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シバの女王とは。。。12

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜

<「列王記上」第10章を解読する>

「彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。」

紀元前10世紀には、乳香はまだもっとも需要の高い、途方もなく高価な香料ではなかったはずだ。また、シバが捧げたのは、未加工の交易用品で、精巧な加工を施した贈り物ではなかったことも注目に値する。

「(つづき)ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、」

「〜のところに来ると」という部分に使われている古代ヘブライ語の動詞が、「性的目的で、天幕や家に入る」という意味をもっている。現実的な意味合いにおいては、ふたりの関係は国同士の関係でもあった。古代中東社会では、部族間の同盟は、親密な関係、しばしば婚姻という形によって確かなものにされるのが常だった。

下記のリンク先の「列王記上10:4〜9」* で、シバの女王は延々と晩さんの料理や、宮廷のファッションや、献酌官や王妃たちの幸せや、家臣たちの満足度について言及し、ソロモンを褒(ほ)めたたえています。

* 列王記上
http://plaza.across.or.jp/~sugino/ohanasi.html

何かおかしい。正確にはどんな性質のものかわからないが、ここには何らかのもくろみが感じられる。一つの可能性としては、ここでしゃべっているのはシバではなく、多神教徒の女神アスタルテだということが考えられる。(うららおばさん....エジプトのクレオパトラかな? それともヌビアのシャーマンの巫女? またはギリシャの神殿の巫女?それとも、シバの女王=アスタルテ女神に変身?)

書き手か、あるいはのちの編者(こちらのほうが可能性が高い)が、女王と女神を合体させ、それから、ソロモンの宮廷の虚実とり混ぜた驚異の光景で目をくらませ、身のほどをおもいしらせたのかもしれない(これについては、次の節を読む時にさらに言及する)

おおげさな言葉を並べた理由としては、ソロモンとシバのどちらの力が強かったかという点に関して書き手が確信を持てず、神経質になっていた可能性がある。字面を見れば、ソロモンのほうということになる。しかし、考古学では現在、それはシバのほうだったと見られている。それを裏づけるのが、両国の都の比較だ。

西には険しい山岳地帯、東には灼熱の砂漠を擁するサバは、安全で申し分なく孤立した国だった。マアリブとシルワ、そしてそれより小さな集落はみな、巧みに張りめぐされた用水路によって灌漑された緑豊かなオアシスだった。サバの経済は信頼性の高い農業を基盤としており、香料や香辛料の交易は思わぬ余禄(よろく)*だった。

* 余禄.... 予定外の収入。余得。

一方、ソロモンには、カナン人やエドム人をはじめ、イスラエル内の不平分子レゾンやハダド、はては兄のアブサロムまあで、大小の敵があった。周囲のユダヤの丘陵地は自然の恩恵に乏しく、農産物を作るより、ヤギを飼うのに適していた。

ソロモンの時代のエルサレムは要衝ではあったものの、へんぴな土地の要衝にすぎず、平屋の住居や天幕が一か所に固まっているほかは、宮殿と寺院が荒涼たる山の尾根にひとつ建っている程度だったのだろう。人口は900〜1200人、5万平方メートルもない町だったはずだ。

シバの女王の都マアリブを囲む城壁の内側は1000万平方メートル以上あった。当時、『ふたつの楽園の庭』には、2万人が暮らせた。いや、それ以上だったかもしれない。

シバの女王はたいへんな世俗的権力をふるっていたことだろう。そんな女性は聖書の中では後にも先にも彼女ひとりだ。反対に、ソロモンは王ではあったかもしれないが、彼が治めていたのはそれほどたいした国ではなく、せいぜい、ユダヤの丘でかろうじて暮らしを立てているいくつかの部族の連合国にすぎなかった。「丘陵地帯の首長」という言葉が、彼の役割をはっきりさせるために何度も何度も使われている。これほどの対照にたじろぐ人もいるだろうが、これは考古学の研究で紀元前10世紀のイエメンとイスラエルの双方について、新たにわかってきた事柄に裏づけられている。伝説を読んでも、この対照は明らかだ。シバのキトール(マアリブ)は、巨大なダムを中心とする、石でできた汗の結晶だった。ソロモンのエルサレムは、語り部たちによって魔法のように生みだされた幻、ジンの手による架空の都市だった。

女王が日々使うのは、最高に贅沢な品ばかり。
王と彼の民が毎日歌うのは、ヤギとミツバチ、乳とハチミツの歌。

しかし、イルラエルの民はなんとみごとに歌ったことか。そしてそれが、末代までの差を生んだ。シバは物質的な富ではソロモンを超え、彼を圧倒していたとさえ言えるかもしれない。しかし、ダムが決壊し、宮殿が崩れてしまったら、そのあとには何が残るだろうか?

イスラエル人の語りの伝統と自分たちの牧歌的世界への思い入れは、サバ人の碑文に記されたもののどれにも勝っていた。というより、事実上、紀元前の最後のミレニアム(千年期=B.C.1000年〜A.D.0年)に世界中で作られたいっさいのものをしのいでいた。彼らの散文や韻文の数々は、サスペンスに満ち、崇高で、香り高い修辞表現が使われている(1時間だけでも「伝道の書」や「雅歌」を読んでみるといい)。イスラエル人は現実には土と未加工の石でできた村に暮らしてはいたが、同時にすばらしい言葉の都に暮らしてもいた。彼らの歴史、アイデンティティ、道義的苦悩、そして神ヤハウェについて語る言葉の都に。

それでも注意しなくてはならないことがある。シバはソロモンの神をおおいに尊重してはいるが、「あなたの神」が「わたしたちの神」になることはなかった。彼女は空を渡る月の神イルムカフへの信仰を堅持した。エルサレムへ異教徒としてやって来て、異教徒のまま去っていった。だが、後世のキリスト教神学者に言わせれば、「正しき異教徒」となるが、それは彼女が多くの神々が権力争いをくり広げる世界にあって、ヤハウェの偉大さを認めたことは高く評価されただろう。というのも、ソロモンの時代にも、その後何世紀ものあいだも、唯一神という概念はまだしっかり定着していなかったからだ。

このヤハウェ承認の筋書きの中で、シバは故意か偶然か、ヤハウェの強力なライバルでついにはソロモンを誘惑する女神アスタルテ(イスラエルではアシュトレトとして知られていた)を象徴しているのかもしれない。というのも、シバがエルサレムに堂々と入ってくる様子には、どこか女神のようなところがあるからだ。とはいえ、アスタルテとシバを結びつけることがユそもそものユ動機だったかどうかは疑わしい。

★「女王と女神の結合」は『"編者"が ' 磨きや飾りユとして" 後からモ加えた』もの★で、

★★実際のふたりの出会いは、現実的な、国家の存亡のかかった交易の問題を話し合うためのものだったというほうが、筋が通る。★★

シバは商才に長(た)けた女王として聖書の世界に登場した。彼女のキャラバンは貴重な物資をあふれんばかりに運んできた。それが自国の産物ではなかったとしても、わざわざソロモンにしらせることはない。

シバの富に対抗するために、ソロモンは何をさしだすことができただろうか。物質的には、そうたいしたものはなかった。「列王記上」第10章は、「豊かに富んだ王にふさわしい贈り物」とぼかしている。しかし「女王が願うものは何でも望みのままに」というなかには、通行許可が含まれていたかもしれない。彼女のキャラバンがイスラエルの領土を通り、ダマスカス、シドン、ティルス、そして地中海航路の入口にあたるガザの港など、大きな利益の得られる市場に行くための通行許可を、丘陵地帯の首長ソロモンが与えたのかもしれない。ふたりの協定の詳細は、今も、そしておそらくこれからも推測の域を出ないだろうが、ソロモンがその気になれば、たやすく彼女の行く手に立ちはだかることもできたにちがいない。女王は故国を遠く離れていたのだから。

しかし、彼はそうはしなかった。彼は「女王が願うものは何でも望みのままに」応じた。その言葉には、商取引きの範囲を超える含みがあったのかもしれない。前に述べた、シバが「ソロモンのところに来る」という言葉にほのめかされているように、国の関係が男女の関係によって確かなものになることもあるのだ(そしてエチオピアの伝承によれば、メネリクはこの結びつきによって、シバが故国に帰る途中で生まれた)。

シバの女王はエルサレムを去った後、二度と再びソロモンと知恵くらべをしたり、まみえたりはしなかった。この点では、聖書と、一部の例外を除くすべての伝説の記述が一致している。

ソロモンはすでに、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」土師(=古代イスラエルの行政指導者)時代とはちがう、新しい体制を導入していた。もしソロモンが多くの厄介な部族を束ねる同盟を結ぶことができれば、彼はサバ人の長距離交易の計画にとって、ありがたい、いやそれどころか、理想的なパートナーだっただろう。

この交易は1200年以上もの長きにわたって続き、成功を収めたのだった。

☆★☆★☆
この一部始終で目を見張らされるのは、権力の主がソロモンからシバへ移ってしまったことだ。だが、じつのところ、これは驚くにはあたらない。聖書以外の伝説の中で、彼女の力と領土支配、そしてそれが男性優位という建前に与える脅威は、久しく頻繁に語られてきたテーマだ。聖書でさえ、「列王記上」第10章で、彼女の莫大な富について一度述べただけでは足らず、再度触れている。ただ、彼女がソロモンの献酌官や宮廷を卑屈に誉めたたえるところが不釣合いだが、「これは明らかに、”書き手”がソロモンを有利にしようとして”手心を加えた”ためだ 。」
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by Ulala-lov | 2011-05-31 19:56 | Comments(0)

2011−05−30

11 その1のつづき)

なお、作者のニコラス・クラップ氏には申し訳ないのですが、(本当のことばかり書いたら出版できないのでしょうからね)、わたしの勝手な推察ではありますが、オリーブ色の文字と、その直後の()内のピンク文字のところは、オリーブ色が間違いで、ピンクは正しいと推察したものです。またビンク文字は補足や加筆、のためにも使ったり、オリーブ色は他の用途でも強調のために使ったりもしています。


< p.s. >のつづき

チョウチンアンコウ ウィキペディア
チョウチンアンコウ 画像集
衝撃のチョウチンアンコウフィーバー - 海の案内人ちびすけマラソン部(笑)
ダイビングでの奇跡的なニュース『チョウチンアンコウ』現る!!
幾つもの小さな提灯を掲げているんですね〜!深海では、それなりに明るくなるのかな?

リュウグウノツカイ ウィキペディア
リュウグウノツカイ 画像集
巨大魚リュウグウノツカイを公開 海きららで一瞬の勇姿 - YouTube

深海魚 奇妙な深海の生物 - YouTube

せっせと透明動物造って理化学研究所の仕業じゃないでしょうか?この映像を見ると多種生物をハイブリッドしてモンスターの研究とかもしてそうですね〜!おお怖〜〜〜〜!!!?? 政府は止めさせるべきじゃないでしょうか?日本だけじゃなく、ペンタゴン内のET秘密基地を中心に世界の秘密の軍事研究所とかでやってそうな?国連で問題にしてほしいですぅ〜〜〜!!!?? じゃないと〜地球はモンスターだらけになっちゃうよ〜 Help,help~~~!!!! "l??/"

The World`s UMA (未確認生物) 12 - YouTube

  〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 

紀元前1500年ごろから、一連の激しい状況の変化や画期的な発明が起こりはじめ、サバ人(プント人)の祖先とサバ人(プント人)を揺り動かし、強い陽射しの中の惰眠から目覚めさせることになった。

[サバ人を中心としたサクソン軍団はプント国を侵略・征服し、画期的なプント人が発明していたアトランティス文明の非常に高度な技術を手に入れたのです。この数百年後に、『天上の城ラピュタ』の空に浮かぶワイト島も攻略して反重力装置となる飛翔石の結晶を手に入れたのでしょう!そして、シバの女王とモーゼ率いるサクソン軍団とその家族たちは反重力装置を使って海を分けて歩いて紅海を渡りアフリカ側のジブチに上陸する大移動「出アラビア」をやってのけたのでしょう。そして、またアフリカ側のプント国(=プント人を征服後の属国名がヒムヤル王国なのかも?)の侵略を始めたのでしょう。しかし、後にプント人たちが集団で逃げ出してエチオピアはアクスム王国(悪{魔}棲む王国)という名前になったのかも。その後AD4C頃(もっと前かも?)に、『シバの女王』とモーゼが率いるサクソン軍団はさらに北上してスーダンのメロエ王国(=クシュ人のクシュ王国)を征服し、アレクサンダー大王の遠征軍と挟み撃ちしてエジプトを侵略・征服したのです。]

最初の兆しは、(ハトシェプスト女王の息子で女王の傀儡{かいらい}である)エジプト王トゥトゥメス3世(在位B.C.1482~1450年)が、メンウィという南アラビアの女性をめとったのだ。(←南アラビアはまだ「サバ王国」になる前の『プント王国』だった)エジプト人はもはや、紅海を自由に航行しアラビアの富を思いどおりに手に入れることができなくなり、その恩恵に浴するためには、現地の人たちとの協調を目指すしかなかったのかもしれない。(実は、反対でエジプトのハトシェプスト女王がアラビアの富を手に入れるためにトゥトゥメス世率いる大軍を何度もプント王国に送り戦争を仕掛けたため、プントが和平のために、仕方なく王女を嫁がせたのでしょう。)アラビア(アングロサクソン女王の率いるエジプト)はますます力をつけていたうえ、自分が持ち、エジプト人が持たぬ(プント王国の)貴重な品々の価値に気づいてしまったのだ。

< p.s. 2 >
アメンヘテプ4世(=イクナトーン=BC1362年?~1333年?、在位期間:BC1353年?~1336年?ころ

アメンヘテプ4世は伏見宮貞愛親王妃利子女王*にソックリです〜!
(★★★ アメンヘテプ4世も、利子女王も『アナンヌキET男性』でした!!)

*伏見宮家 その2:直球感想文 和館

★★★★★ なので、アテン神を崇拝して、エジプトをアメン神から改宗させ、ルクソールに首都を替え、『ルクソール神殿』にアテン神殿を建設したアメンホテプ4世は、『アナンヌキET男性』でした〜!!!

耳が眉より相当上にあり、唇が大きくて厚く、スティック鼻で、アゴが細く尖っています。目は細く、三角目。王冠で眉は分かりにくいですが、多分眉尻は下がっているのでしょう。

エジプト第18王朝

エジプト『新王朝』は、ヤハウェ王族(多分、ハムの子孫)の『イアフメス1世』によってヒクソスを駆逐(くちく)して始まったけれども、息子のアメンヘテプ1世の治世時代にヒクソス(アングロサクソ脳族たち)がまた戻って来て、エジプトを再度征服しアメンへテプ1世を殺害し、成りすましの偽アメンへテプ1世が君臨し、次のファラオをトトメス1世に決めたのではないかと。。。。

アメンヘテプ1世

ハトシェプスト女王も、恐竜タコ女王(=『シバの女王』=後の『新生ヴィーナス』の母親)のような感じです。(いままで恐竜タコ女王のことをチビタコ女王と言っていましたが、実は、恐竜タコたちも身長も太さも自由自在に変化させることができるようです。火星の地下に長〜く住んでいた時もタコは気圧の変化に耐えられたということですかね〜 チビになっているのは、プント人=ラピタ人が小さいので、その真似をして小さくなっているのだと推察されます。"成りすまし" でスパイ活動するなど、そのほうが何かと都合がよいのでしょう。)

18王朝のツタンカーメン王(アングロサクソ脳族の幼王)を支えたアイとホルエムヘルブという官僚によって、エジプトは本来のヤハウェ系王朝に戻され、ラムセス1世による19王朝**となり繁栄を極めたようです。しかし、ラムセス2世の治世時代、『カディシュの戦い』(BC1274年)で実質エジプトは敗北、おそらく、またまた、偽ラムセス2世=多分、南アラビアのサバ王国のアホだったらしい「ムワタリ」=象二郎が替わって統治するようになり、大規模に建設活動を行い、すべての建造物に自分の名前を刻ませるという愚行を行ったのでは?

