したB.C.12Cには、その支配下にあったシュメール人たちがヒッタイトやエジプトから独立してヨルダン、シリア地方にシドンやティルスなどの『フェニキア』という都市国家群を形成します。しかし、B.C.722年にフェニキアは、今度は「新アッシリア」に征服されてしまったのです。それで、シバの女王が地中海の交易をするためにはシドンやティルスを支配している新アッシリアの王サルゴン2世の交易許可をもらう必要がありダマスカスを訪問したようです。でも〜、あるいは〜、もしかしたら、シバの女王はフェニキア(訂正:イスラエル王国)を攻略するようにサルゴン2世を促(うなが)し、自分の従えていた軍隊とともに協力したのかも?

★しか〜し、もちろん、Queen Sheba is シェバ人=Amhara people < Amarec tribe plus etc.(=ヌビア人)がヒッタイト(=ハリアン)と組んで混血しているアラビア民族 ですから、ヒッタイトがかつて治めていた元領土の復権を望んでいたのは間違いないでしょう。★

*サバ王国の王名表
このブログ内の記事『サバの女王』とは。。。6に本から引用して載せてあります。

**アッシリアの諸王(新アッシリアのところです)

(ヤフー知恵袋)質問:「アッシリアの最盛期、最大図版を築いたのは、サル....」

アッシリア

上のサイトの「新アッシリア時代」の項目の地図と説明を見てください。地図を見るとアッシリアの領土はB.C.13Cくらいまでにシリア北部にまで達しています。そうすると、やはり、ティグラト・ピセル3世かサルゴン王の時にはシリアから南部を攻撃していたはずです〜 そして、『シバの女王』と組んで、とうとうイスラエル王国を滅ぼしました。そして、その次の王「エルサルハドン」、「アッシュールバニパル」はエジプト王朝も征服していったんですね〜 
サルゴン2世が、イスラエルやエジプト、アナトリア半島、アラビア半島、メソポタミア、地中海沿岸などすべてを攻撃したり監視するためには、すべての方向にいち早くアクセスできる交通の要所『ダマスカス』に駐留するのがベストだったのではないでしょうか。。。それで、ダマスカスに(ユダヤ教会と称して?)豪華宮殿を建てたのでは。。。そして、そこにシバの女王が訪問したということなのでは?

[アッシリアの歴史]をちょっと振り返って見てみましょう!

ウシュピア(B.C.2020頃、初期アッシリア王国時代の王)

上のサイトのウシュピアの頃、つまり、B.C.2020頃にはすでに元祖「アッシリア」(最初の頃はシュメール人の都市国家だった)は「アッカド王国」(アッカド人<アムル人)に乗っ取られたような感じが。。。でも、アッカドは長〜いこと仲良しのふりしてシュメールをだましてたんですよね〜


>>> そして、「新アッシリア時代」に戻ってみれば。。。

セム系部族社会の形成〜新アッシリア時代
(上のタイトルはセム系ではなく、セム語系が正しく、ノアの長男セムの子孫とは関係なく、アングロサクソ脳族社会のことです。)

スターメディア 新アッシリアの王も占いをしていた

『ダマスカス 』

もし、シュメール語[=アッシリア人の学者やアッカド人王たちも知っていたんですよ!]と、「日本語」に共通点が多いということなら、『ダマスカス』は、「ダマす+カス」(言い聞カス、寝カス、しでカス、誤魔化す...[使役] )。。。つまり〜、『ダマしてやるっぺ!』っていう街の名前ってことですか〜? 旧約聖書に『ダマスカス』を「エルサレム」と’偽(いつわ)って書いた’っていうことかな〜? (+ +)?

『ダマスカス』の南には「グータ」というパラダ川などの内陸河川が潤す森や田園からなる大きなオアシスがあり、★『エデンの園』のモデルとされる場所であるということです。。。やはり!。。。また、19世紀、旧市街を北西から見下ろす「シャバル・カシオン」(カシオン山、旧約聖書の創世記においてカインがアベルを殺したとされる場所)の斜面上に近郊農村が開発された。。。そんな場所まであるんですか〜

☆★☆★☆
やっぱり〜、旧約聖書はシバの女王がシュメール人奴隷の優秀な歴史家たちに歴史をシバの女王に都合良くなるように編纂させたっていうことなのではないでしょうか?でも、最初の頃は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記くらいまでは、サルゴン2世も加わっていたかもしれませんが。もちろん、「伝道書は」多分ソロモン(アッシュールバニパルかも?)で、「雅歌」は多分シバの女王の作らしいですけれども(もちろん、よりよい詩になるようシュメール人の文才のある奴隷にずいぶん推敲させているでしょう)。また、その後、シバの女王のエチオピアの子孫たちもシュメール人の歴史家に編纂させて色々な書がどんどん追加されたりしたのでしょうけれど。。。(だって、彼らより後世のことも書いてありますから)

わたしが、なぜ『シバの女王』が’旧約聖書の編纂者’であると推察するかといいますと、旧約聖書のサムエル記、列王記上を見ますと、どうもダビデやソロモンについては都合の悪い醜聞も赤裸々に書かれています。これは、シバの女王の側の利益になるように『シバの女王サイド』によって書かれていると見てよいと思います。

つまり、旧約聖書の創世記で、ソロモンは神に祝福されたノアを祖とする立派な名門王族の子孫とし(これもウソで、本当はノアの子孫はシュメール人。ソロモンはアムル人の一派のアッカド人)、最初は、ソロモンを’より忠誠を求める一神教「ユダヤ教」’の「王の中の王」と祭り上げました(これもシバのやったこと)。

しかし、その後、ヤハウェの神がソロモンに現れ、ソロモンがヤハウェだけを信仰しないで異教の神々をも信仰するようになったので、その罪により、'ソロモンの子の代からはイスラエルを分裂させると告げられたと列王記上には書かれています。(これもシバの策略)

だから、(なぜか?同じソロモンの子なんですけどね〜)ヤハウェの神はソロモンとシバの女王とのあいだの子「エチオピアのメネリク1世」にユダヤ教における「王の中の王」という立場を移されたということにしたかったのでしょう。さらに、’だから神様は契約の箱もエチオピアに移された’ということにしたかったのでしょう(実際はメネリク1世が強引に奪ってきたんですよ)。

このようにして、虚飾に覆われ、ねつ造された「偽りの栄光のソロモン一族の系譜」’をなんなくするりと「シバの女王の系譜」に変えてしまい、シバの女王の一族は神に信頼され大洪水から救い出された唯一の一族であるという「ノアの一族」につながる名門一族となったのです。

こうして、シバの女王は、一神教「ユダヤ教」(より強力な忠誠を求める)とその聖書を基盤として、ソロモンの家系につながったメネシク一世は「王の中の王」であると宣言したのです!

ところで、あのダビデの書いたとされる『詩編』は、すごい詩の才能のある王が書いたのは確実で、おそらく、文才のあるシュメール人(=ヤハウェ系)の王のだれか(『ダビデ』か、あるいは他のヤハウェ系の王、新バビロニアの王ネブカドネザルか?)が書いていたものを「新アッシリア」か「サバ王国」がイスラエル王国か?あるいは新バビロニアを征服して手に入れ、それを旧約聖書の格を上げるために入れたのでしょう。しかし、アングロサクソ脳族に都合よく、大幅に修正して、罪を犯してもいないのに、大罪を犯し神に懺悔する場面などが入れられたり、敵への復讐心を大げさに描いたりしてあるのではないかと。。。『詩編』は旧約聖書ながら新約聖書の巻末にも入れられてダビデに冤罪の濡れ衣を着せて、人々にウソをバラまいているようです。また、およそどこのキリスト教会でも毎日曜日の礼拝時には、新約聖書のその日の説教箇所の朗読と共に、必ず『詩編』も毎回少しずつ順番に朗読されています。『シバの女王』はしつこいからね〜!

