カテゴリ:日本史 中世( 18 )

2015−12−15

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。


折れない、負けない、くじけない ~風雲!後醍醐天皇がゆく~歴史秘話ヒストリア:NHK

室町時代初頭(AD1300年頃)、京都府吉野に『南朝』に朝廷を開いた後醍醐天皇(ごだいご)

武士の政治を認めなかった。

後醍醐天皇は王子時代に、鎌倉幕府(武士の政治)の打倒を目標に掲げていた。

鎌倉幕府が始まって100年が経っていた頃には北条氏が大きな権力を握っていた。ー天皇の位を決める時も北条氏の意向が力をもった。

■ 嵯峨天皇ー(の後から)ー亀山天皇(→後宇多天皇→尊治天皇)と後深草天皇の二つに別れていた。

◎ 北条氏は、天皇の位を二つの流れで行き来させた。→そのことが朝廷勢力の結集を妨げていた。

(あの平安時代が終わることになった源平合戦で平家*(主に人間)が敗北して、源氏(主にサクソン系)の支援していたアングロサクソン王族朝廷になっていたから。。。鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏(人間の家系)は朝廷の圧力を弱めたかったんでしょうね〜!うん、うん、分かる分かる〜〜!!だって、アングロサクソン王族たちの政治って民衆を酷い目に合わせる政治だもの〜)

* ただし、あの平清盛はジョゼッペだったようです。それで、源平合戦の途中で亡くなったことにして戦線から離脱したのです。だって、自分の同族であるアングロサクソン王族たちと戦うのはさすがに嫌だったし、都合の悪いことだったからでしょう。つまり、最初から平家が負けるように仕向けるつもりだったのです。スパイとしては一流ですね〜!悪悪(ワルワル)だけど。。。まあ、マキャベリ主義者ですからネ!

★ 後醍醐天皇は秘密裏に鎌倉幕府打倒を計画し仲間を集めていた!!

ところが倒幕計画は幕府に発覚し、関わった人々は天皇以外、処罰される。

天皇の養育係で親代わりだった貴族の吉田定房(よしだ ただふさ)は、処罰を恐れ、天皇を諌(いさ)める意見書を提出している。

「朝廷に関わる重大なことまで幕府が決めている。幕府を除いて新しい世を開こうという帝のお考えは天皇家と朝廷に存亡の危機を招く。どうかこのことをよくお考えください。」という主旨の奏状を渡した。

後醍醐天皇はお妃の安産祈願と偽って鎌倉幕府の滅亡を4年にわたって祈願していた。

吉田定房から天皇に密告があった。「帝が世を乱そうとされているが、それは側近がそそのかしているためである。」

幕府は後醍醐天皇の周囲の貴族たちを捕らえた。吉田定房は貴族を身代わりにすることで朝廷と天皇を守ったのではないかと言われている。

ところが、1331 年、後醍醐天皇が44歳の時に、思いがけない行動に出た。御所を脱出し、京の都からも抜け出した。行き先は笠置山(かさぎやま)で、後醍醐天皇は幕府と戦う兵を挙げた。天皇の元には幕府に反発する僧兵などが、およそ3000人集まった。

そこに河内国の武士「楠木正成」が味方になってやってきた。当時、地方で小さな一党を構える武士たちも鎌倉幕府に不満を持っていた。

当時、北条氏は一門を全国に派遣し税を徴収し地方の武士を圧迫していた。それにかかる費用も容赦なく負担させていた。そうした圧政に困っている時に日本最高の権威である天皇が現われた。地方の武士にとって天皇のために戦うことは奇跡的な名誉ある機会だった。


やがて、天皇のこもる笠置山には天皇軍の三倍もの大勢の幕府軍が訪れた。一ヶ月後、後醍醐天皇方は守りの手薄なところを攻撃され敗北した。

後醍醐天皇は脱出を図るが幕府軍に捕まり、京の都に引き戻された。天皇は幕府の監視のもと都に幽閉される。(それでも諦めず!)

文章を書くことや、雅楽の笙の笛を吹くなどの才能に優れていた?(多芸多才だった?部下を代理に使って、やらせていたのかも?なんだか象二郎のような気がします。一番、欲深いらしいですから。。。)

所持品の中に『不動明』(炎を操る神)のレリーフがありました!!
      ↑ ↑ ↑
★★★悪魔ETモンスター・ヴァンパイアたちの拝んでいる仏様(ほとけさま)ダニ〜!!! ??????


1333年、後醍醐天皇は幕府によって日本海の隠岐国(おきのくに)へ流された。

楠木正成が京都で幕府軍といまだに戦っていると聞き、後醍醐天皇は動き出さずにはいられなくなって京に向かった。

伯耆国(ほうきのくに:今の鳥取県大山町~琴浦町?)の名和長年*(なわ ながとし)の名和軍と幕府軍3000人が一騎打ちし、幕府軍に抵抗し続けた。

* 名和長年(不詳 - 1336) ウィキペディア

大山町とあるから、薩摩の大山氏と関係のある土地のようです。

これを聞いた近隣の武士たちが次々と天皇側の味方に駆けつけた。幕府から派遣された下野国(栃木県)の足利尊氏が後醍醐方に味方し六波羅探題を滅ぼした。さらに、上野国(群馬県)の新田義貞軍も駆けつけて鎌倉を陥落させ、北条氏を滅ぼした。

(討幕運動においては、京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏(あしかが たかうじ)と対立し、後醍醐天皇と確執があった護良親王(もりよししんのう)を結城観光とともに捕縛したとあります。)



後醍醐天皇(ごだいごてんのう、在位1318-1339) ウィキペディア


< 後醍醐天皇の政治=『建武の新政』>

建武の新政(けんむのしんせい、1333~36) ウィキペディア

東北には『陸奥将軍府』、鎌倉には『鎌倉将軍府』が成立。

1334年には後醍醐天皇の皇子恒良親王(つねよししんのう、1334-38)が皇太子になる。

尊氏が『中先代の乱』* の討伐を契機に「建武政権」から離脱すると、楠木正成や新田義貞らと共に宮方として足利尊氏と戦うが、1336年の『湊川の戦い』** (みなとがわのたたかい)の後に京都に入った足利尊氏に敗れ討ち死にした。

* 中先代の乱(なかせんだいのらん、1335年7月)

足利尊氏が率いる「建武新政軍」と北条時行が率いる旧鎌倉幕府軍との戦い。


** 湊川の戦い(1336年5月25日) ウィキペディア

■■■ 新田・楠木軍(南朝)と足利軍(北朝)との戦い。最初苦戦していた足利軍が勝利。

足利尊氏が入京し、光明天皇(こうみょうてんのう、1322-80、在位1336-48)を即位させ『北朝』が成立。

2年半で後醍醐天皇の『建武の新政』は終わる。

1336 年9月に後醍醐天皇は皇子の懐良親王(かねよししんのう)を征西大将軍に任命し九州へ派遣。

新田義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせる。

後醍醐天皇は11月には比叡山を降りて足利方と和睦する。

光明天皇に三種の神器を渡すが、12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させ、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。
(なかなか悪賢そうな人ですね〜!)

★★★ ここに、吉野朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する『南北朝時代』が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の南北朝合一まで約60年間にわたって『南北朝』の抗争が続いた。


【南北朝時代】後醍醐天皇<武士を支配した最後の武闘派天皇> - NAVERまとめ

後醍醐天皇に学ぶ人生を攻撃的に生きるテクニック 1 - NAVERまとめ

後醍醐天皇に学ぶ人生を攻撃的に生きるテクニック 2 - NAVERまとめ

後醍醐天皇はアングロサクソン王族です。鎌倉幕府を開いたのは源頼朝(みなもとのよりとも)で、おそらく、アイゼンベルグでしょう。しかしながら、運良く、人間であった北条政子が正妻であり、夫亡き後、彼女が政権を握ったことから後の鎌倉幕府は人間の政権になっていたようです。なので、後醍醐天皇によって、また、アングロサクソン王族の政権が復活したということです。

■■■ですから、『南北朝』では、南朝がアングロサクソン王族系の天皇、北朝が人間の天皇ということなのでは?