**エジプト第19王朝

エジプト第20王朝
アングロサクソ脳族の支配が続いたようです。

エジプト末期王朝時代
エジプト第26王朝
タヌトアメン王とか、プサメティコス2世、アプリエス、イアフメス2世、プサメティコス3世はヤハウェ王だったのかも?しかし、アングロサクソ脳族の率いるアケメネスペルシャに征服されてしまったようです。(実質、『シバの女王』&サルゴン=『ソロモン』の悪玉コンビが率いていたのでしょうけれども)

(2014.05.27 11:20 a.m. 加筆)


このころ、あるいは、このすぐあと、南アラビア人は、文明の証明でありまた貿易の手助けともなるもの、つまり文字を手に入れた。(←プントの使っていた文字を導入したので)銘文南アラビア文字は、太古シナイ文字を介してエジプト象形文字から派生したことが最近立証されたが、実際のところは、ふぞろいのくねった線だったものが、ただ一人の天才的な書家の手により、高度に洗練された文字へと飛躍的に作り変えられたのかもしれない。文字を体系化することによって、動物の皮やヤシの葉の茎に勘定を書きとめて精算したり、組み合わせ文字の印章を押した粘度で商品を封印したりすることが可能になった。印章のなかには非常に精巧なものもあった。

また、B.C.12〜3Cごろ、ロバの6,7倍の荷物を運べて、水なしで何日も、ときには何週間も歩み続けるラクダが荷物の運搬に使われるようになって、キャラバンは水源を通らずにまっすぐ突っ切ることができるようになった。遠方の国々へ、『肥沃な三日月地帯』の大市場へと。

だが、このおおいに儲かる交易を脅かす事態が起きた。シバの女王がソロモンを訪ねるくだりの直前にあたる、「列王記上」9;26〜28に強く示唆れている。ユダの王ソロモンとティルス(現在のシリアにある地中海東側沿岸の都市)の王ヒラムが自分たちの商船団のために、エツヨン・ゲベル(現在のエイラト*の近く)を紅海向けの港としたという話が自慢げに語られている。彼らの船団は、南のアフリカやアラビア沿岸で交易を行うためのものとしか考えられない。(つまり、プント国の交易地を征服したということでは?)(←加筆:エイラトの辺りは『シバの女王』の支配する「ミディアムの地」の一画にあり、『シバの女王』(ビルキース)のクローン姉妹のクライヤの「シバの女王」(?◎◎◎)が支配していたし、プント国は『シバの女王』&その男性形であるモーゼ(=象二郎)に征服されて属国の「ヒムヤル王国」になっていたので、ただし、プント国の遠隔領地(エイラトなど)までは支配していなかったのでしょう。そんな時に重要な交易地であるエイラトをソロモン王たちに征服されてしまったので、『シバの女王』がプント人から奪った香料交易は重大な危機に陥(おちい)り、それで『シバの女王』はソロモン王を訪ねエイラトの通行許可をもらうための話し合いをもったということだったのかも?)

* イスラエル エイラト
エイラト
エイラトとは - コトバンク

編成されたばかりのこの商船団の規模や所有者に関しては記述がない(船がヒラム王のもので、港がソロモンのものだったかもしれない)。だが、規模のいかんにかかわらず、この船団にサバ人は脅威を感じ、それに対抗するために、国境を越えた陸路の交易ルートを開設しようとした。彼らには商品も輸送手段もあった。すべて、おあつらえ向きだった。しかし、ただちに行動を起こさないと、ユダとティルスがアラビアの香料や香辛料はもともと、その原産地ではたいした価値はない。幸運の女神は海路であろうと陸路であろうと、はじめに交易に手をつけ、それを支配する者に微笑みかける。「列王記上」10によると、その交易を最初に始めたのが『シバの女王』だった。(ウソ!プント人たちだったのを『シバの女王』たちが征服して略奪したのです!!!)


(12につづく)

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by Ulala-lov | 2011-05-30 06:58 | シバの女王 | Comments(0)

2011−05−29

かなりな訂正をしました〜!オリーブ色(深緑色)文字が間違いで、ピンク色文字が訂正や加筆した箇所です。この本の間違いを訂正するというのは、作者のニコラス・クリップさんには大変失礼なことではありますが、おそらく、真実ばかり書いていたらアングロサクソ脳族の出版物検査に合格しなくて出版できなかったのではないかと推察されます。また、ピンク色文字ののところも新たに追記しました。2014.06.16 2:30 p.m.

(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜

<<シバとソロモン>>

サナアからフランクフルト行きの飛行機の中で、ソロモンの宮廷の話以外に、暗にシバに言及している文がないか、聖書を調べ直してみた。まずこれをやってみると、思いがけない発見があった。

サバ人は商人にして襲撃者、背の高い人々、香料と金を豊富に持つ民として(征服したプント国から奪ったので)、「創世記」の系図の中に十数か所登場していた。だが、どれもほんの数語程度の言及で、余談の域を出ない。聖書の信憑性を示すひとつの論拠だろう。聖書は知らないことについては語らないのだ。(上手にウソは語るけれども都合の悪いことは語らないのです。)

ヘロドトス*やストラボン**、大プリニウス*** ら、後の歴史家たちも、この遠い国のことに触れているが、それもほんのわずかにすぎない。古代ローマ人は「幸福なアラビア」という言葉を作りはしたが、彼らの地図には、そこへどうやって行くのか、そこに何があるのかは、いっさい記されていない。サバ人の失われた世界をよみがえらせるのは、今も今後も考古学者の任務ということになる。

*ヘロドトス
** ストラボン
*** 大プリニウス

彼らの作業はまだ始まったばかりで、古代の世界で行われたことを一本のロウソクで照らしているようなものだが、そのおかげでサバ文明の起こりの概略がすでにわかっている。の文明は、以下に示すように、ソロモンの時代に転機を迎えた。

話は、自然の手によって滑(なめ)らかに仕上げられた空白の石板から始まる。

8000年前(B.C.6000年ごろ)、アラビアはこの世の地獄だった。わかっているかぎり、アラビア半島には人はひとりとしておらず、もっとも過酷な状況に耐えうる動植物しか見られなかった。この約1万2000年前(B.C.1万年前)、『ミランコウ゛ィッチ効果』*と呼ばれる現象のせいで地軸が傾き、それが、氷河期とは正反対の状況を引き起こした。地球をめぐる帯状のサバンナ地帯では、気温が摂氏60度を超えた。雲は空から一掃された。アラビア中のあまたの湖が干上がり、木々は裂け、獣も鳥も死に絶えた。新石器時代人**で体力のある者は北方へ、より安全な『肥沃な三日月地帯』***へと逃れた。

*ミランコウ゛ィッチ効果
**新石器時代
***肥沃な三日月地帯

8000〜1万年前(B.C.8〜6000年ごろ)、地球はまた落ち着きを取り戻し、地軸はぐらつきながらも以前の位置に戻り、いずれサバ人が自らの文明の起こりを記すことになる石板を提供してくれた。

文明誕生の種子は砂漠に蒔(ま)かれた。そこでは、穏やかなそよ風と雨季に降る雨が、『肥沃な三日月地帯』に住む冒険好きな人間(や除(の)け者にされた人、はみ出し者たち)(プント人=ラピュタ人)を瞬(またた)く間に北方から招き寄せた。

その移動ぶりは、彼らが前へと駆りたてる家畜を描いた岩石彫刻(ペトログリフ)に記されている。これらの人々はうまく適応し、それから200年もしないうちに彼らの野営の焚き火がアラビア中で赤々と燃えるまでになった。

学者はこの移住者たちを無視しがちだった。彼らの説では、ずっと後の移住者、それもはるかにすぐれた部族の人々だけが、進んだ国家の基礎を築くことができたというのだ。だがそれはちがった。最近になってわかったのだが、サバ(↔プント)の文明は地元で発生したものだった。今や、彼らの歴史は解明され、実証されている。

ラムラ・サバテインの懐深くにある砂丘群の中で、デウ゛ィット・メルツァーとリカルド・モンテ
・ローザと私は、(BC1500年頃より侵略してきた)サバ人より昔の人々(=プント人)を葬ったアル・アラムの共同墓地をすでに探索ずみだ。私たちはまずその墓の多さに恐れいり、つぎに、はるか彼方の古代遺跡、アル・ウクラやティムナやマインを指して並んでいる石の列に好奇心をそそられた。紀元前3〜5000年のものと思われる、このアル・アラムの分岐した石の列を見ると、塩や黒曜石、ことによると香料までもが、この土地を通って交易されていたこと、そしてその交易を支えたキャラバンが、広大でつねにその姿を変える砂漠に精通していたことがうかがえる。

この時代、砂漠の外れの集落では、突然、それもしばしばすさまじい勢いで襲いかかる洪水を灌漑に利用していたらしい耕作地跡が広く見られる。この人工灌漑設備が整ったのは、紀元前3200年だった。それよりもっと早かった可能性もある。共同で利用するためのこの灌漑設備のいたるところに散らばった人々は、家族ごとに、雑に積み上げた石や加熱処理していない泥レンガでできた藁ぶき屋根の、丸い小屋に住んでいた。時代が進むにつれ、10家族ぐらいが集まり、周囲に塀をめぐらせて小村落を作った。それらの村落は、どれもせいぜい100人程度の規模で、独自の長がいた。

サバ人(↔プント人)の先祖は幾世代にもわたって、星の関する知識や不毛の地で生き延びるのに必要な知恵を伝えていった。

それからの何世紀かは、何事もなかったように過ぎ去った。変化といえば、新石器時代から青銅器時代へとひっそりと移行したことぐらいで、陶器や金属の道具が石器とともに使われだした。(ずっ〜と昔から陶器や金属の食器を使っていた。)その間に、南アラビアの人々は、周囲の荒涼たる丘に自生する節くれだった木(乳香樹)や、みすぼらしい低木(ミルラ)の樹液を燃やし、その香りを楽しむようになる。彼らは孤立して暮らしてはいたが、自分たちの故郷である『肥沃な三角地帯』とまったく交渉がなかったわけではない。陸路での接触があった証拠として、早くも紀元前2650年には、シュメール人(=ここではメソポタミアを征服したサクソン王族たちのこと)の石板に乳香を表すと思われる言葉(「シム・ギグ」)が記されている。それよりもさらに前(後)の紀元前2500年(←間違い。実際は紀元前1500年頃にエジプトに征服されて以降)の碑文は、「サバ・ウム」(=サバ国)や「グ・テ・ブ・ウム」(マケドニア系?)との交流について語っており、これは、サバと隣国カタバン*に言及した最初の文章かもしれない。

* ティムナなどの都市のあるカタバン王国はサバ王国の東隣に位置し、さらにカタバン王国の東にはハドラマウト王国があったみたい。みんな南アラビアの香料ロードに位置する古代の国々で現在はイエメンの領土。

*ティムナ

海路に関しては、アラビア半島の沿岸を行き来する外国船はあったが、その乗組員があえて危険を冒して海岸沿いの険しい山地を越えていたかどうかは疑わしい。仮に彼らが内陸の品を手に入れることがあったとしたら、それは主に、プント*と呼ばれていた沿岸の部族から物々交換で得た(あるいは、強奪した)のだろう。

** プント(巻末の注釈によれば)
エジプトの女王ハトシェプスト***は、エジプトにとって香料と香辛料の供給源だったプントに遠征軍を派遣し、(プント人を奴隷化してヒムヤル王国と改名させて属国化していたようです)その様子は、ルクソールの王妃の谷にある、女王の葬祭殿の浅浮き彫りに描かれている。近年、ブルクハルト・フォークの指揮のもと、ドイツ考古学研究所の調査隊が地中から掘り出した証拠によると、プントは紅海に面した今日のアッ・サビアからインド洋に面したアデンまで広がる南アラビアの沿岸平野の三日月地帯だったらしい。

**プント国

*** 女王ハトシェプスト(18王朝5代目のファラオ、B.C.1497〜1458年ごろ)

< p.s.1 > 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

このハトシェプスト女王こそが旧約聖書に出てくる『シバの女王』(=" 後の「新生ヴィーナス」" の母親)だったようです!もともとは、『レア』ですが、『シバの女王』になり、『シバの女王』としても何度も名前を変えてリセットして何人もの王女や女王として生きていただろうし、また、『新生ヴィーナス』となり、『ヴァッカス』となって、現在も生きているのです。また、彼女はエジプトで信仰されていた『イシス女神』でもあったようです!!

ということは、王の弟(実際は妹というか。でも、まあ両性具有)が兄である王を惨殺して王位を奪ったという「エジプト神話」の兄殺しのセト(=セツ)は、きっとハトシェプスト女王のことじゃないでしょうかね〜?!


男性として王位についたハトシェプスト - さとしの独断人物伝・・・????

上のサイトの説明から、ハトシェプストは父「トトメス1世」の下位の側室だった『イシス』*(との間に生まれた息子「トトメス2世」** を婿養子とする結婚をし、実質、トトメス2世を裏で操っていたということのようです。

* 「イシス」は、ヤハウェ王族(人間の王族)で、ルーシー(人間の祖。後の→ユリア→マリア)であり、巫女でもあったのかも?それでアングロサクソン王族たちに王室を乗っ取られた後、トトメス1世の下位の側室にされ、一方、ハトシェプストはイシスに成りすまして、人々に『イシス女神』として崇めさせたのかも?

** トトメス2世

ハトシェプスト=『シバの女王』(アナンヌキET女性)は両性具有だもの男のファラオのようでもあったのでしょう。

メトロポリタン美術館のハトシェプスト像:ニューヨーク日記

★★★ ハトフェプスト女王は、上のサイト????に書かれているようにヌビアのクシュ王朝に軍事遠征に行ったり、南アラビアのプント国に軍事遠征に行ったりと外国へ何度も軍事遠征に出かけていますよね〜!大規模じゃないとありますが、果たしてそうだったのでしょうか?多分、ほんとうは非常に大規模だった気がします〜!だって「神の国」と呼ばれていた「プント国」を征服したくらいなのですから。。。なので、ハトシェプスト女王が平和主義者というのは大いに疑問です!!!021.gif021.gif026.gif

ハトシェプスト 不思議館〜女王にまつわる奇談
(引用)
・「戦争を好まずに他国との交易ルートの開発にひたすら力を注ぎ、そのかたわら巨大な記念物と数々の神殿の建設を行うというものであった。」
・「第二層の神殿の壁画には、国外への通商遠征にかんする記録が描き込まれた。」


ハトシェプスト女王が平和を愛したなんてとんでもな〜い!交易ルートの開発とはサクソン軍団の場合は大軍を率いて交易ルート上のヤハウェ系都市国家群に戦争を仕掛け、征服していくことに他ならなかったのですから。国外への通商遠征とは、要するに海外に戦争のために大軍を率いて遠征することだったのです!ですから、ハトシェプスト女王の実像は、非常に強欲で戦争好きな女王だったということになります!!*

エジプト新王国の戦い

ハトシェプスト_(漫画)

(この漫画はフィクションの部分もありますが、重要なあらすじは史実に基づく事実のようです。)

どうやら、王位継承者である次男のアメンモーズを殺したのは第2王妃(ハトシェプストの夫{腹違いの弟}の母親)だったようですが、巫女(召使いでは?)を使って第2王妃をそそのかし兄に毒を盛らせたのもハトシェプストの仕業かも?『シバの女王』(アナンヌキET女性)ならやりかねませんね〜。さらに、自分の夫「トトメス2世」の"夫殺し" もハトシェプストの仕業だったようです!!!


古代エジプト 男装の女王 - ナショジオ・・・????
(最下部のをクリックして1~8までの記事を読んでネ。ただし、ハトシェプスト女王と息子のトトメス3世との関係が万が一良かったとしても、だからといって、ハトシェプストが意外に良い施政者だったのかもしれないというのはおよそ勘違いでしょう。)

ん〜、すると、男性の麗人「川島芳子」もハトシェプスト女王のクローン子孫かも。。。なんか〜 偽・倪桂珍に似ているような。。。

男装の麗人川島芳子生存説 その信憑性とは

金の延べ棒など用意しなくても、中国政府にも日本政府にも、その中枢部に部下がいるのでしょうから、絶対に処刑などされる心配はなかったはずです。

それから、このブログ主さんにお知らせしたいのですが、恐竜タコ女王たちは"やりたい放題やってる" のですから、「晩年くらいは幸せに生を全うしたと考えたい」などと心配されるには当たらないのではないでしょうか?!

「男装の麗人」 川島芳子 2/2 - 美しき日本のために

やはり、替え玉が処刑されたか、最初から死体を用意していたかでしょう。


上のサイト????の1の記事のミイラの写真から:口がかなり大きいくて、非常に薄い唇。下の歯が非常に長い。そのためか口の下の部分のアゴがとても長い。(これはピーター・オトゥール=アイゼンベルグやカミラ妃のアゴもそうですよね〜!)頭頂部が山形。

(↑このミイラは、ハトシェプスト女王のミイラではなく、もっと昔の『レア』の姿で統治していた時代のタイプではないかと。。。『レア』の身体としては、すでに、お払い箱になった抜け殻なのでミイラにしたのかも?)