(2014.05.27 8:10 a.m. 修正加筆)

(つづく)

’うららおばさん’からこのブログを読んでくださっているみなさんへ・・・・
☆ わたしが、記事を書き終えた直後くらいに(書いている最中の前述の文の時も)、’ちょこちょこ’とサタニストに改ざんされて困っています。文中の*の場所を変えられたり、文の意味が分からなくなるように文字を入れ替えたりするなどすごくイヤ〜な感じの改ざんをされています。すべての書き込みにそうされています。後で、また読んだ時に直したりしていますが、それもまた改ざんされたりもしているみたいです。先日、自分の書いた古い記事などもちょっと読み返してみたのですが、かなり改ざんされていてびっくりしました。そういうことですので、読みにくくなっているところがあったら、そこはちょっと飛ばして、先のほうの文に進んでいってください。(かなり頭にくるような悪質な改ざんの仕方が多いですのですよ〜。とほほ〜 ーー。。。)
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by Ulala-lov | 2011-06-16 10:16 | Comments(2)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。


☆「新アッシリア」の黄金期にあった王〜『サルゴン2世』 とは。。。いったい、どんな人なのでしょうか?

サルゴン2世

(上のサイトの下のほうを読んだ’うららおばさん’は目からウロコ状態 !! その感想は;)
♡『な〜んだ、イスラエル人の「バビロン捕囚」は、ネブカドネザル王じゃなくて、新アッシリアのサルゴン2世がB.C.721年に北イスラエルを滅ぼして、住民をアッシリアに強制移住させたことだったんですね〜。とすると、サルゴン2世が「バビロン捕囚」したのは、フェニキア人のことだったんじゃないでしょうかね〜?』

p.s.
済みません。北イスラエル人の強制移住は「バビロン捕囚」とは違っていました。しかし、北イスラエル人貴族たち(=ヤハウェ系)が新アッシリアに強制移住させられたことは確かです。とするれば、同じように、フェニキア人(ヤハウェ系)貴族たちも、きっと、新アッシリアに強制移住させられていたことでしょう。p.s. 新アッシリアに征服されるまでは、フェニキア人=北イスラエル人でしたが、新アッシリアの征服後は、サルゴン2世やシバの女王たち王族(=サクソン王族)が、フェニキア人に成りすまして地中海の海賊となり、地中海沿岸の多くの都市を征服し植民地化ていったんでしょう。

♡と思ったら。。。以下のブログで、ネブカドネザルは南ユダ王国のユダヤ人(スファラディム・ユダヤ)を「バビロン捕囚」していたんですって。でも、旧約聖書に書いてあることはシバの女王の国やアムル人(=テュルク族)勢力サイドの見解だから、★ネブカドネザルの悪行☆も、きっと、ねつ造されたウソってことじゃ。。。(絶対に、その可能性が大!!)

♡きっと、旧約聖書に書いてあるネブカドネザルの悪行は、ヒッタイトやアッシリアの王たちがフェニキア人たちやや北イスラエル人(ヤハウェ)貴族の捕虜(=奴隷)にやっていた悪行を、まるでネブカドネザルがやっていたかのように書いたんですね〜。彼ら(アムル人=テュルク族)がよくやる手です〜!自分たちが被害者のふりをして同情をかって有利な立場に立つっていう方法は。。。

★「ネブカドネザル?」の悪行☆ ー ー ー ー ー ー ー

まず、新バビロニア(=カルデア王国=ヤハウェ王族の王国)のネブカドネザルとは

ネブカデネザル2世

ネブカデネザル王のものと言われている管弦楽団
(シュメール人は音楽好きですからね〜)

カルデア王国(=新バビロニア)

(つまり、シュメール人が復活した国だったのかな? ということは、アッシリアの支配からフェニキア人の都市国家群を解放したということになりますね。でも、その後、結局、「アケメネス朝ペルシャ」(=「メディア」の手のひらを返した裏切りで、国名の看板を変えただけみたい)に征服されてしまうのですが)

< さて『バビロン捕囚』って、いったいだれが、どんな悪行をしたんでしょうか? >

旧約聖書:列王記下(第2)、25章に書かれているネブカデネザル王の南ユダ王国制圧の箇所

本当の史実は、要するに以下のようなのでは? と’うららおばさん’は推察しますけれど。。。
[B.C.719〜722年頃]
(誤)→(正)
○新バビロニア王国のネブカドネザルは→新アッシリア『サルゴン2世』と『シバの女王』は

○エルサレムを攻め→フェニキアあるいは北イスラエル(両方ともヤハウェ王族の国家)を攻め

○カルデヤ人(軍勢)が町を包囲→王サルゴン2世が率いるアラム人の軍隊*とシバの女王が率いるサバ王国の軍隊**が町を包囲
* アラム人の軍隊...アッカド人や他のアムル人の軍隊、しかし、「彼らの奴隷となったヤハウェ王族や、それらの混血人」も従軍させられていたでしょう。

** サバ王国の軍隊=シェバ人=アラビア人(=ヌビア[=アマレク族]+ヒッタイトの混血人)や奴隷となっているヤハウェ系の人々や、それらの混血人なども従軍させられていたでしょう。

○王(ゼデキア)→ヤハウェ王〜ダビデ王か?

○ここでのソロモンが主の宮のために作った。。。→ヤハウェ王が主のために作った。。。

○侍従長ネブザルアダン→もしかしたら、シバの女王?

○ユダの地→フェニキアか北イスラエル

○リブラにいるバビロンの王のところへ連れ上り→(戦地の近く)にいるダマスカスの王のところへ連れ上り

○カルデヤ人たちはゼデキアの子らを彼の目の前で虐殺した。→新アッシリアとサバ王国の将軍たちはヤハウェ王の子らを目の前で虐殺した。

○王はゼデキアの両目をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行った。→サルゴン2世やシバの女王はヤハウェ王の両目をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、ダマスカスへ連れて行った。

こんなふうに、混ぜこぜにして書いたんですね〜こういうのもアングロサクソン王族の特技だっちゅ〜の!!

(ただし、25章22節から以降の話は、新バビロニアのネブカドネザルが南ユダ王国の王たちをバビロンに捕囚してから後のほんとうの話で事実だと思われます。)

ミツパ*(ベニアミン族の町)のゲダルヤはの南ユダの総督にネブカドネザルから任命されたので、また、南ユダから逃げていた将校たちが戻ってきたらしいです。しかし、これらの南ユダの将校たちはゲダルヤを打ち殺し(バールでですかね?ゾ〜)、ミツパでゲダルヤといっしょにいたユダ人やカルデア人たちを打ち殺した。それらの将校たちと他のユダ人たちはエジプト(シェバ人の王朝)へ立って行った。カルデヤ人を恐れたからである。せっかくのネブカドネザル王の敵への温情も無になったということですね〜!〜〜。

* エホヤキン(南ユダの王)

エウ゛ィル・メロダク(=アメル・マルドゥク、ネブカドネザルの子で2代目の王)
(エホヤキンを解放してあげていますよ〜)

新バビロニアのしたユダヤ人の「バビロン捕囚」は、南ユダ王国の現地人総督による統治や南ユダ王の37年後の解放などなかなか温情に満ちたやさしい統治や処罰だったようですね。きっと、ユダ王エホヤキムにも残虐なことはしてないんじゃないでしょうかね〜 だから、解放されるまで生き延びることができたんでしょうしね〜


p.s.2

☆☆☆☆☆
それから、このずっと上の「サルゴン2世」のサイトに書かれている生存・活躍年代がほんとうなら、サルゴン2世とシバの女王とは同年代に活躍していたとすれば、シバの女王がサルゴン2世を訪問した年代もB.C.700年代ということになりますね〜!そうすると、フェニキアは、B.C.12C〜8C頃の間は独立して繁栄を謳歌していたということになり、その後、B.C.722年に新アッシリアとサバ王国に乗っ取られたということになりますね〜 そして、その’新アッシリア帝国を実質操っていたのは『シバの女王』だった’ということに。(6月19日追記)


(次につづく)
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by Ulala-lov | 2011-06-14 17:43 | シバの女王 | Comments(0)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜


<天界の女王アスタルテ>

シバの女王にまつわるパルミラの役割はこれで完了するはずだった。ところが、そうはいかなかった。最後にもう一度あたりを見渡してから、クリスティーナと私はベル神殿をあとにし、仲間に合流した。

彼らは'ウ゛ェールをかぶった3人の婦人の浮き彫り'*をしらべているところだった。ウ゛ェールをかぶる習慣がイスラム教の発生以前にさかのぼる証拠だ。この習慣は宗教的なものではなく、うら若い女性たちを淫(みだ)らな視線やそぶりから守るとともに、奴隷や召使いや娼婦と区別するためのものだった。*