【南北朝時代】足利尊氏<本当は不幸だった(!?)歴史の勝者> - NAVERまとめ

足利尊氏による室町幕府の開設と観応の擾乱
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by Ulala-lov | 2015-12-15 14:17 | 日本史 中世 | Comments(0)

平氏

2014−08−30

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

*****< 平氏 >

平氏

「桓武平氏の系図」 l 家系図作成本舗

葛原親王 ~平家の祖は上州にあり!~

葛原親王は極めて稀な「一品親王」に叙せられ、平安時代では最初の出来事ということは、やはり、アングロサクソ脳族だったためでしょう。

826年、上野太守となる。(仁明天皇の時)

御所見の歴史 l 藤沢市

藤沢に平家の関東の御所があったということですかネ?


★★★どうやら、一口に平氏といっても、その母系の血筋によってアングロサクソ脳族になったり、ヤハウェ王族になったりで、両方の人物がいるようです。
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by Ulala-lov | 2014-08-30 22:15 | 日本史 中世 | Comments(0)

2014−08−27

のつづき)

大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。


天皇

嵯峨天皇(第52代さが、786~842、在位:大同だいどう809~823)

父:桓武天皇
母:藤原乙牟漏


<皇后>
やはり、アングロサクソ脳族の『シバの女王』だと思われます。

*  ★★★橘氏は橘諸兄(もろえ、684~757)が始祖。

★★★ やはり、桓武天皇の没後、平成天皇側と嵯峨天皇側との間には権力争いがあったというか。。。きっと、嵯峨天皇側が、突如(とつじょ)、クーデターを起し皇位を奪ったものと思われます!

【日本史】平安③薬子の変と嵯峨天皇の政治 - YouTube
(詳しくは、最下部の淳和天皇のところで説明してあります)

佐賀県は嵯峨→佐賀が由来?だから、民主の原口一博元総務大臣=ホリエモンが佐賀選挙区からの出馬なんでしょうかね?また、大同製鋼とか大同のつく企業も多いです。

熱狂的な歓迎ぶりです〜 す、すご〜い! 012.gif042.gif012.gif012.gif

佐賀県サッカー協会
左上のマークが3本脚のカラス=八咫烏(やたがらす)です!!!

あの歓迎ぶりは、佐賀県の県庁や各自治体などが前々からの周到に準備して行なわれたものだったみたいですね〜 まるで戦前の絶対的な天皇崇拝の全体主義のような印象を受けました。

事前に、天皇と国民との涙ぐましい感動場面を演出するようにセッティングしてあったのでしょう。このようにして天皇の戦争責任を逃れさせるための効果は大きかったと推察されます。

佐賀大学のサッカーチームは九州大学サッカーリーグ1部で、3年連続7度目の頂点を狙っているそうです。どうなんったんでしゅうかね?

Jリーグ『サガン鳥栖』は鳥栖市(とすし)をホームタウンとしているんですね。

宗氏(そうし)は対馬国を支配した守護・戦国大名だそうで、惟宗氏(これむねうじ/し)(=秦氏(はたし)の支流)の支族。なのに、室町時代中期頃から桓武平氏を名乗るようになったそうですが、明らかに成りすましですよね〜

上のウィキの秦氏の「歴史」のところに、
「難波津(大阪中央区あたり)の西成・東成郡にはには秦氏、三宅氏、吉氏などの新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ。」とありますが、秦氏などのサクソン軍団は百済からやってきたんですよ〜!

なんだか佐賀県はアングロサクソ脳族の香が濃い県のような感じがします。


淳和天皇(じゅんな、786~840、在位823~833)

平安初期第53代天皇。

<皇后>
正子内親王(まさこ、810~879、嵯峨天皇皇女)
正子の父は嵯峨天皇で、母はその皇后・橘嘉智子=『シバの女王』

嵯峨天皇・淳和天皇の2代の天皇に仕え、後宮で権勢を振るったのが藤原美都子(みつこ、781~828、平安時代初期)という貴族の女性で、女官(にょかん)です。美都子は藤原南家*の出身です。この美都子は、アイゼンベルグの女性形、つまり、小さいふりをしていたチビタコ女王系列です。わたしの愛知県警婦警時代の1年後輩にも光子とう人がいましたが、目が非常に細くてキツネ目のようで、アゴが尖っていました。
*南家も含めて、藤原四家は後の別記事で説明します。

クーデンホーフ光子:雨漏り書斎
この光子の顔も口の下のアゴが長く、鼻先が下を向いたスティック鼻です。
ユーロの先駆者は日本婦人青山光子の血を受け継ぐクーデンホーフ・カレルギー伯爵:徒然なるままにエッSAY!
こちらの一番上の若い頃の写真は、拡大してみると八の字眉がよく分かりますし、なんだか島根県宅野の藤間明子さん(=ポケットビスケットのボーカルだった千秋=小島奈津子元フジTVアナウンサー)にも似ています。

美都子の夫は藤原冬嗣(ふゆつぐ)*で藤原北家の祖である藤原房前(ふささき)** の曾孫であり藤原内麻呂***の次男です。冬嗣は、嵯峨天皇のもとで急速に昇進したとあります。「式家」の藤原緒嗣(おつぐ、774~843)をも追い越して大納言になり、821年には右大臣に昇ったとあります。

*冬嗣に関しては次の記事で詳しく説明します。


つづく
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by Ulala-lov | 2014-08-27 09:53 | 日本史 中世 | Comments(0)

2014−08−21

皇室の系図一覧 - 平安時代 ウィキペディア


・母・・・紀諸人(き の もろひと)の娘「紀橡姫」(き の とちひめ、母親は道氏アングロサクソ脳族?)
・父・・・志貴皇子(しきのみこ、?~716)、別名:芝基皇子、施基皇子
天智天皇(象二郎系)の第七皇子。その母は越道君伊羅都売(おそらく蔑称ですが。。。蘇我氏の娘ではないかと)

父は県犬養唐。 母は不明。
県犬養氏には藤原不比人** の妻で宮人として元明天皇に仕えていた県犬養三千代*** =橘(たちばな)三千代がいる。
県(あがた)の意味 - goo辞書 大化の改新以前、大和政権の地方組織。国司。
犬養はアイゼンベルグの名字ですから、国司の犬養ということで、県犬養三千代=『シバの女王』なので、県犬養広刀自も『シバの女王』でしょう。

藤原鎌足(ジョゼッペ)の子。文武天皇2年(698年)には不比人の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官(だいじょうかん)に就くことができるとされた。天智天皇が平氏系の女御を鎌足に下げ渡す際に、子供が男なら、鎌足の子、女なら天智天皇のものと言っていたとか。ということは、藤原不比等は天智天皇と蘇我氏の娘(額田女王)との子供と考えられるのでは?
*藤原四家については、後日、別記事にします。

母親・・・車持与志古娘。ただし、実の母は鏡王女(かがみのおおきみ、?~683)という説があり、「鏡王の娘」と読むのが正しく、額田女王(ぬかたのおおきみ)のことであろうとされている。額田女王は大海人皇子の妃だったのに、無理やり天智天皇の妃にされたらしいので、不比人の母親は額田女王でしょう。その後、藤原鎌足(ジョゼッペ)の妻にされたのですね。ほんと可哀想な額田女王です。007.gif021.gif007.gif

また、藤原不比等の従兄弟(いとこ)たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官(じんぎかん)として祭祀(さいし)のみを担当することと明確に分けられたことにより、不比等は藤原氏の家祖。


*** 県犬養三千代(665~733)=『シバの女王』
軽皇子(聖徳太子****の息子)=の乳母だったとありますが、実は、実母だったのでは?

**** 聖徳太子=ジョゼッペかアルバート公
わたしが赤来中学に勤務していた時のお寺の息子で、そんなに悪い子じゃないと書いていた藤原君に似ています。近衛文麿にも似ています。
以前からジョゼッペだと分かっています。
AとBの画像集を並べて見るとよく分かります。

蘇我氏が推古天皇(額田部皇女)の命令で、聖徳太子の物部氏(サクソン王族)を討伐したのは容易に想像がつくような。。。しかるべき理由があったのでしょう。

◎夫人「高野新笠」(たかの の にいがさ)

・10代前くらいに新羅から渡来した蘇我氏の子孫です。ネットのあちこちに書かれている百済人というのはアングロサクソ脳族捏造歴史のためで大ウソです!百済から渡来したのは卑弥呼たちアングロサクソ脳族たちのほうです。
・桓武天皇の生母。




「早良親王の母は百済系の卑母だったので、幼い時に出家している」とあり、この百済からやってきたのは、卑弥呼=『シバの女王』ではないかと。。。桓武天皇と同じ母というのはアングロサクソ脳族たちの捏造(ねつぞう)歴史のためでしょう!!

