(2月2日の記事の続きです)

ところで、また気づいちゃったんですけど〜〜〜、この後藤象二郎って、関東軍の「河辺虎四郎」によ〜く似ていませんか〜?

後藤象二郎
http://www.bakusin.com/gotoh.html
http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/tosa/gotoshojiro.htm
http://dogma.at.webry.info/200807/article_4.html

河辺虎四郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E8
%99%8E%E5%9B%9B%E9%83%8E

そして、児玉誉士夫にも、どことなく。。。
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E
8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB
(かなり歳とってからの写真ですからね〜〜。プロフィールはデタラメ! やはり、希代の悪党なので、さすがに顔や表情をわざとらしくつくっている感じで〜す。でも、額の生え際の形が後藤象二郎と同じなのでは?)

「自民党、児玉誉士夫とGHQ、CIAの関係」 〜晴耕雨読
http://sun.ap.teacup.com/souun/1743.html

GHQの中でも、アングロサクソン派のやったことですよ〜 それから、日本の電力会社は、松永安左エ門ことアイゼンベルグが牛耳っています。中曽根元首相、読売の渡辺恒雄会長らは、児玉誉士夫(ジョゼッペの息子)と、その父親のジョゼッペ、そしてアイゼンベルグたちの手先です。そして、もっと奥で操っているのが、もう皆さんご存じの『ウィンザー朝』ってことですね。

『エリザベス女王』(フィリップとは仲が良くないみたいなんだけど、ほんとうはどうかな? ナチス・ファシストという点では一致!)や、『チャールズ皇太子夫妻』(女性が巫女シャーマンとして強い権力を持つことから、カミーラ妃=アイゼンベルグと新生ヴィーナスの娘か孫=のほうが主導しているのかな?)ってことですよ〜!


結局、児玉誉士夫は、セスナ機突入事件以降に亡くなったことにされています。しかし、父親のジョゼッペが200歳近くになっても、ま〜だ生きていることを考えれば、児玉誉士夫もきっとどこかで生きているに違いありません!

セスナ機特攻事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5
%A4%AB%E9%82%B8%E3%82%BB%E3%82%B9%E3%83%8A%E6%A9%9F%E7%89
%B9%E6%94%BB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

CIAの茶番劇でしょう!  この後、この世から’とりあえず’ 姿を消す前に思いっきり派手に報道されたかったのかしら???  それとも、ロッキード疑惑の追求から逃れるためにだったのでしょうか?




p.s.

2月1日の本文の中で、歴史上、悪人と思われている井上馨(かおる)についてちょっと書いたのですが、気になって良〜く考えてみたのですが、井上馨(かおる)というのは、あの映画「長州ファイブ」の中でも、英語が堪能で一番の切れ者の「聞多」(ぶんた)として登場していたのです。ですから、偽造紙幣を造ったとか? 銅山の払い下げに関して賄賂をもらって藤田伝三郎の所有にさせたとか〜、どうも変な気がします。

もしかしたら、アングロサクソン王族の悪事の濡衣を着せられた汚れ役だったのでは? つまり、冤罪を着せられていたのでは? そして、馨自身もそれを甘んじて受けて、その代わりに、長く生き延びて、後輩の人材育成に尽力したのでは? 例えば、あの大久保利道も、薩摩藩の実質的な藩主だった「島津久光」とは考え方が違うものの、自己を曲げて、碁などで久光に取り入って自分の志を遂げたとのことです。ですから、井上馨も、悪評を受けても、’名を捨てて実(じつ=実利)を取った’ なかなかの『信念の人』だったのかもしれませんね〜。 まさに日本という国のために『滅私奉公』した人のかもしれません。

井上馨
「明治の元勲井上馨の命日。金に汚い大立て者。。。」
http://blog.q-q.jp/201009/article_1.html
長州ファイブ(井上馨)J
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/choshufive2.htm
旅47(伊藤、井上、決しの帰郷)
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/tabi47kikoku.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E4%BA%94%E5%82%91
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8


*コメント欄も見てくださいネ!
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by Ulala-lov | 2011-02-03 14:54 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(3)

(2月1日のつづき)

1867年10月3日、土佐藩の藩主山内容堂により将軍慶喜に龍馬の発案した「船中八策」による大政奉還の建白書の提出の結果、10月15日、慶喜は大政奉還を発表しました。一方、政権担当能力のない朝廷は、薩摩の「大久保利通」や「岩倉具視」らの倒幕派の圧力により、三条実美邸で倒幕の密勅が降ります。(この密勅はかなり怪しい感じです。おそらく偽物でしょう。)

三條 實美(さんじょうさねとみ、1837〜1891年)

この三條卿の写真のお顔は、福田元首相のお父さん(やはり元首相)にとってもよく似ていらっしゃいます。だからでしょうか? 2年くらい前に、福田Jr.元首相が訪米した際、ブッシュJr.元大統領がとっても丁重な態度でプレゼント交換しながら対談している様子がニュース映像となっていました。それで、これは何かあると思いました!だって、阿部元首相が訪米した時なんか、従軍慰安婦問題を認めないとアメリカには一歩も入れないとまで言ってイビったのと比べたら、あまりにも違う対応だったんですもの!

ブログ 「腐敗国家日本:巨悪の創始は岩倉具視」 より:
(なお、2012年の記事を幾つか追加しました)

腐敗国家日本の和英辞典・・・虫とは宇宙人グレイ(=オロチョン族)のこと?
(爬虫類人間(=扶余族)たちはカルト宗教などのほうを担当か?)
「日本史上最悪の悪党 岩倉具視(その4) 龍馬を殺した犯人 」
明治維新とは何だったのか?140年目の真実
「寄生虫(官僚)があなたの体内(日本の社会)から駆除しましょう。(その1)」
大日本帝国の歴史と、ソビエト連邦帝国の歴史は、こんなに似ている!
上の表の間違い:ソビエトのプーチン大統領就任は"恐怖政治の終わり"ですよ〜!

「明治維新後、この国はずっと悪党に支配されて来ました。」
「寄生虫(官僚)があなたの体内(日本の社会)から駆除しましょう。(その2)」
「寄生虫(官僚)があなたの体内(日本の社会)から駆除しましょう。(その3)」

上の「寄生虫(官僚)。。。その3」のサイトについて、ちょっと反論があります。というのは、なにかグラバーが龍馬暗殺に関係しているように書かれていますが、グラバーは、『船中八策』を龍馬に指南(しなん)した人物とも考えられています。その船中八策どおりに事が進んでいたのに、グラバーが龍馬を暗殺する理由(わけ)がありません。

また、グラバーが若干20歳くらいで若くして「グラバー商会」を経営し、大きな取り引きをし、お金を儲けたのを疑問視しているようですが、グラバーは、おそらくスコットランドの貴族の子弟で、王族の命令で日本にやって来たと思われ、最初っからジャーマン・マセソン商会からの資金援助もあり、それなりの地位も与えられていたのでしょうから、あのような大活躍も不思議ではないでしょう。

それに、グラバーは、はっきり言って金儲けが目的で日本に来たわけではなく、アングロサクソン王族の攻撃から日本を守るためにやって来たと考えられます。そのことは、スコットランドのヤハウェ系王族の世界平和戦略(=ノアが望んでいた世界平和:あくまでも平和交流や商業交流は好むが、戦争は好まない)にもかなっていると考えられます。日本の江戸時代の天皇(幕末期は孝明天皇)も同じ考えだったと思われますが、朝廷の公家たちの中のアングロサクソン王族勢力が邪魔をしていました。

「岩倉具視は次の罪により5回死刑に処されるべき!」
「貧乏公家から政界の中心へ〜岩倉具視の功績」:今日は何の日?徒然日記

ん〜、おかしいよ〜! 岩倉具視は、1860年頃から67年12月まで、自宅に蟄居させられていたので、そんな孝明天皇を暗殺したり、京都で放火、殺人などさせるとか、龍馬の暗殺なんてできないでしょうに。。。

★★★すると、岩倉具視は、『三条実美卿』に手紙を書いて動いてもらったということでしょうか?!

岩倉具視1
岩倉具視2

なぜか元自民党・国会議員の「浜幸さん」*そっくりですね〜どうもウィキの写真の顔が差し替えてあるようです。二番目のサイトの写真(眉は明らかに描いてある)からすると、な、なんと〜『ジョゼッペ』に似ているかも〜?!(目蓋になにかを張って細目になるようにしてある!) ジョゼッペ本人か?! だとしたら、岩倉具視は蟄居しているということにして手紙で指示すれば、新撰組の土方歳三** との ’ひとり二役’も可能だったのでは?! 

* 浜田幸一1
浜田幸一2
(しかし、この人はアイゼンベグと何か関係あるかもしれませんよ。ジョン・万次郎=中浜万次郎ですから。だから浜田という姓に? アイゼンベルグの子供かも? 一番下のtwitterのサイトの写真がよく似ています)

**3つのウィンドウに、下の三人の写真を並べて比較してみるとよく分かりますよ!
土方歳三
(若く見せたり、老けて見せるためにちょっと薄化粧したりして調整しているような。土方の髪はカツラでしょうね〜、眉とか剃ってますね〜、耳もほとんど隠して、目はやはり何かをつけて細くしています!)
ジョゼッペ・マッツィーニ
佐久間象山

' オットット〜! 忘れていました〜!!’
さらによ〜く考えてみれば、父「ジョゼッペ・マッツィーニ」も、その子「後藤象二郎」も、実は、以下のように’ひとり三役’をこなしていたことになりますぅ〜!!  gyogyo @o@;

父 ー ジョゼッペ(=佐久間象山)=土方歳三=岩倉具視(蟄居)
子 ー 後藤象二郎=近藤勇=高杉晋作(蟄居)

”ふたりとも、なんと役者やのう!” と思わず呆(あき)れた? 感心した? ’うららおばさん’ でした(マル)。


<トーマス・グラバーについて>

さて、ネットの中のウソばかりのグラバーの記事の中から、やっと見つけだした’まともな記事’が、以下のグラバーのサイトやブログです。

龍馬伝の中でトーマス・グラバーが「イギリスは日本に軍隊を派遣する。まず京都を....」

英国の中でも、イギリスとスコットランドでは、考えかたがまるっきりちがっています。イギリス王朝が、ウィンザー王朝という色合いが濃いのですが、しかし、結局は、同君連合で同じ王をたてているのですから、イギリスの影響力が強いのでしょうね。でも、議会は、当時はそれなりに強い力をもっていて、少ないけれどスコットランドの議席もありましたから、その影響力をまったく無視することはできなかったと思われます。「下関戦争」などでも、英国本国からは武力行使しないようにという命令が降りていたけれど、その通知が届く前に、日本に来ていたイギリスの司令官が開戦してしまっていたということだったそうです。わざとでしょうね〜! アングロサクソン王族流に言えば、『やっちゃったもん勝ち!』 ってわけです。ラッセル外相(=アングロサクソン)や ヴィクトリア女王たちは明らかに植民地政策を進めていたのですから。

トーマス・ブレーク・グラバー
トーマス・グラバーをもっと深く知るために1〜グラバー園名誉園長
トーマス・グラバーをもっと深く知るために2
人生の御負け [プレビュー]:トーマス・グラバー
長崎観光@元タクシードライバーの長崎ガイド
今、歴史から元気をもらおう(32) 岩崎弥太郎とトーマス・グラバー

