2016−04−05

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

039.gif →まずは予備知識 044.gif 045.gif

[中国国営TV :長江のドキュメンタリー]


<<< 映画『長江』 >>>





わたしはノアの方舟からアラトト山(現在のトルコ東北端)に降りたウラノスたちは東に移動していき、中国北部から日本の東北に移動し定着していたと考えています。そして、ウラノスを追っかけて探していたアングロサクソン王族たちは、BC200年頃に中国を統一し『秦王朝』を開いた後で、捕らえた人間の王族たちを拷問してウラノスたちが日本に移動して行ったことを突き止め、それで急遽、秦王朝を適当にほったらかして(始皇帝の代理の者に任せて)、同じくBC200頃に、本者の秦の始皇帝=徐福=新生ヴィーナス=レアは、大船団を率いて日本各地を同時テロ、かつ、その攻略地を拠点に次々にテロを起して侵略していき、侵略地を一気に拡大させていったのでしょう。そして、徐福たちアングロサクソン王族のトップたちが最初に拠点とした地が鹿児島県の南東部で大山氏一族として定住していたのでしょう。

なので、中国の秦王朝はわずか30年余りで滅亡し、人間の王族による『漢王朝』となったのでした。もちろん、漢字を発明したのも中国にいた漢人(人間)の王族たちであり、だから『漢字』というのは自明の理です。

そういうわけなので、水田の稲作もウラノスたちがやっていたことなので、そのまま日本に持ち込んだわけです。おそらく、BC8000年頃ではないかと。でも、その前から、アトランティス大陸(ムー大陸ともいう?これらはアングロサクソン王族が後世になって勝手に付けた名称なので、実際、ほんとうの名前は不明)

また、『徐福』以前にも、中国東北部から北海道、東北地方などにサクソン人たちが侵略を繰り返し、日本に定住していた者たちもいたようです。

*このブログ内の関連記事:
(わたしはこのブログ内で人間のことを「シュメール人→ヤハウェ系→人間」と書き替えてきました。というのもシュメール人、ヤハウェ系という呼び名には人間とアングロサクソン王族とのダブルミーニングがあると分かったからです。)






(なんか〜あの屋根の先っぽがね、跳ね上がってるの とっても気になるというか。。。ちょっとセンスないような ブツブツ)



南京の中山陵(蒋介石の墓)  ジョゼッペ? チンパンジーのような骨格の顔?

★★★ 南京市の要塞壁には、やはり銃弾の痕跡(こんせき)が生々しく刻まれていましたネ!


■ 景勝地『黄山』(こうざん)



英国に輸出され『アヘン戦争』の原因となったのがこの「キームン紅茶」のようです。それほど美味しい紅茶だったからでしょうね。わたしも英国ブライトン市でホームステイしていたアブラハム家 * =ダイアナ妃の実母フランセス** の家で食後に飲んでいたのが中国の紅茶だと聞いていました。日本ではスリランカやインドの紅茶が主流で、あれ?中国の紅茶ってあるの?って感じでしたけれども。でも、その中国の紅茶というのはフルーティーな感じのとても美味しい紅茶でした。

* アブラハムは別居中の夫のファミリーネーム(姓)で、多分、その夫とはトルーマン大統領(=何者か非常に興味深い)です。
**トルーマン大統領に関しての続きは、4月7日の記事 原爆投下命令を出したトルーマン大統領とは で詳しく説明しています(まだ書きかけですが)。




黄帝は敵の蚩尤(しゆう)を倒して自分の国を造ったそうです。

(ヤギのような身体ですネ〜!)
(ヤギの脚をしています。頭部は「かぶと虫」のようです。両手に剣と斧(おの)をもっているような。。。さらに、右足にはナイフのようなもの、左足には弓矢を持っています。)

しかし、下の黄帝の肖像画*を見たり、説明を読むと、黄帝はどうもアングロサクソン王族のような。。。すると、敵の『神農氏』** が人間の氏族だったということに。したがって、先の蚩尤(しゆう)の姿だとうヤギ+カブトムシのモンスターは黄帝の本当の姿だったのかも?そして、その特徴もすべてアングロサクソン王族のことのようです!



伏義(=アングロサクソン王族)が亡くなると(アングロサクソン王族歴史ではBC11Cとなっている)、「神農」***(しんのう)が新しく部落連盟(=ギリシャやパレスチナ地方などのようにポリス群の連盟)を形成するなどした。きっと、それで『殷(いん)王朝』下のサイト👽によればが滅んで、人間の『周(しゅう)王朝』になったのですネ!