そのために天皇に即位する権利は元々なかったということになります。それなのに、光仁天皇が781年に退位し、翌782年に崩御すると(アングロサクソ脳族の毒殺か?)、早速、早良親王と大伴氏(アングロサクソ脳族系)は、桓武天皇にクーデターを起して、藤原種継(藤原式家、母親は秦{たい}氏の娘ですが、母系祖母がアングロサクソ脳族かヤハウェ系か不明)などが殺害されたため、桓武天皇は流刑にせざるをえなかったのではないでしょうか?決して、一言も早良親王の弁明を聞かずにということはないでしょうが。。。このクーデターの関係者の中に早良親王の側近たちが混じっていたという明らかな証拠があったのなら、いくら弁明をしても、事実を変えることはできなかったでしょう。

下のサイトは今まで、まことしやかに語られてきた"ウソでっちあげ"の早良親王の怨霊説をもとにした説明です。

家系図や、右大臣・藤原是公が廃太子が夢で「早良親王が『自分が桓武天皇の周囲の近親者たちを殺したり、最近、チマタで頻発している地震・雷・火事・洪水などもみんなみんな私の仕業なんですよ」と、腹を抱えて笑っておりました」と桓武天皇に告げるあたりは、この右大臣もアングロサクソ脳族で桓武天皇に怨霊説を信じ込ませようとしているような。。。しかし、実際に、ヤハウェ系の要人の毒殺や、天変地異を人工的に起していたのは早良親王を始めとするアングロサクソ脳族たちだとよく分かる話ですね!!!

<皇后 藤原乙牟漏> 

この名前は何だかアングロサクソ脳族による蔑称のような。。。

父:藤原良継(よしつぐ、716~777)は藤原宇合* の次男

*阿部糠蟲
(ムカムシとは米糠(こめぬか)に生(は)える虫のことであり、アングロサクソ脳族の改ざん歴史による蔑称です)
(藤原乙牟漏・母方の祖父)
↓(糠蟲の父)
阿倍広庭(ひろにわ、659~732)の息子のようです。
↓(広庭の父)
さらに、その父は阿倍御主人(みうし、635~703、飛鳥時代の貴族)(これも実名ではなさそう、御主人ごしゅじん)で、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側の功臣(功労のあった下臣)

竹取物語… アングロサクソ脳族の誰かが書いた(あるいは、文章能力の高いやハウェ系の誰かに書かせた?)藤原不比人など藤原氏への悪口のようです!そういった背景を考えて読んでみると面白そうですね!月へ帰っていったというのは、上空にUFOが待っていて、反重力装置でかぐや姫とお迎えの女官たちが上空に昇っていきUF0に入っていったということを想定して書いたんでしょうね〜

主人公のかぐや姫のモデルは垂仁天皇(第11代、すいにん)の妃「大筒木垂根王」(おおつつきたりねのみこ)の娘「かぐや姫命」とされる。筒木は竹、星の古語「つづ」と関係あり?また、同音の「綴喜」***(地名)には月読命(ツクヨミ)=アイゼンベルグを祀る樺井月神社、月読神社などの式内社(しきないしゃ)があるとのこと。私の愛知県警婦警の同期にも都筑さんっていましたが、同期(アングロサクソ脳族が多数)から一目置かれていたような。この人が額の真ん中にホクロがあった人です。祖父は奈良県で村長をしていたとかって聞いたことがありますが。多分、「シバの女王」の一人だったのかも?父親は第二次世界大戦の時には通訳をしていたとか。今考えると、ヴァイニング夫人かそのクローン子孫が、わざと不細工目の顔に変装していたような。
*** 綴喜郡(つづきぐん)=アイゼンベルグの変身している一人物・横浜市港北区日吉の「喜多文磨」の喜多という名字もこれに関係しているのかも?


↓(阿部御主人みうしの父)
阿倍内麻呂(うちまろ、? ~ 649)
「生涯」のところで、大臣の蘇我馬子(実際、馬子は上皇か法皇のような役職だったはずで、葛城圏の譲渡を推古天皇に要求したとかいうのはウソでしょう。とにかく、阿部家麻呂は蘇我天皇家の重臣だったということです。乙巳の変のクーデターの4年後に亡くなったのも、皇極(シバの女王)や中大兄皇子(象二郎)や藤原鎌足(ジョゼッペ)などによって暗殺されたのでしょう。また、その直後に蘇我倉山石川麻呂が虚偽?(あるいは蘇我家への弔い合戦を計画していた?)の密告で自殺に追い込まれたのも彼らアングロサクソ脳族たちの策略によるものだったのでしょう。

<側室>

藤原旅子(たびこ、りょし)桓武天皇夫人、淳和天皇の母

桓武天皇后妃



平城天皇が病弱で在位期間がわずか3年と非常に短期で退位したのは、若い時から毒を盛られていた可能性があります。というのも、その皇后が橘嘉智子というチビタコ女王系(チビのふりしてただけでしたけど:アイゼンベルグ系)であり、アイゼンベルグ系(ET)の陰謀で嵯峨天皇を早く皇位に就けたかったからではないかと推察されます。

父:桓武天皇
母:藤原乙牟漏

<皇后>
父:藤原百川(ももかわ、732~779)は藤原宇合*の八男

藤原式家(しきけ)の祖。(式家はヤハウェ系だったけれども、後には?)



につづく)
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by Ulala-lov | 2014-08-21 10:36 | 日本史 中世 | Comments(1)



大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。


松平家の祖先について:


三河国額田郡大草郷の岡崎城を拠点とする。松平光重(信光の5男)を祖とする。

岡崎城・・・B

Aの出自・沿革の説明と、Bの歴史・沿革の矛盾を解消して考えると。。。

松平信光=松平清康(家康の祖父)であり、松平光重=松平広忠(家康の父)のことのようです!!!

つまり、本当は、1487年、西郷頼嗣(象二郎)が岡崎城の松平清康との戦いに勝ち、清康は和睦し、その条件として西郷頼嗣の娘をきは岡崎城を制圧したが、清康の

三河松平家の元は『形原松平家』のようです。
形原松平家の五代(興副、貞副、親忠、家廣、家忠)までの約150年間の資料はほとんど無に等しい。

形原城(かたはらじょう)
三河国形原(現在の愛知県蒲郡市形原町東古城・北古城・南古城)にあった城。別名:「稲生城」(いなおじょう)


◎◎◎ 三河松平家の始まりは形原松平家にあり、平安時代末期に「新羅三郎義光」の孫「清光」の弟である『方原司次郎師光』が本城を築いたのが始まりとされるとあります。

024.gif 038.gifということは形原城を築いた城主『形原松平氏』の祖は新羅出自の蘇我氏系の武将だったということです!!!038.gif 016.gif016.gif

清和天皇18代後胤(こういん、後の子孫)  後胤の意味 - goo辞書
松平和泉守信光男 「形原松平家」と書かれています。

一番下のところに、松平家本流の家系図が書かれています。

「明治維新で時の政府は、本来の松平でない諸家が松平姓を名乗る事を禁じた」とあり、三河以来の本流松平氏のみが松平姓を使うことを許されたので混乱しないように整理されて良かったですね!

五代「松平家忠」*の母『於牧の方』は、家康公の母(ウソ!戸籍が改ざんされている?田原御前が実母)「於大の方」の妹か姉であるという。そのためか、いとこ同士であるにもかかわらず、「本能寺の変の時、伊賀越、5ヵ国** 領有。家康が甲斐国(甲州若神子の陣*)に入った時に討ちに入る。」とあります。

** 三河・遠江・駿河・甲斐・信濃

明智光秀(アイゼンベルグ)は松平家忠(母親がアングロサクソ脳族だと、その息子もアングロサクソ脳族)に5カ国を与える約束をして家康を討たせたということでしょうか?