岩崎弥太郎は、後藤象二郎の娘「早苗」の婿「岩崎弥之助」の兄です。したがって、吉田東洋ことジョゼッペとも血縁関係があり、かつ、東洋の主催していた塾の塾生で東洋に可愛がられていたということですね。おそらく、弥太郎の母「美和」はシバの女王だったのかも?したがって、さまざまなハノヴァー朝の陰謀に関与しています。グラバーからいろいろなスコットランドからの発明品や事業を導入してもらい、その事業を乗っ取るために明治政府を操ったり、金融などを操ったりして、さまざまな策を弄して乗っ取っています。例えば、明治維新の時にグラバーは銃などがたくさん売れ残って大損をしたとかいうことですが、明治政府は富国強兵策をとっていましたから、いくらでも銃は入用なはずです。それなのに、グラバーからは仕入れさせず、自分たちアングロサクソン系の商社からアングロサクソン系の武器を仕入れさせるように政府に強要したのだと推察されます。また、そろばんドックもせっかくグラバーが造ったのに、資金の返済がうまくいかないように金融面でいろいろ画策し造船所を横取りするためにグラバー商会を破産に追い込んだのも彼らアングロサクソン王族の仕業でしょう。高島炭坑もしかりです。そして、一応、それらを運営するためには頭の切れるグラバーが必要だったので顧問職を与えていますが。。。

第二次世界大戦終了間近にグラバーの息子「倉場富三郎」夫婦を収監し、自殺(本当は他殺)させていますが、その後に、グラバー邸を管理していたのは、岩崎弥太郎の三菱で、三菱から倉場富三郎の貴重な魚類図鑑(富三郎の研究による製作)を長崎市に寄付したことになっています。また、富三郎の莫大な財産は長崎市に寄付するようにと遺言に書かれていたということです。(この遺書はでっちあげでしょう。)でも、グラバーの莫大な財産(おそらく、これは、グラバーがスコットランドにいる貴族の両親から得た遺産だったんでしょう)は、きっと、長崎市には寄付されずに、「ウィンザー朝」や「ジョゼッペ」や「アイゼンベルグ」や「モルガン」(象二郎)や「ウォーカー家」や「パーシー家」(ピアーズ家、ロレーヌ家、ブッシュ家)などに渡ったんでしょう。



★★★★★ジャジャ〜ン!

ついに、「龍馬をヤッタのは誰?」の<<予測結果>>しま〜す!!

ブログ「坂本龍馬暗殺の謎」の答えは?

ということで、結局、’うららおばさん’の、判定としては、坂本龍馬を斬ったのは、1 の新撰組だと思いま〜す。 それで、4 の後藤象二郎も含まれま〜す。しかし、象二郎が龍馬を暗殺した理由はちょっと違うかな?
やはり、討幕、内戦に持ち込み、日本人の大量殺人とか、武器を消費させ、また売り込もうとかっていうのがアングロサクソン王族の目的だったから、公武合体派の先鋒であり影響力の大きい龍馬の存在が邪魔だったのでしょう。まあ、確かに、象二郎にとって、みんなからの人望も厚い龍馬は、妬ましい存在であったことは事実でしょうが。

つまり、「後藤象二郎」こと近藤勇(訂正:近藤勇=アイゼンベルグ系でした!)と、土方歳三=ジョゼッペ・マッツィーニの親子?が、龍馬を斬ったふたりの犯人で、その他、「新撰組」の数人が見張りなどをしていたと思われます。まあ、以前、NHKの大河ドラマ「新撰組」も見ましたけど、まともな人物は、みな変な言いがかりをつけられて切腹させられたり、剣の名手「沖田総司」は結核にさせらて十分動けずといった具合でなんか変でした〜。この'ワルワル親子'何回死んでも生き返ってますよ〜
(.. ><; ”) ’シェー!’ざます〜

(つづく)

☆♡☆♡
またまた、加筆・修正をいたしましたので、まことに申し訳ありませんがもう一度読んでいただければ幸いです。それに、記事を書いた後にサタニストに改ざんされていた箇所が、わたしが気づいただけでも、少なくとも3ヶ所はありました。実際は、もっとあったかもしれません。それも、一応修正しましたが、また、改ざんされるかもしれませんので、いかにも変な所があったらそういうことですので、そのつもりでお詠みくださいマセ。
(2月3日午後3時30分頃)


* コメント欄も読んでくださいネ!
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by Ulala-lov | 2011-02-02 02:17 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(0)

(この記事は、先月、1月21日の続きです)

<龍馬とトーマス・グラバー >

幕末の日本に、アングロサクソンの王族・貴族であるアイゼンベルグとジョゼッペが工作員として来るくらいですから、ケルト系(人間)としてやって来た「トーマス・グラバー」も貴族くらいの人でしょう。ケルト系(人間)の王族は、日本がアングロサクソン王族の餌食に、つまり、植民地化されないようにするために、日本を助けるためにトーマス・グラバーを派遣したのでしょう。もちろん、グラバーだけでなく、神戸や横浜にもジャーディン・マセソン商会の取り次ぎ会社があったようですから、ケルト系の他の外人たちも同じ意図でやってきていたのでしょう。でも、グラバーがなぜか彼らの中では一番有名みたいです。やはり、長崎という立地と、また、龍馬と結びつき幕末に最も中心的な働きをした外国人だからでしょうか?

ケルト系王族は彼らアングロサクソン王族の恐ろしさを身を以て十分に知っていますから、ペリーの黒船が浦賀にやってきて武力で江戸幕府を脅し通商条約を提携させたことから、もう開国を鎖国にもどすことなんてできないと分かっていたでしょうし、アングロサクソン王族たちが江戸幕府の討幕を企(たくら)んでいることしも見抜いていたのでしょう。だから、グラバーは、土佐藩を脱藩してどこの藩にも属していない自由な身分の憂国の志士「坂本龍馬」を見込んで、ちゃんとアングロサクソン王族の企みやその恐ろしさについて話して聞かせたのではないでしょうか? 

そして、とにかく、彼らアングロサクソン王族に対抗するには、日本が西洋諸外国に対抗できるほどの軍備を整えることがまず先決なので、龍馬に「亀山社中」という武器・軍船の売買を仲介する会社をつくらせて、アングロサクソン王族に狙われている幕府や西南有力諸藩が早く軍備を整え対抗できるように手助けをしたのでしょう。そして、若い藩士たちが英国留学するのも手伝い、近代化に向けた人材育成への援助もしたのでしょう。また、当時、武器を売っていたのはグラバーだけではなく、先に述べたアングロサクソン系「東洋銀行」の取り引きの大きさからいって、アングロサクソン系商社がたくさん存在しグラバー以上に多くの武器を幕府や諸藩に売っていたと推測されます。しかし、おそらく当時でも最新鋭の武器や船はグラバー商会しか取り扱っていなかったのでしょう。というのも、スコットランドは近代のあらゆる名だたる発明に一番貢献していますし、工業化、製品造りにもいち早く取り組んできたようですから。それで、グラバーは、幕府にも、西南有力諸藩にも、望まれて武器を取り引きしていたのでしょう。

しかしながら、その後の西南諸藩の藩主の後継者たちはアングロサクソン王族たちに血筋を乗っ取られた傀儡の藩主だったと思われますが、ジョゼペたちアングロサクソン王族たちは、最終的には日本を内戦に持ち込んで、殺し合いをさせたかったので武器購入には積極的だったのでしょう。それに、自分たちアングロサクソン王族系武器商社に武器を売らせて儲けさせたいという意図もありましたし。西南諸藩には平家の生き残りの血筋が多かったので、外国や幕府と戦争をさせて、大勢の犠牲者をださせるつもりだったのではないでしょうか?

徳川慶喜と戊辰戦争 [茨城県立歴史館]

戊辰戦争史
旧幕府軍の榎本武揚*と土方歳三(=ジョゼッペ)は、すでに西軍側のものとなっていた函館を奪還すると称して函館に向かい、函館を一時的に奪回したのですが、「西軍」(薩摩・長州の新政府軍)が追っ手を差し向けるのは最初から分かっていたことです。榎本も土方も、函館を一層の混乱に貶(おとし)め、戦争を継続し、より多くの幕府側についていた蝦夷系(=ヤハウェ系)の人々を大量虐殺するのが本来の目的だったのです。

*榎本武揚〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ジョン・万次郎は、おそらくアイゼンベルグでしょう。その万次郎の私塾で英語を学んでいたということですからマインドコントロールされていたんでしょうね。また、父親が備後国(岡山県などと共に「吉備国」の一部でしょう)の現在の広島県福山市出身ということですから、昔から吉備津彦**の子孫「中島家」の勢力範囲にあってはサクソン王族の可能性大です。そして、江戸で生まれた武揚は、「榎本みつ」と結婚し養子になります。この榎本も同じくサクソン王族でしょう。ですから、土方も榎本もわざと茶番を演じて函館を再度戦火に陥れ、函館の人々を虐殺し、その後、サクソン系の人々を函館に入植させたのでしょう。

**桃太郎伝説〜古代史の扉
何度も言うようですが、『温羅』(うら、浦)は鬼ではなく、「元祖大和王朝」に仕えて、岡山一帯の地域を長〜く平和に治めていたヤハウェ系王族のその地域の豪族で、そこの立派な山城の城主でした。

鬼は「吉備津彦」たちサクソン王族のほうで人々を苦しめたり、強盗を働いたり、残虐に殺したりしていたのでしょう。現在の岡山県総社市(そうじゃし)の『血吸川』は、新大和政権が遣わした吉備津彦たちの大軍が、温羅たちを打倒するために温羅の兵士やその地の大勢の住民を虐殺し、大量の遺骸を川に捨てたために、その川の水が血で赤くそまったことから命名された恐ろしい名前なのでしょう。さらに、吉備津彦たちは、城主「温羅」やその一族を最も残虐な方法で殺しています。おそらく、釜茹でにしたり(だから山頂の城跡に釜を祀っているのでしょう)、首を曝(さら)した後、犬に喰わせるなど創造を絶するほど残虐の限りをつくしています。


また、桃太郎こと吉備津彦は、おそらく象二郎。そして、サルは「ジョゼッペ」、キジは「木島」姓(田部タコか中島タコか?)、犬は「犬飼」姓(アイゼンベルグの子孫)というサクソン王族の家系なんでしょう。

ところで、わたしの短大の時の同級生にやはり「榎本」さんという女の子がいて、大分の出身で家は果樹園を経営していると言っていましたが、今考えると本当かどうか怪しいと思われてきました。多分、榎本武揚の子孫かも?この榎本さんとわたしは短大の寮でも入学直後に同室でしたが、なかなかの人で何となくジワ〜と除け者にされていたような感じでした。もう一人いた同級生の女の子で節子さんという人も岡山出身で気が強く***、また、榎本さんと結託していました。もう一人は2年生の先輩で長崎の人で皆も認めるほどの気の強い九州女性でしたし。。。大変でした〜!!(茶道クラブの先輩にも「○○ちゃんと一緒なの〜可哀想に!」って言われました)〜〜;でも、もう遠い過去のことです〜

***昼間、授業の空き時間に寮へ帰っていて節子さんと一緒になったのですが、彼女に「今からちょっと寝るけど目覚ましが鳴ったら起こしてね」って言われて、目覚ましが鳴ったのでちゃんと起こしたのですが全然目覚めず。それでも一生懸命名前を呼んで身体を揺すったりしたのですが結局ダメでした。それで、仕方なくあきらめたのですが。。。その後、20分後くらいに起きてきて、わたしに「なんで起こしてくれなかったの!」って怒るは怒るは。。。。「何回も呼んで起こしたけど起きなかったから。。。」と言っても聞き入れてくれずすごく怒ったままでした。あ〜あ!でも、やはり、今考えると、"わざと" だったような気がします〜  セツ、節子は、サクソン王族などの名前です。だって、エジプト神話にあるようにセツ(男)は兄を惨殺して、王位を奪ったというセツです。まあ、節子さんにもいろいろな人がいますから、すべてのセツ、節子さんが怖い人ではないでしょうけれどね。(まあ〜、彼女たちもQベス、その他のシバの女王たち、つまり「イルミナティの女子リング」のトップの命令でやったのでしょう)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