8の記事のレリーフから:鼻が非常に低く、下アゴが突き出ていたことが分かります。目も細いみたいです。また、女性にしては首がとても太いですよね。


ヘビの骨格
大きな動物も飲み込めるように口の骨が中央で開くんですね〜

ヘビの骨格:hibakari
上から3番目の写真を見ると、へびの頭蓋骨の形が分かります。

そうだ、海、行こう。 part1- 原人のCatch & Eat

シロヘビの写真が載っています。また、ウーパールーパーも何か関係あるかも?触覚があるでしょ〜
もともとのタコ型のアナンヌキET男性には2つの触覚が、アナンヌキET女性には1つの触覚が頭にあるらしいのです。

ウーパールーパー
メキシコサラマンダー
ウーパールーパーとは ニコニコ大百科
いままでペットとして売られていたのに食用にするなんて〜 可哀想すぎます〜 ??

癒されるかわいいウーパールーパー - NAVER まとめ

11 その2につづく)
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by Ulala-lov | 2011-05-29 14:47 | シバの女王 | Comments(1)


(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜〜〜

<メサの上にサバ王国の遺跡が>

メサ(台地)、アル・ハリーべ(遺跡の場所)だ。私の知るかぎり、シルワの遺跡全体を網羅する正確な地図はひとつもなく、あるのはざっとした見取り図だけだった。1869年に西洋人として初めてシルワを訪れたジョゼフ・アレウ゛ィは、襲撃されて暴行を受けた。それ以後の探検者は調査に訪れても数日滞在するのがせいぜいで、数時間ということさえあった。私は先達(せんだち)たちのメモをもとに簡単な地図を作って持ってきていた。

「ほら、これ、見てください。すごく、すごく古いですよ、きっと」。ふたりでメサをよじ登っている時に、マナが声をかけてくれた。彼は、アル・ハリーべ(=遺跡の場所)の北側で、なかば地面に埋まった壁に掘られた碑文を指差した。それは風雨にさらされてひどく磨耗しており、ほんの数文字しか判別できなかった。私の目を引いたのは、正式な碑文の上部に掘りちらかした図案のうちの、輝く太陽のシンボルだった。☆ひょっとすると、これはきわめて初期の銘文南アラビア語で、のちに使われなくなった文字ではないだろうか。☆

メサの頂上に着くと、ダール・ビルキース(ビルキースの館)として昔から知られている建造物に向った。1947年に訪ねたファフリによれば保存状態はほぼ完璧と言うことだった。残念ながらこの遺跡は、その後、おそらくは1962年の内戦の時に、名状しがたいがれきの山に姿を変えてしまった。ファフリの書き写した碑文(私は見つけられなかったが)によると、建物は西暦300年ごろのものらしい。となると、これがシバの女王の宮殿であるという言い伝え(ファフリの報告)も、信憑性(しんぴょうせい)がなくなる。とはいえ、この建物をはじめとするメサ上の建造物がシバの女王の宮殿の上に造られた可能性は、依然として残されている。

さらに進んでいくと、廃墟になったモスクが見えてきた。
「それほど古くありません。私の祖父、ここで礼拝をしました。昔はここも人が住んでいましたが、今はもういない。水が塩辛くなって飲めなくなった。」
(イスラム教が紀元後7世紀に起こってきた時、ここら辺の人々は素早く改宗したらしい)

南に進路をとると(北西部の入口から遺跡の北東部に進みやや南に)、荒廃した遺跡という感は薄れ、シルワはサバ王国の栄光を取り戻していった。何もかも驚くほど保存状態が良く、南アラビアに残るどの遺跡にも勝るすばらしさだ。私にとってはその魔力たるや、ヨルダンのペトラやシリアのパルミラに匹敵するほどだった。崩れた神殿跡らしき場所に二本の柱がそびえていたが、ファフリはここに8本の柱があり、それぞれにひとつずつ名前が刻まれていたと書き記している。しかし、一見してわかるのは「W」の文字一つだけで柱が折れた箇所のすぐ下に刻まれていた。私は中東にはこれ以外にも名前の刻まれた有名な柱があったことを思い出した。旧約聖書「列王記、上」にあるとおり、ソロモンの神殿の入口両脇には「青銅の柱を2本」配してあり、「1本は南側に立てられて、ヤキンと名付けられ、もう一本は北側に立てられて、ボアズと名付けられた」のだった。

私たちは、メサを横切り、かつてここを取り囲んで守っていた城壁の稜堡*(りょうほ)跡(遺跡の南西部)まで来た。稜堡は谷底から15メートルほどの高さにそびえ、27層の細かい石積みの上に、中世以降の増築と見られる15層のおおざっぱな石積みが継ぎ足されていた。

* 稜堡
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/244801/m0u/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E
3%83%BC%E3%83%90%E3%83%B3
(17世紀に取り入れられた要塞の形式が、その2000年以上も前にすでに取り入れられていた?)

そこから、今度は東のほうへメサを突っ切って、マナと私は圧倒的存在感を示している「イルムカフ神殿」に向かった。その神殿は、それまで私がアラビアで目にしたどの遺構よりも壮大だった。

かつては広く張りだした前庭を縁取っていたかもしれない2本の柱を過ぎ、その向こうに並んだ第二の列柱を迂回し、神殿の至聖所に足を踏みいれた。するとそこには、いわく言いがたいほど畏れ多いものが以前ここに存在していたことを思わせる雰囲気が漂っていた。厳粛な儀式や、私たちには読めても話せない言葉で歌われた歌、信託や預言、香料の奉納などが頭に浮かぶ。サバ人に崇められたアイベックスの石像が、物言わぬ証人さながら、ずらりと並んでいた。

神殿は複雑な造りだった。その全体像や、階層構造や利用法などを把握するには、何時間もかかるだろう。だが、東側の壁が石造りの巨大な半円を描いていることだけは、一目瞭然だった。「月の形かな?」マナにたずねると、「そう、月です、多分。それに、あの動物の像にも月があります」と言いながら、マナはアイベックスの三日月形の角を指差した。「屋根は?」私は不思議に思って訊(き)いてみた。「屋根はありません。空が、月がみえるように」

この神殿で、サバの人々は天を仰ぎ、星の神々を見つめたのだ。そして、同じこの場所で、世俗的なものや残虐な行為もたたえた。このイルカムカフ神殿は巨大な石板で二分されており、その石板にはサバ王国の碑文としてはもっとも大きく、もっとも長いものが彫られている。「勝利の記録」とでも呼ぶべきその碑文は、紀元前5世紀後半にサバ王国のムカルリブ「カリビル・ワタル1世」が同国の勢力を拡大した際に強奪の限りを尽くして上げた戦果を列挙していた。そこには、はるか彼方の町々を略奪して焼き払い、住民たちを大量に虐殺したり、捕虜にしたりした事実が誇らしげに記されている。

内容の陰惨さはさておき、この碑文に刻まれた年代の問題がある。私は自分自身に言い聞かせた。目の前の神殿が建てられたのはカリビル1世の治世かその後まもなくで、聖書に出てくるシバの女王の時代から少なくとも300年は下ったころのはずだ。☆☆☆だがこの神殿は、その建立以前に発達した文明が存在していることを雄弁に物語っている。☆

なぜなら、巨大な石の切り出しやくみ上げ、あるいは曲面を描く壁の建設など、こういった壮大な構造物を建てるのに必要とされる技法は、一朝一夕に得られるものではないからだ。アフメド・ファフリ(最初に訪れた考古学者)は、いま私が立っている場所に立ち、こう推測した。

☆☆☆「神殿の構造を調べたならば、この地の人々がすでに石造建築の技法に熟知していたことが明らかになるだろう。このような建造物を構築できるようになるまでには、そうとうに長期の経験を重ねてきたはずで、その文明はすでに何世紀にもわたって発展を遂げていたと思われる」☆☆☆

帰り際に、メサから谷底まで降りた。下から見上げると、神殿の規模が手に取るようにわかり、私はその完璧なまでの構造にあらためて感じ入った。地溝帯にあるため、数知れぬ地震に見舞われてきたにもかかわらず、見事な曲線を描く石造りの構造にはひずみもひび割れもなかった。


<シルワの神秘>

午前中シルワで目にし、感じたこと以外にも、この場所の栄華を暗示するような記述が過去にあることを私は知っていた。紀元前930年ごろ、アブ・・ハムダーニが書いた『アル・イクリール(王冠)』では、サナアとマアリブに関する論考に次のような説が挿入されている。

「両地の建造物のどれをとっても、シルワのものに遠くおよばない。シルワの評判はアラブ世界の詩歌に広く浸透しているが、今日までその姿を伝えているものはないに等しい。」

アル・ハムダーニは、いにしえの詩人アミール・アル・ハイセイを引用している。

「この土地を久しく治めた王族がいた。彼らはシルワの『南風の館』を建てた。風が吹くと、館もそれにつれて揺らめいた。館は円形をしており、木枠にはまったガラス窓があった。それがきらめくさまは、たとえようもないほどの美しさだった」

実際、南風の館は、あらゆる神話やその価値にふさわしい、なかなか巧みなメタファーだ。「きらめくガラス」は神話のもととなった事実をゆがめてあいまいにしかねない一方で、その事実を空想にくるんで楽しい話にかえる。ジンや、言葉を話す鳥、ガラスの床によって粉飾された、シバの女王のソロモン訪問の魅力的な物語がなかったならば、女王は何代かの間に忘れ去られ、彼女の話は、たとえば、のちの統治者である武骨者のカリビル・ワタル1世の自慢話に取って代わられたことだろう。けれど、現実にカリビル1世の名をとどめているのは、自らの業績を吹聴したシルワの石板ただひとつだ。それにひきかえ、シバの女王の名はあまねく世界中に知れわたっている。

☆これは彼女の話がより魅力的だったからにほかならない。☆

言い伝えによると、シバの女王の玉座* には無数の宝石がちりばめられた花冠が彫られており、その天蓋の高いことといったら、天空に届くほどだったという。考古学的な調査で発見された数々の遺物の断片から考えると、実際にはこの玉座は彼女の統治下に富み栄えた、強大で豊かな文明を示す堂々とした象徴だったようだ。

本書をしめくくる次章で触れるが、マアリブとシルワの女王には、玉座を離れ、おおいなる旅に出るに足るじゅうぶんな理由があった。それは神話によくある夢のような神秘の探求の旅ではなかったはずた。むしろ、その裏には、香料やラクダ、鞍、船などのかかわる、いたって現実的な一連の経済上の要因があったにちがいない。

玉座と王国の力を後ろ楯に、シバの女王は、南風の館(実在したか、ただのメタファーか、あるいはその両方だったのか、それはともかく)をあとにし、エルサレムに向かって北上する砂漠の風そのものになった。




* http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%BA%A7
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by Ulala-lov | 2011-05-28 11:06 | Comments(0)

シバの女王とは。。。9


<<ジブチからのダウ船>>

エチオピアからジブチを経て、イエメンへと『涙の海峡』を渡る船旅も、一つの検証となるだろう。

ジブチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%81

>>ネットでジブチを調べていたら大変な記事を見つけましたので、’ちょっと、古代の探検から現代に戻って〜’と、

「ジブチに建設される海上自衛隊基地をめぐって」
http://japanese.ruvr.ru/2010/04/28/7048749.html

もし、その基地建設計画がそのまま着工されていたら、今頃はもう完成してるかもしれませんよ〜!! 知らなかった〜!!  ーー*

国民に内緒でこんなことしてたんですね〜! 要するに、満州事変の直前とかと似たようなやり方なんじゃ?

自民党か?民主党か?(2009年夏に政権交代したので)
どっちの政権がやったんでしょう? これは、ひどい〜!! 

’責任を明らかにしてくださいマシ!!!’

次に、こんな記事を見つけました。。。

「ソマリア海賊対策の海自拠点基地、ジブチで建設中」 2010/05/01
http://www.afpbb.com/article/politics/2728178/5775961

もう建設中〜、って。そうであれば、すでにもう完成しているのは確実ですね〜。トホホ〜 〜〜。。。

こういう小さい切っ掛けから大転換を図るのが、アングロサクソン王族がいままでやってきた得意技ですので、決して見逃してはいけない重要な大問題だと思います!(この場合、自衛隊の海外基地設置への実績、認可のために法律の整備へと) 

「シオンの議定書」にもあったように、彼らは 『水滴が一滴一滴落ちるかのごとく、ほんの少しずつ少しずつ謀略を押し進めよ』っていうやり方ですからね!

すでに、海賊はインド洋に移動したんだとか、じゃあ、なんでこんな基地造る必要があるの? 即刻、こんな計画は中止すべきでしょう!! 

いったい現在のところはどうなってるのでしょう? みなさん、政府に聞いてみましょう!
(私も後でメールしようっと!)


>>またまた、『シバの女王』という本の中の古代世界の探検話に戻りますよ〜

スーダン・ジブチ・エリトリアの旅
http://www.ne.jp/asahi/hikyo/yamaya/sudanm.htm

地図を見ると、やはり、古代にはイエメンから海上を船でエチオピアへ入っていくには、ジブチの港を経由するのが一番短距離で安全みたいですね。


<<南風の館にて>>

念願の地シルワがいよいよ姿をあらわす。その遺跡で、シバの女王を包む謎の核心に迫る。

シルワの遺跡はどんな状態にあるのだろう。1947年にアフメド・ファフリが撮った写真は、ぼやけていたが堂々たるものだった。しかしシルワはその後、1962年に王制派と反乱軍の争いの戦場となり、つい数か月前にも、私たちが遠くから目撃したように、政府軍の空爆を受けていた。

はやる気持ちを抑えながら車で走っていくと、私たちの前方に忽然(こつぜん)とシルワがその姿を現した。左手には丘、右手にはメサがあった。かつてこの丘には、アル・カスル(城)と呼ばれる
建造物がそびえていたはずだ。だが、今残っているのは、1メートルほどの壁だけで、あとはみな、がれきと化していた。

一方の、アル・ハリーベ(「遺跡の場所」の意)と呼ばれるメサのほうは、ファフリの写真とあまり変わりなく、浅黄色の石を積み上げた高い城壁で今なお守られていた。想像していた以上の威容だ。しかし、そう簡単にそこへ行くことはできない。シルワのシェイク・アフメドの承諾がいる。「悪人です。悪人ですよ」と私は政府の役人に警告されていた。その役人の話によると、シェイクは外国人だろうがイエメン人だろうがおかまいなしに、何十人も誘拐してきたという。

遺跡を過ぎて1キロあまり行った時、なんとシェイク・アフメドがたったひとりで、簡単な白い漆喰の家から出てきた。いわゆる人好きのするタイプとはまるでちがう。濃い眉の下の黒い目が陰のある激しさとでもいうべき独特の雰囲気を醸しだしていた。とはいっても、ときおりくすくす笑ったり、声を立てて笑ったりすることさえあった。それに、ずいぶんと親切にしてくれた。私が来ることを知っていたシェイクは、大きなアカシアの木陰に広げた敷物の上で、いっしょに朝食をとるように誘ってくれた。小さな子供たちが、コーヒーや焼き立てのパンや風味豊かなプディングを運んでくれる。

ほんとうにこれがイエメンでもっとも恐ろしい男なのだろうか。そういえば、「彼は外国人を誘拐する・・・・」という非難は、彼を誹謗(ひぼう)しようとする者の口から出たものでさえ、最後はたいてい「だが・・・・けっして危害を加えることはない。」としめくくられた。それというのも、彼の目的は、人質解放と引き替えに新しい診療所や学校や道路などを造らせることだったからだ。「だれでしたっけ。そうそう、ロビン・フッドというところかね。」とある人は私に言い、巨額の石油がシェイク・アフメドの支配地を通るパイプラインを流れていくのに、政府から還流される補償金は微々たるものであることを認めた。

ボディガードのナジーブを通訳に、私はシェイク・アフメドと言葉を交わした。現在の話題は避け、過去に話を向けた。この谷に出入りする経路についてたずねたところ、シェイクはかつての香料ロードがマアリブを迂回(うかい)*して、シルワを通っていた可能性があることを請(う)け合った。

* 迂回 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4786976.html
(この「マアリブを迂回して」は、「マアリブを通らないで」の意だと思われます)