甲斐・信濃制圧、1582年6月~10月末:後北条氏と和睦

082.gif ということは、アングロサクソ脳族たち(明智光秀たち追討軍や福地氏や家康の一行の中にいた裏切り者達)は「加太峠」で家康公らを拉致し、UF0に乗せて甲斐国(=山梨県)に連れて行き、そこの甲州若神子の陣で誰にも知られないようにして、家康やその一行を、家康のいとこで三河松平家の起源である形原松平の当主「家忠」らに殺害させたということでしょうか?まったく、シバの女王、新生ヴィーナス、アイゼンベルグたちって、どえりゃ〜陰険極まりないやり方だでいかんわ〜〜〜!!!(名古屋弁)021.gif007.gif007.gif047.gif047.gif047.gif

一番上の落書きは家康(アイゼンベルグ)か家忠自身が身体を変身させているところなのかも?身体がふわふわしていますよ〜
三番目の落書きは「カラス人間」のような。。。
4番目は武将のハゲ頭(家忠自身のことか?)をピカピカ光るお月さん、三日月なのは兜(かぶと)の角(つの)飾りに例えてカラかっているのでしょう!ブラックユーモアの走り?
178の落書きはヨーロッパの将軍がUFOに乗っているところを比喩で描いたのかな?(家忠自身もヨーロッパの将軍もやっていた?)
37は安土で人魚を食べたとか書いてるんじゃ???最下部の落書きの4は鳥人間、5は鳥網のワナに捕われた家忠自身の姿でしょうか?
(でも、彼らは不死身というか不死ですから、きっと、死ななかったんでしょう。別人になって別の人生を再スタートさせるのでしょう!)

慶長14年は西暦1609年です!家康(アイゼンベルグ=ETタコ人)はそれが自分の身内であると知っていたされたから何もせず無罪放免にさせたのでしょう!!おそらく、家康(アイゼンベルグ)の5ヵ国領有させるとの大ウソにダマされて本当の家康を殺害したものの、ウソと分かって激怒したため、アイゼンベルグに形原城主を追放され浪人にされてしまったようです。最初から本物の"松平家康の殺害" は極秘中の極秘の計画なので、これに関わったアングロサクソ脳族純血種以外の関係者たちはみな殺害されたのかもしれません!家忠は父親はヤハウェ系の松平家の血流ですから。。。

それで、形原城の周囲を彷徨(さまよ)っていて捕まった家忠の姿を皮肉屋のアイゼンベルグが「家忠日記」のまねをして落書きしたのでは?
082.gif082.gif082.gif ほんとアイゼンベルグって超陰険でイヤ〜な奴(タコ)🐙です!!!

* 若神子城について

甲州(こうしゅう)=甲斐国(かいのくに)=現在の山梨県

若神子城(わかみこじょう) 山梨県北杜市須玉町(県北西部)に立地する。
武田氏らサクソン軍団031.gif が甲斐国に攻め込んで来る前は、元々ここら辺も新羅三郎義光を祖とする一族の領地だったようです。

ところで、わたしが子供の時に、母に連れられて占い師さんのような所へ行ったことがあるのですが、どうも今考えると、その時の夫妻は、わたしの同級生の小林昌人君の両親であるジョゼッペとアレクサンドラ王女(=オギルヴィー夫人=林文子横浜市長=エドワード8世の妻シンプソン夫人によく似ていました)だったと思います。わたしに「同級生に小林君っているでしょうがね?」って聞かれたりもしました。

その時に、ウチの祖先は大昔に諏訪湖の近くに住んでいて、戦に負けて着物を着た女の人たちがたくさん船に乗って諏訪湖から川を下っていく姿が見えるといわれました。そして、ウチの父は静岡の生まれなので、父の祖先のことかな?って思ったのですが。。。その後、横浜に引っ越してきて、東京の全日本狩猟倶楽部に勤めていた時に、何かの話から、そのことを話すとヤハウェ系の人が「諏訪湖から静岡のほうに流れている河はあるよ。」と教えてくれました。今、調べてみると、どうやら天竜川のことのようです。






・源氏方について北条と三浦は平氏
・那須与一も平氏
・那須家は源氏の新田氏とも繋がりが深い。


この顔は〜、三国連太郎(アイゼンベルグ)にソックリです!!!034.gif034.gif034.gif

武田信玄は信州・海ノ口城* の城主だった平賀源心の砦を休戦協定を破って急襲し源心を殺害したということですね!!!013.gif 007.gif 021.gif 047.gif047.gif047.gif

* 海ノ口城 ウィキペディア 城というより要塞だったようです。





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by Ulala-lov | 2014-08-20 20:40 | 日本史 中世 | Comments(0)



徳川家康(=当時は松平家康)の正室「於大の方」は水野家から松平家康のもとに嫁いできていました。では、水野氏とは。。。




★ 源経基は平将門と対立して戦っていることから、アングロサクソ脳族系のようです!

源経基の父は清和天皇の第六皇子貞純親王(さだずみしんのう、873?~916)(最下部の系譜に注目)
しかし、陽成源氏説があり、源経基が陽成天皇の皇子・元平親王ではないかとする説だということです。(アングロサクソ脳族改ざん歴史の中では、少数派のほうが正しいかも?)


藤原良房(よしふさ、804~872)が後見人につき、外戚として政治の実権を握ったとあります。 染殿、白河殿と称されるとあり、象二郎系天皇とヤハウェ王族の女性との男の子ですかね?皇族以外の人臣として初めて清和天皇の摂政の座に就いたとあります。藤原北家善政の礎を築いた存在であり、良房の子孫達は相次いで摂関(せっかん、摂関家:せっかんけ)=摂家(せっけ)となったそうです。
(摂関とは摂政・関白の公家の家格の最頂点の役職のことを指し、摂家はその公家で最高位の家格を指します)




この水野忠政の像を見ると、わたしが愛知県警の音楽隊にいた時の水野さんという中年の男性にソックリです!(同じ人物でしょうか?!もし、そうなら不死のヴァンパイアってことです!!)そして、アイゼンベルグ系のような顔立ちです。また、下のほうの像は徳川家康の征夷大将軍になった時の記念像でしょうか?松平家康(本物)に変装しているものの、なんだか耳が非常に多きくて、下あごが長いのを誤魔化(ごまか)すために口の両端を下にグッと下げています〜!

◎◎◎ 鶴牧水野氏 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

(引用)「清和源氏の血を引き、当初は『緒川』姓を名乗っていた。1475年、小川貞守が小川本城、刈谷砦(かりやとりで)を築城、西三河の勢力を拡大して水野姓に改正する。小川水野氏の祖小川清房が京都西嵯峨水野邑(ゆう)里長(さとなが)に在住していた事に由来する」とあります。
天保の改革(てんぽうのかいかく1830~43)を行った水野忠邦など多くの人物を輩出している。(江戸時代に要職を占めて一族は繁栄していたということですね!)
水野成之(なりゆき、江戸時代前期の旗本)で『十郎左衛門』で知られ、旗本奴(はたもとやっこ)であるとされるが、実際は譜代の名門大名水野成貞(なりさだ、出雲守)の長男は「かぶき大名」と呼ばれた。その父の水野勝成(かつなり、1564~1651、備後福山藩初代藩主=中国・四国地方の重要拠点)です。

★★★ そして、勝成の父・水野忠重(ただしげ、1541~1600、伊勢神戸城主→名護屋在陣→刈谷城主)は水野忠政と華陽院の息子であり、「於大の方」(松平家康の正室:新生ヴィーナス)とは同母の兄妹です!!!

上のウィキの説明を読むと、水野忠重は家康の影武者も務めていたようで、そうなると、『伊賀越え』の後で徳川家康=アイゼンベルグの影武者も水野忠重が務めていた可能性が高いです。なので、先のリンク先のサイトAの徳川家康は眉尻がやや下がっていて、それで〜、この「徳川家康」像(水野家所有?)は「水野忠政」像や「於大の方」像の顔にな〜んだか似ていたのですね〜!!   045.gif そっか〜!。。。。ガッテン承知の助け!056.gif056.gif

また、忠重は異母兄で嫡男の「水野信元」*とは共に信長の家臣となっていましたが、1561年以降から兄弟仲が不和となり、忠重は松平家康の家臣になったのだとか。そして、信長と家康とが協定を結び、共に同じ軍勢で戦うようになっていたのですが、1575年、信元が武田氏の内通の嫌疑をかけられて織田信長に殺害されたとあります。本当は弟の忠重が内通していたのを仲の悪い兄に濡れ衣を着せたのかも?

さらに、「1580年より水野忠重は織田信長より刈谷城を与えられ信長の家臣に戻り、信長の嫡男・織田信忠の軍団に組み込まれたらしい。(途中省略)1582年6月、『本能寺の変』が起こると、信忠と共に二条城にあったが脱出して三河国刈谷に逃げ戻り、以後は織田信雄(信長の次男:アングロサクソ脳族)に属した。」とあります!

★★★ つまり、水野忠重が中心となって水野氏の多くの武将たちは織田信忠を見捨てて、あるいは殺害して、京都を逃げ出したということです!!!