グラバー考 〜れんだいこ
リンク先のフリーメーソンに関してはかなり嘘が多く、サタニストに乗っ取られて書かれている部分だと思われます。また、グラバーに関しても幾つか間違った説明がありますが、グラバーがフリーメーソンのメンバーだったのいうのもちょっと怪しいような。もし、そうだとしたら、(何の実権もも持たされないけれども)仕方なく一応メンバーになっていたのでしょう。後に詳しく説明しますが、グラバーは死の商人ではなく、日本が西洋の植民地にならないように日本を守るため、特に人間たちをサクソン軍団から守るためにやって来たのです。決して金儲けのために来たわけではありません。後年のグラバーの巨万の富は、グラバーの両親からの相続です。スコットランドの旧名門貴族の出身だったようですから。


フリーメーソンは、もともと石工職人の職人組合だったとありますが嘘でしょう。(メーソン*は石工組合だったかもしれませんが。)おそらく、メーソンはケルト系の長という意味で、「ケルト」の直系の王族、おそらく、ユリウス氏族のことだと思われます。ですから、フリーメーソンというのは、そのメーソンからフリーになるということ。つまり、アングロサクソン王族たちが、西ローマ帝国崩壊後に、フランク族(ヤハウェ系が中心の多種民族の混合)との戦いに負けてから西ヨーロッパ(現在のフランス、ドイツ、イタリア)で、ケルト系王族の支配下に入り、特に、ドイツのサクソン一族は、メーソンの直属の支配下に置かれたため、そのメーソンから解放されたいという意味で、メーソンを打ち負かすということなのです。ですから、フリーメーソンというのは、アングロサクソン王族が創った秘密結社に違いありません。ですから、トーマス・グラバーはフリーメーソンではなかったはずです。ジャーディー・マセソン商会もしかり、香港上海銀行もしかりです。

*メイヤーmayer は、英語で「市長」という意味です。ケルト系はそもそも中央集権的な国家政治をあまり好まず、ギリシャのように多くのポリス(=都市)が集合している状態の政治形態を好んでいたようです。つまり、それぞれの都市が独立した自治権をもっているということでしょう。一方、アングロサクソン王族は、中央集権化した絶対君主制政治や寡頭政治や独裁政治などの政治形態を好むようです。彼らがギリシャに侵略した際は、先に定住していたヤペテ系のポリスが無数にできてしまっていたので、地理的な事情からもそれを取り入れたのでしょう。

新説・日本の歴史
第8弾 天皇権を奪おうとした人
聖徳太子は、おそらく蘇我入鹿(そがのいるか)で、西暦646年の「乙巳の変」(いっしのへん)という皇極天皇(シバの女王)、中臣鎌足(ジョゼッペ)、中大兄王子(後の「天智天皇」=象二郎)たちの起こしたクーデターでに暗殺(惨殺)されました。でですから、天智天皇は独裁政治を行っていたと考えられます。そして、「天武天皇」は平氏(ヤハウェ系)の天皇ですから、きっと「天智天皇」の無謀で残虐な政治から民を救おうとクーデターを起こしたに違いありません。また、平安京を築いた「桓武天皇」(かんむてんのう)も平氏(ヤハウェ系)ですから、蝦夷(えぞ)民族(ヤハウェ系)を討伐するのに熱心なわけがありません!だから〜坂上田村麻呂もそんな討伐してませんね〜。きっと「源頼朝」(みなもとのよりとも=象二郎系)が大規模な蝦夷討伐隊を東北地方に派遣したんでしょう!その隊長が「源義経」(みなもとのよしつね)ことジョゼッペだったのです!(これは確か)

ここのサイトをみると、坂本龍馬は天皇制も幕府も排して、諸国の代表を選出した代表による共和制政治を考えていたと書いてあります。もし、そうだとすれば、その当時の日本は特に、西南有力諸藩は、『勤王』(=天皇を中心とした国家)でみなまとまっていたわけですから、朝廷や他藩に知れたらそりゃ暗殺されますよね〜!  ちょっと龍馬はちょっと先に進み過ぎていたんでしょうかね? 

ところで、ちょっと、待ってくださ〜い!! 龍馬は、『船中八策』*を後藤象二郎に提案し、象二郎はそれを土佐藩主「山内容堂」に伝え、容堂によって将軍「慶喜」に建白書*が献上されたのです。そして、慶喜の大政奉還へと至ったのです。ですから、下のサイトを参照すると分かるのですが、「天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令が朝廷から出るべきこと」とありますから、朝廷が政権を取り戻すということですから天皇制が維持されるということです。だから、龍馬が、日本を共和制国家にする気だったということはちょっと考えられないのですが。。。

坂本龍馬の船中八策 〜 「明治」という国家
* 明治前期の建白〜建白書の時代〜
(要は、お上に対する意見書ということみたいですね)

「今日は何の日?徒然日記」より
坂本龍馬の「船中八策」土薩盟約そして大政奉還へ....
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/06/post-2828.html
幕府・朝廷〜ともに歴史が動いた10月13日「討幕の密勅」
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/10/post-2828.html
王政復古の大号令
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2006/12/post_94ed.html
討幕が決定的となった薩摩藩邸焼き討ち事件
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/12/post-bd26.html
(西郷隆盛が江戸でテロを起こし、幕府と朝廷を戦わせる切っ掛けを作る画策をしていたとありますが、それは西郷ではなく、おそらく「内田」という「久光」の家令の案だと思われます。***下の文の中の同じマークの所を参照)

☞ (ちょっと、寄り道)▷▷▷
また、「西郷隆盛の死」ですが、ここにも、ジョゼッペの関与が伺えます。

西郷隆盛のホームページ「敬天愛人(けいてんあいじん)」より
第四話 「島津久光の誤算」

この話の中のやや終わりのほうに出てくる、久光の家令(=英語ではスチュワート、執事、政治などでも王の次に重要な役職)である「内田政風」***というのは、あのジョゼッペが「内田」という姓を明治維新期から現在も名乗っていることから、ジョゼッペ本人または、その息子ではないかという気がします。それで、久光の心を上手く操り、西南戦争を画策し、大久保も西郷も互いに両成敗させられてしまったのです。実際は、ジョゼッペの命令でアングロサクソンのスパイに暗殺されたのでしょうが。これで、アングロサクソン王族たちは、明治政府を一層操りやすくなったというわけです。

大久保利通

他にも、伊藤博文など多くの幕末〜明治維新期を命をかけて駆け抜けた名だたる志士たちが明治初期までにほとんど暗殺されているのです。長州に関していえば、スコットランドで造船技術を学んだ山尾庸三や鉄道技術、鉱山技術を学んだ井上勝や理科・自然科学(造幣なども含?)を学んだ遠藤謹助などは必要な人材だったので重用されたので長生きし、井上馨のように悪に染まった者も長生きしたようですが。伊藤博文は、朝鮮の韓国統監府の初代統監に就任した際、中国のハルピンで韓国の民族運動家「安重根」(あん・じゅんぐん)に暗殺されています。日露戦争や日本の朝鮮併合にも反対した平和主義者だったらしいので、アングロサクソン王族には邪魔な存在として消されたのかもしれません。

(元の道に戻ります〜) ▷▷▷


薩摩の砲撃で戦闘開始!〜鳥羽伏見の戦い
戦場に翻(ひるがえ)る錦の御旗〜鳥羽伏見の戦い・3日目

徳川慶喜の敵前逃亡^その本心は?
(すべて、アングロサクソン王族のシナリオどおりに動かされているジョゼッペの息子「徳川慶喜」売国奴さんでした〜! )

徳川慶喜の敵前逃亡〜その原因は御三家にあり?
鳥羽伏見の戦い終結〜大阪城の炎上はもののふの魂
(なんだか、将軍慶喜は、自分たちトップの者は敵前逃亡するのに、「たとえ城が焦土と化しても戦い抜こう」なんて言って兵士を自殺させる算段までしておくなんて、ほんとうに慶喜やジョゼッペは悪魔たちだわ!こういう人をバカにした冷酷なことを平然とやるのが彼らアングロサクソン王族たちです! シッカリ、心にとどめておきましょう!)

(2月2日につづく)

*コメント欄も見てくださいネ!
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by Ulala-lov | 2011-02-01 12:12 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(6)

(この記事は、1月20日の続きです)


前の記事のコメント欄の anti-tori-influ さんのコメントを参考に調べて、『ヤマタノオロチ』のサイトと比べながら、3世紀頃の大和朝廷について推察してみたんですけど、その頃に、出雲から関西地方に行き周辺を統一していた大国主命によって、平和的に日本(主に西日本)は統一された。その後、卑弥呼の2代目「貴巫女」の娘婿「磐余彦」(イワレヒコ =後に、神武天皇=応神天皇?)が、西都原(=日向、宮崎県)から奈良に行き、中央集権化した大和朝廷の王となったということかな? この応神天皇は、272年に、百済が無礼を働いたとかって理由で、紀角(き の つの)という豪族に百済を討ちに行かせています。この頃から、百済は日本の属国になっていたようです。

紀角
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%A7
%92%E5%AE%BF%E7%A6%B0

ところで、高句麗の広開土王は、391年に王になって、百済を積極的に攻めているのですが、それって、倭国=日本(応神天皇の次の仁徳天皇の時)が朝鮮半島南部を支配し始めた頃と同じなんですよね。ということは、高句麗の広開土王は、日本からの王と戦っていたということになるのでしょうかね〜? また、『太王四神記』に出てくる『火天会』(=扶余の王族?=アングロサクソン王族?)のヒロイン『キハ』を利用して後ろ楯となっていた火天会の「大長老」というのは扶余の王族で、日本とも関係が深かったか、日本からのまわし者ということになるのでしょうか? つまり、日本に来ているアングロサクソン王族は、ペルシャから来た「スサの王」を追っかけてきているので、それなりに地位の高い王族が追跡していると考えられます。

6世紀になって、百済と高句麗の関係が改善すると倭国と高句麗の関係も友好的なものとなり、相互の通好も行われた。特に、高句麗からの仏僧の活躍が目立ち、聖徳太子の師となった「恵慈」(えじ)*が有名。

* 恵慈     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%85%88

668年に高句麗は、唐と新羅によって滅亡しますが、遺民は、北方に行き、後に『渤海』*を建国し、一部は日本に逃れた者たちもいて、武蔵国高麗郡(埼玉県日高市、飯能市)などがあるそうです。

渤海と日本との交流は、「渤海使」*が35回、に「遣渤海使」** (けんぼっかいし)が14回にわたって派遣されるなど
かなり濃密な交流があったということになります。ルートは、後に日本海北側の能登、加賀、越前、佐渡に至る北ルートが主流となり、金沢、敦賀(つるが、福井県)、秋田城などから交流を示す遺物が発掘されているとのことです。

*渤海(698〜926年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
**渤海使 (728〜922年)  
http://ja.wikipedia.org/wiki%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E4%BD%BF
***遣渤海使 (728〜811年) 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E4%BD%BF

ということで、日本との関わりは非常に深く、こういったことから日本に渡来したケルト系ヤペテ族のツングースやペルシャ系セム族(エラムから来たエフライム族の末裔)もいたと考えられます。

そして、その渤海も926年に、契丹(キタイ、おそらくスキタイ=シェバ人の騎馬軍事集団に由来する?)の遼に滅ぼされ、朝鮮半島の高麗*に逃れます。

*高麗  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97

しかし、その高麗は、1388年に、武人「李成桂」(女真族?)がクーデターを起こし政権を把握、1392年に自ら国王に即位し、「李氏朝鮮王朝」を興した。韓国は、後に、「大韓帝国」(=李氏朝鮮の改称)となり、日本統治時代になり、連合国軍軍政を経て、現在の「大韓民国」と「朝鮮民主主義人民共和国」に二分されます。


こうして、セム系エフライム族の日本への渡来について考えただけでも、徐福伝説(全国各地)や、九州の卑弥呼の邪馬台国や、出雲のヤマタノオロチ伝説、四国の稲飯(いなひ)の一団、渤海や高句麗との交流など
ほんとうに多いことが分かります。

さらに、アングロサクソン系のモンゴル系やツングース系やチベット系も中国や韓国で建国したり、流入したりして、その後、日本にもやって来ていて、おそらく、一番、早くは、B.C.10C.くらいにはやって来ていると私は、思うのですが。というのは、インドー東アフリカ貿易がその当時には行われていて、東アジアにもかなり遠くまで船でやって来ていたと考えられますから。有名なところでは、遣隋使*(600〜618年)、遣唐使** (630〜894年)、朝鮮通信使*** (1375〜1811年)などがありますが、とにかく、古代からさまざまな形で、日本に渡来していたと考えられます。

* 遣隋使   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF
** 遣唐使   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
*** 朝鮮通信使
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%8
0%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF

このように、セム、ヤペテ、アングロサクソンと、ほんとうに多くのノアの子孫が日本全国に渡来し子孫を広げていったということになります。

そして、海運では、下関から瀬戸内海を経て大阪に至るルートがもっとも多く、このため、この沿岸が栄えたというのも納得です。ですから、長州藩や筑前藩(=福岡藩=黒田藩ともいう)や備後福山藩、備前藩(岡山)、備中松山藩や、あの忠臣蔵の播州赤穂藩なども重要な役割を果たし利益を得ていたと考えられます。だから、江戸時代も、南西諸般は裕福で、有力諸藩が多かったんですね!