*巻末の注より、
ウ゛ェールの着用は、B.C.12C、ティグラトピレセル1世の時代に制定されたアッシリアの法典にまでさかのぼる。この法典には次のような箇所がある。「貴人の娘は肩掛け、ローブ、あるいはマントでその身を隠すべし....娼婦はその身を覆(おお)い隠すべからず。頭部は顕(あら)わすべし。
娼婦が身を覆い隠すを見し者あらば、その女を捕らえ、証人を伴いて女を裁きの庭に引き出すべし...棒にて女を50回打ち、頭から松やにを浴びせよ」(James B. Pritchard,ed.,Ancient Near Eastern
Texts,p.163) (注:おわり)

そこから数歩のところにも彫像があったがこちらは見るのに骨がおれた。かつてベル神殿の上の方にあった石板がはるか昔に崩れ落ち、小ぶりの二枚の石板の上に載っている。その石板の下に仰向けにもぐり込むと、風雨にさらされなかったせいで驚くほど保存状態のいい浮き彫りを見ることができる。

みんなの順番が終わるのを待って、私も石板の下にもぐり込むと、鼻から10センチとはなれていないところに、透けた衣装*(石で表現できる透明さでの範囲でだが)をまとった女性像が見えた。女性は顔をウ゛ェールで覆(おお)ってはおらず、片方の乳房(ちぶさ)もあらわにしている。ほんの1メートル先では白日の下、全身を布で覆っている女性たちがいる。なんというコントラストだろう。

* シバの女王もスケスケの非常に薄い透けて見える、つまり、超シースルーな衣装をつけていたらしい。これまで紹介しているニコラス・クラップ著「シバの女王」の p.102に、1921年の映画「シバの女王」(もちろん、時代考証がなされているはず)でも、主役の女優「ベティ・ブライスは何も身に付けていないも同然だった。彼女はある記者にこう打ち明けている。「28種類の衣装があるんですけど、それを全部いっぺんに着ても暖かくないそうにないの」

この女性は奴隷か。あるいは、召使いか娼婦か。いや、ちがう。翼がある。天使だろうか。左手でつかんでいるのはヘビのような蔓(ツル)か。それとも、蔓のようなヘビか。それに、兜(かぶと)らしきものを頭に戴(いただ)いている。戦士だろうか。それに、右手はどうしたというのだろう。指のかわりに蹄(ひづめ)が生えている。私は手探りでカメラを取り出し、身をよじるようにして、広角レンズで接写できる魚眼レンズをつけた。

急に、あたりが騒がしいのに気づいた。走りまわる足音や、くぐもった叫び声、気味の悪いヒューッという音。娘にせかされながら、私は写真を撮り、石板の下から滑りでた。日が陰っていた。砂やがれきで茶色に染まった、天にも届きそうな竜巻が、神殿めがけてやって来る。みんな境内の西門を目指して避難している。一行のほとんどは間に合ったが、クリスティーナと私は逃げ遅れた。砂が目を刺し、髪の毛に混じり、首筋から服の中へも入りこんだ。だが、幸いにも竜巻の渦は思ったほど強くなく、気でも狂ったように風が巻き上がるが私たちを空中にさらうほど強くはなかった。

竜巻は数分間、境内をぐるぐる回ったかと思うと、砂漠を東へと蛇行しながら行ってしまった。そのあとは一日中、空が暗かった。空中には塵がただよい、突風に引きちぎられた草木の匂いがたちこめていた。

石板の下側に彫られた像の女性のことに思いをめぐらせたのは、カリフォルニアへ戻ってフィルムを現像した後だった。それからは、彼女のことをよく考えた。

シリアへの旅に同行した考古学者トム・パーカーは、この女性はニケ* だろうと言っていた。ギリシャには翼のある勝利の女神いるが、ニケはその中東版だ。彼は正しかった。姿勢と衣装は有名なパントスのニケの流れをくんでいるが、それだけではない。左手の蔓かヘビのようなものは豊穣の象徴で、蹄を思わせる右手は悪魔の印だ。石板の下の女性像はニケと、もうひとり.....得体の知れぬ者が組み合わさったもののようだった。そのもうひとりは、パルミラに広く見られるアスタルテ*だとあとで分かった。*

サモトラケのニケ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%
A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B1%E3%8
1%AE%E3%83%8B%E3%82%B1

ルーブル美術館(サルゴン2世、ニケ)
http://kirisai.syuriken.jp/france33.html

* 巻末の注より、
パルミラ神殿におけるアスタルテの主たる役割は、ただちには判然としない。これは、この女神がさまざまにその姿や特質、通称を変えることによる。彼女は、碑文や図像では自らの名前で現れるが、同時にアルラート、ベルティ、ベルトゥク、イェディエベル神、あるいは、タドモル神としてもその姿を現す。ジャヴィエ=テクシドルはその著書『パルミラ神殿(Pantheon of Palmyra)』で、これらはすべて天界の女王アスタルテの化身だとしている。

* アスタルテ
IzFACT神話『ソロモン72柱』 29 アスタロト/ Astaroth イラスト&解説
 別名:アスタロス、アスタロート、アスタロテ 
http://izfact.net/solomon/29_astaroth.html

イシュタル女神(=アスタルテ)を表す石碑〜古代オリエント美術:ルーウ゛ル美術館
http://www.louvre.fr/llv/oeuvres/detail_notice.jsp?
CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198673225228&C
URRENT_LLV_NOTICE%3C%3Ecnt_id=1013419867
3225228&FOLDER%3C%3Efolder_id=98527236965
00800&baseIndex=2&bmLocale=ja_JP
(勢力と領土拡大の絶頂にあった(新)アッシリア帝国のアッシリア人に崇拝されていたんですね)

兜をつけたニケと同じく、アスタルテも戦いを好み、天から降りてきては、これぞと思う者に勝利を授ける。怪しい輝きを放つ宝石のように、彼女はさまざまに変化する多くの面を持つ。豊穣の神、性愛の神、運命の女神。「ベルトゥ」(女主人)という名で呼ばれれば、「ベル」(主人)の配偶者ともなる。天空の星すべてのうちでもっとも明るい金星であり、月であり、天界の女王だ。特定の文化に属さず、多くの文化で女王の座を占めた。バビロニア人にとってはイシュタルであり、アラビア人にはアルラートあるいはアッタル、さらに、カナン人やイスラエル人にはアシュトレトだ。

そして、アスタルテをシバの女王とする者もいる。

シバの女王に関して、ドイツの学者エーリヒ・ツェーレンの記述には、あまりにも複雑な仮説が多いので、私ははじめ疑問を抱いていた。「列王記上」でシバの女王がソロモンにまみえる話*を読み、ついでソロモンがヤハウェに背いて多神教の神々を崇めた話**を読めば、シバの女王の身元について手がかりが得られる、とツェーレンは言う。「列王記上」第11章5節には、「ソロモンはシドン人の神アシュトレトに従った」とある(シドン***はシリアの都市で、パルミラが興(おこ)る以前にさかのぼる)。ソロモンはアスタルテを讃(たた)えて、オリーブ山の南、エルサレムとは反対側にある丘の頂に記念柱を建立した。

* 第1列王記10章(シバの女王がソロモン王を訪問するくだり)
http://homepage3.nifty.com/IUCC/bible//o1110.html

** 第1列王記11章
http://homepage3.nifty.com/IUCC/bible//o1111.html
(11章全部読むと、ソロモンが700人の王妃としての妻と、300人のそばめをもち、その妻たちの崇める異教の神さえも信仰していた。それで、ユダヤ教のヤハウェの神の怒りをかい、ソロモンの後継者からはその権威を失わせると宣言された。神様は、ソロモンの父ダビデの信仰深さに免じてソロモンが亡くなるまでその権威をそのままにしておかれた。そのとおり、ソロモンが亡くなると、イスラエル王国は南の「ユダ王国」と北の「北イスラエル」のふたつに分裂してしまうのでした)

*** シドン(=サイダ[アラビア語で魚の意]ともいう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A
4%E3%83%80

古代レバノンの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%
E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3%E3
%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

シドン(=Sidon) の地図
http://hiki.trpg.net/BlueRose/?RepOfLebanon+UFmaps

中東地図
http://www.meti.go.jp/hakusho/tsusyo/kakuron/
H13/MAP03-02-00.htm

レバノン南部の町シドンで起きた爆破事件 - 月の砂漠ーヨルダンから
http://plaza.rakuten.co.jp/fmtours/diary/20110
5280000/