水野家嫡男。母は松平信貞(のぶさだ)* の女(=娘)

* 信貞=松平昌安(まさやす)=通称:禅定左衛門
[義父]=松平光重(みつしげ、?~1508)で、「大草松平家」** 初代当主=三河松平氏3代当主松平信光(のぶみつ、生誕・死没年代不詳)の5男

[実父]=西郷頼嗣(よりつぐ)


聟養子(むこようし)










  〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 


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by Ulala-lov | 2014-08-14 15:26 | 日本史 中世 | Comments(0)

織田信長の真実 4

2014−08−13

のつづき)大変済みませんが、この記事はまだ書きかけです。

<信長の子供たち>

▶ 織田信忠


織田信忠 本能寺の変に散った26歳の命
織田信忠(おだ のぶただ、1557~82) ウィキペディア
織田信忠とは[ピクシブ百科事典]
本能寺の変の時、なぜ織田信忠は二条城へ逃げたのですか? - Yahoo!知恵袋
織田信忠の家臣団と軍団 その1

▶▶▶ 織田信長の主力軍その1、「近衛軍」(安土衆)、信長の子飼衆・・・A

=信長直属の旗本馬廻り衆: 近衛軍「安土衆」

<信長を裏切った水野氏>

◎「信長直属の部隊長・三河出身衆」(元・水野氏旧臣主体)のところのを見ると、水野九蔵のように1582年の本能寺の変で討ち死にしたものもいますが、その下のほうに説明のある水野直盛(尾張知多郡常滑城主)のように、織田信忠軍に所属していたが「山崎の合戦」後は浪人になり1598年に亡くなっています。

★ <「本能寺の変」に三河の水野関係の多くの武将たちが京都から遁走* (とんそう)しているようなのですが、光秀が三河三宅氏と関係があるのなら、三河国衆の手引きもあったのでしょうか・・。疑念。>とあります。
* 遁走


[水野直盛の城]

常滑城(とこなめじょう)
知多 苅屋城(かりやじょう)、常滑城、古場城(こばじょう)

<その他の裏切り者たち>

[近衛軍大将・安土奉行兼任」(近衛軍の実質的統率者)
◎福富秀勝って、福富氏は、あの日本放送の福留アナウンサーに通ずる家系ですかね〜 感想のところにも、<福住といえば伊賀忍者の頭領の・・・(安直ですが服部半蔵的な役割でしょうか(笑。>ってあり、要するに内通者の裏切り者だったということでしょうかね?1582年にわざと亡くなったことにして姿を消したのかも?

◎下方貞清は織田家三代の下臣ということで子息は信忠直臣ですが、なぜか、変後は織田信雄に従い尾張長野郷に領地を貰う。子息「下方弥三郎」は変の時に討死。<息子は竹田佐吉の養子となるようです。>とあり、この竹田はアングロサクソ脳族でしょう。要するに、裏切り者です!

◎那波直治という和泉守・宗治。も<斎藤利三と深い関わりがあるようで、1586年に秀吉から美濃にて所領を与えられている。>とあり、怪しいです〜

◎池田景雄は「親・明智派」(=「惟任*勢」これとうぜい)でありながら、本能寺の変後も秀吉のもとでも「秀」字を与えられ、世渡り上手とか。(そりゃあ〜、明智、秀吉、光秀はアングロサクソ脳族だから、裏では仲良しこよしのはずです)

* 明智光秀のことを明智惟任日向守光秀というけど、この「惟任」っていったい何? … - Yahoo!辞書

◎多羅尾光太(たらお こうた)も家康の伊賀越えに参加しているのですが、1647年まで生き延びていますので、裏切り者か、アングロサクソ脳族が成り代わったニセ人物かのどちらかです。

◎布施公保(ふせ きみやす)は、親・明智派。なのに蒲生賢秀(六角氏家老)の娘婿になっていて、<蒲生(がもう)勢力侮れませんねえ。>とあるので、蒲生氏(=六角氏家老)の娘婿が親・明智派なので甲賀忍者も「伊勢越え」の時に家康を裏切ったのでしょうか?

◎伴(とも)太郎左衛門(〜1852)
<伴太郎は近江甲賀21家のひとり。本能寺の変で討ち死。松平元康と抗争した三河・吉良家の家老・豊永忠元=伴五郎の一門でしょうか?滝川さんと同じ甲賀者。>とあり、そうなると、吉良家はアングロサクソ脳族ということですか〜?!そうなると甲賀忍者もアングロサクソ脳族ですか〜??? ????a~a
** 貴種とは高貴な生まれのこと。

◎池田元助(1559~84)(滝川さん)池田氏は信長の信頼厚く旗本の中核となる一族。池田恒興の嫡男。「本能寺の変」後、美濃大垣城主。ということは親・明智派だったということです!!!わたしが浜田国府中学に勤務していた時も、池田三兄弟姉妹が各学年に女・男・女と一人ずついたのですが、女の子たちはとてもかわいし、勉強もできるし性格も良い子だったのに、男の子はなんだか身長が170センチ以上あって、とてもヤンチャで最初はいろいろと困りました。女の子たちはヤハウェ系に見えましたが。。?でも、男の子はどう見てもアングロサクソ脳族だったと思います。(この池田兄弟姉妹はアイゼンベルグ三船の息子・仲代達矢=慶応大学の複数の「池田教授」の子供たちだったのかも?)

◎津田信澄(織田信勝=信行の息子)は明智光秀の娘婿に迎えられていましたけれども、なぜか「本能寺の変」の年に亡くなっています。織田信行(信勝)は兄の信長に何度も謀反を起したため殺害されたアングロサクソ脳族のようでしたが、息子の信澄は母がヤハウェ系だったのでしょうか?

◎南畿方面軍の岡田重孝は<本能寺の変の後に織田信雄(三男)の下臣となり、次は織田信孝(四男)の下臣となっています。信雄・信孝はアングロサクソ脳族ですから、岡田重孝は乗っ取られる前の岡田氏だったのでしょうか?

◎ 村井貞成は、父・村井貞勝が「本能寺の変」の時に京都所司代(京都の警察長官)だったのですが、おそらく、勝のつく名前なので父親はアングロサクソ脳族だったのかも?討ち死にした息子の貞成は母がヤハウェ系だったのかも?
雑掌(ざっしょう)とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書

◎藤掛長勝は、(織田)・三蔵・三河守・美作守。織田長継の息子。お市の方お付で浅井家に、その後、織田秀勝養子行きのお付で羽柴秀吉与力。<かならず他家に付け家老として送り込まれる人物・・・。優秀なんでしょうね。でも、忍者なのかも?すると、信長を裏切ったアングロサクソ脳族だったのかな〜?


★★★ なんだか、信長の軍門に下った勢力の中には明智光秀(アイゼンベルグ)や羽柴秀吉(ジョゼッペ)などに従うアングロサクソ脳族が大勢入っていて、虎視眈々*(こしたんたん)と信長への反乱時期を待っていたんですね!
* 虎視眈々とは - Weblio辞書




◎冒頭のところを見ると、本能寺の変の日(1582年6月2日)、親衛隊の隊長・堀秀政は中国方面へ、矢部家定が淡路へ、長谷川秀一が堺に派遣されていたため、参集した馬廻衆(親衛隊)が分散し、京都には福富・菅谷・森(側近か?)のが信長に付き添い、近衛軍を形成する残りの安土衆(近江安土軍、阿閉・新庄・山岡・後藤・多賀・小川等←怪しい!後藤・小川など名字から判断してアングロサクソ脳族たちがいるようです!)の上洛(京都へ行くこと)を待っていた。。。京都の兵力は、息子・織田信忠の親衛隊(2000~3000兵)のみだった様子。光秀、もしくは順慶の兵力で京の守りを固めるつもりだったのかも。。」とあります。

その光秀が謀反を起したのですから。。。これらの軍勢の配置も光秀が決めていたのでしょうか?やはり、信長は相当に光秀を信用していたのでしょうかね〜? あの腐った魚を家康の膳に出した時点で、もっと光秀を疑っていれば。。。(光秀は、それまでは非常に忠実な部下の役を、抜かりなく上手に演じ切っていたのでしょう!)しかし、時すでに遅しだったのか?自分の計画通りに事を運んでいた光秀は信長にこっぴどく叱られたものの内心はニヤニヤだったような? アイゼンベルグは超策略家の悪魔ですから〜 

実際、アイゼンベルグはものすごい胡麻すり上手で良い人そうにしていたかもと思うと〜、一変して人格を変え、ものすごい剣幕で怒ったり、陰険なことを言ったりします・・・。

023.gif::家政婦のミタ::
・横浜の日吉で喜多文磨として妻の珠子さんにアパートの新規入居者への電話での勧誘の仕方が下手だと怒っているところを目の前で見たことありますぅ〜
・島根の国府中学で舟木先生としていた時には、他の教員には優しい言葉をかけていた直後に、わたしには態度を急変させて陰険なことを言われたことがありましたし〜(まあ、陰険なことは度々言われてましたが)。また、年末の慰労会の宴席も終わろうとする頃に、ちょっと校長が居ない隙に、いつもは仲のよい校長先生の悪口をみんなにペラペラと面白おかしそうに言いふらしてました〜!「(数学の女先生の産休代理で新しくやって来た臨時教員=教員退職者の)◎◎先生と校長先生は年が近いけ〜、校長先生は◎◎先生にはヤキモチが妬(や)けるんらしいんだな〜」とかなんとかって。。。

◎『黒幌衆』のところで水野氏のことが特記してあります!!
水野直盛は「本能寺の変」で信長を裏切って明智に協力したとあります。そして、「山崎の戦い」の後は浪人となったとのことです。しかし、その子孫は江戸時代になると非常に重用され幕府の要職や主要藩の藩主などになっています!!!