中でも、長州藩は、石見銀山*は、江戸幕府の天領ではあったものの、貨幣の製造やいろいろな関連業務や運送などで利益を得ていたのではないでしょうか? また、江戸時代の中期には、銀の産出量が激減したとありますが、これは、アングロサクソン王族が傀儡「明治政府」から銀を奪っていたことを隠すための嘘ではないかと推察しています。というのも、私の親戚は、石見銀山の近くに昭和初期にいたのですが、その当時でもまだ銀を産出していて鉄道で運搬していたそうです。確かに、その当時は、最盛期ほど多くはなかったようですが、おそらく、明治時代にアングロサクソン王族によって、堀り尽くされたのではないかと思われます。一気に略奪したのではないかと。それで、江戸時代に管理を任されていた服部氏に代わり、藤田一族「藤田組」の藤田ホールディングスが鉱山権を握っていたとのことですが、まあ、その後ろで本当に握っていたのは、アングロサクソン王族=ハノヴァー朝(=ウィンザー朝)でしょうけれど。

* 石見銀山
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
http://fish.miracle.ne.jp/silver/history/introduction.html

ヨーロッパを始め世界中の上流階級たちに、銀のナイフ・スプーン・皿などの食器が広く使われていたことを考えると、いったいどれだけ大儲けしていたかと想像できます。なのに、日本の明治政府は、日露戦争、日清戦争を強要してさせられた際も、アングロサクソン王族支配下の銀行から大量の資金を貸し付けられて戦争するしかなかったほど貧乏だったということなのです。ああ、植民地の悲しさよ〜ですね!

アングロサクソン王族たちは、ヤペテ-ケルト系王族の発明を盗んで、まるで自分たちが発明したかのように工業化し、大量生産して大儲けするのが大好き! だから、機関車も、ヨーロッパではさすがにしなかったようですが、アメリカの広大な地への鉄道普及は、あのハリマンたちが勝手に権利を横取りして生産して、普及させたんじゃないでしょうか? あの数年前の有名な映画『チャーリーとチョコレート工場』でも、チャーリー
チョコレート工場で働く従業員がチョコレート製造の秘密を持ち出して売ってしまうので、チャーリーは怒って、いっさい普通の人間を雇うのをやめて、妖精?の小人とリスたちにチョコレート作りを任せます。あれは、アングロサクソン王族のスパイの人間が、製品作成の秘密を盗みとる常習行為を皮肉っているのです。中国は、新幹線製造の技術も傀儡日本企業を使って盗み取って中国版新幹線を製造したのだとか! いままでも、アメリカでも、世界中でも、中国がスパイ行為をして様々な最先端技術を盗み出してきたのですが、恥も外聞もなく、それを臆面もなく、そういった行為をさせているのは、恥知らずな「ウィンザー朝」の王族さんたちです! 中国の政権も早く独立したがっているんじゃ? 中国国民もそうでしょう?

『チャーリーとチョコレート工場』
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7525/story.html


(つづく)
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by Ulala-lov | 2011-01-21 14:43 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(1)

この記事は1月19日の続編です。


さて、例えていえば、日本に藤原や藤や原のつく姓は非常に多いわけですが、わたしは、実は、たまたまヤマタノオロチ伝説の里に近い奥出雲の中学で臨時教員をしていたことがあるのです。そこで、同じ学年に藤原君がふたりいて、ひとりの藤原君は学級委員長をしていました。まあ勉強は特別できるというのでもなくごく普通でしたが、掃除の時にあまりやる気がなさそうだったので、学級委員長なんだからちゃんとやりなさいって注意したことあったような。ある時、他の子たちと数人で万引きして担任に指導されたのですが、それでも、「善悪がよく分からないみたいです」という話でした。彼は、男子トイレの入り口の床に石けんを塗って他の子を転ばせる算段をしたり、自分の上履きを他の子に投げつけて、目を怪我させたりするなどちょっと乱暴なところがあるボス的存在でもありました。けれども、いい子にしている時はそれなりにかわいく、授業を妨害されたこともありません。また、定期テストの前に、その子のクラスがわたしの科目にやる気をだしてくれて、みんなで「オッス!」だか「ヨッシャ!」だかのポーズをしてくれたと担任の先生から聞いた時はちょっと嬉しかったです。でも、さすがに、彼が生徒会長の候補になった時には、残念ながら、「善悪が分からないという子を生徒会長にはできないでしょう」とある先生との話の中でちょっと反対しましたです。で、他の候補者が生徒会長になったのですが。(まあ、陰で操っていたかもしれませんけど)

また、ある時のPTAとの懇親会では、部活の先生がその藤原君のお父さんにそうとう気をつかって、「いや〜、ちょっとやんちゃでもね、こういうイイところが。。。」って、ホメホメしていて。まあ、いいことではあるのですが。今になると、「そのお父さん、かなり裏ボス的な人だったのでは? 」と思えてきます。でも、最初はちょっとやんちゃな子もいましたが、教え子はみんなかわいかったです。ですから、意図して悪い道に導かれていなければ、この藤原君きっといい青年になっているだろうと思います〜!   (この藤原君にわたし個人としてはなんの恨みもありませんが分かりやすい説明になると思い例にだしました。’メンゴ!’ (=ゴメン、許せよ!)    

ところで、もうひとりの藤原君はお寺の子で、ちょとひょうきん系のいたずら者ではあったようですが、なんだか故意に指導主任のO先生から悪者にされている感じでした。そのせいなのか小学校の教員で、確か教頭か教務主任かをされていたお父さんは早期退職されたそうです。ですから、仏教のお寺の僧侶になった藤原さんというのはアングロサクソン王族にしてみれば、裏切り者-家系とされて嫌がらせされていたのかな?と今になって思ったしだいです! それとも、仲間に入れようとしたけど拒否されて親子ともども嫌がらせをされていたのでしょうか? (日本でも、まだ古〜いアングロサクソン王族系のリング(秘密結社)が今も活(い)きているのでしょうか。。。)
(ところが、残念ながら、こちらの藤原君のほうは何だか近衛文麿にやや似ているようなのです!2014.03.20追記)

ですから、まあ、なにごとも一概には言えません。アングロサクソン系の名前はついていても、名前だけそうでも違う血筋のほうが多くなっているという人もいるでしょうし、アングロサクソン系の人でも、超エリートたちじゃなければ、いい人もいるでしょうし。

まあ、世界中のいたるところにいるアングロサクソン’王族・貴族’には特に気をつけた方がいいということです
かね。でも、何度も言うようですが若いアングロサクソン王族・貴族は親や祖父母と同じサタニストの道は歩きたくないという人が多いということですので、これとて一概に全員がサタニストとは言えないらしいです。(しかし、イルミナティのトップたちの絶対命令によって彼らは動いているので、悪い事させられている人がほとんどのようです。2014.03.20追記)

(またまた、話がすご〜く横道にそれてしまいました。スミマセ〜ン! ♡^*** テクマヤマヤコン〜〜〜もとにも〜どれ! ドロドロドロ〜ン!パッ!⁂)

[参考資料]  (サイト主様方には勝ってに使わせいただき相済みません。)

そうとう長いものもありますので、お急ぎの方は興味のあるところだけお読みください!

韓国の歴史 その始まり・・・檀君神話・古朝鮮
http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory1.htm
(高句麗が扶余人によって建国されたというのは多分違うと思いますけど〜?)
物部氏は扶余人
http://www.coara.or.jp/~mieko/koreahistory/koreahistory1.htm

高句麗とは
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/koguryo_002.htm
高句麗とはーはてなキーワード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E2%B6%E7%CE%EF
百済 馬韓通史
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kudaragaisi/bakan-tsusi.htm


おそらく、「平家」はヤハウェ王族のヤペテ系とセム系の子孫の系統で、藤原氏(朝廷)、源氏(武家)はアングロサクソン系王族の子孫の系統でしょう。しかし、中臣鎌足と中大兄皇子の「大化の改新」後、藤原家がずっと権力の中枢を握っていたので、その当時は、アングロサクソン系の血筋であろうとの推察ができますが、それでも、その時の権力者によって、変わってきますので一概には言えません。その後、平安京を建設した桓武天皇は平家の血筋の天皇のようですので、平家筋の血流が多く天皇家に入っていったのですが、それも長くは続かず、清和天皇以降はずっと源氏系でしたが、それも、平氏の平清盛公の時代には平氏系の天皇になっていたのです。しかし、その後、平安時代末期の1185年の「壇ノ浦の戦い」*で源氏が平家を滅亡させて以後は、また、状況が変わったことでしょう。でも、徳川幕府は源氏なんでしょうか?平家なんでしょうかね?その辺でもまた随分と違ってくるでしょうし。

しかし、それにしても、現在も、平家一族の生き残りが徹底的に藤原氏と源氏から狙われて殺されたり、いじめや左遷とかで社会排除されたり、集団ストーカーされたりして自殺に追い込まれたりとかしているようです。
だから、恐ろしいことです〜〜〜!! 自殺者年間3万人以上!! この中には、おそらく、アングロサクソン系の庶民も多少含まれていると思いますよ〜 だって、そこまで、細かく分類できないでしょう〜 例えば、あの^第二次世界大戦中の広島や長崎の原爆でも、東京を始めとする主要都市の大空襲の時でも。。。それでも、やっぱり、まあ、平家すじを特に狙ってジェノサイト(=種の絶滅)を計っていることは確かでしょう。 zooo~~~
まったく、気味の悪いアングロサクソン王族、貴族のジジ、パパさまたちだこと!!

まあ、自分たち家族以外は全部殺したって平気って方々ですからね〜  世界中のほとんどの人々にとっても、’ひとごと’(=他人ごと)ではありませんよ〜!