レバノン旅行記:ベイルート、シドン、ティルス
http://members.jcom.home.ne.jp/tabibito5/syria2.htm

海の要塞シドン  〜世界の記述
http://blogs.yahoo.co.jp/kaientai1867/40779940.html
(後で書きますが、フェニキア人は結局、紀元前9世紀にはアッシリアに征服されました。ですから、その時は、フェニキア人といっても、支配層はアッカド人で、ほんとうのフェニキア人は奴隷にされていたと推察されます)しかし、紀元前603年には新バビロニア*(カルデア王国=どうもシュメール人)によって解放されています。しかし、それも、つかの間、今度は、B.C.539年にアケメネス朝ペルシャに征服されます。

* 新バビロニア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%
AB%E3%83%87%E3%82%A2%E4%BA%BA

(引用一時おわり)〜〜〜〜〜〜〜

上の古代レバノンの歴史のサイトで、「フェニキア時代」の項目のところを見ると、B.C.1400年代にエジプトのトトメス3世によりシリア、レバノンは支配されていた。しかし、エジプトは弱体化していき、B.C.1100年代に独立した。それからの3世紀は、コミュニケーションや貿易で利用された古代フェニキア人によるアルファベットの発明がなされた繁栄と外国からの自由の時代だったとか。ということはフェニキア人は紀元前3000年頃、いや、もっと何千年(B.C.6000年?)も前からこの地に住んでいた原住民?

さらに、「アッシリア時代」の項目のところを見ると、アッシリアの時代はB.C.895〜608年まで続いたとあります。そして、B.C.750年頃、ティルスとビュブロスが反乱を起こしたが、ティグラト・ピレセル3世*は、反乱を鎮圧し、重税を課したとあります。また、B.C.721年にティルスは反乱を起こしたが、サルゴン2世(B.C.722~705年?)は、ティルスを包囲し、ティルスの民に処罰を与えたとあります。B.C.600年代初め頃、シドンが反乱を起こしたが、エサルハドン王(B.C.681〜668年?)によって、徹底的に破壊され、シドンの民は奴隷化され、また、彼は、シドンの廃墟の上に、新しい都市を建設したとあります。

(:当時のアッシリア王)
* ティグラト・ピセル3世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%
A3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83
%BB%E3%83%94%E3%83%AC%E3%82%BB%E3%8
3%AB3%E4%B8%96

B.C.1100年(ほんとうは300年後の800年代、この都市(=ダマスカス)は’アラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家=(新)アッシリア帝国’*の中心になる。アラム・ダマスカスの王はこの地域をアッシリア人とイスラエル人(シュメール人?)とのいくつもの戦争に巻き込んだ(このように嘘が多い。原住民のフェニキア人=多分、シュメール人がエジプトの支配から逃れて独立していたが、頻繁にアッシリアに攻撃され、すでに北部シリアを征服されていた)そうした王の一人、ベン・ハダド2世(=嘘。アッシリアの王シャムシ・アダト1.2.3.4.5世をもじってる? 本当は、「シリアと海岸の12人の王の連合軍」)は、カルカルの戦い**においてシャルマネセル3世(B.C.858〜824年、新アッシリアの王)と戦った。この時は新アッシリアが負けて退散した。しかし、B.C.732年、ティグラト・ピレセル3世(新アッシリアの王)?もしくは、サルゴン2世(こっちみたい!)についに征服され、その後数百年間独立を失った。ところが、B.C.572年には新バビロニア王国のネブカドネザル2世(カルデア人国家の王)の支配下に入る。← <p.s. フェニキア人(ヒッタイト人に奴隷にされていたシュメール人)たちは同じ種族のシュメール人の王「ネブカドネザル2世」によってヒッタイトの支配から解放されたということみたいです。>

*アラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家
アラビア半島(アラビアではなく、メソポタミアだと思われます)から来たセム語派系の遊牧民とウウィキにありますが、これは’新アッシリア’のことのようです。しかし、それは、B.C.800年代になってからのことです。 このB.C.1100年頃には、古代フェニキア人=シュメール人は、アモン人(エジプトのおそらくヌビア人+ヒッタイト人(=アムル人)=シェバ人=アラビア人)に乗っ取られた後、やっと独立したシュメール人たちの都市国家群「フェニキア」(フェニックス - 蘇生、再生の意味)がありました。前述でリンク先として紹介した「レバノンの歴史」のほうの記述が正しいと思われます。(ただし、当時の中東のすべての歴史的年代がもっと以前という可能性もありますが。つまり、アッシリアのサルゴン2世(B.C.722~705年?)がイスラエルのソロモン(B.C.965〜925年頃)とすれば、250〜300年くらいの差がでてきますので。いったい、どちらかの年代が正しい歴史の年代なのでしょうかね〜?)

要するに、アラム人って、結局、アッカド人などアムル人(=テュルク族の一派)のことなんじゃないかしら?アラム語*(=後のアラブ語?)って、結局、アッシリア帝国(アッカド人の王)の言語のことでしょう。

一方、前述のリンク先「古代レバノンの歴史」にもあるように、「フェニキアは、ヒッタイト人やエジプトのアモン人(アメン・ラー信仰の=シェバ)に乗っ取られていたが、B.C.12Cにやっと独立を果たし自由になって貿易で繁栄していた。そして、その頃にシュメール文字をアルファべットに発展させたということです。

そのフェニキア語を新アッシリアの王(アッカド人=アムル人の一派)が、アムル語やアッカド語などと組み合わせて改良して新たな『アラム語』をつくったということでしょうね〜。「アムル」のムとルを引っくり返してアルム、発音しやすくして「アラム」ですからね〜

* アラム語
http://www.h3.dion.ne.jp/~ivrit/aramaic.htm
映画「パッション」のアラム語・ラテン語
http://arabic.gooside.com/aramaic/lema/sabaqtani.html

* * カルカルの戦い(B.C.853年とありますが、サルゴン2世の時みたいなので、もう少し後みたい)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%
AB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%8
8%A6%E3%81%84

ということで、シュメール人は、せっかくフェニキア(B.C.20C頃にヒッタイト人に征服され、鉄の製法を横取りされていた。その後もミタンニやエジプトなどの征服されてきた)を復活させた。しかし、300年後に「新アッシリア」に征服されてしまったんですね。これにより、「新アッシリア」は、フェニキア人による貿易で非常に繁栄していた地中海東部沿岸の貿易港をもつ都市「シドン」や「ティルス」を手に入れます。さらに、地中海沿岸でアフリカ北部にある「カルタゴ」***(現在のチュニジアあたり)への侵攻していき、その地を手中に納めたようです。フェニキア人(いままでネット上にでていたフェニキア人=ヒッタイト人というのは’ガゼネタ’=ウソの情報だったんですね〜 ーー。) カルタゴはB.C.8C頃にフェニキア人が創った国といわれますがウソですよ〜!

***カルタゴ(B.C.814年説が有力であるが、確かではないらしいです)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83
%AB%E3%82%BF%E3%82%B4
(まあ、ウィキに書かれている細かなことはあまり信じられません。半分くらいあっているかも。でも参考になることもあります。おそらく、ヒクソスのリビアと合併してカルタゴと名乗っていたのでは? とにかく、B.C.6Cにカルタゴは地中海沿岸の古代フェニキア(シュメール人)都市を攻略して、アフリカ北部沿岸地域をすべて攻略した地中海の覇者だったというのは本当かもしれません)

ディードー(伝説ではティルスの女王と言われている)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82
%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BC

どうも、このディードーは、シバの女王のようです。カルタゴの建国は、B.C.800年代前後のようなので、年代的にもシバの女王の時代とされるのがその前後くらいなのでちょうど合いそうです。新アッシリアのサルゴン2世から以降4代にわたってアッシリア帝国の影の力として君臨していたシバはシドンやティルスも我が庭のようなものだったことでしょうし。それらの貿易港の港町では、シバはアスタルテ女神(ダゴン神=海神)の化身として崇められていた女王だったのでしょう。ダマスカスに滞在したり、パルミラもシバの女王の別荘のようなところだったのかもしれません。もちろん、それ以上にパルミラはベル神の聖地、アスタルテ女神(=ベル神の妻ベルトゥでもある)の聖地としての意味が大きかったのは確かですけれどね。そして、シバはサルゴン2世の側室となった後も、女性の貿易商として活躍していたのでしょう。また、アスタルテ女神さながらに、まさに領土拡大の戦士でもあったのかもしれません。

keizo's home/ チュニジア旅行記
http://www4.airnet.ne.jp/keizo/TUNISIA/02_BYRSA/
02_byrsa.html