『本能寺の変』を起こすように明智光秀(アイゼンベルグ)をそそのかしたのは斎藤利三であると後世の人々に信じさせるため。つまり、明智光秀が仲間に引き入れた斎藤利三がクーデターを起した超本人であるかのように濡れ衣を着せるためですよね。


京都所司代村井貞勝

織田長益
鎌田新介

明智秀満
斎藤利三

信忠の婚約者だった松姫(信松尼、1561~1616)




▶ 織田信雄

1590年、豊臣秀吉の養女となっていた、織田信雄の長女・小姫(6歳)* が徳川秀忠(12歳)と結婚!

* 小姫


▶ 織田信孝

織田信孝(おだ のぶたか、神戸具盛養子)・・・信長の三男で、母は伊勢の豪族・坂氏(さかし)の娘「華屋院」* で、関氏(せきし)(=桓武平氏系というのは偽りのようです)の庶流・鹿伏兎氏** の庶流とされるとか。
どうもアングロサクソ脳族系の女性のような。
この城は、あの松平家康の越えられなかった『伊賀越え』の地「加太峠」(かたとうげ)*の場所にあるようです。やはり、鹿伏兎氏はアングロサクソ脳族たちでしょう。
*このブログ内の関連記事:

(引用)「1583年に、本能寺の変のあとの跡目争いで、織田信孝側に付いた鹿伏兎定義は織田信雄・羽柴秀吉方の攻撃を受けて鹿伏兎城を捨てこの地を去った。」とあります。

★★★ 信長の三男・織田信孝はアングロサクソ脳族です!!
『本能寺の変』の後では何もせず、身内の従兄弟である津田信澄が怪しいとして討ち取っています。その後、光秀(アイゼンベルグ)と羽柴秀吉(ジョゼッペ)の三文芝居だった信長の弔(とむら)い合戦「山崎の戦い」には参戦し、チャッカリと秀吉と共に参内し朝廷から太刀をもらったり、兄の織田信忠の所領であった美濃国をもらっていますよ〜。(ますます怪し〜い!)

<信長の孫〜長男「信忠」の嫡男「秀信」=(三法法師)>


織田秀信・・・信長の長男「信忠」の嫡男。やはり、アングロサクソ脳族の羽柴秀吉=石田三成=ジョゼッペや豊臣秀吉(象二郎)や明智光秀(アイゼンベルグ)たちにさんざん利用され、その後は、信長が焼き討ちした高野山に僧侶となって入り、追い出され自害か殺害かされたようです。猟奇的なヴァンパイア・モンスターたちに意地の悪い陰険なやり方で少しずつ少しずつ追い込まれていったのです。(彼らの典型的なやり方ですよ〜!)😫 残酷すぎる悪魔たちです〜!!!😤

(見たい県をクリックすると県内の市区町村名と区分が分かります)



<信長のデスマスク>“本物”がテレビ初公開 - Yahoo!ニュース


織田信長のプロフィール - お館様

織田信長の歴史(イラスト)

織田信長の年表

織田信長の肖像画

織田信長の家系図

織田信長の家臣団

まず味方にいた一番の大敵は木下藤吉郎(ジョゼッペ、後の羽柴秀吉)だったんですよね〜(豊臣秀吉は象二郎でいばってるだけみたい) ジョゼッペはよく気がついて胡麻すりが上手いですからね〜(草履を懐に入れて暖めておいたり〜) ボロ出さないように細心の注意を払ってたんでしょう!! 


それに嫁のお寧(ねね)も多分『シバの女王』だったんじゃないかしら?(クローンがたくさんいますから。築山殿も、春日局もネ!)さまざまな悪知恵を藤吉郎に授けていたにちがいありません! だから、さすがの信長もうまくダマされてたんですね〜 だって北政所(きたのまんどころ)って、北の政治家って意味でしょう?!戦国時代を牛耳っていたのはきっとこの吸血鬼モンスターで高級売春婦・買春婦の大魔女王です〜!!!


その次に味方にいた大敵が明智光秀ことアイゼンベルグです〜 これが、またまた超陰険の上にケチケチでセコいキチガイ・エロエロ大魔王なんですよね〜 ゴマをすろうとする相手にはものすごく調子がよくて、口八丁手八丁なんで〜(わたしは経験して知ってます〜) どうしようないです〜 生態で4千年、人工知能では5万年も生きてるんですから経験豊富で老獪(ろうかい、ずるがしこい)んです〜〜〜😈👽💀

やだ、やだ。。。ブツクサ 😟 😬; 👎< BAD!!(ちぇっ悪党め!)


織田信長の家紋

織田信長の贈り物

細川忠興へ自筆で書いたという手紙は素晴らしく達者な毛筆です!スゴい!

織田信長と茶の湯

(茶器...松永久秀と今井宗及はアングロサクソ脳族だと思います。)

織田信長の名言・名セリフ

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織田信長 - ニコニコ大百科




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by Ulala-lov | 2014-08-13 01:16 | 日本史 中世 | Comments(1)

織田信長の真実 3

2014−08−12

のつづき)

<織田信長の兄弟>

▶ 織田信行


父の家督を継いだ"空け"(うつけ、多分、わざとでしょうね〜)と呼ばれていた兄「信長」に何度も謀反を起こし、とうとう自害か殺害されたとか。

同母の兄弟であっても戦いあう時もあるのですね〜!戦国時代は特に敵味方の区別が難しい下克上* の時代だったので、よけいにそうだったのかな?それに、それぞれに従っている家臣の中にアングロサクソ脳族たちが上手く潜入していて、兄弟でも争うように仕組んだりしていたのかも?

★しか〜し、も、もしかして〜、信行は赤ん坊か幼児の頃にアングロサクソ脳族の子供と入れ替えられていたのかも?(我が家のように。。。)この可能性が一番高いような気がします!!!
★★★ 信長の弟・織田信行は、おそらく、子供の時に取り替えられたアングロサクソ脳族だった?!!

篠木三郷(しのぎさんごう)とは?・・・春日井市周辺のことのようです。


・1569年、信長の命で北伊勢を支配する長野工藤氏(長野氏:アングロサクソ脳族系)長野藤定の娘と結婚し養子入りし、伊勢・上野城を居城とした。(長野信良を名乗る)
・その後、信長の命でこの養子縁組を解消し、織田姓に復帰するも旧長野家の家臣団はそのまま引き継いだ。(???)
・1573年の浅井長政討伐では、お市の方と、その娘たち茶々、お初、お江与を居城・上野城にて保護し、以後扶養したとか。
・1574年、同じ伊勢に勢力を張った甥の織田信雄と協力し、1577年には長野家重臣の細野藤敦を追放し長野家の完全統制に成功。
・1580年に本拠を上野城から津城へと移す。津町を阿漕(あこぎ)の旧地から城下に移して、住民に公課免除(免税)の特典を与えた。

・1581年、織田信雄とともに伊賀を討伐し、伊賀にも領地を得た。
(本能寺の変の1年前)

★★★ということは、信長の命で織田信雄と信包たちの軍勢が伊賀討伐をする前までは、織田信長と同じ平氏系服部氏は伊賀の地には居なかったということです!!!
やはり、伊賀忍者の服部一門というのは、「本能寺の変」の後でアングロサクソ脳族の偽・服部正成*が、おそらく、「関ヶ原の戦い」以後か江戸時代スタート直後に服部半蔵を襲名し、伊賀の地でも服部氏を名乗るようになったのではないかと。。。ですから、もともと信雄の討伐前の伊賀の地はアングロサクソ脳族忍者たちの巣だったようです。
*伊賀忍者の偽・服部氏(アングロサクソ脳族)=福地氏か?