黄帝は『殷』(いん=サクソン軍段の国)の皇帝だそうです。




江西省*C東北部の景徳鎮(けいとくちん) 陶磁器生産に1600年の歴史をもち、中国の1/4の陶磁器を生産している。






先の映像を見ても、なんか絵付けされた陶磁器はほとんどなく、タコの赤色の花瓶?とか。。。色付けさえもない食器とか。。。わずかに絵付けされていたものでもデザインのセンスがよくなかったし〜

★★★ つまり〜、『文化大革命』っていう中国共産革命は、"文化大破壊革命" だったってことですぅ〜!!013.gif それに "自国民大虐殺革命" だったしね〜!!!007.gif

★ そして、なんと〜毛沢東が最初に共産党の拠点を築いたのが、この江西省だったのです!

*** 『文化大革命』に関しての続きの詳しい説明は別記事 中国最大の虐殺・文化破壊『文化大革命』、その指導者『毛沢東』&『四人組』の恐怖政治でしています(まだ書きかけですが)。












👀 こんなの見っけ! 👾








二人とも口パクです!



高音なのでコンピューター偽造歌みたいです。





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by Ulala-lov | 2016-04-05 17:10 | 東アジア | Comments(0)

2016−03−22

のつづき)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。



イタリア、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂 *

"ルネッサンスの先駆け" となった作品:マリアの顔は明らかにアングロサクソン王族の顔になっています。キリストの腰をおおう布はモンゴル帝国で使われていたパスパ文字が使われているとか。

(引用)
スクロヴェーニ礼拝堂は、高利貸しで財産を築いた一族出身のエンリコ・デッリ・スクロヴェーニがパトロンとなって創設された。当時、過剰に利子を取る高利貸はキリスト教の秘跡を受けられなくなるほどの重大な罪とされ、初期の銀行業者は自分の商売のゆえの魂の地獄堕ちについて気にかけていた。エンリコが私財を投じて礼拝堂を建設したのは、父親の罪と、自身の免罪とを意図したものだったと指摘されている。エンリコの父レジナルド・デッリ・スクロヴェーニは、神曲の中でダンテが出会う高利貸として書かれる人物である。近年の研究ではエンリコも高利貸であり、贖罪のために礼拝堂を建設したともいわれている。エンリコの墓は礼拝堂の後陣(アプス)にあり、肖像画が『最後の審判』で礼拝堂をマリアに祈り捧げている人物として描かれている。




かつては、パドヴァはかつてはヴェネチア共和国内だったようですので、あのシェークスピアの悲劇『ベニスの商人』** の悪どい高利貸しのモデルは、きっと、スクロヴェーニ礼拝堂を建造したスクロヴェーニ家のエンリコか、その父のレジナルドでしょう。そして、この教会のイエス・キリストがモンゴル文字の書かれている腰布を身につけていたのは、このスクロヴェーニ家の一族はモンゴル系ということなのでは? もしかしたら、このスクロヴェーニ家が後に、サクソン軍団を率いてフィレンツェに侵攻していき、メディチ家を乗っ取ったのでは?そして、フィレンツェで本格的に『ルネッサンス』*** を開花させたのでは。。。(ミラノの名門「ヴィスコンティ家」も、アングロサクソン王族の「スフォルツァ家」に乗っ取られています。)




*このブログ内の関連記事:
↑とにかく、アングロサクソン王族たちは、ユダヤ人と自称している時にもユダヤ教を信仰しているふりをしていても、実際はそうではなく悪魔教を信じている人たちなのです。同様に、キリスト教を信仰しているふりの時も(教皇や牧師の時でさえ)、イスラム教を信仰しているふりをしている時も(導師の時さえも)、仏教を信仰しているふりをしている時も(たとえ僧侶であっても)、やはり悪魔教を信じている悪魔崇拝者(サタニスト)なのです。

(ここは説明長いし、難しく書かれてるので興味のあるところだけ斜め読みするぐらいがよいかも?)


1991年6月ポーランドで軍とローマ教皇庁が主催するミサが行われた。771年前(1221年)にモンゴルと戦い全滅した兵士たちを弔(とむら)うミサだった。

東方から人々を救済してくれる王「プレスタージョン」がやってくることをヨーロッパのキリスト教徒たちは待ちこがれていた。

十字軍はシリアの城に立てこもって、イスラム軍との攻防が続いていた。プレスタージョンが来るとの知らせがあったが、ついに来なかった。

ローマ教皇は絶対的権威を持っていた。誰も逆らえなかった。十字軍が派遣されたが、教皇の軍はイスラム軍に各地で敗走を重ねていた。イスラムを背後から攻撃する東方の救世主プレスタージョンの噂がヨーロッパに広まったのはその頃だった。