☆これは、シルワがマアリブに先立ってサバ人の都だったという説の裏ずけとなる。☆
私が「マルカト(女王)・サバ」の話を持ちだすと、シェイクは興味を惹かれたようで、散歩がてら果樹園に案内してくれた。手入れの行き届いた果樹園には、銘文南アラビア語の刻まれた碑文が10ばかり山積みになっていた。2000年以上も昔に石工がふるったノミの跡は、当時のままに鋭かった。ひとつには、砂漠の砂による浸食がここシルワまでは及ばないからだ。シェイク・アフメドは、あれこれさまざまな字体の文字を指し示した。異なる時代のものかもしれない。

私はシェイクに、シルワはマアリブ以前のサバ人の都、すなわち、マルカト・サバが君臨した町だったと思うかとたずねてみた。驚いたことに、彼は首を振り、通訳のナジーブを介して、そうではなく、ふたつの町は同時に繁栄していたのだと答えた。マアリブには、サバの王や女王の冬の宮殿があり、シルワの宮殿は、暑さを避けて夏を過ごすためのものだったというのだ。この説はなかなか筋が通っている。ファフリが記録した碑文のひとつには、その場所は「シルワのアイベックスの主(しゅ)がおわす聖なる土地」であると記されている(ここでいう「主」とは、イエメンのいたるところでお目にかかる月の神、イルムカフを指す)。

「シルワ、ナンバー・ワン」と、シェイク・アフメドは親指を立てて誇らしげに言い、こう付け加えた。「これからご自分の目でお確かめなさい」。それから彼は、はつらつとした甥のマナ・アン・ナーシラに私を預けた。そこで、わたしたちふたりは遺跡へと出発した。
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by Ulala-lov | 2011-05-27 00:10 | シバの女王 | Comments(0)

シバの女王とは。。。8



(引用)〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜

<アラビアとエチオピアをつなぐ手がかり>

アクスムの町外れにはシバの女王が造ったと思われる貯水池があり、一キロ半ほど南には女王が暮らしたとされる、100室もある宮殿跡が残っていて、その向かいに広がる畑には、崩れ落ちた石柱(ステレ)が点在していた。そのひとつに女王が埋葬されているんだとか(ちょっと怪しいらしいですが)。

どれも、キリストの時代のずっと後に繁栄したアクスム王朝*のころに造られたものだった。もっとも、国の起こりは紀元前600年までたどれる。その起源がもっと昔である可能性はないだろうか。考古学者たちは懐疑的だが、(彼らの懐疑的な見方に)確たる証拠があるわけではない。なにしろ、アクスムの遺跡は、全体の3%ほどしか調べがついていないのだ。

* アクスム王朝 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82
%B9%E3%83%A0%E7%8E%8B%E5%9B%BD
(紀元前5〜紀元後1世紀に貿易国として栄えたということですが、おそらく、もっと以前から、つまりシバの女王の時代ぐらいからの可能性が高いようです)

その後、アスクムでもとりわけ地味な遺跡に行く。ぬかるんだ畑を突っ切って行くと、波形のトタン屋根のみすぼらしい小屋で保護されていた。中には、畑の主が地面を耕していたときに偶然鋤が当たって発見されたという長方形の石版で、ゲエズ語*とサバ人の文字である銘文南アラビア語の両方で文字が刻まれていた。石版はまだ一部が埋まったまま、発見された場所に残っていた。というのも、銘文には、アクスム王朝のエザナ王**の偉業が並べられた後に、この石版を動かそうとした者は、必ずや不慮の死に見舞われるであろうと記されていたからだ。この銘文こそ、アラビアとエチオピアのつながりを示す具体的な証拠だった。これらふたつの土地の文字は、この石碑に併記されているばかりでなく、字体にも共通点が見られる。

この類似性は、紀元前最初のミレニアム(B.C.1000〜900年間の100年間)のある時点で、銘文南アラビア語の文字がエチオピアに伝わり、その後、丸みを帯びて装飾的になったというふうに説明できる。

* ゲエズ語
古代エチオピアの聖書
http://www.aa.tufs.ac.jp/i-moji/tenji/syousai/B13.html

**エザナ王
アクスム
http://iseki.travel-way.net/aksum1.htm
http://iseki.travel-way.net/aksum2.htm
アクスム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3
%82%B9%E3%83%A0
歴史と民族への旅 http://www.hisada-gati.co.jp/rekishi_e.html


アラビアとエチオピアのつながりを追って、アクスムから紅海に向かって東に2時間ほど車を走らせ低い丘の上のイェハの遺跡に向かう。丘の斜面に広がるイェハの村の広場には、1950年以降のものらしい教会が建っていた。しかし、この教会の正面上方にはめ込まれた古いブロックひとつだけは別だった。ブロックには6頭のアイベックスが高浮き彫りされていた。湾曲した立派な角、トナカイに似た薄気味悪い目と鼻、そして小さな蹄(ひづめ)。これはマアリブ(=イエメン)をはじめとするサバ王国のあちこちで見られる、並んだアイベックスの浮き彫りと酷似している。

このブロックが壊されたり、どぶに打ち捨てられたりせずに、大切に保存されているところから、エチオピアの人々が、昔の事物を怒りではなく好意を持って遇(ぐう)していることがうかがわれる。
エチオピアで神や聖人や被造物といえば、キリスト教、旧約聖書を奉じるユダヤ教、それに先立つあらゆる信仰の要素をすべて同時に含んでいる。そこでこうしてアイベックスが飾られている。アラビアから伝わった信仰で崇められていた動物が。

教会のすぐ向こうには、このアイベックスのブロック(に加えて、丘の斜面に散らばるたくさんの建築材のかけら)が使われていた神殿が、不完全な形ではあったが今も建っていた。赤っぽい石造りの壁が12メートルの高さまで無傷で残り、さながら壮大な石の箱といった趣(おもむき)だが、かつては香の匂いと祈りの声に満ちていたのだろう。

イェハの神殿は、エチオピアの主要な遺構のうちで最古のものだ。神殿の建築様式と、柱の配置やほぞ接ぎなどの高度な工法は、たんにアラビア風であるだけでなく、サバ風の特徴をはっきりと示している。この時代のエチオピア建築としては特異だ。レンガや木材を使った小規模な建物しかなかった土地に、突如、巨大な石造建築が登場したのだ。

エチオピアいいとこどりの旅
http://www.palmtour.net/optourlists/SPtour/
optourEthiopia_8days.html
(サイトの下のほうにあるイェハ教会となっている写真は教会ではなく、イェハの神殿だと思われます。赤っぽい石造りの壁なので)

のちに私は、このような神殿がエチオピアの荒れ地に建築されるに至った経緯については、有力な説がいくつかあることを知った。一説によると、土着の文化が画期的なアラビア文化に魅了され、建築や図像や筆記法をひたすらまねた、ということになる。その一方で、シバの女王がエルサレムへおもむいたのは、香料や香辛料の交易拡大が目的だったかもしれないが、イェハの神殿もサバ王国の前哨基地の中心施設で、同じ目的のために建設されたとする説もあり、私にはこちらのほうが説得力があるように思える。イェハからさほど遠くないコヒトには、マアリブの偉大なダムにならって造られたダムがある。さらに、いくつかの遺跡でも、サバ人の月の神イルムカフに献じた銘文や祭壇が見られる。

<断崖の修道院>

さらに東へ行き、メサ(高い台地)のふもとに着いた。この崖のはるか上のほうに最古の修道院「デブラ・ダモ」がある。上に行くには、狭い岩棚から下がっている18メートルのロープをよじ上るのが唯一の方法だった。(作者は若い頃、ロック・クライミングをしていたのでトライした)

上りきると、目の前に、60人ほどの修道士が暮らす、タイムカプセルのような初期キリスト教の世界が姿を現した。デブラ・ダモの簡素でつましい教会の中で、ビザンチン帝国の時代と違うところといえば、修道士たちが祈りの時刻と長さを確認するために使っている電池式の時計だけだ。修道士がひとたびあのロープをデブラ・ダモでは、自給自足の生活が営まれていた。菜園作りと家畜も少々飼っていた。暮らしぶりは禁欲的で、教会も同様だった。ただし、飾り気のない教会にあって、石造りの外壁だけは例外で、そこのは独特の模様が施(ほどこ)されていた。★それは、マアリブのマフラム・ビルキースと同じ様式だった。★

この修道院には、私にはとうてい見ることも想像することもできないような精神生活があるに違いないことを痛感した。こうした生活の見返りとして、修道士たちが得られる唯一の人間らしい楽しみといえば、東側に広がる絶景、すなわち、幾重にも重なりあう山地が紅海から立ち上るもやの中に消えていく、すばらしい眺めぐらいのものだ。

デブレ・ビゼン
http://www.eritreaembassy-japan.org/tourism/
church/church02.html
(デブラ・ダモだから、ちょと違うかもしれないけど、似たような感じじゃあ〜?)

エリトリアの歴史(アクスム王朝時代はここも領土だったらしい)
http://www.eritreaembassy-japan.org/category/
history/01.html
コハイト遺跡
http://www.eritreaembassy-japan.org/tourism/
iseki/iseki01.html

人間を傷つけるな!エリトリア人弁護士から見た”世界最悪”
の独裁政権国家 〜WEBマガジン[KAZE]風
http://kaze.shinshomap.info/series/rights/10.html

そんな景色に触発されたのか、シバの女王について新たな考えが浮かんできた。はるか内陸のイェハの遺跡が紀元前7、8世紀のものだとすると、サバ人がアフリカの海岸に拠点をもうけて内陸部を探索し、土着の民を征服して、植民地や石造りの神殿を建設させるまでには、どれぐらいかかったのだろうか?かなりの時間を要したはずで、サバ人が紀元前10世紀にエチオピアに足を踏み入れていた可能性はじゅうぶんある。

この説が考古学的に立証されれば、イエメンとエチオピアの両国がともに聖書に記された紀元前10世紀の女王シバを、自国の女王とすることが可能になる。シバはイエメンに本拠を置きつつも、エチオピアにまで版図を拡大していたと考えられるからだ。また同時に、しばしば投げかけられる「女王は黒人だったのか」という疑問に対する答えも得られる。すなわち、「女王はアラビア生まれだから、おそらく黒人ではない。だが、女王の民でエチオピアに住む者の多くは黒人だった。」

♡♡♡うららおばさんの感想... シバの女王ビルキースは、サバ王国のムカルリブ(=王=シェバ人+ヒッタイト人)とジン(=シュメール人、ここではスレイマーンのことかも?)との間に生まれた子供らしいので、真っ黒ではなかった可能性があります。しかし、その後のシバの女王は、必ず、シェバ人の王族とも婚姻をしているはずですから、かなり黒かった女王もいれば、ヒッタイト人王族との婚姻によりちょっと白くなっていたりとか、いろいろなパターンが考えられますが、いずれにしても、アフリカや南アラビアに長く住んでいれば、それなりに日に焼けて黒っぽかったであろうと推測されます。ですから、ずっと、黒人と西方テュルク系アラビア人(ヒッタイトは純粋な白人ではないけれど白人系)との混血ということでしょう。時々、シュメール人であるスライマーン自身がサバ国の王となっているので、その血も入っているはずですが、スライマーンは、何千年も生きて様々な地方に住んでいるので、白人というべきか、モンゴル系黄色人種かというべきか、アラビア系ブラウン人種というべきか、その場所に長〜く(100年、200年と)住んでいれば、人の肌の色はその場所によって変わりますので。

それにしても、シバの女王の出身地は、もともとアフリカのシェバ地方であり、女王の祖先(アマレク族)もその民も黒人だったということは動かせない事実のようです。ですから、ヒッタイト人と同盟を組みイエメンにサバ王国を築く前から、アフリカ中央部のシェバ地方には、プント王国のシュメール人の協力関係により高度な文明が築かれていた可能性があるかもしれません。しかし、それは、あくまでもシェバ人によるものではなく、ブント人によるものだと考えられます。そして、その高度な文明は、シェバ人王族だけが享受できる城壁の中にだけあったのかもしれません。
♡♡♡


<<シルワへの道>>

ジブチから乗ったダウ船は夜の間中、嵐に遭い、エンジンも2度止まったが、やっとイエメンのモカ港(モカコーヒーの産地)の防波堤内に避難して停まった。その後、役人に不当な料金を取られた後、タクシーを相乗りしながら乗り継いで、サアナのムハマンド・オスマン(イエメンのコーディネーター)のオフィスを訪ねた。彼は観光省に行って留守だった。私の件(シルワへ行く許可の書類をもらう)で行ってくれたのであればいいがと思いつつ待った。

「イエメン・タイムズ」の最新号をぱらぱらとめくった。この英字週刊誌は、カートを噛む習慣や外国人の誘拐、中世以来の因習に関して、政府の役人(というより全イエメン)を激しく非難するので評判だ。2ページ目に、次のようなQ&Aが載っていた。

Q イエメンの人々は、ハンセン病患者をどのように見ているのでしょう?

A イエメンのハンセン病患者は、妻と離婚し、相続権を放棄しなければならず、モスクに入ることを禁じられ、握手さえも長い棒越しにされます。雨が降ったら患者は外出できないという、おかしな話さえあります。この病気が雨水を伝って、地下に染み込み、草木に吸収され、それを食べた人間にうつると、本気で信じている人がいるのです。イエメンの一部の地方では、患者は電気のスイッチを入れることも許されません。電気を通して、病気がうつることが懸念されているからです。

(2011.8.30  5:10p.m. 書き込み完了)
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by Ulala-lov | 2011-05-26 10:49 | シバの女王 | Comments(4)

以下に載せている全てのリンク先サイトは、わたしがネットで調べたもので、サイト主様には断りなく勝ってに掲載させていただいております。3939〜感謝!感謝!です〜。♡

(引用)〜 〜(簡略版)〜 〜 〜 〜 〜

<<王たちの栄光>>

大人から子供まで、シバの女王を自国の象徴として崇めているアフリカの国エチオピアへ。

アフリカ(地図)〜世界一周かけぬけルート
(なぜかエチオピアの隣接国、近隣国には、ソマリア、スーダン、コンゴ、ルワンダなどみなアフリカの大紛争地帯で、大虐殺が行われてきて大量の難民を出してきた国々が多いんですよね〜!)