・1582年、本能寺の変の後は、元来穏やかで争いを好まず、野望もないことから、特に何もしなかった。清洲会議の後、織田信雄や豊臣秀吉に従って伊勢安農津150000石を領することとなり「津侍従」と呼ばれた。

・1584年の「小牧長久手の戦い」では羽柴秀吉からの調略に応じて、織田信雄と決別し織田信雄・徳川家康らを相手に戦った。

(織田信雄=織田信勝)
徳川家康(=毒川家康=アイゼンベルグ)なんで、羽柴秀吉(ジョゼッペ)とは大昔からの仲間というかヴァンパイア家族なんです〜 ですから、この二人が表向き敵対するふりをしながら織田信雄を始めとする平氏系武将たちをさんざん翻弄してヤハウェ系(人間の)兵士たちをたくさん殺し、平氏系武将たちの領地をどんどんはぎ取って奪っていき、アングロサクソ脳族たちが有利になるように戦ってたんでしょう!!!




要するに、1583年頃(本能寺の変の後)、猪俣党=藤田氏=アングロサクソン脳族の領地「藤田郷」* へ養嗣子** として入り、猪俣範直(いのまた のりなお)を名乗ったとあります。(→後に「邦憲」に改名)

その後、1587に第11代箕輪城・城代になり、1589年に北条氏は真田領となった「名胡桃城」(鈴木主水)を攻略し、秀吉に後北條氏討伐の口実を与えてしまったとのことです。要するに、猪俣邦憲はアングロサクソ脳族に広大な領土をもらって買収されていたということであり、一応、ヤハウェ系=平氏系の「後北条氏」の家臣ではあったのかもしれませんが、実質的にはアングロサクソ脳族の操り人形になっていたということです。
* (現・埼玉県児玉郡寄居町、美里町あたりの4城というから、かなり広大な領地)
** 養嗣子(ようしし)とは - コトバンク・・・(家督相続人となる養子)
箕輪城・・・群馬県高崎市箕郷町にあった城

豊臣秀吉(=象二郎)は無類(むるい)の女好きなので、これまでもヤハウェ系の女性と度々結婚して、本人の意に反して、結果的にヤハウェ系の有利になるようなことをしてきました。勇敢な甲斐姫も、豊臣秀吉の側室となって成田氏の子孫を残せたので良かったです!!😃
(でも、わたしの同級生にも成田君っていましたけど、以前にも書いたように、マスコミの仕事をしていたようですが超忙しかったらしく30代で心臓発作とかで亡くなっています。彼がヤハウェ系だったのか、アングロサクソ脳族(もし、そうならいきてるはず?)だったのかは分かりませんが。。。😰)

★★★ この時に、北条氏政・北条氏直父子の助命を嘆願したことが豊臣秀吉(象二郎)の怒りを買ったということが原因なのか、その後、1594年に秀吉の命で改易(かいえき)となり、この時に織田信包は出家します。長男・織田信重には丹波・柏原に36000石が与えられます。

・後に、織田信包は近江に20000石、1598年には丹波・柏原に36000石を豊臣秀吉から与えられます。

・関ヶ原の戦いでは、親の信包が豊臣家側の西軍に、長男の織田重信は家康側の東軍に付いて戦い、家康勝利後も、織田信包には特にお咎めもなく本領の丹波柏原の領土は安堵されたそうです。

・1614年、(大坂冬の陣の前の)大阪城内の軍議中に急死した。(毒殺説あり)

につづく)
(2014.08.12 0:50 p.m. 記述完了)


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by Ulala-lov | 2014-08-12 12:28 | 日本史 中世 | Comments(0)

織田信長の真実 2

2014−08−11

につづく)

<信長の妻たち>

▶ 正室「濃姫」

お濃 濃姫 お濃の方 帰蝶 鷲山殿 謎多き生涯

農姫の母親小見の方明智光継の娘であり、明智光秀(アイゼンベルグ)* とは"いとこ同士" という説もあるそうです。この美濃の岐阜県恵那市(中津川市とも近い)の恵那山で天照大神が生まれたという逸話があり、アイゼンベルグ、『シバの女王』、『新生ヴィーナス』たちとは古代から美濃加茂地方**はアングロサクソ脳族たちに縁の深い地域のようです。なので、濃姫もアングロサクソ脳族の先の三人の誰か(女性形)でしょう。織田信長に、その本性を見抜かれ美濃の実家に戻されたようです。

▶ 側室「吉乃」

*** 信忠、信雄、徳姫(見星院)の母。

馬借(ばしゃく)…平安〜戦国時代にかけて活躍した馬で荷物を運搬する運送業者
生駒家宗の父親・・・藤原良房(よしふさ、804~872)
↓その父
藤原内麻呂・・・桓武・平城・嵯峨の三帝に仕え、いづれの天皇にも信頼され重用された。
↓その父
藤原永手(ながて、714~771)・・・腕が長いのアングロサクソ脳族
↓その父
藤原房前(ふささき、681~737)・・・藤原北家の始祖、藤原不比人の次男

長屋王(ながやのおおきみ、684?~729)・・・天武天皇* 誕生説(大海人皇子が政権を取り戻し蘇我氏が大王に復帰説)が有力で、つまり、長屋王=大海人皇子=天武天皇ということ。藤原氏の陰謀といわれる『長屋王の変』で自害した(実際は殺害された?)。長屋王というのは、長屋=江戸時代の借家(この奈良時代では収容所=牢屋のこと?)で蔑称(さげすんだ、バカにした呼び名)。ヤハウェ王族である吉備内親王との間の子供たちは全員729年の長屋王が死没した年に死没している(自殺に追い込まれたor 殺害された)。
(ウィキには間違った記述が幾つかあるので、自分で正しく判断しながら読んでください。天武天皇が天照大神(アマテラス=『シバの女王』)を祀る為に神道を振興(普及)させたというのはウソです!!説明が長過ぎて、わたしも全部読むひまがありません。)

長屋王=天武天皇であり、側室である新田部皇女**との間に生まれた、我が子である舎人親王*** に拷問された後、自殺させられたか殺害されたかのどちらかのようです(どっちにしても他殺)。😱 我が子に拷問・殺害されるなんて悲しすぎる〜 😭
★★★これだから、母親がアングロサクソ脳族の子供はアングロサクソ脳族とほぼ同じなのです〜!!!(以前に、このブログでも説明した「ミトコンドリア細胞の遺伝」です)

父親は天智天皇(象二郎)の子藤原不比人、母親は橘娘(アングロサクソ脳族)。
子孫に清原氏

もう一つの長屋王の子孫とウィキに書かれている『高階氏』とは。。。
高階氏(たかしなし)・・・天武天皇の長子「高市皇子」を祖とする。
高階氏 - 公卿類別譜(公家の歴史)ちょっと難しすぎて、わたしにはよく分かりませんが(ジックリ見る時間もないし)、興味のある方はご覧ください)

この在原業平にハニートラップした斎宮恬子=泰子(やすこ:こっちが本当なんじゃ?)はアングロサクソ脳族の誰かです!(シバの女王か新生ヴィーナスか?)その時の伊勢権守、かつ、神祇伯の高階氏の高階峰緒(たかしな みねお)は、単なる、トバッチリを受けたに過ぎないのに、しかも、その男子を養子にしてまでの親切ぶりなのに、責任を取らされ伊勢神宮に「はばかりある家系」として伊勢神宮に参詣もできない家系となったとは酷すぎるアングロサクソ脳族たちのワナです〜!!!さらに後世まで、その責任を追求され、天皇との結婚の障害とされたり、結婚すれば呪いがあるように吹聴されるとは。。。"悪い噂を広める"ことで相手の評判を落としめ事態を自分たちに有利に運ぼうとするアングロサクソ脳族たちの典型的なずる賢いキツネ(実はオオカミ)のような汚い(ババっちい)手法です!!

わたしも浜田1中に勤務していた時に宅野(アングロサクソ脳族の巣)出身の母親をもつ女子生徒に言われたことがあります。「先生、悪い噂広めたげようか?」って!!