とにかく、本当のフェニキア人≠ヒッタイト人ということですね! まっ、なりすましフェニキア人(ほんとうは、「アッシリア人=アムル人の中のアッカド人=マケドニア人」や「シェバ人=ヌビア人+アムル人の中のヒッタイト人」)が貿易商人として貿易していたり、海賊になったり、戦士になったりしていたんでしょうけど。

しかし、アフリカ北部の地中海沿岸には、すでに、それ以前のB.C.15〜12C頃に、ヒクソス(アムル人=ティルク族)の一部がリビア(チュニジアの隣)あたりに侵攻していったということです。幼児の生け贄の儀式をしていたのは彼らの時からだったんしょうね。もちろん、「カルタゴ」の幼児の生け贄の痕跡は有名ですが。ヒクソス=ヒッタイト人やアッカド人その他のアムール人(テュルク系)みたいでほぼ同類だから、リビア、チュニジアの隣同士で仲良くしていたかも。。。


’本当のフェニキア人’(シュメール人)は、『奴隷』として、彼らの得意な造船、船の操縦、貿易、会計などをさせられて酷使されていたんでしょうけどね。気の毒に。。。ブツブツ。。。
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by Ulala-lov | 2011-06-13 00:00 | シバの女王 | Comments(0)

(2のつづき)


イスラム暦の110年はキリスト教ではA.D.728~729年にあたるが、これはなんと、カリフのヒシャーム・アブド・アル・マーリクがシバの女王を改葬するように命じたと伝えられる年だ。壁に刻まれたふたりの悔悟者(かいごしゃ、ざんげをした人)はこの埋葬にかかわっていたのだろうか。

シバの女王の霊廟(れいびょう)は、今、私たちが立っている内陣だったのだろうか。

『千夜一夜物語』の第576夜に織込まれた一場面が、アブド・アル・マーリクの願望と命令、そしてベル神殿の私たちが立っている場所で起こった(あるいは起こらなかった)かもしれないことに想(おも)いを得ているのは、まずまちがいない。

それは「真鍮(しんちゅう)の都」の物語で、その中で「ムーサ公」(カリフのアブド・アル・マーリクに相当)が広大な砂漠を横断し、もう住む者のないりっぱな都まで旅をする。都の門は閉ざされていた。公は、はしごを持ってこさせ、城壁を乗り越えると、通りを歩きまわり、広大な廟墓(びょうぼ)宮殿に入る。その中心には丸天井の部屋があり、その中には、

金襴(きんらん)の天涯が黄金の柱に支えられ....(そのしたの)寝椅子に乙女がひとり横たわっていました。乙女はさながら光り輝く太陽のようで、だれの目もいまだかつて見たことがないほどの美しさでした....乙女はまるで、右に左にと目を移しながら彼らをじっと見つめているようでありました....(乙女の頭上には)次のような言葉が記された黄金の飾り板がありました。
「汝(なんじ)、我を知らざれば、我、我が名を告げん。我はタドムラ。幾多の国を公平に統治し、民衆の上に君臨せしアマリク族*の王たちの娘なり」*

* アマリク(=アマレク)人 ーーーーーーーーー

シナイ半島の西部にあるパランという荒れ野の住人。アラブ人。

うららのアセアセ;日記 〜「『シバの女王』とは。。。5 - 北部・南部アラビア」
引用文<ベエル・シェバで>のところにもアマレク人について書かれていました!

『シバの女王』とは。。。  5-1 北部・南部アラビア

(引用)「アマレク人(聖書でイスラエルの国境線を脅かすアラブ人の総称)だったのかもしれない。しかし、ベエル・シェバ(現在のイスラエル南部)では、アマレク人はさほどの脅威ではなかったらしく、時にはイスラエル王国の民(ダビデを裏切った、後に「ユダ王国」になる南部のユダ族とベニヤミン族のことです!)と手を組んでさえいたかもしれない。」とあります。

整地旅行 l エラの谷・ベエルシェバ l にこまるツアー ACTS企画

ただし、上の記事で「ダビデはユダ部族」とあるのですが、ダビデ王は北イスラエル(ヤハウェ系の都市国家群があった)の出身のはずです。前述のように、ユダ部族とベニヤミン部族の2部族は、イルラエル王国の南部に居住していたサクソン系部族で、後に、「新アッシリア」のスレイマン2世(旧約聖書のソロモン王)に寝返って北イスラエルを挟み撃ちして滅ぼし、「南ユダ王国」=ソロモン王時代のイスラエル王国を建国しました。

サウル王失格
(旧約「サムエル記」15:16、神の’アマレクを滅亡させよ’との命令に従わず)

サウル

戦利品に託された神様の御計画
(アマレク人が、ダビデとその軍隊が不在中のツィグラという村を奇襲した。帰ってきたダビデたちはアマレク人を追跡し、奪い取られた人々と財産を奪い返す)

2つの法令

アマレク人は旧約聖書の「エステル記」第3章に出てきます。『アガグ人ハメダタの子ハマン』(3:1)とあります。アガグ(アガウともいうらしい)というのは、アマレク人の王家の名称だそうです。(うらら...これも嘘みたいです。他のサイトを見ると、アガグ族が打ち立てた王朝が「ザグウェ王朝」ということで、アマレク族はその王朝に従属、または、協調していた有力部族みたいですが、結局反乱を起こしアガグ族を打倒、その後、ソロモン朝を受け継ぐエチオピア帝国**ができる)ハマンはアマレク人**の王族の血をひく者でしたが、ユダヤ人と同様、今はペルシャ帝国の支配下にあって生きる者でした(アケメネス朝ペルシャも結局はサクソン軍団なので、アマレク人とは仲間)。始祖アマレクは、ユダヤ人の先祖ヤコブの双子の兄エサウの孫とか?(うらら。。。ちょっと違うような気がします)そして、歴史的には常にユダヤ人(アシュケナージを指しているのなら)のことの敵となって登場します。しかし、ここのユダヤ人とはアブラハムやヤコブのこと=スファラディムのはずですから、つまり、エジプト王の兄オシリスが弟のセツ(=象二郎、母親が『シバの女王』)に惨殺されて、セツに王位を奪い取られたことを暗示しているようです。なので、ここでいうエサウとはクシュの子孫(ヤハウェ系)のことを言っているのかもしれません。

冒頭にありますように、ハマンは悪魔のひな形だそうです。But, Haman is not Agaw people , and should be rather Amhara group. Now I guess Haman(=Hamer) ,Tsemay, Bena tribes and Maasai etc. must be Original Sheba tribes and also Original African tribes. Satan must be Arabian origin' Hittite Kings & Sheba Queens and their Magoy'. Anyway, アガグ人(エチオピア南部の高原地帯に住んでいた)はシュメール人(=ヤハウェ系=人間=ノアの子孫)かも?昔からシバの女王の国にとっては敵で悪魔だったわけですね〜
Agaw は良い人たちだった?じゃなく天使のような人だったんでしょう!(エステル記も嘘多し)

*Agaw people
(Cush speaking,Zagwe dynasty, were living in Southen(later move to North or other countries?) Ethiopian highlands but forced out by Semetic speaking Tigray-Tgrinya and Amhara people)

** Amhara people~No2 largest population
(Amhara speaking, living in the central highlands )

Himayarite Kingdom
周辺拡大地図

Habesha people (=Habeshas=Abyssinians)< Amhara people?
(Ge'ez =South Semetic speaking, now Amhara speaking)
ゲエズ語=南方セム語=現在は「アムハラ語」という。

+++ Omoro people~No1 largest population
(Cush speaking, Sunni Islam クシュ、サニーイスラム語 47%, Ethiopian Orthodox エチオピア祖語30.5%)

Cushitic language クシュ語

Ethnic groups in Africa(アフリカの原住民グループ)

'うららおばさん’の推理。。。ということは、最初にこの地に住んでいたクシュの子孫がエステル記の中の『アガグ朝』で、『シバの女王』たちの「サバ王国」に征服されてしまった。その後、クシュ人やプント人のノアの子孫たちは「ザグウェ朝」(1137~1268年)として再度蘇ったが、またまたサバ王国(=アクスム)のアマリク人(=アマレク族に同じ)イノク・アムラク率いる「ソロモン朝」に征服されたのでした。