1221年、ホラズム王国(中央アジアにまたがるイスラム教徒の大国)に東方から軍団(モンゴル軍)がやって来て、首都ブハラを落とせば一気に崩せると投石によりわずか数日でプハラを制圧した。人々は征服者をプレスタージョンだと思う。

1223年、再び東方から軍団が現われた。しかし、今回、彼らが襲ったのはイスラム教国ではなく、ギリシャ正教を信じるロシアだった。ロシアからローマ教皇にもたらされた知らせによれば、「キリスト教徒だと信じていた軍団は我が民を数千人も殺し東へ去って行った。」しかし、教皇はこう言い放った。「ギリシャ正教は異端だ。プレスタージョンは異端を信じるロシアの人々に天罰を下したのだ。」

教皇はなおもプレスタージョンの再来を待ち続けた。20年後、ついに東方の強大な軍団がヨーロッパに姿を現した。しかし、それは教皇が待ち望んだ救世主ではなく、破壊と殺戮をもたらす恐怖の軍団だった。

東方の軍団は1241年、ポーランドのレグニツァへ進軍。これを迎え撃つため、ポーランドとドイツの騎士団はレグニツァへ集結した。



タルタル人(韃靼人だったんじん)が東方へ姿を消して3年後、1245年、教皇インノケウス4世は聖ヨハネス教会でタルタル人対策を協議するため会議を開いた。「あのタルタル人がまた攻め込んで来る。」この噂が遠くイギリスやドイツの港町にまで広まっていた。人々の不安を静めるため教皇は使節を派遣することにした。教皇はタルピニにジョンに宛てた親書を託していた。タルタル人をキリスト教に改宗できればよいと教皇は思っていた。出かけって行ったタルピニは彼ら東方の軍団の土地がモンゴルと呼ばれていることを初めて知った。

タルピニがモンゴル滞在中に書いた詳細な記録が残されている。

「私自身が実際に見て、耳で聞いたことのみをここに記す。私たちがタルタル人と呼ぶモンゴル人とは次のような人たちであった。」

・モンゴルには農業と呼べるようなものは何もないが、家畜の放牧には最も適している。
・モンゴルの人々は馬・羊・牛を飼い、その乳を飲み肉を食べて生きている。
・モンゴル人の信仰している唯一神は太陽・水・土など自然の万物に宿るという。

タルピニが親書を渡そうと待っていた時に王が代わり、チンギスハンの孫のグユクになった。即位式にはモンゴルの傘下となった国々から数えきれない使節が出席していた。タルピニが親書を新王に渡すと、書記長官の鎮海(ちんかい)が英語をモンゴル語に訳して読み上げた。タルピニは鎮海がキリスト教徒(ネストリウス派=中国では景教)だったと知る。なぜ、ネストリウス派の人々がモンゴル帝国の要職を占めていたのか?

ネストリウス派の故郷はイランにあった。イランではイスラム教が国教。イラン北西部の町「ウルミエ」、ここには20万人を越えるネストリウス派のキリスト教徒がいる。『聖マリヤ教会』は紀元1世紀に建てられた。アジアでは最も古いキリスト教会。この教会での教えが後にネストリウス派と呼ばれるようになる。礼拝は今もイエス・キリストが使っていた古代シリア語で行われている。聖書と十字架のみを信じ、偶像礼拝は禁止。

ネストリウス派を信じるオングート・ケレイト・ナイマンの部族は、いづれもモンゴル帝国の有力な部族。モンゴル帝国では能力があれば誰でも活躍の場を与えられていた。

2年4ヶ月後、タルピニはモンゴル帝国大ハーンからの返書を持ってローマ教皇の元に帰った。それには、自分こそ神から選ばれた大王であるから、ローマ教皇に自分の支配下に入れ、さもなければヨーロッパに攻め入るであろうというものだった。

モンゴルの襲来に備え、教皇は各地に指令を出し、モンゴル軍が通ると思われる全ての道を閉鎖し砦を築け、モンゴルの姿を見たら直ちに教皇に連絡せよというものだった。

1253年、モンゴル軍が西に動き出した。イラン、エジプト、東地中海を抜け、ヨーロッパ本土に攻め込もうとしていた。イランではイスラム教の一派イスマイール派が勢力を誇っていた。エルザ山脈にそびえるゲル・ド・クー、イスマイール派は暗殺集団として恐れられ、モンゴルと敵対していた。モンゴルは彼らを遠征での最初の標的にした。イスマイール派は高さ300メートルの断崖に築いた要塞に立てこもりモンゴルの攻撃に備えた。