エチオピアの人々は、自分たちの宝ともいうべき叙事詩『ケブラ・ナガスト(王たちの栄光)』の内容が真実であることをいささかも疑っていない。『ケプラ・ナガスト』は国民史詩で、シバの女王をエチオピアの王朝の祖とたたえている。この王朝は、「王の中の王」あるいは「ユダ族の征服の獅子」という称号を持つ20世紀の皇帝で、女王の直系235代目の子孫とされるハイレ・セラシエの治世まで続いた。

<そして、エチオピアへ>

「ケブラ・ナガスト」は3世紀にコンスタンティノープルにある聖ソフィア寺院の図書館で発見んされたことになっているが、エチオピアに口承で伝えられていた歴史を14世紀に編纂したというのがほんとうらしい。「ケプラ・ナガスト」は、マケダ、つまり処女王シバの、聖都エルサレムへの旅について語っている。その地でソロモンは奸計をめぐらして女王の寝台に入り込み思いを遂げた。

その夜、ソロモンは何かを予言するような夢を見る。簡単に言えば、「イスラエルで輝いていた太陽が、エチオピアに飛び去り、途方もなくまばゆい光を永遠に放ち続けた。」しかし、稲妻にこの夢の記憶を奪われて心乱れて目を覚ました・・・さらにソロモンはシバの女王にも驚嘆した。彼女がたくましさと容姿の美しさを持っていたからである。

「ケプラ・ナガスト」によれば、ソロモンはこの夢に恐れおののくが、ついには、神に選ばれた地は今やイスラエルではなく、エチオピアであると認めるのだった。

★アフリカ版の聖地イスラエルだ。

この発想、この想像力ーーー12世紀末に「ラリベラ」*の岩盤から切り出された教会群ほど、それを力強くかつ精妙に表現したものが、いったいほかのどこにあるだろう。手掘りの人工水路「ヨルダン川」があり、大きな縦穴の中に岩盤を手作業で削り出して造った教会が建っている。希望と信仰と、驚異的な量の重労働がなした偉業だった。ガイドのダウィードの解説では、ラリベラ王の時代に人間と天使が力を合わせて、この教会や、他の教会を作り上げたのだそうです。わずか25年でできたそうですよ。」ラリベラには、他にも岩を刻んだ地中の教会が13か所あった。ソロモン王の時に、「太陽がエチオピアに飛びさり、その地で途方もなくまばゆい光を永遠に放ち続けた」時に選定された新しいエルサレムをこれらの教会が全体として体現しているのが見て取れた。

*ラビレラ村... 首都アディスアベバから真北方向にある聖地エルサレムを模した村

エチオピアの地図

ラリベラの岩窟教会群-エチオピア、キリスト教会

エチオピアの大自然と民俗、世界遺産

ベト・レヘム(=ベツレヘム)の聖堂にはわらが敷かれ、ベト・ゴルゴタ教会(ゴルゴタ教会堂)にはイャサス・セル、つまり、イエスの墓がまつられている。そのすぐ向こうにある中空の岩の塔はアダムの墓だった。ラリベラにあるアフリカの「シオン」(=聖地エルサレム)は、それぞれに意味づけがされた迷路のようなトンネルや階段、厚板の橋で、地理的にも象徴的にもつながれていた。

★☆★ ユダヤ教とキリスト教、そしてアフリカのアニミズムを混ぜ合わせたエチオピア・コプト教の中には、善悪両方のヘビが織り込まれている。

ここにいる信徒とエチオピア全土の3万2000人の信徒を支える確固たる信念と情熱に、私は心を動かされた。ここは天使の羽ばたきが起こす風にそよぐ世界、古代の女王が命を吹き込んだ世界、貧困が蔓延(まんえん)し、干ばつが頻発し、暴動が起きてばかりいる俗世を超越した世界だった。無条件に信仰を受け入れるこの人々のために、エチオピア・コプト教会では、弱い肉体ほど強靭な魂を宿すと説く。その究極の境地を目指して、多くの修道士が過酷な断食をしたり、T字形の杖を支えに、一度に何日も立ち通しで祈りを捧げたりして、自分の肉体を衰弱させていく。そんな祈りの報いとして、彼らは神と直接に話ができる幻や、神が神秘的な使者の姿となって現れる幻を見ることができる。

ホテルに帰ろうと歩いているとき、ふたりの物乞いと出くわした。コプト教のヘビのように、ひとりは実直で、ひとりは腹黒だった。「あなたがたのために祈ってさしあげます。そうすれば、神はお聞きとどけくださるでしょう。ラリベラは世界の中心ですから」と最初の物乞いが言った。私はポケットに手を突っ込んで小銭をひとつかみ取り出した。もう一人の物乞いは、道の脇にぼうぼうと生えている草むらに隠れていて姿が見えなかった。「おい、あんた。聞け、聞けよ。俺はシカゴに行ったことがある。シェラトンに泊まった。100ドルくれ」と、物乞いは人をおどすような声で言った。

<市井の女性たち>

ダウィートとデウ゛ィットとスーザンの三人は、ベト・ゴルゴダ教会を管理する司祭に誘われて、彼の粗末な家に立ち寄っていた。司祭の妻のゲタチェウが迎えてくれた。彼女は、見学者と巡礼者の寄付の収入を補うために、素焼きの壷と竹と少しばかりの銅管で作った手製の原始的な蒸溜器で、アワに似た穀物を発酵させたものから乳白色のウォッカのような酒を造っている。「自分は炎に焼かれてしまったんです。」と彼女は悲しげに言った。その目と肌は火ぶくれができ、やけどで黒ずんでいた。市から外れた場所にいた陶工たちと同様、彼女も社会の除(の)け者なのだ。子供たちを養い、将来にいくばくかの希望をもたせてやるにはこうするしかない、そういう人生しか送れない運命なのだ、と彼女は語った。希望などほとんどもっていなかった。物心ついて以来、国土が干ばつや疫病、戦火に見舞われなかったときなど覚えがないからだ。「この世の地獄を見てきました」と彼女は言った。

<聖都アスクム>

アスクム*が聖都となったきっかけは、はるか昔の伝説の中にたどれる。それは、アウレともワイナバとも呼ばれた蛇王に、町中が恐れおののいていたときのことだった。

言い伝えによると、そんなある日、マケダというひとりの勇敢で美しい娘が、アウレに近づき、平然と相手を見定めると、なんとその首を切り落としたという。アクスムの町は歓喜と感謝の念にあふれ、住民はマケダを自分たちの王に戴いた。アクスムの「シバの女王」の誕生だ。ほどなく、女王はエルサレムに旅をして、そこでソロモンと互角に渡りあった。ーーー少なくとも、ソロモンが奸策を弄(ろう)して女王の寝台に潜りこむまでは。その結果、神の太陽がエルサレムを見捨てて、「エチオピアへ飛びさる」ことになったのは、先に述べたとおりだ。エチオピアへ戻る途中、マケダはマイベラ(現エリトリア領)の泉のほとりで男の子を産み、メネリクと名付けた。「王の息子」というのが文字どおりの意味だ。メネリクはアクスムで育った。22歳の時、メネリクはエルサレムを訪れて父と対面し、エチオピアを文明国として繁栄させるために、相談役や職人たちを召し抱えた。

(♡うららのボソボソ。。。つまり、ソロモンの宮殿に仕える優れた廷臣や職人などの専門家をエチオピアに連れて行ったということらしいので、やはり、ソロモンのいたエルサレムのほうがずっと優れた都だったし、優れた人材もたくさんいたということなのでは?)

この時、若きメネリクは「契約の箱」を盗み出すという暴挙に出た。「契約の箱」が盗まれたと知ったソロモンの悲嘆は、それは激しく、とどまるところを知らなかった。慰めようのない悲しみに打たれた王は、貴重な時間を費やしてメネリクをエジプトまで追ったが、「契約の箱」はすでに手の届かぬ彼方へ去り、アクスムへの途上にあるという事実を突きつけられただけだった。

『ケブラ・ナガスト』によると、メネリクが「契約の箱」とともに意気揚々とアクスムに帰った日、シバの女王は住民たちをひとり残らず招いて、豪勢な宴を催したという。その後、今日に至るまで、毎年11月下旬になると、この日を祝う行事が行われてきた。

シオンの聖マリア教会と、それよりずっと古いもうひとつのシオンの聖マリア教会、そして礼拝堂が並んでいる。古いほうの教会の付属建築として建てられた小さな礼拝堂は、風雨で傷み、金属の装飾は錆び、塗装は色あせてはげ落ちている。屋根も雨漏りしているにちがいない。エチオピアのコプト教徒たちは、この礼拝堂奥に至聖所に、本物の「契約の箱」が安置されていると信じている。ひとりの修道士が番人として礼拝堂にこもり、この格別に重要な聖遺物を守っていた。番人は、その晩も日々の習慣にたがわず、真夜中になると香を焚いて徹夜の祈りを始めるのだろう。翌日の午後3時、十五時間を過ぎてようやく、番人は日課の礼拝を終えて休息に入る。

★★★ 礼拝堂に隠されているのは、大いなる神秘か、大いなるでっちあげかのどっちかだ。


〜〜〜 引用おわり 〜〜〜〜〜

*アクスム l NHK世界遺産
アクスム l エチオピアのみどころ(観光)MAP l 西遊旅行
『シバの女王』たち南アラビアのサクソン軍団がアクスムに到達したのは10世紀と書かれていますが、実際はもっと遅く、9世紀くらいのようです。

世界のロマンミステリー、古代遺跡に残された5つの巨石の謎:カラパイア

テラコッタの証言

つまり、アフリカでは、B.C.3500頃には、すでに鉄器が存在していたということになりますよね。ということは、アナトリア半島でヒッタイトがヤペテ系シュメール人を征服し、鉄の製法を獲得するB.C.2000年頃より、ずっと以前に(このサイト主さんは、B.C.6000年頃までにはと考えている)、アフリカでも鉄の精製が行われていたということで、アフリカ大陸で正当なハム系シュメール人が活躍していたということになりますね。つまり、非常に高度な文明を持っていたシュメール人は、ノアの洪水前から鉄器の製造をしていたということかもしれません。

ミルラの秘蹟(ひせき)

アフリカの原住民が鉄器などの重金属の精製をしていたということですが。。。それはちょっと考えにくいような気がします。そうであれば、もっとアフリカ系住民は積極的にアフリカ内部や外部の地に遠征していたでしょうし。となれば、現在のようなアフリカ原住民のような非文明社会のような感じの人々はとっくにいなくなっていたのではないでしょうか?わたしの推測では、やはり、プント人はハム系(訂正:セム系でした!)シュメール人の一派だと思いますが。。。あのエジプトの壁画に残るプント王族の姿はあきらかに後世になって改ざんされたものでしょうから、あのように真っ黒な肌であるとは限りません。

ローデシア

ザイール=コンゴ民主共和国

奴隷貿易・・・A

上のサイトA「奴隷貿易」の説明にあるヴァイキング*によりスラブ人が奴隷にされたというのはウソです。また、「アッバース朝以降のムスリムによりトルコ人が奴隷にされた」とありますが、そうではなく、アッバース朝の領土となった主にトルコと、その周辺にいたヤハウェ系(人間)がたくさん奴隷にされたのだと思います。

*ヴァイキング
ヴァイキング ウィキペディア
ヴァイキングは、アングロサクソ脳族に率いられたサクソン(ヨーロッパでは"ゲルマン")軍団に侵略され征服された北欧=スウェーデンの西部(東部はとっくの昔に征服されていた)、ノルウェー、デンマークのヤハウェ系(人間)たちが故地を征服されたことによって、襲われたゲルマン軍団の地へ逆に奪われた人や物を取り返しに行って起した戦いだったり、AD8世紀以降はノルウェーまで完全に征服されスカンジナビアやデンマークに居場所を失ったことにより、海外に移転していった過程でのゲルマン軍団との戦いだったと思われます。アングロサクソ脳族の歴史ではヴァイキング(海賊)として悪者にされていますが、ほんとうは彼らヴァイキングのほうが正義であり良い人たちです!!!

また、「中世のイスラム圏での奴隷のほとんどがゲルマン人(ウソ!)、スラブ人、中央アジア人、バルカン人で黒人は少数であった」とありますが、ゲルマン人ではなくケルト人で、中央アジア人やバルカン人というのは曖昧で、そこには中世にはサクソン系が多く住んでいたようでので、奴隷になってはいないはずです。とにかく、ヤハウェ系(人間)が奴隷にされていたということには間違いないようです。

中世のヴェルダンは、ハプスブルグ家出身の皇帝が統治する「神聖ローマ帝国」領土であったり、時にフランスのヴァロア朝(ヤハウェ系)の領土だったりで、中世においてはヤハウェ系王朝が統治していたので、宦官の製造などするわけありません。

前述のように、トルコ人という定義は曖昧ですがオスマン帝国下に住んでいたヤハウェ系が奴隷にされたのでしょう。タルタル人とはタタール人のことで奴隷売買の対象になるわけありません。

ヨハネス22世はピレネー地方の出身でヤハウェ系の教皇のようです。だから、ジェノヴァに警告したのでしょう!

『奴隷』の代名詞が黒人になったのは、大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって(そうではなく古代からアフリカ大陸内で黒人の奴隷売買は行われていた)、それまでの『奴隷』の代名詞はゲルマン人(ウソ!奴隷にされたのはケルト人です!)、スラブ人だった。(ウソ!それ以外の世界各国でヤハウェ系=人間がアングロサクソ脳族やサクソン系の奴隷にされたいました!中国でも、日本でも、東南アジアでも。。。至る所で)

『歴史』の項目のところで、ベルベル人が奴隷にされたのはほんとうでしょうが、ウィキのベルベル人のムザブ人の少女の写真は『新生ヴィーナス』(梶美奈子さん)の変装した姿の写真ですし、その下のベルベル人男性の写真は清水国明ことサクス・コーブルグ・ゴータ公カール・エドゥアルトの変装した姿です。また、トゥアレグ人はベルベル人ではありません。

ベルベル人 画像集

「バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。」とありますが、バークレーはそうかもしれませんんがよく分かりません。しかし、ジェームズ・ワットは本物のロスチャイルドであり、発明にそのような汚いお金を借りるはずがありません。それなりに自己資金は持っていたはずですし。そんな莫大なお金を使わなくても発明はできます。

日本でも、明治維新以降、たくさんのヤハウェ系女性が海外に売春婦(性奴隷)として売られていったようです。


シバの女王

つまり、プント王国のシュメール人たちは、アフリカ中央部のシェバなどのアフリカ原住民のアマレク人の族長になんらかの利益を与えることと引き換えに採掘権を得ていたのかもしれません。そして、族長の下にいる原住民を雇って、採掘していたのかも。。(訂正:プント王国=ヒムヤル王国は『シバの女王』率いる「南アラビア王国」(現・イエメン)に征服され、プント人は奴隷されていたのです!)それで、『シバの女王』とワタル1世(象二郎)たち=シェバ=アマレク人の族長=戦士の長と巫女(母系社会だったため女の巫女が絶大な力を持っていたかも?)は大金持ちになり強力な権力をもつようになったのかも?

定着者たち

うららおばさんが考えるには、ハム族はアラビア半島から紅海を経てアフリカに渡っていき、中央アフリカに定住したんじゃないかな?その後、ハムの長男クシュがナイル川を下ってエジプト方面にいって、エジプト文明を築いたのでは。(間違いでした!)

(以下訂正)〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

BC9~8000年頃に「天上の島ラピュタ」から地上に降りたノア一族は、当時、地上で唯一比較的気候が温暖だったメソポタミア〜エジプトに至る肥沃な三日月地帯に定住していました。

そして、ノアの次男ハムの一族はエジプト文明(シナイ半島からエジプトへ)を築いたのですが、シナイ半島に住んでいたハムの子孫の妻の召使い?に『シバの女王』(後の「新生ヴィーナス」)が化けていたので、その妻には子供が生まれず(シバの女王が子供が生まれない薬を混入していた)、召使い(シバの女王)との間に子供ができたのでは?(旧約聖書のアブラハムの物語を参考)その子供「イシュマエル」=「ニムロデ」=『象二郎』(シバの女王のクローン)は、母親であり、妻である『シバの女王』(=後にイシス女神になる)と結託して、プント人たちの都市国家(ノア一族=ラピュタ人の長男セムの子孫の一派)のあった南アラビアまで侵攻し征服。

プント人の一部は対岸のジブチに逃げて、新たにヒムヤル王国(=プント王国)を築く。しかし、その後、彼らの逃亡地を見つけ出した、超しつこいストーカー『シバの女王』はサクソン軍団を引き連れて、反重力装置を使ってアラビア半島南端から紅海を渡ってアフリカ大陸のジブチに侵攻し(これがモーゼが杖を打って紅海の海水を開いて対岸に渡って行ったのが『エグゾダス』(=旧約聖書の『出エジプト』、しかし、EXODUSの意味は、ただ単に「大移動、移民団などの出国」)です。これがBC1275年頃* のようです。そして、またまた「ヒムヤル王国」(=プント王国)を侵略し征服したようです。

*エジプト歴史年表
カデシュの戦い(1274年)
この当時のエジプト王はラムセス2世で、ヒッタイト王はムワタリでした。ヒッタイトと戦ったということはラムセス2世はヤハウェ系のファラオだったということです。

『シバの女王』とは。。。6 イエメン(マーリブ、シルワ、アル・アラム)
BC1200~1000年頃、初期の統治者「ムカルリブ」のことをム・ワタリと呼んでいるのでは。。。つまり、象二郎のことでは?ということは、彼らはヒッタイトです!そして、新アッシリア帝国と同盟して以降のBC695~660年に統治していたカリビル・ワタルも象二郎で、シルワの巨大な石版には、遠征で3万人を殺し、7万3千人を捕虜としたことが誇らしげに書かれているそうですが、きっとエジプト王朝を征服したからでしょう。(←アッシリア王エセルハドンの侵入**)また、下のほうに、アル・アラムの共同墓地について書かれていますが、小さな人たちの住居ではなく、共同墓地で紀元前3000〜5000年にさかのぼるものとあり、プント人が造ったものと思われます。

** 古代エジプト
エジプト末期王朝を参照してください。


さらに、『シバの女王』たち南アラビアから侵攻してきたサクソン軍団は、BC800年代までにはエチオピアに侵攻していたようです。その後、『シバの女王』が現シリアのダマスカスに駐留していた「新アッシリア帝国」の『サルゴン2世』(=後のイスラエル王『ソロモン』)を訪問し、「イルラエル王国」侵攻に関する協約を取り交わし(これが旧約聖書の「シバの女王」が「ソロモン王」を訪問したくだり)なのではないかと。。。

(推察)シバの女王:「わたしが上エジプトに攻撃を仕掛けさせるから、エジプト王国はそれに応戦して、エルサレム王国に援軍を出せないでしょ〜。その隙に、あなた(スレイマン1世)がクライヤにいるわたしのクローンの『シバの女王』(『イスラエル王国』の一部である南部のユダ族)とベニヤミン(ベンジャミン)族がダビデを裏切って軍勢をだすからをわたしたちコウモリ族ヴァンパイアが得意な夜半に首都エルサレムを急襲し、挟み撃ちにしてダビデの軍勢をやっつけてやりましょうよ〜!ね〜??」(な〜んて話を持ちかけて)

スレイマン1世:おお〜、それはありがたい!余(よ)もイスラエル王国に何度となく侵攻したのじゃが、イスラエル軍はその度にうまく立ち回りおって、われらが軍勢をうまく蹴散らしてしまい苦戦しておったのじゃ。ほんに、そなたはヘビのごとく策略に長けておるわ、よ〜(く)知恵がまわるの〜!(ほめ言葉)恐れ入ったぞ! われらは元々仲間じゃ〜 仲よくしようぞ ?? 
(な〜んて大歓迎したのでした〜!)