エチオピアの歴史 l DTACエチオピア観光局

クシュ人の系譜のベジャ人?はキリスト教国のヌビア文明を打ちたてアスクム王国と対立したととか。クシュ人はヌビア地方の一部に「メロエ王国」*を打ちたてていましたが、アスクム王国に紀元350年頃に滅ぼされています。とにかく、クシュ人(ノアの長男ハムの長男クシュの子孫たち)が初期のエジプト王朝を築いた人たちです。

* メロエ王国(B.C.6C〜A.D.4C)

BC8世紀に「エジプトを征服」とありますが、エジプト王朝はBC5~6000年前にクシュ族が築いた王朝だったのですから、それを征服していたのは『シバの女王』たちサクソン軍団なのですから、ここでは「エジプトを取り戻した」というのが正しい表現です。

「大自然を求めて〜エチオピア南北周遊」 (写真集のブログ)

上のサイトの写真集(12):
「アクスム」編

(最初から18番目前後のフォトの下にアスクムの言語はゲズ語=ゲエズ語**で(聖書はゲエズ語で書かれいて、現在でも宗教用語として使われている)であったが10世紀くらいから日常では使われなくなったとのこと。今の国の公用語は、アマリク語で12世紀ラビベラで使われ始めて(アマリク族が使っていたのは紀元前からのはず)から広まったようです。ということは、つまり、シバの女王がアマレク人の王族だとすれば、やはり、エチオピアもアマレク人(=アムハラ人に同じ)が支配層でアマレク語が広まっていったのとは関係が深いのかも? )
(**ゲエズ語...古代エチオピア北部で発達した南方セム語のひとつ。

「エチオピアの聖書」
アラビア半島の古代南アラビア文字に由来しているとのことです。)
ーーー(おわり)ーーーーーーーーーーーー

*アマリク族の王たちの娘なり
巻末の注より、
これ以降の引用は、リチャード・バートン(Richard Burton)訳、「The Book of a Thousand Nights and a Night」[邦訳『アラビアン・ナイト』(前嶋信次訳、平凡社)]、第6章、p.114〜15から。(注:おわり)


>>>> 本『シバの女王』の内容の引用に戻りま〜す!

このくだりを訳しながら(南アラビア語?アラム語?から英語に)、19世紀の碩学*「サー・リチャード・バートン」は、その女性(つまり、アマリク族の娘)は『シバの女王』以外の何者でもないと確信した。そして、「タドムラ」という名から、物語の場所を特定した。というのは、タドムラとは「タドモルの女」という意味で、タドモルはパルミラの古名だったからだ。(つまり、パルミラのゼノビアは『シバの女王』だったということです!)

* 碩学.... 広く、深く学問を修めた人
碩学 - Yahoo!辞書

ムーサ公は数歩進み出て、このシバの女王にあいさつしようとするが、家来のひとりが引きとめる。

「アッラーが閣下をお守りくださいますように。この乙女はすでに死んでおります。もはや命はございません。どうしてあいさつをお返しすることができましょうか」。そしてさらに言いました。「まったくもってこの乙女は、じつに見事な技によって生前さながらに保たれた亡骸(なきがら)にすぎません。両眼は死後に取りだされ、そのあとに水銀を入れて、またもとの場所に戻されたのでございます。そのために両眼はきらきらと輝き、風がまつげを動かしますと、見る者には、この乙女がその目でまばたきをし、こちらを見つめるように思われますが、じつのところ、すでに死んでいるのでございます」

背筋がぞくっとする場面だ。

そして、『千夜一夜物語』のこの断片のもとである公算の高い史実を突きとめるために、架空の人物ムーサ公と実在のカリフ「アブド・アル・マーリク」の足跡(そくせき、あしあと)をたどるのもまた、ぞくぞくする体験だった。

ひょっとすると、物語のほうが示唆しているように、カリフは実際にパルミラに旅をして、シバの女王に違いないと信ずるひとりの女性に、それにふさわしい礼を尽くしたのかもしれない。
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by Ulala-lov | 2011-06-12 20:48 | シバの女王 | Comments(0)

(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ダマスカスからパスで一路パルミラへ向かう。木も生えない灼熱の丘が、暑さにかすむ地平線の彼方まで続いている。ダマスカスから東へ3時間ほど走ったときだった。小山を登りきったところで、目の前に突如パルミラの神殿と野外劇場、それに1000本はあろうかというきらめく円柱が姿を現した。円柱は崩れているものもあったが、ほとんどが原形をとどめて列をなしていた。その先には壮麗な四面門が見える。凝った装飾の厚い石板を、巨大な柱の群れが支える構造になっている。最上質の花崗岩からなる無数の円柱は、エジプト内陸部で切り出され、ナイル川を下り、地中海を渡って、砂漠の中を何百キロも引かれてきたものだった。

今でこそ廃墟となっているが、かつてのパルミラはアラビアの重要都市として栄えた町で、1万本ものナツメヤシの緑に映える驚くべき石の都だった。これらの建造物を見るやいなや娘のクリスティーナは「(ラス)ウ゛ェガス*みたいね」と形容したが、観察を進めていくうちに、実に当を得ていることが分かった。ふたつの砂漠のふたつの都市が、どちらも既存の建築様式を取り入れ、それを'かなり誇張'している点だった。(引用おわり)

* ラスベガス

ラスベガス観光局公式サイト〜イメージギャラリー
(確かに、わりとド派手っぽい建造物がたくさんかも? ^_^; )

スカイウォーク、ガラスの床材を一新し、リニューアルオープン

ギャンブルだけじゃなくて、グランド・キャニオンとかもあるんですね〜 インディアン居住区もあり、ここを運営しているのはこの地を統治している先住民族ワラパイ族だそうです。しかし、前述のアル・キサーイーの『予言者たちの物語』を核とした中世のイスラム教徒の人々の想像力が生んだ物語『シバの女王、世界の王ソロモンを訪ねる』のところ、p.60の「ガラスの床」の記述に以下のようにあります。

((引用))〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜
ジンたちは、ソロモンとビルキースが結婚して王子が生まれれば自分たちは一生奴隷のままだと戦々恐々となり、彼らはソロモンにビルキースが自分たちと同族(実際、半分はそうだった)で、自分たち同様、脚が毛深く、足先はロバの蹄のようである進言した。そこで、ソロモンは確かめようと一計を案じ、ソロモンの館にガラスの床を張り、その下に水を入れて魚を泳がせた。そして、ビルキースをその館に招いた。ガラスの床を池と見まちがえたビルキースは、ごく自然に衣の裾を持ち上げて水の中を歩こうとした。それで、見たいものをソロモンは見て、白状した。「待たれ!これは床だ。滑らかなガラスでできているのだ。」

おそらく、蹄はなかったが、脚は毛深かったのだろうというのが廷臣たちの憶測だった。(しかし、シバの女王の足指はダチョウの足のように3本指だったのです!以前、落下したUFO内から三本指の足の女性三体{=ソックリさんのクローン三姉妹}の死体が発見されていますからね〜)ソロモンは驚き、奴隷のジンたちは喜んだ。しかし、ソロモンはジンに消石灰と灰を混ぜた水薬を使ってその厄介な毛を取り除くように、と命じた。 ((引用おわり))〜〜〜〜〜〜〜〜〜

古代の「シバの女王&ソロモン」〜’ガラスの床’〜の伝承、そしてソロモンがシバのために建てた都ともいわれる’誇張された石の大建造物群’のある’砂漠のオアシス’『パルミラ』と、やはり、’誇張された巨大ビル群’が立ち並ぶ街で、新しくスカイウォーク(’ガラスの床’)ができた〜現代の’砂漠のオアシス’『ラスベガス』はなんだか面白い’共通点’と”何らかの縁”(シバの女王とソロモンの子孫が造った都市?)があるような?また、結婚の手続きや規約に関しても、米国の他の州よりきわめて寛容らしく、シバとソロモンの関係とでもいえるような。。。

古代シリア地方の砂漠のオアシス「パルミラ」は、現代のアメリカに砂漠のオアシス「ラスベガス」として蘇っていたということなのでしょうか?