モンゴル軍は直接攻撃するのを避け、敵の補給路を断つ作戦に出た。食料の尽きた守備兵の上にモンゴル軍の投げる巨大な石が容赦なく降りそそいだ。

降伏すれば命は助けてやろう、しかし、自分で要塞を破壊しろというモンゴルの命令にイスマイール派は従った。モンゴルは、さらに西に進軍しバグダッド、ダマスカスと次々にイスラム勢力を攻略し、ついに地中海に進出した。










李成桂(女真人)〜高麗の家来だったが王様を殺して『李氏朝鮮』という国家を建てた。中国の明朝に国号のお伺いを立ててから建国した。これが500年続いた。

・一割以下の両班(ヤンバン)という貴族階級が、中人・常人・賤民・奴婢を支配していた。大勢いる庶民は仕事に就けなかった。一方で、庶民は貴族の坊ちゃんの科挙試験の代理を務めるなどした。
・済州島の人たちは高麗ではなくモンゴルに忠誠を誓う人たちだった。
・李氏朝鮮になったとたんに貨幣が無くなる。商店も樽も車輪もない実物経済、御用商人のみ。庶民は白い服しか着られなかった。(国が貧乏だから染料などもったいないと理由で)
・反対派を粛清する行為が続く。
・明や清には、朝鮮が女官や宦官(かんがん)を差し出してご機嫌をとっていた。
・1897年、日清戦争のあと、韓国皇帝を称する。



李氏朝鮮(1392~1897)
朝鮮の一番上の人が中国の明や清の信任を得ていた。冊封関係。
清がベトナムを侵略しようと動いたのが日清戦争(1894年)の原因だった。
日韓併合後、日本が韓国人にハングルを普及させたり、衛生上の規範も普及させた。
日本人と共に近代化に尽くした人たちは韓国を追い出されて米国に移住している。
閔妃(ビンヒ、写真は偽者)が日本人に暗殺されたというのはでっち上げられたウソ。


西太后は満州人。咸豊帝の妃。睡蓮(すいれん)の政治。同治帝、光緒帝、溥儀を宣統帝。満州大臣と宦官が堕落していた。
・光緒帝を幽閉して毒殺した。光緒帝の妃を井戸に落として殺した。
・1900年義和団を支持して諸外国に宣戦布告。ドイツが山東半島を得ていたし、その他の場所も列強に分割されようとしていたので、西太后は義和団を自分たちの味方として利用しようとした。

浅田次郎の『西太后』は善い人のように書かれている。

李鴻章は満州をロシアに売ろうとしていた。袁世凱も悪く云われている。西太后に貢いだ。

三代悪女


チイパオ(八旗の服の意味)・・・もともとはズボンを履いていた。上海・天津とかの租界で生まれた服。

満州人は纏足をしない。清朝は弁髪と纏足が有名。


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by Ulala-lov | 2016-03-22 19:06 | 東アジア | Comments(0)

2016−03−21

のつづき)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。



『バーブル』という人物・・・回想録を書いた君主
名門の人で、父はティムール帝国の創設者の5代目の子孫、母はチンギスハンの10代目の子孫。父親はフェルガナ(ウズベキスタン東方の盆地)の領主で、バーブルが11歳の時に事故で急死し、バーブルが領主として即位した。ハンサムで学識があり人々からの人気が非常に高くウズベキスタンの織田信長と呼ばれている。イスラム教徒。モンゴル帝国の継承者はモンゴル人とトルコ人に別れる。ムガールはモンゴルをペルシャ語で発音したもの。
・トルコ語で回想録を書いた理由は、ペルシャ語には修飾語が多いので率直なことを書くには不向きだったから。
・私たちがビックリするくらい正直で近代的なことを書き残している。私たちにもその時の気持ち・情景・背景が身近に感じられる素晴らしい歴史書であり人物であることがわかる。

きっと、『バーブル』=俳優の榎木孝明 * =わたしがDVで離婚した元夫「佐藤勝己」=NHKの古屋和雄アナウンサー=鶴岡雅義と東京ロマンチカのヴォーカル三條正人=ドイツのバイエルン王『ルートヴィヒ2世』**=古代エジプトのファラオ「トトメス1世」のような気がします。

そして、バーブルの命令にしたがって、詩や回想録を書いたのは、きっと捕虜となっていた人間の元王族でしょう。

(アングロサクソン王族であり人間ではないので。。。人間がマネするととても危険だと思います!絶対にマネしないでネ!!!)