てな具合に話は上手く成立し、サルゴン2世&『シバの女王』のコンビは『イスラエル王国』を挟み撃ちして征服したようです。これがBC900年頃となっていますが、わたしは、実際はBC700年代だと推察しています。なので、イスラエル王国の王ダビデがバテ・シェバに誘惑されてウリヤをわざと危険な戦地に送ったとか、バテ・シェバとダビデの子がソロモンというのは全てアングロサクソ脳族の捏造(ねつぞう)した大ウソの歴史なのではないでしょうか?さらに、671年頃には新アッシリア王「エセルハドン」、「アッシュールバニパル」がエジプトも征服していったようです。また、アケメネス朝ペルシャがヤハウェ系の新バビロニア(滅亡時、無血開城したというのは大ウソ!)を征服したようですが、全部裏で『シバの女王』&「サルゴン」が操っていたようです。

(訂正終わり)〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

プント王国=ヒムヤル王国は、ハム一家(間違いでした!セム一族の一派)がアラビア南部と、その後、中央アフリカに進出して築いた王国のようです。

( 2014.05.26 10:50 p.m. 加筆修正完了)
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by Ulala-lov | 2011-05-23 23:10 | シバの女王 | Comments(0)


(引用)〜〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜

<マフラム・ビルキース*、シバの女王の聖域>

* ビルキース(シバの女王)の聖域=シバの女王の月神殿。

マアリブには、太陽神殿、月神殿、ダムがある。

イエメン・マーリブ・太陽の神殿・月の神殿・ダム
http://www.geocities.jp/rihoh2/yemen-4.html

城壁をめぐらせたマアリブから南へ進み、ワジ・アダナの川床を渡って、列柱のそびえ立つ前廊へ、さらに、入口の広間へと通じていた。広間からはレンガの壁に囲まれた、天井のない広大な楕円形の敷地に続く。

1998年になって初めて、カナダ人考古学者ウィリアム・グランツマンが指揮するアメリカ人間研究財団の調査隊がレーザー駆動の経緯儀を用いて測量し、最大幅が96.8メートル 、その昔、壁の高さは16メートルもあり、囲い地の総面積は、パルテノン神殿の2.5倍あるという結果を出した。

不思議館〜古代の不思議(サイトの真ん中より下の辺りに「月神殿」を上空から写した写真あり)
http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/
works_14_p.html

碑文には、『アウワム神殿』(=避難所)と呼び、イルカフ(多分、月の神?)を祀ったものとしている。しかし、長い間使われてきた通称は、『マフラム・ビルキース』だ。入口の柱廊があった場所には、8本の四角い柱が砂から突きでている。マフラム・ビルキースの神秘を探すのは昔から骨の折れる仕事だった。1843のフランスの薬屋ヨーゼフ・アルノー、1869年のジョセフ・アレウ゛ィ、1892年のドイツの碑銘研究家グラーザーが来たが、みな、マアリブの部族民たちが、移り気で敵対的であるのを思い知らされたので、おおまかな図面を描き、碑文を手書きで写し取って逃げ出せただけでも幸運だったと考えた。

その後、1951年のアメリカのウェンデル・フィリップスがアメリカ人間研究財団を設立し、考古学調査隊を編成し南アラビアの遺跡調査に総攻撃をかけた。そして、、マフラム・ビルキースの前庭をふさぐ膨大な量の砂に挑んだ。やがて、5.3メートルもある柱や現代風の窓を模した装飾のほどこされた壁が出てきた。ブロンズ像などの遺物も発見された。しかし、イエメン王アハマドに影で操られている地元裁判官カーディー・イナンの妨害などに身の危険を感じるようになっていた。そして、あと少し(5日位)で楕円形の囲い地にとりかかりシバの女王と同時代の層へたどり着くであろうというまさにその時、フィリップスはイジプト人の現場監督ジャマアとの会話で、あとひと掘りすることさえ自殺行為だという結論をくだした。そして、暗闇にまぎれて2台の車に荷を積み込み逃げ出した。すぐに、カーディーの命令で部族民たちが後ろから雄叫びをあげ、銃を振りまわしながら、ラクダや馬でフィリップスたち調査隊の車を追跡してきたが、どうにかかわして命からがら逃げ出したのだった。

フィリップスを追い払ったあと、口先のうまい廷臣がアハマド王に代わって宣言した。「これら(マアリブ)の古代遺跡は窓でした。もしかしたらその窓から、世界中の人々の目が私たちのことを無遠慮にじろじろ眺めていたかもしれません。私たちは今、その窓を閉じたのです」

フィリップスの調査隊が苦労して発掘したものはすべて、ほどなくして再び砂の中に埋もれてしまった。巨大な囲い地の中に何があるのかは、いまだに謎に包まれている。


<<石に刻まれた文字>>

イエメンの過去に通じる窓は、フィリップスがおおあわてで逃げ帰ってから、パタンと閉じられてしまったかもしれないが、それは重要な証拠がアメリカに運び去られたあとの話だ。大切な証拠物件は、シリアルの箱に隠されていて、逃走車に積み込まれた。ジャム神父は、マフラム・ビルキースで発見した200近い碑文の手書きの写しと写真は持ちかえれた。それを翻訳するのに10年を費やすことになった。

神父がこつこつと英語に訳した文章を読んだ人は失望すると同時に目を見開かれた。マフラム・ビルキースの壁には傑出した詩も哲学もなく、その文章は聖書の内容に匹敵するような次元にはほど遠かった。言葉遣いは紋切り型で、ほとんどが碑文の寄進者とイルムカフ神との間で買わされた契約を記録したものだった。寄進者は自らの名を語ったのち、自分が月の神に奉納するものを述べる。一般的には、それなりの費用をかけて石に刻みつけられた碑文そのものと、彫像、あるいは、神殿の装飾品などだ。そこには決まって取り引きのような雰囲気があった。呪いや神罰は非常にありふれた願い事で、「すべての敵を粉砕し、打倒し、衰退させたまえ」という文句が何度もくりかえし使われている。

神父が特に興味を引かれたのが、Sの字に似た記号おそらくは棍棒(こんぼう、あるいは、あるドイツ人考古学者の言葉を借りれば「死の棍棒」)を図案化したもので始まる碑文だ。この記号は王家の碑文にしか見られない。

(一例: ◎は、S字形の棍棒マーク、まのびした長いSを仰向けに-45°傾けて描き、太めの二重線になるようにもう一度描く。2重のS字の上端と下端を線で結び閉じる。そして、S字の上と下の曲がっている箇所をそれぞれ点か線で結ぶ)

◎スムファリ・ダリフの息子でサバの王イルサラフは、イルムカフが神託によって命じたとおりに、周りを囲む壁の、この碑文の記された段から最上段に至るまですべてと、この長大な壁に施(ほどこ)された壁龕(へきがん)と塔のすべてをイルムカフに捧げた。イルムカフがこれまでイルサラフに約束したことをかなえ、これからもまたかなえてくれるだろうから・・・・・・イルムカフ神によって・・・・・・◎◎

(’うららおばさん’の感想:これって、この棍棒を十字になるように二つ合わせれば、ナチのスワチカになるんじゃあ〜!? @o@; zozooo~~~)

この碑文にはおおいに興味をそそられる。マフラム・ビルキース建造の主要な一段階が記録されているからだ。とりわけ、王とその父親の名前が分かるし、ジャムはこういった碑文を数多く発見した。
それで、これらの情報を整理し、ジャム神父は歴代の王朝を紀元前185年までさかのぼってつぶさに再現することができた。断片的には、さらにその数世紀前までたどれた。


<最大限の試作年表>

画期的な著書『マフラム・ビルキース出土のサバ語碑銘集』の出版後、ジャム神父が再現した先駆的な系図は、ほかの遺跡から発見した碑文おw収集していた碑銘研究家たちの関心を集め、新たな研究につながった。そうした学者の中にリウ゛ァプール大学のケネス・キッチンがいた。キッチンは誰がいつ統治していたかをおおまかに推定しはじめた。これはあなどりがたい作業であり、またいくらか当て推量に頼らざるを得ない面もあった。というのも、もしサバ人が年代を定める方法を持っていたとしても、碑文に年代を書きこむことを怠り、王族を時間の川で漂流させてしまったからだ。

ところが、ムカルリブ*のカリビル・ワタル1世のおかげで、その漂流の運命を免れた。まあリブの西に面したシルワの巨大な石版には、カリビル・ワタル一世が遠征で3万人あまりを殺し、7万3千人もの人間を捕虜としたことが誇らしげに書きこまれている。略奪をほしいままにしたムカルリブ、それがこのカリビルなのだ。そして、キッチンの信じている通りなら、彼こそ紀元前685年のものとはっきり年代が特定されたアッシリアの複数のテキスト中で言及されている「カリビル(Karibilu)」だからだ。彼はカリビル・ワタル一世がおおよそ紀元前695〜660年にかけてサバ王国を統治したことを立証したうえで、既知のムカルリブのうちで最古の者の時代までさかのぼって、初期の治世の期間を見積もった。以下は仮説ではあるが、紹介しよう。
(* 初期の統治者のことで、「統一者」という意味)

☆☆☆「サバ王国」初期の統治者「ムカルリブ」の年表(年代はすべて「紀元前=B.C.」)

1200〜1000年ごろ(x1〜15代)統治期間:240年、ムカルリブ:おそらくは15人、交易国の始まり
1000〜900年ごろ  1代   40年   カリビルA
★ソロモン王の時代 ー シバの女王の時代(始まり)★
990〜970年ごろ   2代   20年   ヤダイル・ヤヌフ、カリビルの息子
970〜955年ごろ   3代   15年   ダマルアライA
955〜940年ごろ   4代   15年   ヤクルブマリクA、ダマルイアライの息子
940〜925年ごろ   5代   15年   ヤダイル・バイイン一世、ダマルアライの息子
★ソロモン・シバ時代(終わり)★
925〜905年ごろ   6代   20年   スムフアライ・ダリフ一世、ヤダイルの息子

だが。。。女王はひとりもいないのか。ーもし、シバが夫、あるいは(摂政として)息子またはほかの近親者と玉座を共にしたので’なければ’、だ。だが、どちらのシナリオもありうる。つまり重要な長距離貿易の任務を遂行する権限を与えられた使者だったのではないかという説に傾いている。確かにこれは道理にかなっている。当時、3か月以上宮殿を離れ、帰国した際にまだ玉座が開いているなどと考える統治者がいるはずもない。女王を派遣する方が懸命であり、そのうえ彼女にのちのアラビアの歴代女王(ザビビからゼノビアまで)の気概と才覚があったとすれば、なおいい。

「シバの女王なる女性がいて、夫の死後、シバの民を統治してきた」。これはあるイエメンの伝承からの一説だが、これはふたつめの選択肢(私にとっては、より現実味のある選択肢)を示唆している。シバの女王は摂政(せっしょう)だったというものだ。キッチンの年表におけるソロモン王の時代には、四度の王位継承のうち三度までが父子継承だった。この王位継承をした三人の王子のうち、父王の亡くなった時点で成人していなかった者がひとりでもいたなら、摂政を置くのは妥当なことであり、それが母親だった可能性はある。伝説ではシバの女王は17年間統治したことになっている。また、彼女の治世がその死によって幕を閉じたという言及はない。もし彼女が年端(としは)のいかない息子を成人するまで指導し、その後は息子に譲ったとすれば説明がつく。


<シルワに行きたいが>

マフラム・ビルキースで見つけた石版や神殿の外壁からの碑文は、楕円形の壁が600年もの歳月をかけて建設された様子を物語っている。同行した探検隊のメンバーのリカルドは、この壁が、「避難所」の意味を持つアウワムの名にふさわしく防御目的の建築物だったのではと考えた。私はこの壁が、周囲を取り巻く山の眺めを閉めだすためのものだったのかもしれないと思った。司祭や巡礼者は山を気にせずに天空を見つめ、太陽や月や星の神々の通り道を眺めることができる。もしこれが当たっているとすれば、この神殿はサバ人の天文学と占星学の観測所として機能したのかもしれない。

この神殿が完全に発掘され、さらに多くの碑文が掘り出され、謎が解ける日が近々、あるいは遠い将来やって来ることだろう。マアリブで野営している時、ジャム神父は西にある険しい山々を歩き回り、そこでも新たな碑文を発見した。そのシルワの遺跡での碑文は、☆「『シルワ』がマアリブ以前のサバ王国の首都だった」☆という、不確かながら根強い伝承と結びついているように思える。もしこれが事実なら、マアリブはシバの女王の時代に繁栄し、貿易の重要拠点だったものの、王宮と玉座のある都ではなかったのかもしれない。

香料ロードに沿った旅の最後に、私たちはシルワを訪れたいと思っていた。しかし、そのあたりを支配している部族が誘拐を繰り返していたし、今も政府閣僚4人の息子を人質にしていた。そして、とうとう政府のシルワへの爆撃が始まり、シルワ行きはあきらめざるをえなくなった。



<<砂漠の秘密>>

シルワの替わりに、他の遺跡の場所を地元の有力者シェイク・ナーセルに聞いて、「アル・アラム」という砂漠の中の小人の都市の遺跡に行くこととなった。

<アル・アラムの共同墓地>


マアリブから真北に向かって行くと、見落としそうな何と言うこともない石灰岩の低い丘があり、がっかりしたが、丘の頂上に到着すると驚きのあまり息を呑んだ。何百というドームが台地に散らばり、丘の向こうの赤い砂漠まであふれている様子がパノラマになって目に飛び込んできたのだ。

アル・アラムは小さな人の失われた集落ではなかった。そこは広大な共同墓地だった。ドームは腰ほどの高さで、西向きの扉がついていたが、窓はなかった。ほとんどのドームの屋根はすでに崩れているものの、略奪を容易にするための残忍な破壊がなされた形跡はない。

私たちの推測では、☆「アル・アラムの共同墓地は新石器時代のもので、紀元前3000〜5000年にさかのぼるもの」☆と思われた。

南のほうを見ると、黒っぽい石が並んでできた長い線が行く筋も何百メートルにもわたって砂漠に伸びている。未舗装の道にできるわだちに似た一対の線を除けば、同じ向きのものはふたつとなかった。方位だと直感した。私は磁石を使い、リカルドはGPS受信機を使って石の方向を計測した。そして、この「白のアル・アラム」の次には、時間に迫られながらも真東にある「黒のアル・アラム」へと地元案内人のアリーに案内された。また、ここでも石の列が砂漠に放射状に広がっていた。リカルドは、またGPSを駆使して正確な方位を測定しようと懸命に駆け回っていた。

アリーが私たちの上にある尾根を指ししめして、「あそこにね。ほら、ずっと昔、ここの小さな人たちが自分たちより大きな者をおどかして追い払うために、見張りを置いたんです。」と言う。黒のアル・アラムの尾根に沿って石でできた円筒形のモニュメントが何十も等間隔に並んでいた。遠くからだと、直径が60センチ、高さが120〜150センチぐらいに見える。天空を計測するための標識だろうか。長い石の列と何か関連があるのだろうか。上まで登って近くで見てみたかったのだが時間切れとなり帰路に着く。帰ってから、衛生画像と戦術航空地図を広げ、白と黒のアル・アラムでリカルドが測った方位をひとつひとつ図上に記入していった。やがて、次のような結果が出た。