>>>本「シバの女王」の続きに戻ります。
(引用)〜〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜

パルミラの景観は古代ギリシャかローマ風だが、ギリシャかローマでは目抜き通りの両脇に並ぶ'列柱が一列'であるのに対し、パルミラでは"左右3列ずつ"になっているうえ、それぞれの円柱は、中ほどに"住人たちの彫像"をあしらっていた。残っているものから察するに、彫像の出来はまちまちだったようだ。すばらしいものもあるが、目がやたらに大きかったり、鼻が妙に平たい三角だったりするものもある。町の人がどれほど鮮やかな色を使って、こうした像や柱や建物を彩色したかは、すべてが骨のように白けてしまった今となっては知るすべもない。

<廃墟パルミラとシバ>

A.D.724〜738のあいだに、カリフのアブド・アル・マーリク(前述で、’パルミラでのシバの女王の遺骸発見’の報を受けてムスリム風の改葬を命じたカリフですよ〜)に遣わされた一行がこの地にやって来た。女王が聖典コーランの中で果たす役割にふさわしい霊廟(れいびょう)埋葬することをカリフがもくろんでいたからだった。

その何世紀も前に、この都は「バド・ザッバイ」と呼ばれるアラビア人女王のおごりが災いして、徹底的に破壊されていたのだ。『ゼノビア』という名のほうが有名なこの女王は、ザビビやサムシといった先輩の女王と同じく、力はあったが、愚行に走りがちだった。*

*巻末の注によれば、
アラビアの女王のあなどりがたさを疑うものがいれば、ボッカッチョの語るゼノビアについて(多少の疑いの目を持ちながらも)考えてみるといい。紀元(A.D.)240年に生まれ、荒野で育ったゼノビアは、狩猟に長け、「矢筒を腰に帯び、ヤギや雄ジカを追いかけては矢で射止めた。さらにたくましさを増すと、クマと組みあい、ヒョウやライオンを追いたて、あるいは待ち伏せ、生け捕りにしたり仕留めたりするようになった」。ゼノビアは、男性優位のセム族社会にあって確固たる地位を堅持し、歴代のアラビアの女王に強い関心を持った。たくましさに加え、「ゼノビアは美しい体をもっていた....そのうえ、黒い瞳は麗しく、歯は白く輝いていた」。敵はゼノビアの双眸(そうぼう、両方のまなこ)のきらめきを恐れ、女王と配下の軍勢は、近隣のペルシャ人、サラセン人、アルメニア人を屈服させた。「女王は、兵士に言葉をかける時には必ず兜(かぶと)をつけ、遠征中もめったに戦車に乗らなかった。たいてい馬にまたがっていたが、時には旗の前方を兵士と共に5、6キロにわたって歩いた。さらに、指揮官たちと酒を酌み交わすことさえいとわなかった」。世界を驚かすほどの大胆さで、ゼノビアはエジプトに攻め入って全土を征服し、続いてローマを目指したが、筋金入りの兵士から帝位にまで上りつめたアウレリアヌスという難敵とあいまみえるはめになった。アウレリアヌス帝はゼノビアを捕らえると、金の鎖で縛ってローマへ連れ帰ったが、敵ながらあっぱれとの思いで命だけは助け、ローマの東にあるティウ゛ォリへの流刑として、その地の邸宅に住わせた。(注:おわり)

ゼノビアは超大国ローマに挑み、大敗を喫した。皇帝アウレリアヌス自らが率いるローマ軍によって征服、略奪されたパルミラは、ローマ帝国の、そしてそのあとはイスラムのウマイヤ朝の、さびれた一都市になりさがった。
(カリフのアブド・アル・マーリクは、シバとゼノビアを混同していたふしがある。偶然にも、ゼノビアのアラビア語名であるバト・ザッバイは「毛深い者」という意味で、彼女の脚を揶揄(やゆ)する通称だった。そして、言い伝えによると、シバの女王もまた、毛深い脚でソロモンをおおいに驚かせたのだった。)

廃墟となったパルミラで、カリフの者たちはなんと、完璧な状態で保存された女性の遺骸を発見したという。その正確な場所は記録されていないが、町のすぐ西側にある塔墓のひとつだったかもしれない。この塔墓群はウンム・アル・バルキース、すなわち「バルキースの母」という低い丘を囲むように並んでいる(バルキースはシバの女王の正式名だ)

このシバと目される遺骸を改葬する場所として自然なのはモスク、それもやはり、かつて多神教徒の住人たちが最高神ベルに献じた聖域に建つモスクだろう。

そして、西方、砂漠の上空に小さな黒雲が集まっているのを見ながらクリスティーナと私が足を踏み入れたのが、その昔、中東全域でさまざまな形で崇められた「万物の支配者」=『ベル』の神域だった。正式には「テネモス」と呼ばれるベル神殿の境内は、300本近い柱からなる柱廊に縁取られ、平らにならされた、3万6000平方メートル*あまりの四角形の土地だ。

* 約3万6000平方メートルという面積の広さの目安
ディズニーランドは皇居より面積が広いのか?
(つまり、「皇居の2倍ちょっとの広さ」ってことですね〜!! それにしても相当広いですね〜!)

パルミラの人々はこの場所に集まり、ベル神に生け贄を捧げる仰々しい儀式を見物した。私たちは、司祭のための清めの場所を見た。彼らはここにある石の水盤に満たされた水で身を清めた後、露天の祭壇に進みでて、ラクダや雄牛、ヒツジなどを生け贄に捧げた。祭壇の向こう、敷地の中央には、パルミラの人々が自らの盛衰もその御心しだいと信じていた神ベルの神殿*が高くそびえていた。

「ベル」は聖書外典の話の中では「ドラゴン」(もっち、龍神ですよ〜)と同列の扱いを受けている、と日曜学校で習った記憶がある。それがどんな話だったかは覚えていないが、聖書に出てくるベルやミルコム(アモン人の神**)やケモシ(モアブ人***の神)は、”どれも(キリスト教より)格下の異教の神で、聖地から遠く離れた片田舎の洞窟や峡谷に人目を避けて祀(まつ)られた「忌(い)まわしいもの」という印象”(←*)があった。愚者を惑わす原始的な土の偶像といったところだ。それ(*の印象)が見当違いなのは、パルミラに残されたものを見れば明らかだった。

ーーーーーー(参考部分)ーーーーーーーーーー
* ベル神殿本殿〜パルミラ(5)

IzFACT神話「ソロモン72柱」01バエル/Bael イラスト&解説

** アモン人
(聖書では、モアブ人の兄弟民族で、先祖がロトであることからアブラハムの子孫であるイスラエルとは従兄弟同士に当たる民族とされるヨルダン川東岸の国家。イスラエルとは敵対関係にあった)

07アモン/Amon  ソロモン72柱 イラスト&解説 別名:ア—モン・マモン・アモイモン
(おそらくミルコムと同じ神のことじゃないかしら?アモンはアメン神、アメン・ラーの神、つまり、エジプト中王朝[B.C.2040〜1782年頃]を始めたヌビア地方[=エチオピア辺り]から進出して来た軍団[=元はアラビア半島からやってきた軍団]が崇めていた神)

*** モアブ人
(旧約聖書のロトとロトの長女との間に生まれた息子モアブに由来し、その子孫がモアブ人らしい)
ーーーーー(おわり)ーーーーーーーーーーー

★★★ベルの神殿の規模は、この神が旧約聖書のヤハウェにも匹敵するほど強大だったことを物語っていた。

神殿の内陣にあたる南北の神像安置所(アデイトン)に見られる凝った造りの天井は、石を彫った緻密なアザミとバラの象眼模様で飾られていた。南北どちらの安置所にもかつてのベル神の像が置かれていたが、ともに消失して久しい。運び去られたか溶かされたか、あるいは無惨に打ち砕かれたか。パルミラが滅びたあと、ベルの神殿はまずキリスト教会として、のちにモスクとして使われた。

しかし、キリスト教もイスラム教も、神殿の持つ多神教的な偉容を消し去ることはできなかった。これらふたつの一神教の形跡は、北側の、主を失った安置所の後ろの壁にしか残されていない。そこには古めかしいクーフィ体(ごく初期のアラビア文字)でこう刻まれている。「神よ、オベイド*の子アブド・アッ・サマドとヤジーディーの子ムハマンドを憐れみ、彼らの過去と現在の罪を赦したまえ。110年、これを記す。神よ、これを読みてのち『アーメン』と唱える者すべてを憐れみたまえ」

* オベイド(スーダンの中央部にあり、古代から交通の要所となっている都市)

(つづく)
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by Ulala-lov | 2011-06-11 12:05 | Comments(1)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。