また、別の時には、その子が職員室にやってくると、ちょうど神戸連続殺傷事件* の報道を職員室のテレビで報道していたのですが、その時、現場の学校の前からのテレビ中継をしているカメラの前に割って入って"はしゃぐ子供たちの姿" が写り、とんでもない子供たちだとビックリしていたのですが、その直後、その宅野出身の子は、わたしの前くらいに立って「もっとやればよかっのに!」と笑って言ったのです。あまりのことにゾゾゾ〜ッするやら、呆れるやらで、わたしは言葉も出なかったような。。。とにかく、最近は信じられないような子供たちがいるんだなと思いました。(実は昔からいたのですが)こんなふうに子供であっても、アングロサクソ脳族の子供たちは空恐ろしいのです。

イルミナティによる生贄の儀式殺人だったのではないでしょうか?さらに、マスメディアで大々的に報道し世間を恐怖に落とし込むことで、アングロサクソ脳族は何か得ることがあるのでしょう。両親も承知(母親は創価学会、父親は神戸製鋼勤務=石見銀山**の藤田組のDOWAホールディングスと関係深いと推察)で通常の裁判にできない(事件の詳細を公開しないため)ように少年に罪を引き受けさせたのです。兵庫県警も闇の権力者たちに協力さえしているかのようで証言封じ、証拠隠滅、マスコミへの偽情報をリークするなど(イルミナティの情報操作)していたようで、まったくアングロサクソ脳族たちには逆らえないようです。おそらく、犯人にされた少年や、その両親には、アングロサクソ脳族たちが彼の将来はイルミナティの援助により優遇され明るいものになると約束しているのでしょう。

◎ 生駒家宗の妻=西尾吉次* の姉


[所領]
原市藩(はらいちはん)・・・武蔵国原市(現在の埼玉県上尾市原市)周辺
横須賀藩(よこすかはん)・・・静岡県掛川市*周辺
*このブログ内の関連記事:
(真ん中より下のほうです)

加茂花菖蒲園の庄屋屋敷『加茂荘』はこの西尾氏の邸宅(掛川城があるので別荘?)だったのですね!
西尾忠篤(ただあつ、1850~1910)は幕末に佐幕派と尊王派が抗争を続け、1868年の1868年の戊辰戦争においても、両派の抗争が続いたとあり、おそらく、尊王派が佐幕派を急襲して西尾氏は一族皆殺しにされ、西尾忠篤にアングロサクソ脳族の誰か(花房氏**の誰か?)が成りすまして新政府に協力したのでしょう。

その後、安房花房藩(はなぶさはん)(=花房浩一=乃木将軍=鷹司景子=アイゼンベルグ)、現在の千葉県鴨川市周辺に領地替えされたそうです。
**このブログ内の関連記事:
(真ん中のほうです)

[家系]
東条城・・・三河国東条、現在の愛知県西尾市吉良町、東条吉良氏・東条松平氏の居城。1581年に松平忠義が病没し(82年の『家康の伊賀越え』で殺された松平玄成{偽名}=松平忠義かも?***)、家康の四男松平忠吉(アングロサクソ脳族)が忠義の養子となるが、東条城には入らず(正体がバレるのを恐れてか?)、忠吉は駿河国沼津城主(三枚橋城)となり東条城は廃城となったとのことです。
***このブログ内での関連記事:

吉良持広の正室は松平氏の娘。今川義元に松平氏救援のとりなしをしたり、広忠の岡崎城復帰の実現に尽力(じんりょく)するなど松平広忠をよく援助したとか。したがって、ヤハウェ系=平氏=人間でしょう。そして、正室が松平氏の娘とあることから、上のウィキの[家族]のところに、実子は西尾吉次との説があると書かれています。したがって、生駒家宗の妻=「西尾吉次の妹」もヤハウェ系=平氏=人間でしょう!!

★★★ ですから、織田信長の側室「吉乃」は平氏=人間で、その子供たちの信忠、信雄、徳姫も平氏=人間です!!!

につづく)
(2014.08.11 0:55 p.m. 記述完了)


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by Ulala-lov | 2014-08-11 12:36 | 日本史 中世 | Comments(0)

織田信長の真実 1

2014−08−10

織田信長 l ニューワイド学習百科事典 l 学研キッズ

織田信長(1534~82)ウィキペディア

▶ 織田氏

織田氏_武家家伝

織田荘おたのしょう(越前国)

越前国* 丹生郡**(にゅうぐん)=現在の福井県越前町(えちぜんちょう)

* 越前国(えちぜんのくに)=別称「越州」(えつしゅう)

相当領域:福井県嶺北地方(岐阜県北西部を含む)・敦賀市(つるがし)

中部・北陸の天気予報(地図の参考に)

中部・北陸の地図

嶺北(れいほく)

[他県との隣接自治体]

大野市(おおのし)

岐阜県(高山市たかやまし、郡上市ぐじょうし、関市せきし、本巣市もとすし、揖斐郡いびぐん揖斐川町いびがわちょう)

石川県(白山市はくさんし)

池田町(今立郡いまだてぐん)

岐阜県(揖斐郡揖斐川町)

南越前町(南条郡)

岐阜県(揖斐郡揖斐川町)

滋賀県(長浜市

福井県丹生郡越前町周辺の地図

** 丹生郡(にゅうぐん)越前町 

[ 越前町で有名なもの ]

越前焼(もともとは織田焼と呼ばれていたとか)=石川県の珠洲焼(すずやき)

両者は共通点が多いとか。

越前焼は主に宮崎地区(旧宮崎村)、織田地区(旧織田町)で古代から焼かれている歴史ある陶磁器だそうです。

ギフト - 越前焼.com - 日本六古窯 越前福井の陶芸専門サイト

モダンで素敵な陶器ですね〜!色とか風合いが渋くて、かつ、繊細優美な感じです。

(決して、宣伝マンではないのですが、どんな陶器なのかとても興味があったので)

越前焼の館

越前焼窯元一覧

珠洲焼資料館

解説

須恵器
新羅の王子と、その従者として須恵器の工人がやって来たことによって日本に伝搬していったという説が本当のような気がします。その新羅の王子がやって来たというのが蘇我氏が日本に渡来してきて、熊襲(九州南部のヤハウェ系)や蝦夷(関東・東北のヤハウェ系)と共に、アングロサクソ脳族の大和王朝を倒して、ヤハウェ王朝を再興した時のことなのでは?ということは、蘇我氏は島根県の五十猛、石川県の能登半島、福井県の若狭湾など複数の場所から日本に上陸して来たということかも?

珠洲焼 歴史・特色 - 石川新情報 - 百万石文化のあらまし - 百万石の技

(写真の下のところに、須恵器の系統を継ぐ珠洲焼と説明してあります。)

・『越前がに』の水揚げでも有名

越前がに総合専門情報サイト l かにカニ福井 福井新聞社

越前がにミュージアム - (財)越前町公共施設管理公社

ズワイガニ

絶滅しないように、ちゃんと漁獲量制限があるんですね〜!

敦賀市(つるがし、福井県南西部「南嶺れいなん地方」の東端部)

漫遊敦賀 - 一般社団法人 敦賀観光協会

氣比神宮(けひじんぐう)

もともとは蘇我氏が建立した神宮だったものを、「乙巳の変」のクーデター後にアングロサクソ脳族が朝廷所有の神宮にしたような感じですね〜!だから、宮司には大中臣氏や中臣氏がなっているのでしょう。角鹿(つぬが)氏(うじ)は、クーデター後に、この辺り一帯に入って来たアングロサクソ脳族の有力豪族なのでしょう。

気比神宮・氣比神宮

イルカを食物にした話って、サクソン軍団の兵士たちが入鹿(イルカ)たち蘇我氏をたくさん殺して食べたってことじゃないですか〜?

ギャー!! 😱 恐ろしや〜恐ろしや〜 😭 人食いヴァンパイアたちめ!!!😤

▶ 父親「織田光秀」

織田信秀 ウィキペディア

娘の「お市の方」の血統が今上天皇へと続いているというのは大ウソです!

織田信秀/年表でみる戦国時代

▶ 母親「土田御前」

土田御前(どたごぜん、生年不詳 - 1594)

・ヤハウェ系六角氏、あるいはその遠戚の土田氏の出身とか。

・信長、信行、秀孝、信包、お市の方、お犬の方(佐治信方正室)を生んでいる。

につづく)

(2014.08.11 0:50 p.m 記述完了)


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by Ulala-lov | 2014-08-10 23:36 | 日本史 中世 | Comments(0)