(場所)       (方位)   (指し示す遺跡)          (誤差)

黒のアル・アラム    57度    アル・ウクラ*           1度 
白のアル・アラム   168度    ティムナ(カタバン王国の都) 検知できず(=誤差なし)
白のアル・アラム   186度    不明                ?
白のアル・アラム   187度    ハラバト(カタバン王国の主要な都市) 検知できず
白のアル・アラム   286度    カルナウ**          検知できず

*(ハドラマウト王国の都シャブワ近くの儀式場の遺跡)
** (サバ王国の北に位置するマイン王国の都)

上の5つの方位のうち4つが香料ロード沿いの主要な遺跡に一直線でぶつかった(残るひとつも、まだ知られていない遺跡を指しているかもしれない)。たえず姿を変える砂漠で目印など当てにならない中、ラムラ・サバテイン(サバ砂漠?)を横断した遠い昔のキャラバンのことに思いをめぐらせ、☆「その石の線は、道しるべだったのかもしれない」☆という仮説をたてた。いったん正しい方向に進みだせば、キャラバンは星によって方位を確認できるため、コースをそれずにすんだ。だが、どのようにしてこれほどの精度で石が並べられたのか見当もつかなかった。

☆☆☆シバの女王の2000年以上も前、才覚のある民がラムラ・サバテインのはずれで生活を営んでいた。砂漠は彼らの移動と交易にとって何ら障害とならなかった。そして、やがて興る彼らの文明を邪魔することもなかった。


(引用終わり)〜〜〜〜〜〜〜
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by Ulala-lov | 2011-05-22 20:22 | Comments(8)

(5月20日の記事のつづき)


<ハザール(=カザール)王国とユダヤ人>

ユダヤ人の90%は、タタール系ハザール人
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhb615.html

ハザールの歴史  誕生から滅亡まで
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fha100.html

ハザール
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/_floorA4F_ha.html


<'古代シリア'(重要交易地)と'古代メソポタミア'におけるテュルク族系王たちの攻防>

Yamhad
http://en.wikipedia.org/wiki/Yamhad

ヤムハド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83
%A0%E3%83%8F%E3%83%89

「ヤムハド」は、古代シリアの都「ハルベ」(現在のハラブ=「アレッポ」)を中心として繁栄したアモリ人=アムル人の王朝のようです。

アレッポ城
http://yasutabi.sblo.jp/article/42545620.html

ジムリ・リム(B.C.1700年代のマリの王)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A0
%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%A0

ポスト・シャムシ・アダド ジムリ・リム(マリ王)の愛したアイスクリーム
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/27542836.html

日本の総理大臣が、アッシリアのシャムシ・アダド王や古バビロニアのハンムラビ王のような覇権主義者でサタニストの残虐者になってもらっては困ります〜! 「比べるな!」ちゅ〜の !!
今のこんな世の中じゃ、誰が首相になっても思うようにはやれないでしょう。だって、サタニストたちが世界を牛耳って、ニョロニョロ〜に蛇行運転させてるんですから〜

ところで、アイスクリームまで作っちゃうジムリ・リムってなかなかの洒落者(しゃれもの)さんだったんですね〜(父親はアムル人だったのに、母親がシュメール人だったのかしら?)おかげさまで、夏は(いえ、冬も時々ですが ^__^;)、おいし〜いアイスクリームが食べられるんですね〜 ’ありがとう、ジムリ王さん!♡’

それにしても、ハンムラビは最初、ジムリ・リムを応援してマリの奪回を手伝ったりしておきながら、結局、マリを征服したとは。とほほ〜だね。結局、マリをアッシリアの領土にさせないようにしておいて〜、最終的に自分の領土にするとは’やり手ジジ〜’だね〜!っていうか汚いよね〜!卑怯者だよね〜!ヤムハドのヤリム・リムも結局ハンムラビについたのかな?っていうか最初からハンムラビ側だったのかな?ヤムハドのヤリム・リムとマリのジムリ・リムはリム家という同じ家系なのではないでしょうか?でも、親戚や兄弟を仲たがいさせて攻撃するのってアングロサクソン王族の典型的なやり口なんざます〜 ><; 

ほれ、大化の改新のクーデターの時も、中臣鎌足(=藤原鎌足)は蘇我氏の石川麻呂を味方につけていたでしょ〜 

でも、ヤムハド王国もヤリム・リムの息子の代でバビロニアに攻略されて滅亡したみたいです。同じく、蘇我石川麻呂の一族も結局、後の息子の代で滅亡させられていますからね〜。

ハンムラビ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3
%83%A0%E3%

バビロン第一王朝(古バビロニア王国;B.C.1830~1530年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93%E3%
83%AD%E3%83%B3%E7%AC%AC1%E7%8E%8B%E6%9C%9D

バビロンのハンムラビ王(アムル人、在位B.C.1792〜 1750年)は、エシュンナ、ラルサなどのシュメール人の都市国家を攻撃していたようです。最終的にハンムラビの治世下でメソポタミア全土を征服したということです。

ウルク(メソポタミア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB
%E3%82%AF_(%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%
E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2)

紀元前1800年頃には、メソポタミアのすべてのシュメール人都市国家群は、アムル人に乗っ取られていたけれどもシュメール人がつけた国家都市名は変えていないことに注意。同じウルクでも、支配者層はそっくり代わっているということです。

アッシリア王イラ・カブカブ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%
A9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%96%E3%82
%AB%E3%83%96

B.C.1800年代にメソポタミア北部のシュメール人の都市国家であるアッシリアをこのイラ・カブカブというアムル人王が乗っ取っています。しかし、このアムル人王も、アッシリアという都市国家の名前を変えずにそのままにしています。

アッシリア王シャムシ・アダト1世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3
%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%82%A2
%E3%83%80%E3%83%891%E4%B8%96

偽りのシュメール王名表を編纂させ、アッシリアを乗っ取った征服王だった父親カブカブや自分の王位を正当化させた。いわゆる’なりすまし’というやつですナ〜!

双尾の人魚と悪魔崇拝?
https://profiles.google.com/fuktommy/posts/QcFK112GjTK
(テンプル騎士団は、おそらくまともな良い騎士団ですよ。悪魔的なのは、聖ヨハネ騎士団(=マルタ騎士団)とドイツ騎士団です!お間違えなく。)

ダゴン
(アニヲタWiki-) http://wiki.aniota.info/1264383014/
(映画) http://www.geocities.jp/buttai_xyz/dagon.htm
(魔界神ダゴン)http://koat.blog102.fc2.com/blog-entry-23.html
(クトゥルー神話) http://www11.atwiki.jp/cthulhu/pages/56.html
(マリ滅亡に思う) http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/27751809.html

ダゴン信仰が古代の銅や錫の交易路を通じてつながってるというのはなにか理由があるのでしょうかね?アレッポもエブラ(アレッポが中心都市のヤムハド王国以前にあった国の中心都市)とは近いから同じヤムハド王国にありダゴン信仰もあったんでしょうね。

13歳少年「拷問死」 映像流出....シリア :2011.6.02
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110602
-OYT1T01003.htm

少年拷問死か、シリア政権側への反発 NHKニュース :「2011.6.03
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110603/t1001
3291381000.html

外務省:シリアに対する我が国の措置について(外務大臣談話)平成23年5月
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/23/
dmt_110511.html

シリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A
A%E3%82%A2


これらを総合して考えると、

アムル人=アムール人=アラム人は、本当は西方テュルク族で、「オグ」を祖とするオグズ族から派生したということではないでしょうか?アーリア人と自称しているものの、トルコ系モンゴル人という説もあり、これが、アムル河流域のツングース系、モンゴル系で、「東方テュルク」ではないかしら。ということは、シュメール人と混血して白人化していったのでは?

まあ、西方も東方もどちらも、トルコ系=テュルク族ということです。紀元前20〜30C位の時に、その西方テュルク族の一部族「アッカド」がシュメール人の住むメソポタミアに攻めてきて、最初はおとなしく、シュメールのやり方を真似て共同統治をしていて、文字もシュメール文字を用いていたそうです。その後、様々なアムル人(=西方テュルク族)の種族がメソポタミアを攻めてきていたとか。みんな仲間だったりして。そのせいなのか、アッカドの『サルゴン1世』*は領土を飛躍的に拡大し、それからは、シュメール文字を使うのを止めて、大っぴらにアッカド文字(アムル文字と似ていて元が同じと最近分かってきた)を使うようになったそうです。
ここまでは、他の信用できそうなサイト(上にリンク先を載せたり、以前に見たけど今は見れないものとか)に載っていたので、ほぼ事実のようです。

なかなかやり口が凝(こ)っていますね〜。 @o@; ほう〜、油断大敵〜!

テュルク系民族(=トルコ系民族)侮(あなど)るべからず!

*サルゴン1世
スレイマーンともいうらしい。そして、スレイマーンはソロモンのアラビア語かペルシャ語の読み方らしいです。とすると、この人(アッカド人<アムル人)がイスラエルのソロモンの祖先なのかも?

でも、スレイマーンが3000年も生きていたという説もあるらしく、もし、そうだとしたらソロモン=サルゴン1世なのかな〜?


ホーエンツォレルン・ゲルマニア::SS投稿掲示板
http://www.mai-net.net/bbs/sst/sst.php?act=dump&cate=test
&all=21819&n=0&count=1

ホーエンツォレルン家って、結局、ジョゼッペ・マッツィーニというかスライマーンのドイツの家族の一族のことじゃないのかしら。。? とすると、ウィルヘルム1世も2世も、その後の後継者たち*
が悪魔帝国『ゲルマニア帝国』**の支配者ということじゃないですかね?

ウ゛ィルヘルム2世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%
AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A02%E4%B8%96_(%E
3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%9A%87%E5%B8%9D)
(ジョゼッペにやや似ていますね〜、父親か祖父かどこかで時々ジョゼッペが自分の血を入れているはずです)

ゲオルグ・フリードリッヒ・フォン・プロセイン*
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%
AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83
%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%8
3%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%
83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83

フリードリッヒ・ウ゛ィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン*
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC
%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%B4
%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0
%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB
%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%84
%E3%82%A9%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%B3%EF%BC%9D
%E3%82%B8%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3
%E3%82%B2%E3%83%B3
(この人がジョゼッペじゃないかと思うんですがね。肖像画なのでちょっと太めに描いてあるのかも。正体を知られたくないんでしょうね。ずっと、ジョゼッペが皇帝として君臨しているけれど、ずっと長生きしていると変なので、子供や孫が表向きの皇帝に(裏はジョゼッペが仕切っている)。そして、時々は、時代によって顔をいろいろに変えたジョゼッペ自身が皇帝として君臨しているのではないかと。)

とにかく、これがエリザベス女王のウィンザー朝さえ配下におさめる「ゲルマニア帝国」の皇帝ということでしょうか?

*コメント欄も見てくださいネ!
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by Ulala-lov | 2011-05-21 02:14 | Comments(3)


前日書いた「『シバの女王』とは。。。5-2」で、サルハン宮殿のサルハン(=セルジューク・トルコ系のたくさんの王朝の中のひとつ)を調べていたら、大変重要なことに行き当たってしまったので、トルコ系=テュルク系民族についてもっと詳しく調べてみることにしました。

<オグ族>

Oghuz Turks(=セルジューク・トルコ)
http://en.wikipedia.org/wiki/Oghuz_Turks

オグズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B0
%E3%82%BA

(英サイトと日本語のサイトを混ぜ合わせて、わたしの感想)

オグズ系のイスラム王朝から、セルジューク朝や、オスマン朝(=オスマン・トルコ)などがでていることからも、歴史的に非常に重要なトルコ系部族だと思われます。おそらく、イスラム王朝だけではなく、ユダヤ教、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教などにも関係した王朝を輩出していると考えられます。中国北部では、「匈奴」(B.C.3C~A.D.460年)として大帝国を築き「漢王朝を」脅かした存在なのだとか。それから、マケドニア人の祖先でもあると書かれています。

オグ(=Og,オクともオズとも)は、ウィンザー朝のアレクサンドラ王女の嫁ぎ先であるスコットランド*の「オギルウ゛ィ家」(=Ogilvy)の名もこのオグに由来していると思われます。また、おそらく、日本の「奥」という姓にも関係していると思われます。また、「オズの魔法使い」もここからきているのかも?オズは、偉大な魔法使いのように見せかけていたペテン師のインチキおじいさんでしたっけ?

* 今はスコットランドにいるといっても、もとは中央アジア→ペルシャ→小アジア(パレスチナなど)→エジプト→アナトリア半島→(ヨーロッパ)ギリシャ→イタリア(ローマ帝国)→特にドイツ→イングランド(→アメリカ、日本、中国、その他世界中に親戚、同族を送り込んでいる)というふうに、次々と征服者として移住しているみたいですが。

中央アジア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%
E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2

ソグディアナ(=サマルカンドを中心都市とするザラフシャン川=ソグド川流域の古名)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%
E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A

テュルク&モンゴル:セルジュークの出身-オグズ-
http://ethnos.exblog.jp/1273575/

Og
http://en.wikipedia.org/wiki/Og
(要訳)
「オグ」は、旧約聖書によればヘブライ語、アラビア語で「巨人のような」という意味で、「エドレイ(シリアのダラ)の戦い」でモーゼとその軍勢に殺されたバシャンにいた古代アモリ人* の王だった。「申命記」と「トーラー」(モーゼの本)の中の年代では、イスラエルによるオグの転覆とカナンの征服はB.C.1500~1200年頃と示されている。タルムードにもオグがとても大きいと書かれていた。

オグは地方の伝説でもユダヤの伝説でもアモリ人の巨人とされた。伝承によれば、彼は3000年生きたとされ、ノアの大洪水の時にはノアの箱船にしがみついていたと言われる。また、「ミドラシュ」のなかでは、ノアの箱船の中には彼のための特別室があったと書かれている。箱船の真上に座っていたという説もある。

アモリ人=アムール人がシュメールの第三ウル王朝を崩壊させた要因とされ、バビロンの彼らの王のひとり、ハンムラビ王の下で、有力な国々を次々を攻略し、ついに完全に勝利した。(南メソポタミアを征服しアッカド、バビロニアを築いたということかな?)