(あんなに鼻先が垂れてなかったはずですが。。変装のため造っているようです。)

このブログ内の関連記事:

**このブログ内の関連記事:



横綱『朝青龍』(おそらく)のような乖離性障害(かいり)* =多重人格障害(つまり、多重人格者で典型的なアングロサクソン王族のキチガイ人格)をもつモンゴル人が典型的なモンゴル人ではないということのようです。また、詳しく書きます。


🌷 ちょっと一休み! 🍵🍰
こちらはモンゴル楽器「馬頭琴」の造られた由来の話だそうです。

ビラルはおそらくチンギス・ハーンのことではないかと。。。モンゴルにとっては英雄かもしれませんが、決して善人ではありません。おそらく、本者のーチンギス・ハンはどこかで囚われた時に、ジョゼッペ=源義経(みなもとのよしつね)と入れ替わったか、あるいは、ジョゼッペの人工知能を脳移植されたか?のどちらかでしょう。






満州文字はモンゴル文字からできたもの。そのモンゴル文字はチンギスハンの時代にウィグル文字を借りてきて作った。昔のウィグルはモンゴルに吸収されてしまった。今のウィグルはペルシャ(イラン)から来た人たち。彼らは20世紀まで漢字を使わない人たちだったということ。清朝の時代には漢字を使っていない。1912年の『辛亥革命』の時に中国の日本留学組が中国5000年の歴史を語り始めた。中国・韓国のナショナリズムは反日でまとまっている。

秦の始皇帝から数えると支那は2500年の歴史がある。そして、『辛亥革命』は清朝に対するクーデターであり、100年前に『中華民国』になった。その後にすぐモンゴルとチベットは独立宣言をした。

清朝の「袁世凱」は革命軍の討伐を命じられた。そして、革命軍と交渉して清の皇帝の権利を保持することを確約させた。しかし、1916年に袁世凱が亡くなると幾つかの軍閥が争いだした。

明治維新以降、日本がなぜか世界からわざと悪者にされている。


アヘン戦争があったけれども、清朝は何も変わっていない。日清戦争の敗北後、中国の近代化が始まった。フランス革命、アメリカ独立戦争、ロシア革命など国民の戦争が世界中で始まり国民国家の考えが広まっていった。しかし、ヨーロッパの国々は植民地支配へ手を出していった。

韓国併合の話をする時に年表を外している。日本が戦争で勝ったので日本が朝鮮を清から独立させてあげた。『下関条約』は朝鮮の独立を認める。その後は朝鮮の皇帝を名乗れるようになる。日本の三浦五郎が朝鮮の王宮に入っていって殺したというミン姫(みんひ)という人がいる。写真を見ると、この女の子はキーセン(売春婦)。ミンヒの写真が写真館で撮られている。ということはこの人はミンヒではない。

イザベラ・バードはミンヒに会っているが、マゲなんかなく、平べったい髪をしていたと証言。日本のヤクザまがいの奴らが朝鮮の王宮に侵入しミンヒを殺したという話が流布(るふ)し、朝鮮で反日感情が高まった。真実は、ミンヒのお姑(しゅうとめ)さんがミンヒと仲が悪かったので、この殺人に関わっているらしい。

なぜ、朝鮮人がなぜ日本が嫌いだったかというと、両班(ヤンバン)階級が特権を守りたかったから。今頃、韓国は親日派の財産を取り上げている。韓国でお金のある人はみなアメリカ国籍を取っている。自分の国を信用していないから。

『儒教』では武士は最低レベルにあり、軽蔑される存在だった。李氏朝鮮では奴婢(ぬひ)は人間扱いされていなかった。


何にもなくても作る(でっち上げる)のが儒教文化。後継ぎの男の子を生んだ女はオッパイを出して誇らし気にしているというオッパイ文化があった。日清戦争後にせっかく朝鮮を独立させてあげたのに、ヤンバンがロシアよりだったためにロシアが朝鮮に進出していった。これが日露戦争の原因だった。ロシアが負けたのはロシア革命が始まっていたから。日露戦争はイギリスが代理戦争させたということ。遼東半島はもともと日本の領土だったけれども、また、日本のものになった。ここから日本の大陸進出が始まった。

国境ができたのは200年前でアジアの国境ができたのはもっと後。日清戦争から本当のアジア史が始まる。張学良はコミンテルン(共産主義者)。今の中国は日本型国民国家を目指している。1%の民が、中国の富の43%を持っている。農村籍の人たちは都市籍になれない。国民をものすごい差別をしている。農村籍の人は年金も健康保険も介護保険もない。満州は日本の傀儡国家だったと批判されるが、モンゴルはロシアの傀儡国家だったし、チベットは中国の傀儡国家だった。


軍隊を持った人が強い。中国は軍人がしたいことをする恐れがあり、中央政府の抑止が効かない。日本の中の闘争で、どっちかが外国を引き込んで足の引っ張り合いをする。これが最悪のパターン。戦後はそればっかりで外圧を使ってきた。