* 壇ノ浦の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


p.s.
本文の中で、ちょっと、名字について言いにくいことも書いています。済みません! でも、事実を知っていたほうがより解決しやすいと思いますので、あえて書いていますが、さらに、アングロサクソン系の名字には、藤原姓以外にもたくさんあるみたいです(この名字だけ書くと不公平になるので他にも挙げます)。 フォン族に由来するものとか、奥の院系とか、ツングース系なのか森林などに由来する名字とか、その他もろもろ。それに、平家の名字でも乗っ取られている家系もありますし。(わたしにはあまり詳しくわかりませんので間違っていたら済みません)それに、おそらく、自分でも自分の家の名字の由来を知らない人のほうがかなり多いかもしれませんよね。と言う、わたし自身も、やっと何年か前に少し調べてちょっとだけ分かったのですが、それでもまだ完全な理解には至っていません。

まあ、とにかく、ジョゼッペのキャボット家とかアイゼンベルグのウィンザー朝=サヴォイア家=ブルータス=ブルース家とか、モルガン家は、(彼らは、外国でも日本でもいろいろな名字を使っています)、日本でも互いに結婚しあって仲良くしているみたいです。そういうのはアングロサクソンのエリートたちのピラミッド「フリーメーソン」の頂点付近にいる王族・貴族「イルミナティ」の家族たちのようです。

ですから、アングロサクソン人の庶民はあまり関係ないでしょうし、いろいろな家系と混ざりあって結婚している場合が多いでしょうから、ヤペテ系、セム系、アングロサクソン系と、また、それ以外の先住民の日本人=「縄文人」などがいろいろ混血しているんでしょうね〜。

ですから、姓名に関係なく、その人物(子供を含めて)をよ〜く見て、サタニストかどうか判断するしかありませんよね〜!  その人たちが有力者、権力者(子供も含めて)の場合、あっ、それから新興宗教などの会員の場合も、特によ〜く注意して判断しましょうということですかね〜。

また、なぜ子供もあえて含めて書いているかといえば、イルミナティの子供は、2〜3歳で、虐待を受けて人格を破壊されマインドコントロールされていますし、親が新興宗教に入っている子供たちも同様で、親のいうとおりに集団ストーカーに加わったり、学校でいじめをしたりしています。ですから、こういうふうに書いてはかわいそうだとは思うのですが、しかし、実際、事実であり、一番かわいそうなことというのは、マインドコントロールされているということのほうであり、解放されるべき、かつ、解決されなければならない重要問題なのです。


p.s.2

『スサの王』を始めとする『ペルシャから来たセム系エフライム人の王族』の移動について、追加説明したいと思います。

☞メソポタミア南部→ペルシャ南部で「エラム」(首都 スサ)→インド西部(現在はパキスタン領)で「モヘンジョダロ」*(B.C.2500〜1800年)→中央アジアから北インドで「クシャーナ王朝」 * (xxx〜A.D.1C?A.D.3C?、仏教信仰、仏教美術が栄える)


中央アジアから東アジアで「月氏」**(B.C.3C〜A.D.1C)→中国で「夏」**→(アングロサクソン系匈奴=「殷」の征服)→「周」→(アングロサクソン系匈奴「秦」に征服される)↓

B.C.3C頃、「周」は、「秦」に征服され、周の民は「高句麗」や「馬韓」に逃げて来る。
→その後、日本に渡来。


一方、B.C.200年頃、アングロサクソン王族たちは前漢に征服され秦の南部から船団を組み、南方海路で、日本各地にやって来る。これが徐福たち***)

「漢」→三国時代の「蜀」(しょく)「魏」(ぎ)「呉」(ご)→(「晋」シンの征服)→(南北朝の北朝=北魏=鮮卑族、南朝=(劉)宋=晋の末裔の征服)→(隋(ずい)、「唐」、「宋」(時として、またそれぞれの末期にはアングロサクソン王族に乗っ取られていたものの基本的には周の末裔のヤハウェ系王朝)→(「元」=モンゴル系タタールの征服王朝)→「明」(=テュルク&タタール系の王朝)→(「清」=女真族というツングース系タタールの征服王朝)→「中華民国」・「中華人民共和国」(=アングロサクソン・ヌビア系王族の征服)

また、アングロサクソン王族たちは→A.D.2C後半? ササーン朝ペルシャがクシャーナ朝を征服)→「馬韓」を征服し「百済」を建国)→A.D.200年頃、日本の西都原(=宮崎県)にやって来る(貴巫女=卑弥呼)

* モヘンジョダロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%
82%B8%E3%83%A7%E3%83%80%E3%83%AD

**月氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%B0%8F

* クシャーナ朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83
%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D#.E6.AD.B4.E4.BB.A3.E7.8E.8B

** 夏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)

*** 徐福伝説
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
アングロサクソン王族たちのワルワル軍団でした!


ということで、「高句麗」を建国したのは、「周」の王族(=スサの王の子孫のセム系エフライム人=シュメール人)の一部だったのではないかと思われます。しかし、本国の中国の「周」が秦に征服されると、周の民は逃れて朝鮮半島にやってきて「馬韓」や「高句麗」を建国したのではないでしょうか?その朝鮮半島の百済からエフライム人は日本にやって来ているのでしょう。


冒頭に引用させてもらいました「ヤマタノオロチ」の「第14章 四国の大王「稲飯」(イナヒ)」の中にも、「ペルシャからシルクロードを通ってやってきた人々(=「周」からの民)が500年前に百済にやって来て、最終的に西都原にやって来た。ところが、50年前に百済から貴巫女=卑弥呼たちがこの西都原にやって来た。」と、おそらく、A.D.250年頃?(そのサイトには、紀元111年頃となっていますが???)に話していると思われます。それで、中央アジア〜北インドの「クシャーナ朝」をササン朝ペルシャに滅ぼさせ、百済に渡り、その後、日本に渡来しているのが卑弥呼の来たのルートです。また、稲飯とほぼ同じ頃に、「秦」から徐福が3000人を伴い大船団で日本の各地を侵略したので稲目は徐福(象二郎)かもしれません。


♡☆♡☆
この記事は、かなり加筆・修正をしましたので、済みませんがもう一度読んでいただければ幸いです。



つづく


* コメント欄も見てくださいネ!
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by Ulala-lov | 2011-01-20 20:16 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(0)

(この記事は、1月15日の続きです)


また、ネットを調べていたら、下記のサイトで、かなり詳しく説明してありましたので、こちらの説を参考にさせていただきながら考えたいと思います。(サイト主様、勝手に使わせていただき申し訳ありません。thanks a lot ! ^m^)

「ヤマタノオロチ」
(ヤマタノオロチ(山田=八股、つまり、ヘビのような八つの脚をもつタコ系モンスター「オロチ」を退治したのはヤハウェ王族セム系の蘇我氏と思われます。なので、このサイトはかなりアングロサクソン王族の歴史と近い改ざんされた歴史の内容になっていますが、それでも、アングロサクソン王族たちと扶余たちの渡来に関する歴史がよく分るのでいろいろと参考になります。おそらく、フツは藤間家の前当主アイゼンベルグ、フツシは藤間家の現当主「ムッちゃん」でしょう。)

ブリヤート人

<前列>
中央の男がアイゼンベルグ(藤間家の前当主)、左端の男の子は飯星景子に似てますね〜!左から2番目の女性はこんな顔の女優さんいましたよ〜!左から3番目は以前から指摘していましたが、鹿島さん(鹿島建設の娘)=有賀さつき(元フジTV女子アナ)=的さん(わたしの中学時代の同級生)です。また、右端の女性は麻生財務大臣に似てますね〜!右から2番目の女性もこんな感じの女優さんいましたけれど。。。

<後列>
左から三番目の男はアイゼンベルグの息子(=藤間家の現当主)
左端の女性がわたしが高校の時に剣道部で一緒だった上野智香ちゃんとその二人の姉たちのひとり、おそらく長女*に似ています。彼女たちはマリー・ボルボン(おそらく、スペイン・ブルボン家)の娘たちで、息子が別所哲也=稲垣吾郎です。なんにしても、新生ヴィーナス=ヴィクトリア女王の子孫です。そして、左から2番目の女性が本名「藤間明子」で、タレントの千秋(ポケットビスケットのヴォーカルだった)=小島奈津子(元フジTV女子アナだった、現在はフリーアナ)、右から二番目の女性は藤間家の現当主の妻にソックリ!左から2番目の女性は俳優の豊川悦治**にソックリです!つまり、マリー・ボルボンの子供ではなく、ずっと長生きしているアングロサクソン王族ヴァンパイア本人か、その子孫と考えられます。


* それが女性宇宙飛行士の山崎直子さん似です。
山崎直子 画像集
わたしの記憶では声は自民党の稲田朋美衆議院議員に似ていました。
稲田朋美 画像集
稲田朋美大臣は、新生ヴィーナス=梶美奈子=「山田まりあ」のほうかと思いましたが、こっちのほうかも?
** 豊川悦司 画像集
【俳優】豊川悦司 写真・画像集 NAVERまとめ


★★★★★ おそらく、アイゼンベルグもその息子もわざと眉を垂れさせています。鼻もわざと細く見えるようにし、目も細くしています。わたしが持っているアパートの大家さんだった喜多文磨の写真を見ると、ヤハウェ系の人間的な顔のままです。また、わたしの元夫の顔も三船敏郎の若い頃の顔に似ていて、まったく、純粋なヤハウェ系の人間的な顔でしたから。

ただし、アイゼンベルグは元々ヤハウェ王族なのですが、そのままヤハウェ系の顔を保っているということはヴァンパイアにはなっていないということです。なので、おそらく、クローン人間によって子孫を生み出し、その中から、最も悪智恵の働く者の脳の前頭葉あたりに自分の前頭葉の一部をコピーした人工知能を移植しているのでは?

とにかく、フツ=アイゼンベルグ(藤間家前当主=ジョゼッペ=東電の「勝俣」前会長)で、フツシ=藤間家の現当主ムッちゃん(=東電の「武藤栄」前副社長=(株)日揮の「遠藤毅」広報部長)だと思われます。二人が並んで記者会見している動画の、ある角度からの映像を見るとソックリでした!


「ツングース系タタール」*が中国北部・朝鮮では、「扶余(プヨ)」**と呼ばれ、アングロサクソン=シェバ・ヒッタイトの騎馬軍事集団と考えられるのですが。。。彼らは、B.C.2C 〜 1C頃、中央アジア、シベリア、中国北部、朝鮮半島などを侵略していって、現地の土着民と混血などしていったと考えられます。その頃、朝鮮半島北部には、「高句麗」(B.C.37~668年)という国が「周」の末裔である民族(=セム系エフライムの子孫たち)によって起こり、「弁韓」という先住民や匈奴など複数の民族が住んでいました。扶余は、この高句麗にも侵入していき、完全征服しようと何度となく攻撃を仕掛けるのですが、完全には征服しきれずにいました。

韓族....三韓- キッズネットより
http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30017250.html

中華歴史ドラマ列伝 オフィシャルサイト - 歴史年表(中国-韓国-日本の対比)
http://www.chuka-drama.com/year_history.html


また、朝鮮半島の南西部では、「馬韓」という土着民が住んでいたのですが、中国の「晋」
(A.D.265〜420年)***の苦役から逃れて?から来た移民たちがやってきて「百済」(346?〜660年)を建国しました。晋から逃れてやってきた人たちが建国した後に扶余が侵略して乗っ取ったようです。「百済」は扶余によって建国されたと書かれていますがウソのようです。それで、「フツ」のように百済からも高句麗に侵入していっていったようです(北の扶余もすでに侵入していましたが)。 なので、晋から逃れてやってきたヤハウェ系の人たちの多くは、百済建国から十年後の356年に、その多くが朝鮮半島西南部に移動し辰韓の居住地に「新羅」 (A.D.356〜935年)**** を建国したようです。そして、中国にヤハウェ系王朝の「唐」が成立すると、「新羅」と「唐」が協力して、扶余に乗っ取られた「高句麗」を挟み撃ちにして扶余から取り戻し、「新羅」王朝の勢力下に置いたのでしょう。