(訳おわり)


<テュルク系国家>

○セルジューク・トルコ
http://blogs.yahoo.co.jp/lookahyon/35753550.html

シルクロード写真館(キルギスにはジェティ(=ジュディと関係あり?)・オグズという地名、川があり「7頭の雄牛」の意とか?オグズ=オックス?)
http://ww5.enjoy.ne.jp/~s-mattsun/photo/photobk
11_2.htm

中央アジアの地図
http://www.mars.dti.ne.jp/~raindog/WorldMusic/casia/casia.html
http://yoshiokan.5.pro.tok2.com/chua/map.html

トルコの歴史(図解)
http://www.h5.dion.ne.jp/~siena/turk33.html

トルコ(1071年以降)
http://www.travelturkey.jp/Turkey-about/seljuks_an
d_ottomans.htm

○オスマン・トルコ
http://www.jp-tr.com/icerik/genel/history/ottoman.html
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/023.htm

Ottoman Empire
http://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire

古典期オスマン朝歴史叙述における起源論と系譜意識
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/
2007/560.html

○突厥(とっけつ)
http://dadao.kt.fc2.com/turuk-history02.htm


○Medes
http://en.wikipedia.org/wiki/Mede

メディア王国(B.C.715〜550年)
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/orient.html

もともとは南ロシアの草原地帯で半農半牧の共同生活を営んでいたが、しだいに南下していったイラン系民族の一部族で、後にペルシャ帝国を築いたペルシャ人とはきわめて近縁の部族だと書いてあります。紀元前14〜15世紀頃にはザクロス山中に住んでいたが、紀元前8世紀のダイウックがメディア人諸部族を統一し、エクバタナ(現在のハマダン)を都としメディア王国の基礎を築いたとのことです。

ですから、やはりイラン系民族も、もともとは西方テュルク族と思われます。

メディア王国 〜今を知る為の歴史探究
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/f5d92adf56adf74ab44
5533818644370

上のブログによればメディア人はインド・ヨーロッパ語族で、遊牧騎馬民族のスキタイの血も混じっているのだとか。

メディア王国(四王国分立時代)
http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/f5d92adf56adf74ab44
5533818644370

メディア人は現在のクルド人の祖先らしいです。そのクルド人はイラン、イラク、トルコの3ヶ国の国境にまたがった地域に住んでいるため複雑な民族問題をかかえてしまっているんですね。

メディア王国
http://blog.kaisetsu.org/?eid=810240

上のブログを見ると、スキタイにメディアが征服されたこともあったけれど、後に、またメディアがスキタイを征服しメディア大帝国を築いた。しかし、そのメディアも、その後イラン南東部のアケメネス朝ペルシャに征服されてしまったということです。

メディア王国の当方領土について
http://heartland.geocities.jp/zae06141/iranhistory
_medeia1.html

これらのイランの国々が、あの「ユダヤ教」などの元になったといわれる「ゾロアスター教」を信仰していたということです。

[ゾロアスター教]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%
82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99

http://tonoguchi.web.infoseek.co.jp/iran/zoroastr.htm

ミトラ教、神話学、ゾロアスター教の神話
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_My
th_Zoroastrianism.html

ペルシャ帝国とゾロアスター教〜高校生のためのおもしろ歴史教室
http://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/world_history11.html

ネットには、ゾロアスター教に関して、真実よりかなり良い面だけを書き立てているサイトが多くみられ、以前のような恐い週末思想だとか、恐そうな鳥葬の詳しい記事は削除されたり、シェイドがかけられていて見れなくなっています。蘇我氏がゾロアスター教だったみたいな大嘘も書いてありますしね。仏教でも蘇我氏が信じていたのは、インドでクシャナ朝によって始められた初期の仏教はほんまもののまともな宗教です。バラモン教で苦しめられている人々を救うための宗教でした。その後、インドのヒッタイト人やシェバ人などの支配層が仏教を自分たちの支配に都合が良いように歪めてバラモン経と混ぜ合わせて創作したのが「ヒンズー教」です。また、ヒンズー教をもとにした密教系の仏教も広く外国、といってもアジアに広めていったのです。

「鳥葬」というのは、塔のような所に死体を置いて、鳥に死体を食べさせて骨は下のほうの出口に落下するようになっているようです。また、アフリカのヌビアや上エジプトあたりでも同じような鳥葬が行われていたそうです。大衆の死体は埋めないで、砂漠にバラまいて鳥に食べさせて死体処理してしまうとのことです。これって、かなり残酷で恐ろしい感じがしますけどね。。。しかし、支配者層の死体などは丁寧に、家臣まで毒殺して同伴させて墓に入れるのですからなんかおかしいんですよね。

ゾロアスター教の聖地、ヤズドへ(イラン) :添乗見聞録
http://eurasia-blog.cocolog-nifty.com/blog/2009/
08/post-47eb.html

ネットにあるゾロアスター教に関する嘘の情報には、特に、アフラ・マズラーのことを善い神だとし、それとペアになっている恐ろしい悪の神アンリ・マンユのことは隠しているようです。たくさんのブログで、マツダ自動車がアフラ・マズダーから来ていることがバレバレになったので、ゾロアスター教のことをずいぶん体裁良くゴマ化(=胡麻化)して書いているようです。

ゾロアスター教
http://www006.upp.so-net.ne.jp/whitey/esoteric_text/zoloaster.htm
(世紀末思想で世界を破壊尽くした後に、光の善の世界がやってくるというのは嘘です。この宗教を考えたザラスシュトラ(=ツァラスストラ=ツァー・(ニコラス)・ステラか?あのHAARPを考え出した科学者)って、おそらく、スライマーンことジョゼッペじゃないかしら?なにしろ、ゼウスのハイテク技術を盗んでますから、HAARPの基本原理ものっていたんでしょうね〜 そして、世紀末の後に、ジョゼッペが計画しているのは、彼の家系のシュメール族が唯一の王族・貴族となった超極端なピラミッド型(おそらく、東京スカイツリーのようなピラミッド型)社会で、他のわずかに生き残った者たちは奴隷にされたり、人間牧場で彼らの食料にされるかでしょう。だから、サクソンの世界征服計画=ニュー・ワールド・オーダーでは、白人だけが生き残ると言う証言があるのです。おそらく、ジョゼッペのシュメール系親族だけが王族・貴族として東京スカイツリーのように高くそびえ立って世界に君臨するつもりなのでしょう。

7th centyury BC
http://en.wikipedia.org/wiki/7th_century_BCE

○Assyria
http://en.wikipedia.org/wiki/Assyrian_Empire

アッシリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83
%83%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2

アッシリア滅亡後のオリエント
http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/maps/after_assyria.html

アッシリアは、ネットなどにはアッカド人の国となっていますが違うみたいです。サタニストたちは都合の悪いブログやサイトにはアクセスできないようにシェイドをかけたり、画面がプッツンと消えてしまったりします。なので、いろいろなブログを読んでわたしが総合的に考えると(といっても、ご勝手探検的にですが ^_^: )以下のような感じです。

南メソポタミアにシュメール人のノア一家がアラトト山から降りて定住していたのは、少なくともB.C.8000年くらいまでみたいです。その頃は、大洪水のため北緯20度以北にはほとんどだれも住んでいなかったとようです。(おそらく、北極圏に居住していたごく一部のケルト系ノード人{=ノアと同じノルマンかも?}やエスキモー以外は)

その後、南メソポタミアに定住していたノア一家の息子たちがそれぞれ独立し、ほかの地に分散して定住していったのでしょう。ノアの3人の息子のうち、長男セムの5人の息子のうちの次男が「アシュル」であることが旧約聖書:創世記10章22*にありますから、ここの部分だけは史実として真実なのではないかと思われます(それでも、他の兄弟の名前などが正しいか疑問ですが)。つまり、セムの息子アシュルが北メソポタミアの地に住み始め、子孫を増やしていった。それが、「アッシリア」と呼ばれる都市国家群だったのでは。アシュルの子孫たちは、B.C.3000年くらいまでとても平和に暮らしていたようです。ところが、東からアッカド人(アムル人の一派)がメソポタミアに侵略してきて、南部メソポタミアと北部メソポタミアとの中間地に定住し北部、南部メソポタミアの都市国家諸国を監視していたのではないでしょうか。とにかく、南北のメソポタミアは、おそらく紀元前3000年〜2000年の間にアッカド人を中心としたアムル人(=アムール側上流から派生した東方テュルク族とエジプト辺りから侵攻してきた西方テュルク族とに挟み撃ちされ)から何度か攻撃を受け、攻防を繰り返しながら、結局、B.C.1813年に、アッカド人のシャムシ・アダト1世によって完全に征服されてしまったようです。シャムシ・アダトは、そのまま「アッシリア」という国名を名乗りシュメール人国家のひとつになりすましていたようです。

しかし、なぜかアッカド人の仲間の西方テュルク族の「メディア」とシュメール人の「新バビロニア」が同盟を結び(おそらくメディア王がもちかけた)、挟み撃ちの攻略を受けて、B.C.609年に滅びました。しかし、アッシリアの最後のアッカド人らしき王は、内部から滅ぼす工作をしていたと思われます。つまり、これは、新バビロニアに一時的に勝利させて油断させて、新バビロニアを滅亡させるためのメディアとアッシリアの同じアッカド人である王たちが内通していた作戦だったみたいですぅ〜。ほんとワルワルなんだから〜!結局、B.C.539年に、アッシリアやメディアとほぼ同族のアケメネス朝ペルシャが強大な勢力をほこるようになり(要するにアッカド人を中心としたアムル人+サバ人などの西方テュルク系が国名の看板を架け替えただけみたい)、新バビロニアを滅亡させます。

* http://homepage3.nifty.com/IUCC/bible//o0110.html

メソポタミア〜松岡正剛の千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0261.html

明治維新の時の、アングロサクソン王族のアイゼンベルグやジョゼッペ・マッチー二と同じやり口ですネ!! 朝廷の一部や将軍家の徳川慶喜(水戸藩の出身、多分、ジョゼッペの息子)や源氏系の外様大名の藩と内通していたし、有力藩主家も乗っ取り工作などを含めて味方につけ、だましたりもしながら討幕の準備を進めていった。

やあ〜、’歴史は繰り返す!’というか、アングロサクソン王族って、工作のやり方事態は超複雑なんですけど、けっこう同じパターンの繰り返し多いんですよね〜


<シュメール国家>

Subartu
http://en.wikipedia.org/wiki/Subartu

「スバルツ」は、北メソポタミアのシュメール人の都市国家群で、マルツ(西の)、エラム(東に。ペルシャ湾の東部沿岸))、スメル(南。メソポタミア南部、ウルなど)のようなシュメールの代表的な国を含んでいたようです。このスバルツが、後に「アッシリア」になったようです。

西の「マルツ」って、よく分かりませんが、もしかしたら、「エジプト王朝」ってことかしら?それとも、「プント王国」のことですかね?

トランス・エラム文明歴史地図 世界史の歴史地図へのお誘い(B.C.2600年)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/history_1.html

原エラム (B.C.3200 〜B.C.2700年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E3%82%A8%
E3%83%A9%E3%83%A0

シュメール民族の謎 〜高校生のためのおもしろ歴史教室
http://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/episode12.html

消えたシュメール王朝と古代日本の謎 〜むろまっち
http://majinnnn.jugem.jp/?cid=23

イノンド
http://www5f.biglobe.ne.jp/~homepagehide3/
torituyakuyou/agyou/inondo.html

「ディル」 スパイス&ハーブ検索
http://www.sbfoods.co.jp/sbsoken/jiten/
detail.php?SPCCODE=00035

古代シリアは交通・経済の要衝(ようしょう)
http://ameblo.jp/ktnyyk/entry-10859251779.html
(済みません。ちょっと、ま〜、侮(あなど)っていました。^_^; )


<テュルク系民族>

テュルク系民族(=トルコ系民族)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%8
3%AB%E3%82%AF%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F

:歴史的なテュルク系民族および国家
匈奴、フン族、丁零、高車、悦般、突厥、鉄勒(てつろく)、堅昆(キルギスなど)、オグズ、カルルク、ブルガール人、ハザール(テュルク系タタール人)など

チンギス・ハーンという名前、それから、キプチャクハンとかっていうハンのつく国家名などもみんなテュルク系を表しているようです。

アムル人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%
A0%E3%83%AB%E4%BA%BA

Amorite
http://en.wikipedia.org/wiki/Amorite#Physical_Appearance

アモリ人(=アムル人)
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/51656669.html

アムール川
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%
A0%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B7%9D
アムール州
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0
%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B7%9E
(ユダヤ自治区もあります)

中央アジア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%
AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2
この中のユネスコの定義だとかなり広くアムール川の上流域も入ります。

バイカル湖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%
E3%82%AB%E3%83%AB%E6%B9%96

なんでも、地質学的に非常に古い地構帯の上、2万年前から人が住んだ後があるというのは、氷河期にも人が住んでいたってことになるんでしょうね。でも、シャーマン岩がちょっと気になります〜
きっと、なにかの云われ、伝承があるんでしょうね〜

イルクーツク・バイカル湖旅行
http://www.jic-web.co.jp/op_tour/travel/ikt.html

シャーマニズムの中心地でもある神聖な場所なんですって。なにか重大な歴史的秘密が。。。ありそうだニャ。。。フムフム。。。クンクン。。。(猫?犬?)

美しい大自然がどこまでも広がるロシア、バイカル湖の写真
http://digimaga.net/2009/03/7-russian-nature-lake-baikal

でも、素朴で雄大な自然がとってもウッ美しそうです。いつか行ってみたいワン〜!

Harrians
http://en.wikipedia.org/wiki/Hurrians
(説明にあるハリアンの都市「Nazi=ナチ」http://en.wikipedia.org/wiki/Nuzi へ〜、そうなんや〜。っていうか〜やっぱり  ><; )

B.C.2300年頃のメソポタミアの都市国家
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Orientmitja2300aC.png

上の地図を拡大してみると、かなり嘘が多いようです。ハリアンが北部メソポタミアに隣接して都市国家を築いていたのですが、ある時、先に侵略して長くシュメール人と共存していたアッカドが同じテュルク族のこのハリアンと共謀して(最初からそのつもりで、アッカドがハリアンを招きよせていたのかも)、シュメールと戦争を始め、テュルク族側が勝利し、大規模にシュメールを征服し、メソポタミア南部にバビロニアを築いたようです。

つまり、地図上の矢印の侵略方向が逆です。それに、緑の部分がシュメールの領土で、アッカドの王はその一部を占拠して、シュメールと仲良くしていろいろ教わっていたらしいのです。ですが、シュメール人から十分学び終えた『サルゴン1世』の時に、一転して、仲間のテュルク族ハリアン(紫の領土:西方テュルク族)を招いて、シュメールを再び総攻撃したようです。それから、南ペルシャ地方のやはりシュメール人の都市国家群「エラム」(黄色の領土)も同時に攻撃されて、かなりの領土をテュルク部族に征服されたようです。また、上の地図の緑のところにはアムール人(アムル人)と書いてありますが、シュメール人です。反対に、ハリアンは西方テュルク族で、アッカドがアムール人と言われている人たちです。しかし、このアムル人とは、東方テュルク族とでも呼ぶべき民族です。


つまり、「アムール人」=「アモリ人」というのは、テュルク系(トルコ系)でも、北東アジアのツングース系、モンゴル系の民族と同化した人たち(あえて言えば「東方テュルク族」)のことをさしているのではないかと思われます。テュルク系の祖がオグズだとするとソグド地方(現在の中央アジアのキルギス、カザフスタン、ウズベキスタンの一部でサマルカンドを中心都市とした地方)から出てきた「ソグド人」または、その周囲の民族をもっと広範囲に言えば「西方テュルク族」といったほうがよいかもしれません。テュルク族の中でも、オグズなどのソグド人がアッカドやハリアンのことではないかと推察しますが、まだはっきりとは区別できません。

けれども、ハリアンがアナトリア半島に進出していったヒッタイトの90%をしめていたということが英文のほうに書かれていますがこれはなんか本当みたいで納得です。それから、アメリカのハリマン家は、このハリアンからつけた名前なのではないでしょうか?つまり、西方テュルク族が、ヒッタイト(=ハリアン、ハリマン、ヘッセン、ハッサン、フリーマンなどに変化)の祖先じゃないでしょうかね。ヘンリー=ハリーという名前もここから来ているような。

それから、カスピ海東沿岸(バクー油田がある所かな?)にテュルク族が征服した国に「グルジア=Georgia」*があり、そこから「ジョージ=George」というハノーウ゛ァー朝の王の名前がつけられたのでは?

* グルジア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%B1%E3%82
%B3%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%82%B9%E8
%AA%9E%E6%97%8F

コーカサス地方(=カフカース)南コーカサス:グルジア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9
5%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9

それにしても、彼ら西方テュルク族をアモリ人(本来は東方テュルク族なのに)と読んでいるのはどうも???。。。庶民に歴史を分からなくさせるためでしょうかね? しかし、まあ西方テュルク族も、元をたどればアムール河上流付近から派生した民族なのかもしれませんが。

アッカド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83
%83%E3%82%AB%E3%83%89

アッカド・シャーマン
http://blogs.yahoo.co.jp/sharmanqueen/5929976.html

セム・ハム語族
http://wee.kir.jp/language/lang_afroasiatic.html
(あくまでも言語的な区別であって、ノアの息子のセムやハムの子孫とは関係ないということです)
アルタイ語族
http://wee.kir.jp/language/lang_altaic.html

インド・ヨーロッパ語族
http://wee.kir.jp/language/lang_ind_eur.html

ロシア、アムール、女真族、満州人。。。
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/sekigan.htm

サルゴン
http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/
theb02/02214.htm

タフテ・スレイマーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%95%
E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AC%
E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%B3

ササン朝ペルシャはゾロアスター教(拝火教)が国教だったということです。イラン系のペルシャ民族も、テュルク系民族も元は同じで、天山山脈(テンシャンさんみゃく)の辺(あた)りを起源とするという説もあるようです。

スレイマーン=ソロモン王だそうです。ということはゾロアスター教を(も?)信じていたということに。ソロモンさんったら、72柱もの悪魔の神を信じていたらしいですからね〜 これって、征服した植民地の民と融和して支配しやすくするための政策だったらしいです。さらに、妃やそばめもたくさんいて、婚姻関係もたくさんむすんで大帝国の安泰を図っていたようです。。。と、いうことは〜、それだけたくさんの国を支配していた!ってことなんじゃないかしら。

サルゴン&イナンナ女神
http://irisroselyrica.blog57.fc2.com/blog-entry-146.htm
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by Ulala-lov | 2011-05-20 00:51 | Comments(1)