(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜〜

◎『砂漠のオアシスに以外なシバ』

<<さらなる候補者たち>>

こんな厄介なことになるはずではなかった。行方不明の人(シバの女王)と行方不明の「国」
(シバの女王の国)。シバの女王と交渉があったとされるソロモン王を調査していくうちに、彼が強大な君主などではなく、丘陵地帯の一首長にすぎなかったらしいことが判明した。(だからといって、彼が信仰の厚い賢人だったという聖書の評価がそこなわれるわけでは断じてない)。

1. 以上を踏まえてなお、シバをザビビやサムシとその王朝へ続く北アラビアの女王だと主張する人がいる。つまり、ミディアン説(クライヤを含む)。

2. シバの故郷は、アラビア半島のずっと南にあった可能性もある。かつてサバ(あるいはシェバ)の王国が栄えていた地だ。(後の章で:この王国に関する以前の考古学説が最近くつがえされ、サバ王朝の起こりは紀元前500年頃から紀元前1200年頃と変更された)つまり、イエメン説。

3. エルサレムで会ったコプト教会の修道士たちは、シバはエチオピアの女王だったと信じて疑わなかった。つまり、エチオピア説。

4. 以外な新発見もあった。女王の生まれがどこであれ、亡くなった時はシリアにあるパルミラというオアシスに埋葬されたという話を偶然に見つけたのだ。幸運にも、今回シリアへ出かけ、この件を調べる機会に恵まれた。つまり、パルミラ説。


<カリフの命令>
クリスティーナと私は、知り合いの考古学者10人あまりの一行に加わり、シリアへとバカンスならぬ探索の旅にでかけた。

『ダマスカス』

かつては田園都市として知られていたが、今は旧ソ連の技術支援で建設されたコンクリートの建物が無秩序に並んでいる。それでもなお、ダマスカスの古い心臓部〜城壁に囲まれた「旧市街」と、アーチ形屋根のついた中世以来のスーク(市場)〜は昔の姿をとどめ、カルダモン風味のコーヒーや甘いペーストリー(ジャムか?)、袋にこぼれんばかりに詰まった東洋のあらゆる香辛料の匂いがたちこめていた。

モスクワ経由ダマスカスへ:極楽人さん 〜旅行のクチコミサイト フォートラベルより
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/
damascus/travelogue/10560316/

迷路のように曲がりくねった路地を抜けると、ウマイヤ・モスクにたどり着く。8世紀初頭に建てられたこのモスクは、イスラム世界でもっとも壮麗な建造物であることは請けあいだ。ミナレット(尖塔)が天高くそびえ、中庭を見おろしている。

かつてはここに学者が集い、ローマ帝国が崩壊してヨーロッパが暗黒の時代に突入したのち、数学や医学をはじめとするいっさいの学問が生き延びる場となった。こうした知識人たちは、ダマスク織りのローブ(ドレス風の衣服)をまとい、頭には赤や黄のターバンを幾重にも巻いていた。ターバンが大きいほど賢いとされていたからだ。

中庭の南側では、100基の銀のシャンデリアが、ふんだんに絨毯を敷きつめたモスクの礼拝堂をいまだに照らしている。ここでは、カリフも奴隷も同じように、アッラーをたたえて感謝を捧げ、★『洗礼者ヨハネ』★の首を祀(まつ)った祭壇を拝礼した。★ダマスカスの誇るもうひとりの預言者が『スライマーン』、すなわち、『ソロモン』だ。★

ダマスカスのモスクのシャンデリア
http://imagesearch.excite.co.jp/detail/?search=%E3%82
%B7%E3%83%AA%E3%82%A2&start=1&look=excite_jp

中世の歴史家アッ・サアラビーによると、ソロモンはこの都市ばかりでなく、東に広がるシリア砂漠の『タドモル』というオアシス(のちの『パルミラ』)にも、シバの女王のための離宮を建設したという。アッ・サアラビーらの歴史家は、女王は死ぬまでその地で過ごし、そこの埋葬された、と主張している。

やがて、8世紀、だれよりも大きなターバンを巻いていた男、すなわちダマスカスを都としたウマイヤ朝カリフの「ヒシャーム・イブン・”アブド・アル・マーリク”」は、砂漠の中の廃墟パルミラで、ベドウィンがシバの女王の遺骸を発見したとの報告を受けた。その近くで生まれ育った”アブド・アル・マーリク”は、これに興味を覚えた。イスラム教と同じく、シバの女王もアラビアの砂漠から生まれたにちがいないと信じていたのだ。そのため、イスラムの風習にふさわしい形で埋葬し直すことを望んだ。当然のことながら、カリフの望みは命令に等しい。

シリア国内の地図
http://imagesearch.excite.co.jp/detail/?search=%E3%82%B
7%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%80%80%E5%9C%B0%E
5%9B%B3&start=5&look=excite_jp

http://imagesearch.excite.co.jp/detail/?search=%E3%82
%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%80%80%E5%9C%
B0%E5%9B%B3&start=1&look=excite_jp

http://www2m.biglobe.ne.jp/%257EZenTech/world/map/
Syria/index.htm

http://syria.maruien.com/map/syria_big_263.jpg

http://syria.maruien.com/map/syria01.gif

シリアの土地利用区分
http://syria.maruien.com/map/syria_land01.jpg

旅の入り口:シリア(一番下に国内地図)
http://www.eastedge.com/middleeast/syria/
index.html#map

シリアの歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3
%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

歴史的シリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7
%9A%84%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2

エブラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%96%
E3%83%A9

上のサイトにあるように、エブラは最初シュメール人(非セム系)の都市だったが、紀元前2300年くらいのエブリウム王の時に最も栄えたが、その息子イッビ・スィピシュ(最初の世襲君主で専制政治を行い内乱につながる)の時に、アッカド帝国(古バビロニア王国、セム語族の国)の帝王サルゴン(テュルク系民族でセム語族の王)やその孫ナラム・シンが紀元前2240年位にエブラを征服しています。紀元前1850〜1600年にかけて第二の繁栄期を向かえ、その住民はアムル人であり、紀元前2000年ごろのイビット・リムが最初の王だったとのこと。しかし、紀元前1650〜1600年にかけてのヒッタイト王により再度破壊されたとのことです。

「宗教」の項目を見ると、「セム系神話の神々」がエブラの遺跡にも見られるが、『ダゴン』、『イシュタル』、レセフ、ハダトなどと書かれています。また、フルリ人がハリアンだとありますが、ハリアンがヒッタイトですから違うと思います。ここでのフルリ人に関する情報はでたらめだと思います。

旧約聖書の創世記に登場する名のうち、他の中東の遺跡からは見つかっていないがエブラ語ではほとんど同じ表記で登場するものもあるということです。
アダム、イブ、アブラハム、ビルハ、イシュマエル、イスラエル、エサウ、ミカエル、サウル、ダビデなどだそうです。また聖書と同じ地名、例えば、シナイ、エルサレム、ハツォール、ゲゼル、ドル、メギド、ヨッパなど。ソドムとゴモラに関する言及が見つかったとの主張もある。

★☆★ このエブラ語が旧約聖書に大いに関係があるということですかね?


シリア旅行 〜旅行のクチコミサイト フォートラベルより
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/

パルミラ遺跡は広かった....:はぁみさん〜旅行のクチコミサイト フォートラベルより
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/
palmyra/travelogue/10417036/?lid=os_area_top_topbox

クラック・シュバリエ.... ホムス(ヒムスともいうらしい?)の近くらしいです。ホムズはダマスカスとアレッポのちょうど中間くらいにある交通の要所らしいです。十字軍の聖ヨハネ騎士団が使っていた城跡が有名みたい。

クラック・シュバリエとアパメア 極楽人さん:〜旅行のクチコミサイト フォートラベルより
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/crac_des_chevalies/travelogue/10563404/

クラック・シュバリエ :こんぺるさん
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/
crac_des_chevalies/travelogue/10351470/

聖ヨハネ騎士団が12Cに建設した最強要塞を訪れる!
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/
crac_des_chevalies/travelogue/10559721/

兵どもが夢のあと・クラック・シュバリエ〜旅行のクチコミサイト フォートラベルより
http://4travel.jp/overseas/area/middle_east/syria/
crac_des_chevalies/travelogue/10538379/

ヨルダン・シリアの世界遺跡を巡る旅
http://jordansyria.ehoh.net/
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by Ulala-lov | 2011-06-09 16:46 | Comments(0)