高句麗は、農耕が主でしたが、牧畜・狩猟もしていたらしいです。しかし、百済は農耕文化であったとか(ウソ!)。上のサイト『ヤマタノオロチ』によれば、百済と日本とは結びつきが強く、扶余が征服した百済から日本に移住したのが扶余を率いていた卑弥呼こと貴巫女だったのです。また、このサイトの中には、「オロチ一族」(あの有名な出雲神話のヤマタノオロチのこと)というのが登場しますが、実際、ツングース系の一族には、オロチ族*やオロチョン族**がいます。両種族とも宗教がシャーマニズムとなっていて、やはりサクソンの特徴が色濃く伺(うかが)えます。

* ツングース系タタール
スキタイ・ヒッタイト=アングロサクソンがケルト系民族を奴隷にて鉄器製造=鍛冶かじ=タタラをさせながら移動し、現地の民族と混血し「タタール」と呼ばれていると推測されます。。日本にもやって来て、これが日本の鑪[タタラ]につながる。タタール人は、そのアングロサクソンとケルトの両方の民族やその混血を指して言っているようです。したがって、ここでは、ツングース語圏にタタールが侵略してきて原住民と混血して、ツングース系タタール人が生まれたということになるかと思われます。

ツングース
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B9
ツングースの意味
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/148808/m0u/%E3%81%A4%E3%82%93/
タタール人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA
「タタール人とは誰か」
http://www.geocities.jp/dianaura/otayori14/ota14.html
タタールの軛(くびき)
http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/tatar_01.ht

** 扶余  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E4%BD%99
(扶余という民族は今から5000年くらい前から存在しているようです。)

*** 晋
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%99%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
西晋   http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B
(殷→秦の名にちなんで命名された国名らしいです)
司馬懿 http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF
(殷王の末裔)
**** 新羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
(秦からの苦役を逃れて朝鮮半島にやってきたヤハウェ系の人々)

*オロチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81
**オロチョン族
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%97%8F


また、『高句麗』はAD400年代後半頃に扶余に乗っ取られていましたが、A.D.668年に、朝鮮半島東南部の「新羅」と中国の「唐」*のヤハウェ系王朝が協力して「高句麗」を滅しました。

* 唐 ... 漢民族の国とあるけれど、支配者たちは鮮卑人(せんぴじん)とあるのですが、実際は漢人によって開かれた王朝のようです。

ということから、「フツシ」の実父である高句麗のピョンヤンにいる『李生成』という名の「扶余」の族長は、フツシの実兄双子の「アメ」と「クニ」(=ズガ)、異父姉「貴巫女」(=卑弥呼)とその弟「月読命」、そして、異母兄のヤマタのオロチ8人兄弟というこれら大勢の子供の父親のようです。そして、この李生成はフツシの育ての親「フツ」の兄なのだとか。また、フツは貴巫女と月読命の実父でもあるのだとか。どうも日本人の初期の王や女王たちはみなアングロサクソン王族の血を半分くらい引いているようですね。でも、フツシもその兄たちも、貴巫女とその弟月読命も、母親が仏教を信仰する百済の王女(周の民の王女?)だったので立派な人になったみたいですね〜 

それから、奥出雲の稲田姫(イナダヒメ)Jの父「クシ」は、鑪(タタラ)の技術をもった匠(たくみ)の長で、乱暴者のオロチ兄弟にも一目おかれる存在であったということですが、この人たちは、おそらく、ヤペテ系の人で、ヒッタイトたちにアナトリア半島にあったヤペテ系王国『リギア』?『フリュギア』?を征服され、鉄の製造をする鍛冶職人たちは、その技術を必要とされたので殺されずにいて奴隷として(といっても貴重な技術者はそれなりの待遇を受けていたでしょうが)、むりやり引き連れられて移動し、ヒッタイトやツングース系の民族と混血したりしながら日本にやって来たのではないかと推察しているのですが。

それから、四国の大王「稲飯(いなひ)」という人がいますが、B.C.500年くらいに、目は青く、肌は白いペルシャ人がシルクロードを通って百済にやって来て、その後、日向にやってきて、嫌われて四国にやって来たと言っているのですが、この人たちがアングロサクソン王族たちのようです。彼らは、セム系のエフライム(セムの長男)の子孫で、「スサの王」(スサノオノミコトの語源)が率いる「エラム」という国*にいたヤハウェ王族たちをストーカーのようにずっと追っかけています。エラムを逃れたヤハウェ王族たちはインドの「モヘンジョダロ」へ。しかし、アングロサクソン軍団はそこまでも侵略していき核爆弾を投下しインダス文明を滅亡させたのでしょう。さらには中国に逃れたヤハウェ王族たちを追っかけて周を滅亡させ「秦」という統一国家を樹立したが、すぐに、ヤハウェ王族の漢に征服されたので、こんどは朝鮮や日本へ侵略していったのです。「馬韓」や「高句麗」を侵略、日本には徐福船団としてやってきて各地を侵略したのです。

エラム .... http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%A0

★★★★★したがって、日本の王朝は、元々はプレ大和朝廷のヤハウェ系王朝だったのですが、アングロサクソン王族=藤原氏に乗っ取られてしまったのです。しかし、その後もヤハウェ王族の天皇とアングロサクソン王族の天皇の王朝とが何度も繰り返しながらの歴史で、日本の天皇は決して万世一系などではなかったのです。そして、明治天皇から現在の今生天皇まではアングロサクソン王族です。


(修正加筆していたら文章が長くなりすぎたので、「(続5)幕末〜明治維新を駆け抜けた志士龍馬をヤッたのは誰? その2」として続けます。 2014.03.20 )
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by Ulala-lov | 2011-01-19 09:33 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(19)

(1月10日の記事のつづきです。) 

まず、この当時の状況、つまり、西洋諸国のアジアへの進出が活発化し、アジア貿易の急速な拡大、そして、ハノーヴァー朝の仕掛ける戦争によってのアジアの植民地化、1840年代よりインドを手始めとするアジアでの銀行の開設など、これらの状況を大きく世界的な視点でとらえると、そこには、やはり、アジアにおいても、いままでの世界勢力のパターンと同じ、ケルト系とアングロサクソン系の2つの大きな勢力の対立が見えてきます。

もともとケルト系は古代ギリシャのアテネ派のポリスなどのように船を操(あやつ)り商業活動をするのが得意な民族のようです。一方、アングロサクソン系は、もともと騎馬軍事集団で他国をどんどん征服・略奪してきた民族です。彼らアングロサクソン系は、ケルト系のポリス(=都市)や国を征服し、ケルト系民族の多くを虐殺してきました。また、ケルト系の一部の者を奴隷として船を操縦させることにより、騎馬軍団から船に乗った軍団になり、遠くの国まで行き征服・略奪する、つまりバイキング(=海賊)もするようになりました。

さらに、彼ら(アングロサクソン系)は、植民地化する国=仮想敵国(1800年代当時のインド、中国、日本などもそうですが)にスパイを潜入させて、長年にわたる工作活動によりその国をアヘンで退廃させたり、内乱に持ち込んで植民地化するなど、その征服の仕方もだんだんより進化させ、もはや彼らアングロサクソン王族・貴族自身は武器を持たずに、仮想敵国の民同士が互いに戦うように仕向けるようになります。さらには、近年からは、「ハープ」という気象兵器を使って、雷、地震、津波、集中豪雨・干ばつ・極寒・極暑などの気象まで人工的に操り大量殺人をしています。したがって、このような戦争や自然現象を操っての大量殺害の仕掛人、つまり、犯人の姿(=アングロサクソン王族の犯人像)は、わたしたちにはとても見えにくくなっているのです。アングロサクソン王族・貴族たちは、まあ商業もするにはしますが、やはり、一番の特徴は悲惨な悪魔の戦争を起こして、その戦争によって世界中の国々を悪魔的に征服・植民地支配することでしょう。ただし、彼らのやり方は、『シオンの議定書』にも書かれているように自分たちの犯人像を巧妙に隠しながら、徐々に徐々に、まさに水滴を一滴一滴落とすように進めるのです。

★★★このことから、日本の明治維新への彼らの画策もやはり、そのパターンで行われたであろうと考えられます。


<外国銀行の開設>

以下の「英国東インド会社」の主要銀行と思われる「東洋銀行」について書かれています。アドビーからの記事なのでリンクで表示できないので、コピーします。

(以下ごく一部を下記に引用) 〜・〜・〜

<「東洋銀行」(=1842‐1884年)について>
(東北大学鈴木俊夫)

東洋銀行Oriental Bank Corporation(1842年設立の西部インド銀行Bank of Western India が1845年に行名変更したOriental Bank をオリエンタル銀行、その後1851年に同行がセイロン銀行Bank of Ceylon を買収して設立した特許銀行である。Oriental Bank Corporation を東洋銀行と呼称する)は、19世紀中葉から破綻を遂げる1884年までの時期、半世紀弱という短期間ではあったがアジアにおける貿易金融や資本取引において盟主的な地位を占めた最有力の英系海外銀行であった。実際、東洋銀行の最盛期となる。1870年初頭の時点を取れば、アジアに事業展開した主要な英系海外銀行4行(東洋銀行、香港上海銀行、チャータード銀行、チャータード・マーカンタイル銀行)を比較すれば、払込資本金、準備金、配当率のいずれにおいても東洋銀行が勝り、同行の有した圧倒的な金融力の一端を窺い知ることができる。1851年にセイロン銀行を買収した東洋銀行は、「東洋において〔王室の特許状により設立された〕最初の法人銀行」として大いに発展を遂げるが、不幸にして1884年に支払停止に陥ったため、内部経営文書が破棄され保存されることがなかった。(迂回して、その実態に接近したとありますが詳しくは省略)
(1) 東インド会社の送金制度と国際銀行
(2) 東洋銀行の創業と発展
(3) 東洋銀行の衰勢
(4) 東洋銀行の経営破綻の要因
i. 現地貸付ii. 外債発行iii. 銀価格の下落と銀行経営

(以上で引用おわり) 〜・〜・〜

イギリス東インド会社は、1853年に破たんしたものの、1870年代くらいまで残務整理というか細々と経営していたようです。それと東洋銀行の破たん(わざと破たんさせたんじゃ?)もおよそ平行しているような。でも、アングロサクソン王族たちが、その経営実態を知られることを恐れて、資料を全部持ち去って分からないようにしたんでしょうね〜。


<「香港上海銀行」について>

〜・〜・〜
早稲田商学第375号   1997年12月     香港上海銀行の経営戦略(上)     立脇 和夫
<はじめに>
 銀行も企業である以上,設立,倒産,合併は日常茶飯事である。今日のように,金融のグローバル化が進み,競争が激化した時代にあってはなお更である。そうした中で,香港上海銀行(1865年設立,本店香港)は創立以来,連綿として,商号も変えず存続している数少ない銀行である。香港上海銀行は,1866年(慶応2)
に横浜支店を開設しており,今日,日本へ進出している外国銀行中,最古参(?。。。うらら♡現在でも同名で存続しているという意味でかな)である。すなわち,香港上海銀行は幕末開港(1859年:安政6年)後最初に日本へ進出したセントラル・バンク・オブ・ウエスターン・インデイア(1863年横浜支店開設)に遅れることわずか3年であり、以来131年の長きにわたって在日支店を維持している(但し、第2次世界大戦中は中断)。このため,同行の対日活動には,注目すべき事跡が少なくない。

第1表 幕末艦新期に日本へ進出した外国銀行
銀   行   名  横浜支店開設 (銀行設立)
Central Bank of Western India1863年  (1842年、イギリス東インド会社の銀行=英王室ハノーヴァー朝の銀行)
Chartered Mercantile Bank &China 1863年  (1853年、スタンダード・チャータード銀行=英王室の銀行)
Commercial Bank of India 1863年  (1845年、イギリスの商業銀行、アングロサクソン系?)
Oriental Bank Corporation  1864年  (1842年、東洋銀行=西部インド中央銀行と合併、英王室・アングロサクソン系)
Bank of Hindustian, China and Japan Ltd. 1865年 (1862年、アングロサクソン系?、ロンドンで設立)
Hongkong &Shanghai Banking Company,Ltd. 1866年  (ケルト系)
Comptoird’Escompte de Paris 1867年 (フランス)
Deutsche Bank A.G 1872年  (ドイツ、アングロサクソン系、今の米の巨大保険会社「A.G.」の元かな?)
(注)銀行名は日本進出時のものである。
(出典〕立脇和実唯目外国銀行史』日本経済評論社,1987年。

♡うららおばさん
(な、な〜んとこんなに多くの西洋の銀行が幕末期に日本に進出していたんですね〜!)