中国が日本を攻撃してきたらという警戒はすべき。油断大敵である。他国に頼っていてはダメで日本が自分で何とかする気概がないとダメ。

国を滅ぼしたい人たちが日本の中枢にいる。中国(=中国共産党)は、歴史=政治だという意識しかない。反日教育で日本に文化的な侵略をしている。日本もちゃんと本当のことを世界に主張しなくてはいけない。政府も外務省もダメ。3.11東日本大震災以降、日本に怠けて地位に安住している人たちがいっぱいいることが分かった。誰かが、これではダメだと騒いで良い国に変えていかないとイイ国にならない。

中国では自分だけ良ければ、他の人たちがどんなに貧しく暮らしていても気にもかけないで贅沢に暮らしている人たちがいる。日本もこういう国にしたがっている人たちがいる。

につづく



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by Ulala-lov | 2016-03-21 20:57 | 東アジア | Comments(0)

2016−03−10



モンゴル人の住んでいる場所
・バイカル湖の周囲
・モンゴル国
・新疆ウイグル自治区の北部
・中国の北部
・内モンゴル

モンゴルは内陸にあるので、雨がとても少なく年間で300ミリしか降らない。モンゴルに降る雨は北から降るので、山の北側に木が生え、南には木が生えない。近代になって人口が増え灌漑(かんがい)をして農業をするようになったため、ますます土地が乾燥して荒れ地になって砂漠化していった。

◎ モンゴルはアジアで唯一遊牧民が残っている国。
◎ 家はゲル(モンゴル語)=パオ(中国語)
◎ 海抜の平均は1600メートル。
◎ 環境に優しい暮らしをしている。
◎ 3000~2500年前から水と草を求めて移動するようになり草原で遊牧生活をするようになった。
◎ オボー(塚)
シャーマニズム 青い天を拝んでいる。
チベットのカタ(白い布)で巻く、ハタ(青い布)で巻く。



モンゴルのハラホリン=カラコルムのことだそうです。ここが朝青龍の父親の出身地。
15世紀以降にモンゴルにチベット仏教が広まる。ほとんどの人がチベット仏教の信仰者になる。ハラホリンには88の塔をもつ塀がある寺院『エルデネ・ジョー』(16世紀の末に建立)もある。88ってタコじゃん!


日本の相撲は国技ではなく私技である。(←これもオカシイです!)朝青龍、白鳳などモンゴル出身の横綱はとても強い。モンゴル相撲は、帽子を被り、長いブーツを履く。土俵もなく草原で行うし、時間制限もない。スタジアムで60組ぐらいがトーナメントで戦う。観客がものすごい数観戦する。視力が6.0とか7.0とかの人がざらにいる。


日本では海部首相が始めてモンゴルのインフラ援助をした。旭鷲山(きょくしゅうざん)などが最初に日本の相撲取りになる。

モンゴルでは相撲は男にとっては全員やらなくてはならない競技
モンゴルの三種競技・・・相撲、競馬、弓矢

モンゴル人は朝青龍が好き。モンゴル人らしいという評価。まず、草原の遊牧文化がとても大事で、人と同じことをしてはいけない。朝青龍は日本のしきたりを守らなかったが人間の能力のすべてを出すというところがモンゴルで人気があるとか。。。でも、あんな暴力ふるったり、暴言吐く人物はね〜!ちょっとおかしいですよ〜 かなりオカシイといったほうが正しいかも。

競馬や弓矢は女性も参加。ただし、7〜8月の夏だけがみんながスポーツに参加したり観戦したりでき、スポーツを楽しみ交流を深める時。

日本の『三度節』・・・中国の唐代に倣(なら)い、平安時代の宮中で射礼、騎射、相撲の三種の競技が催された。

唐がモンゴル人が南に移って建てた王朝?ウソです。唐は漢人(人間)が建国した王朝です。


草原で放牧生活をしているので、人と同じ所に行ったら草がないので、人と同じことをしてはいけないということが生きていくうえで重んじられている。

『ナーダム』子供の競技。日本の相撲がテレビ中継が見られるので人気がある。夏だけではなく、一年中見られるのでいいと言っている。

流鏑馬(やぶさめ)が日本の伝統に残っている。これはモンゴルと共通する競技。同じアジアの共通性がある。

モンゴル人には『長幼の序』(年齢による序列、年配者を敬う礼儀)がない。先に生まれたとか、後に生まれたとか全然気にしない。日本で長男を非常に重んじるなど、なぜこのように長幼の序がハッキリしているのか?