I 香港上海銀行の創立
 香港上海銀行は,1865年1月,P&O汽船会社(Peninsular and Orienta1Steam NavigatiCompany)のサザーランド(Thomas Sutheriand)やデント商会(Dent&Company)のコムリー(F.Chomley)などイギリス領植民地香港所在の有力英商が中心となって香港で設立されたイギリス系銀行(払込資本金250万ドル)である。当時香港には,すでにイギリス系植民地銀行8行が支店を開設していたが,香港に本店を置く銀行は皆無であり,地元の期待は大きかった。ただし,当時の有力英商ジャーデイン・マセソン商会(Jardine,Matheson&Co.)は自社で為替部門を有していたため,香港上海銀行の創立には参加しなかった。しかし,1877年1月にはジャーディン・マセソン商会も香港上海銀行に資本参加し,ケズウイック(Willam Keswick)を取締役として,同行へ送り込んだ。香港上海銀行は,設立当初,Hongkon Shaghai Baking Company,Ltd と称し、法人組織ではなかった。

[まとめ]
幕末維新期に日本へ進出した外国銀行は,対外決済,銀行券発行,当座預金,手形割引などの業務活動により,わが国金融機関の先駆的役割を果たしたのであり,その歴史的意義は大きい。1866年(慶応2年)に横浜支店を開設した香港上海銀行もそうした役割の一端を担っていたのである。しかも,同行は第2次世界大戦による中断はあったものの,横浜支店開設以来,131年にわたる長期間支店活動を継続しており,その長さにおいて他行の追随を許さない。
 香港上海銀行の経営戦略は,設立当初から積極的であり,対日戦略もその例外ではない。そのことは、同行の積極的な支店網構築に端的に表れている。新通商条約実施(1899年)以前に,日本に4支店を開設した外国銀行は香港上海銀行以外にその例をみない。しかしながら,(注目)☞『幕末期及び明治前期には,日本政府と緊密な関係にあったオリエンタル・バンクが独占的地位を占めており』,香港上海銀行は長らくこれに対抗しえなかった。しかし,1884年(明治17年)にオリエンタル・バンクが破綻するに及んで香港上海銀行が外国銀行のなかで指導的地位を占めることとなる。ところが,その頃には,横浜正金銀行(1880年設立)をはじめわが国の各種金融機関が経営基盤を固めており,香港上海銀行の存在はかつてのオリエンタル・バンクほどの重要性をもたなかった。
 このため,香港上海銀行は,横浜正金銀行等と協力して,日本政府発行の外債引受けなどを通じて日本における営業基盤の強化を図ったのである。第2次大戦中には,敵佳国ゆえに業務の中断を余儀なくされたものの終戦後は占領行政下にいち早く支店を再開した。戦後,政治経済構造の変化により,東京・大阪両支店が日本における業務の中心となり,1973年には由緒ある横浜・神戸両支店を閉鎖し,支店網の整理再編を行った。しかし,1983年には名古屋,福岡に支店を新設するなど,再び意欲的な対日戦略を展開し,注目されている。 香港上海銀行が主要な戦略的市場とみなしてきた中国及び日本がしばしば戦争を繰り返していたにも拘らず,131年閻の長きにわたり在日支牢を維持しえたのは,在日支店が長期的に収益性を持続したことに加えて,同行が健全経営を貫いてきたことに負うところ大であると考えられる。
〜・〜・〜

それから、わたしが、昨年 2010.11.08に書いた記事(下記のサイトアドレス)にも江戸末期〜明治期の英国の銀行「RBS」(=ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド=英国ハノヴァー朝の銀行)と日本の関係についてちょっと書いていましたので参考のためご覧ください。この銀行は「スコットランド銀行」とは違います。

「チャールズ皇太子&カミーラ妃 ≒ アイゼンベルグ&シャンド家」
(その後、アイゼンベルグが「シャンド」として来たのが初来日ではなく、1851年に「ジョン万次郎」として日本に漂着していたと分かりました。あくまでも私の推察ですが。)←訂正2014.04.23:アイゼンベルグたちは、もっともっと前の太古の昔からUFOに乗って日本に自由自在に出入りしています。


★★★つまり、1840年代から、ジョゼッペ・マッツィーニやアイゼンベルグたちは、インドのイギリス・アングロサクソン系銀行→中国広州→日本へと資金を送ってもらっていたのでは? (また、西南有力藩の藩主の家系を乗っ取っていたから、藩主を自在に操ってお金を出させることもしていたかもしれません。)

★★★そして、1963年以降は、横浜に、外国銀行が次々に開設されています。中でも、「東洋銀行」や「チャータード・マーカンタイル銀行」や「RBS」(=オランダ東インド会社を追い落として、その銀行を引き継ぐ)など ’ハノヴァー朝・アングロサクソン系の銀行が多く開設’されており、『ジョゼッペたちは、より潤沢な資金を得て明治維新の革命を起こす活動ができたのではないでしょうか? また、オリエンタル銀行が幕末期の幕府や明治維新政府とも密接な関係があったとは驚きです!』  一方、ケルト系の「香港上海銀行」が日本に進出したのはアングロサクソン系銀行より、やや遅れて1865年以降ですし、「グラバー」がやって来たのも、1859年とジョゼッペやアイゼンベルグに比べればかなり遅いのです。

★★★このようなことからも明治維新を画策したのが、アングロサクソン王族たちであっただろうという疑いを払拭(ふっしょく、ぬぐいさること)することはできません!!



(つづく)
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by Ulala-lov | 2011-01-15 11:15 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(1)

(1月7日の記事のつづきです。) 


前回の記事を書き終えた後、たまたま、映画「長州ファイブ」をDVDで見たのですが、それで、新たにいろいろな発見がありました。とくに、「尊王攘夷」と称して、実際に行われていたことは外人たちを斬り殺したり、洋館を焼き討ちすることだったようです。(1954年のペリー来航以後、数年の後には、幕府が西洋各国と通商条約を結んだことにより外国人の来日が自由になり外国人居留地*ができていました。)

下田は、現在の横浜です。神奈川宿では、横浜村(横浜市中区)が居住区となっていたそうです。それで、「生麦事件」**も生麦(横浜市鶴見区)で起きたのです。

外国人居留地

** 生麦事件
(これは、おそらく、アングロサクソン王族派の策略で、島津の大名行列の通知がケルト系の外人など、彼らの邪魔になる外人たちには知らされていなかったのでは?)

映画「長州ファイブ」のあらすじ

長州五傑

長州ファイブ1

まず、最初の冒頭のシーンは、1862年に、長州藩の上士(上級武士)高杉晋作が若い下士(下級武士)たちを先導して、神奈川の横須賀に新築中の英国公使館を焼き討ちにいく場面でした。その直前まで、若い藩士たちは芸者をあげて遊んでいます。どこからこんなお金がでているのでしょうか?
(アングロサクソン王族ネットワークの秘密結社からでしょうかね〜?高杉はその金を困窮している下級武士にばらまいて手なずけたんでしょう。今、創価学会や統一教会など多くの新興宗教でも同じようなことをして何でも言うことを聞くゾンビ集団を作っていますからね。だから、雇用をわざと悪化させるよう政府を操っているのも彼らなんですよ。)


高杉晋作

高杉晋作は、「1862年、薩摩の五代友厚らと幕府随行員として中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して帰国、大きな影響を受けたらしい。そして、勤王・破約攘夷(=不平等通商条約の破棄と四口貿易船以外の外国船の排除)の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。また、攘夷急進派で、1864年に脱藩して京都に行ったり、また、長州に戻って謹慎処分になったりしている。」とあります。

そして、ウィキの高杉晋作の写真を見て、びっくり!ジョゼッペや後藤象二郎(=近藤勇)によ〜く似ているのです!!ジョゼッペの他の長州で作った子供かもしれませんが。。。同時期に新撰組の近藤勇とふたりの人間を演じていたのでしょうか?まあ、新撰組の活動が始まる1864年くらいから、高杉晋作は謹慎させられたりしてあまり活躍していないみたいですから。。。可能だったのかも?でも、1864年の下関戦争の後の下関条約締結時には、交渉人としてイギリス、フランス、アメリカ、オランダとの講和会議に出席していますが、ただうなずいて全ての要求を受け入れたということです。(ほら〜、やっぱり、あちらのスパイです〜) 「いったい何の交渉したんじゃい?!」と、ツッコミを入れたくなります。

また、佐久間象山(=ジョゼッペ)も’エロじじい’で、登場してます。外国から軍艦を買っても、それを操縦できる人間が日本にはいないということです。だから、外国に行って学んでこいということらしいです。まあ、この辺は正しいことを言ってはいますが。。。(その後の策略というのは、彼らを操って日本を植民地支配しようするものです)

他にも、ちょっとエロい場面があるのですが、それは彼ら下級武士は、お金も権力も全然なかったので嫁の来てもなかったということらしいのです。

そして、長州藩主の毛利敬親(もうりたかちか、1819〜71年)*は、重臣「長井雅楽(うた)」**の「彼らを生きた機械として帰国させ日本の発展に貢献させましょう」との進言によりしぶしぶ暗黙の了解をして、英国留学費用をだします。しかし、当時は海外へ行くことは禁止されていましたから(発覚すれば打ち首)、内密の留学なのでその費用はものすごく少額だったため、彼らは必要な費用の多くを借金で工面して、なんとかお金を調達します。その時に、留学の手配をしたのがジャーディン・マセソン商会だったようです。

* 高杉晋作 1
** 高杉晋作 2
   高杉晋作 3
(吉田松陰=アイゼンベルグ=アルフレッド・アルバート=ジョン・万次郎=アレキサンダー・シャンドなので、
アングロサクソン王族は、古代から、戦略として敵方の国民性をつぶさに研究してさまざまな陰謀をしかけている。だから、松蔭の若い武士たちの懐柔策もとても上手なはずです。そして、攘夷に関してもさまざまな詭弁を使って長井雅楽の「航海遠略説」を蹴落として長井を切腹にまで追い込んだものとみえます。)


また、この毛利敬親は、毛利斉広(なりとう)**の養子であり、斉広自身は、わずか20日足らずの藩主であり、23歳の若さで死去しています。この敬親(たかちか)の藩主就任劇もほかの有力な南西諸藩と同じく怪しい暗雲が漂っています。(要するに、なんだか陰謀に満ちた乗っ取りっぽい後継者交代ですよ〜 )それに、そもそも、あのアングロサクソン王族スパイの御三家(ごさんけ)がこの時期に同時に長州藩にそろっているということからしても藩主「毛利敬親」もかなり〜怪しそうです〜!(つまり、側室としてアングロサクソン王族[相手には悟られないようにして]の血筋の女性を輿入れさせて出来た子で、アングロサクソン王族の血の混ざった人間かも?)