日本人は『隣百姓』といって隣人を重んじる、『和をもって尊しとする」とか協調性を重視する。これは稲作文化に由来している。

・チャイナドレスはモンゴルから伝わる。
・放牧している羊の毛を刈ってウールを作り、さらにフェルトにしたりして使う。
・昔から絹は大好きで、南から輸入して使う。色は青い色が大好き。これがチョウサンタンという服で、ベストを合せて着る。
・チンギス・ハンの時代には、モンゴル人の顔は鼻が高く、目がつり上がっている。


フビライの正皇后『チャプイ・ハトン』は賢夫人として知られている。とても倹約家で古い布を裂いて、編んで、また服を作ったとか。。。(多分、でっちあげ話です。贅沢三昧をしていたのでしょうに。三船敏郎=喜多文磨の妻の珠子さんが、どこそこのおばあちゃんは倹約家で湿布の裏の白い布を剥がして半天(はんてん)を作ったとかってまことしやかに話してました。。。まさか!って感じで聞いてましたけど。すぐだまされると思って、人間をバカにしきってるんですよ〜)

『チャプイ・ハトン』は日本の殿様のマゲ* のような『ボクタク』というヘッドドレスを被っている。

髪髭髷髻(難易度順) 作ログ (上の武士のマゲより、こちらのほうが古い年代のマゲで、多分、こちらが殿様のマゲです。もちろん、ヘビの形を模したものですよ!)
   
モンゴルの遊牧民の衣装・・・ロシアの遊牧民も同じ。

ただし、同じモンゴルにいた『ハルハ族』は違うヘッドドレスをしていた。頭頂部に丸い帽子を被り、その辺りから髪を両端でまとめて下に向かって垂らし、その髪の毛を紙の上で伸ばし金属の飾りで留める。顔の両端に白い房を垂らす。ヤギの角を模したような髪型。『清朝』(女真族)の髪型でもある。(これはヤギもかもしれませんが、主に、スズメバチの頭部の触手を表しているような気がします!)

一重で細い目、スティック鼻、下アゴが突き出ている、ホホが赤い。眉尻が垂れている。短大の同級生の岡崎ちゃん(=デンマーク王クリスチャン9世の妃ルイーゼ・フォン・ヘッセン・カッセル)のような顔。

モンゴルには他部族がいたが、みな自分の部族に誇りをもっていてヘッドドレスを見ただけでどの部族か分かった。

北モンゴル(現在のモンゴル)のハルハ部族の領主(貴族)のしていた服装も同じようなヤギの角のような髪型であるけれども、詰襟(つめえり)の洋服で肩袖が膨らんでいるのはロシアの影響。

内モンゴル(現在の中国の内モンゴル自治区)の服装は結婚する時に親からの財産分与として宝石で作られた髪飾りをしてお嫁に行った。

中国ではチャイナドレスを旗袍(チーパオ)といい、満州人がかつて着ていたドレス。八旗に由来する名前。


1912年、清朝が崩壊、中華民国の誕生。
だんだんチーパオからチャイナドレスへと変化し始める。
1930年代、西洋の影響を受けた立体裁断により今のチャイナドレスの元ができる。
その後、袖がなくなりスリットが腰のほうまで入り、現在のチャイナドレスになる。


朝鮮半島は、日本にモンゴル龍来がある前、モンゴルが30年間にわたって直接支配した所。

韓国ドラマで、日本でも大人気の『チャングムの誓い』
これはモンゴルが去った後に李氏朝鮮(女直人*=女真人が建てた王朝)を舞台にしている。
* 満州に住んでいた狩猟民「女真人」ともいう『金』を建てた後、モンゴル帝国に滅ぼされ、その子孫は清朝を建国した。

しかし、このドラマのストーリーは全く事実に反する。女官は宮廷から出たり入ったりなどできない。料理競争は日本の料理漫画が面白かったことからヒントを得たフィクションだった。当時の朝鮮の女医は身分が低く、宴会に座らされて男の人の相手までさせられていた。なので、王の主治医などにはなれないはず。

(ドラマの中でチャングムが罰として流されたという済州島はモンゴル人が直接支配していた所で文化が全然違う)

また、このドラマでは、女官たちはみな非常にきれいな美しい色の服を着ているが、実際は朝鮮王朝は貧しいからといって染料などを使わせていない。(自分たちは贅沢をしていて、下の階級の者たちに対してはとことんケチだったってことです)


朝鮮の『檀君神話』は中国に飲み込まれないように作られた神話。(中国の歴史より少し長いと主張するため)檀期という暦を今も老人は使いたがっている。韓国ドラマでは、日本が韓国を統治していたことから、朝鮮の歴史は日本より古いと主張したいところがある。

日本人が韓国ドラマを見て他国の文化を知るということはとてもよいことだが、相手国にはそういった事情があるということも知って見るとよりいいと思う。


1 日本人はモンゴロイド?
モンゴロイド=黄色人種の英語名。
人種とは、地球上の人類を、骨格・皮膚の色・毛髪・血液型など形質的特徴によって区別した種類。普通、コーカソイド、ニグロイド、モンゴロイドに三大別するが分類不能な集団あも多い。(『大辞林』より)

人を人種や民族で分けるようになったのは100年ぐらい前から。ドイツの人類学者が初めて人類を分類した。

2 日本の皇室の祖先は騎馬民族か?
大陸から馬に乗った偉い人たちが日本にやって来て皇室を創ったので、日本の原住民とは違うと考えている人たちがいる。

3 蒙古襲来(元寇っていうようになったのは明治から、元寇があったから倭冦したんじゃないかという)

4 源義経はジンギスカンになった?

5 20世紀の日本とモンゴル
(モンゴルと日本とは100年の歴史がある)



ヨーロッパまで攻めて来た自分たちと見た目の違う人たち(モンゴル人とその混血種たち)をどう呼ぶか考えて、モンゴル人の一族であるからモンゴロイドと名付けた。

アジアとヨーロッパの境も非常に曖昧(あいまい)でドイツ人が決めた。コーカサス(カフカス)山脈の東側がモンゴロイド(黄色人)で、西側がコーカサス(白人)だと決めた。トルコのイスタンブールの橋の北側はヨーロッパで、南側はアジア。ウラル山脈の東はアジアで、西はヨーロッパとされる。ロシア人にしたら、コーカソイドという呼び方を嫌う。コーカサス山脈辺りはイスラム人の住む辺境の地だと考えているから。

中国人は、モンゴル人は50幾つもある少数民族の一つなので、モンゴロイドと呼ばれるのを嫌う。蒙古斑はドイツ人の学者ベルツ博士が日本の赤ん坊に発見した。ベルツ博士は草津温泉を発見したり、温泉の人たちの荒れた手につけるローションを発見した人。


ロシア人のラフマニノフはカザン生まれのタタール人の作曲家。
大陸っていうのは人があちこち移動し、すぐ結婚するので混血しやすい。
ジンギスハンの子孫たちはタタール人
レーニンは1/4モンゴル人
というふうに人種人種といっても分類不可能。

日本の蒙古斑は99%で、大陸の蒙古斑は95%ということは日本は島国なので混血が少なかったということになる。


紀元前1000年くらいから遊牧民は家を移動して暮らすようになる。現在も残っている遊牧民はモンゴル人だけ。

絵はシャラブ作『モンゴルの一日<秋> 清朝の最後の一日前に書かれたので、清朝におけるモンゴル人の暮らしが分かる貴重な絵。

馬入酒=アルコール発酵したヨーグルト(アルコール度2〜3%)

白い食べ物(夏)・・・ヨーグルト
赤い食べ物(冬)・・・羊の肉

遊牧民が蒸留酒を世界中に広めた。日本酒は醸造酒。日本へは沖縄経由で焼酎(蒸留酒)が来た。


水汲みをしている女性はハルハ族の貴族の女性の髪型。ということはモンゴル人は階級制度が厳しかったといわれているが、そうでもなかったらしい。おばさんが糞(フン)を拾って背中のカゴに入れている。家畜の糞を集めている。これがアルガリという燃料になる。乾燥している気候なのでガリガリになる。家畜は草だけを食べているので繊維質が多い。

羊は毛を刈ってテントにしたり、服にしたり、貿易に使ったりする。2000年前からずっと同じことをして暮らしている。

モンゴルは人が少なくて人の才能を最大限に発揮しなくては生きていけない。人のマネをしない。

フェルト作り・・・階級関係なく、みんな一緒に作業している。


その年の最初の馬入酒ができたら、捧げものをして祭っている。

1910年代のモンゴルはチベット仏教だったが、熱心な信者がいたようで、シャーマンが太鼓を叩いてトランスに入って、目に見えない精霊や遠い所の神様たちの言うことをちゃんと聞いて帰って来て知らせる。

テントを解体してラクダで運ぶ。造るのに1時間ちょっと、解体するのに30分。

モンゴルでは墓がなかった。テントの外に出して動物に食べさせていたが、身内はイヤなのでラクダに乗せて遠くまで運んで放置しておくようになった。


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ベット・ミドラーの息子がベトナム戦争に行っている時に、息子の部隊の兵士たちをミドラーが慰問した時に起きた戦闘だったのでしょうか? アングロサクソン王族たちは空から(UFOか、すでに監視衛星かで)監視していたんでしょうね。残酷すぎます!
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につづく




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by Ulala-lov | 2016-03-10 11:51 | 東アジア | Comments(0)