** 4


ところで、長州藩というのはかなり有力な藩で、もともと、江戸時代になる前には200万石ぐらいあったのです。ところが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、江戸幕府になった当初には40万石以下に減らされたのです。しかし、その後、また盛りかえしてきて、幕末には、な、なんと〜100万石ぐらいだったらしいのです〜。

長州藩 ウィキペディア

上のサイトを見ても分かるように、長州藩は、関ヶ原の戦いによるいざこざなどから、もともと反幕感情の強い藩ではあったようです。  しかし、幕末期に、敬親(たかちか)ではなく、本来の毛利家主流の血筋に順調に藩主が継承されていたら、長州藩の動向も随分と違っていたかもしれません。少なくとも、藩主が加担していなければ、あの松蔭(=アイゼンベルグ)や久坂玄端(=ジョゼッペ)や高杉晋作(=後藤象次郎)の御三家が長州藩に潜入することも難しかったと考えられますし、彼らが藩の中心勢力となっていくこともなかったと思われます。つまり、敬親(たかちか)は、彼らの正体をちゃんと知っていて、(自分もアングロサクソン王族の血をひいているので)、ほぼ言いなりになっていたと考えられます。


<< 西洋諸国によるアジア貿易とアジアの植民地化 >>

ところで、その当時のアジアの状況はといいますと、西欧列強がアジアでの貿易の振興を図るとともに、植民地銀行の開業も進めるなど、アジア諸国の植民地化がちゃくちゃくと進んでいたのでした!! しかし、これは、実は、アングロサクソン王族たちの今と変わらぬ自由貿易推進路線なのだそうです。それに、従わせられながらも、密かに対抗していたのは、ご存じヤペテ系民族=ケルト系民族たちの保護主義的貿易推進派です。これが、イギリスでいえば、スコットランド系の人たちということでしょうか?

しかし、わたしもDVDで「ロブ・ロイ」という映画を見たのですが、英王室がハノーヴァー朝に変わってからの18世紀のスコットランドの惨状は、ひどく痛ましものでした。悪魔教信者たちがスコットランドのクランたちを破滅させようといろいろな悪巧みを仕掛けていく様がよく描かれていましたよ。ですから、イングランドのアングロサクソン王族たちに騙されたり、破産させられて、しかたなく、悪魔教信者の従僕になっていったクランの王族や貴族もけっこういたと思われます。。。しかし、北アメリカ大陸の新天地へと逃れていった者も多かったとか。彼らは、極寒の気候でも順応できるので、インディアンとは戦争にならないような寒冷な地(カナダとか、アメリカの北部)を選んで開拓していったのではないかと思われます。インディアンを襲撃して領土拡大を図ったのは、主にアングロサクソン王族たちだったのではとわたしは推測しています。(もちろん、アメリカやカナダの人たちはご存じでしょうが)

ただし、スコットランドの貴族と一口に言っても、かなり昔から、スコットランドに領地を得てイングランドから移住してきたブッシュの祖先=パーシー家のようなアングロサクソン貴族もいますので、要注意です。そのパーシー家などは、1600年代初頭、あのガイ・フォークス事件(=スチュワート王朝のジェームズ1世の時に議会を爆破しようと企んでいたが事前に発覚し関係者が逮捕、処刑などの処罰をされた事件)の後、逃亡し、あのメイフラワー号に乗ってアメリカ東部ニューイングランドに上陸したらしいです。清教徒といっても、結局、キリスト教原理主義という、ハルマゲドンを待望し、破壊(=戦争)を肯定する恐ろしい悪魔教なのです。彼らがインディアンの虐殺(=アングロサクソン王族の他民族の人種絶滅作戦の一環)を行いながら、西部開拓を進めていったのでした。英国本国が、それ以上のインディアンの虐殺を止めるために新しく法律を制定したので、アメリカのアングロサクソン王族たちが独立戦争をおっぱじめたのだとか。(あっ、ちょっと話が横道に逸(そ)れてしまいました。スミマセン!)

* ガイ・フォークス ウィキペディア



まずは、英国東インド会社によるインド植民地支配に関してのおおざっぱな概略史から見てみましょう!

イギリス東インド会社による植民地支配(1600〜1858年): 〜インドチャンネル

(以下引用)
貿易にとどまらず、東インド会社が事実上インドを支配する体制を作るきっかけとなったのが、1757年のプラッシーの戦い(これは、英王室がドイツのハノーヴァー朝(=アングロサクソン王朝)になった後であることに注目!)です。クライブ率いるイギリス軍はフランスとベンガル太守の連合軍に勝ち、これ以降東インド会社の支配は確定的なものとなりました。イギリスがインドを統治するために使った方法は、インド国内に数多く存在した藩王たちを互いに反目させ、分裂を促すというものでした。また、職種により細分化されるというインド独特の社会システムも、植民地支配を深めるために大いに活用されました。



次に、英国東インド会社HPより、前のものよりやや詳しい貿易や植民地化の歴史の概略を見てみましょう!

英国東インド会社ホームページ「インド館」〜歴史資料室 リンク先〜『東インド会社小史』

(以下引用)
1599年、オランダ人ファン・ネックが大規模な商業航海に成功し、大量の胡椒を東洋から直接 オランダに持ち帰り、莫大な利益を上げました。このニュースは、レヴァント(地中海)貿易に携わってきた ロンドンの商人たちに、大きな衝撃を与えます。早晩、レヴァント貿易が成り立たなくなると考えた 彼らは、自分たちの手でインドと直接交易するための貿易会社を設立したのです。活動の中心と なったのは、イギリス・レヴァント会社総裁トーマス・スミスほかロンドンの有力商人達でした。
 彼らの会社はエリザベス女王(1世)から東インド貿易に関する独占特許状を与られ、1600年12月31日、 『イギリス東インド会社』として発足しました(正式名称はロンドン東インド会社)。 これは、独占権を有する東インド会社としては世界初(オランダが1602年、フランスが1604年)のものとなります。

♡うらら。。。つまり、この会社は英王室と深くかかわっている会社ということです。

(以下引用)
1612年、会社の艦隊が数に勝るポルトガル艦隊を撃破するという出来事が起こります。この事件は、 アラビアとの通商・巡礼路の確保に頭を悩ませていたジャハーンギール帝に強い印象を与え、皇帝は 会社に対して貿易契約とスーラトに商館を設置する権利を認めました。これにより、スーラトの後背地 グジャラート地方で生産される綿織物が、会社の主要な取引品目として浮上してきます。
会社が輸入したインド産綿織物(キャラコ)は、その高品質と低価格故にイギリス国内でのシェアを 一気に伸ばしました。17世紀末から香辛料貿易が衰退し始めた事もあいまって、会社による綿織物輸入量 は増大し続けます。



♡ うらら。。。以下のあたりから、アングロサクソン王族による潜入攻撃が始まってきたような感じです!

(以下引用)
組織を確立した会社は、巨大企業に成長しますが、1680年代になると、ジョサイア・チャイルド(♡ドイツのハノーヴァー公の代理人か? = ロスチャイルドか?)ら 会社幹部の専横が目立ち始め、会社の独占体制を疑問視する声も大きくなってきます。1688年、名誉革命によって 会社と関わりの深かった国王ジェームズ2世が失脚すると、会社に反対する人々は議会で 新会社結成のための運動を展開、1698年には「新東インド会社」が設立されました。
1709年には合併が成立して「合同東インド会社」 が誕生します。会社幹部の暴走を抑えるため、この合同会社では、全ての株主が参加できる株主総会に大きな権限が与えられました。この「合同東インド会社」が1858年の解散まで続く 「イギリス東インド会社」となるのです。



♡うらら。。。1714年に、ドイツのハノーヴァー家からジェームズ1世(=アイゼンベルグ本人か、レア本人か、あるいは、そのクローン子孫 * )が渡英し、英王室『ハノーヴァー朝』が始まります!! 実質、ドイツ・アングロサクソン王族の英国の乗っ取り完了! 東インド会社もハノーヴァー朝にじょじょに乗っ取られていき、その影響により植民地戦争をバンバン始めるようになります〜

* いつも、言っていますように、重大な場面など本者が望む時にはではいつでも本者(レアが最高の人工知能をもつ、おそらく、アイゼンベルグ(男、オス)はスリーシスターズの次の4番目に高い人工知能)がクローン子孫やクローン代理などにとって変わるのです。

(以下引用)
1750年、南インドでカルナティック戦争が勃発しました(〜1754年)。この戦いで勝利を収めた会社は、 さらに1757年、インド北東部でもフランスと手を組んだベンガル太守の軍をプラッシーの戦いで破り、インドにおける 英国の優位を確立します。
★★★
この後1764年、ベンガル奪還を企てる太守軍をブクサールの戦いで退けると、会社はムガール皇帝から ベンガルとその周辺地域の地税徴収権(ディーワーニー)を与えられます。これにより、会社は単なる 貿易業者の枠を越えて、政治的支配者としての性格を持つようになるのです。

↑ ♡うらら。。。こっそりと、しかし実質、ハノーヴァー朝の支配下に=国営に近い存在になったのです。

★★★★★
 政府による会社の監督が強く求められた結果、1773年に 「ノースの規制法」が、1784年には「ピットのインド法」が制定されて、以後インド統治に政府が積極的に介入する事になりました。 これらの法により、インドの統治は議会の任命する総督とインド評議会によって行われることとされ (ただし、総督・評議員の人事権は会社にもある)、会社は行政・軍事・財政について英本国の担当大臣に 報告する義務を負う事になります。
 会社は産業資本家の意を受けて、インドにイギリス商品の市場を開拓し、これを原料生産地に 変えようと努めます。市場拡大のため、会社は軍事力による強引な併合政策を推進、特に総督 ダルフージ(在任1848〜1856)の時代にシーク戦争やビルマ遠征を敢行し、鉄道や電信網の 整備と相まって、インド亜大陸のほぼ全域を支配下におさめることに成功しました。

 1857年、会社軍に雇われていたインド人傭兵 の蜂起を契機として、全インドを震撼させた「セポイの反乱(インド大反乱)」がおこります。この事件は、会社による インド支配が完全に破綻した事を世に示す結果となりました。1858年8月、イギリス議会はインド統治法を制定し、 会社の植民地行政機構をインド大臣の手に移管する事を決定します。これを受けて1858年9月1日、 イギリス東インド会社は解散し、258年の歴史に幕を下ろしたのです。



↑ ♡うらら。。。乗っ取っていた東インド会社を使って完全にインドを支配下に治めた後は、東インド会社は "ご用済み" でお払い箱に!(つまり、1700年中頃からは、英王室「ハノーヴァー朝」により、さんざん「ダーティー・ハリー」役を押し付けられた会社だったということに。

★★★そして、1877年、ついに、「ハノーヴァー朝」がインドに君臨したことを高らかに、堂々と誇示するように、『ヴィクトリア女王』が、『インド女帝』として戴冠したのです!!

というのが、アジアでの、特に、インドでの英国の植民地化に関しての概要でした〜。他にも、東南アジア諸国や中国にも活発に進出し植民地化していったのです。中国も、「アヘン戦争」*などで分かるように、想像を絶するような悲惨な状況になったことはすでに多くの人の知るところです。

「アヘン戦争」

この上のサイトは、以前はかなり真実味のあるサイトでしたが、最近は、アングロサクソン王族側サタニストたちに乗っ取られてしまったようで、肝心なところはかなりウソが入っています。まず、サッスーン家は、バクダッドの(おそらくバビロニアから伝わる?)スファラデイム系ユダヤということは、「バビロニア王国」は最初はシュメール(おそらくセム系ユダヤ=ミズラヒム)の王国だったと思われますが、ハンムラビ王くらいの前後に、このヒッタイトと思われる種族に征服され王国を乗っ取られています。名前は同じ「バビロニア王国」のままですが、王族や戦士、市民など中身はすっかり入れ替わっているはずです。(←これは歴史本「古代メソポタミアの神々」から得た知識です) それで、ヒッタイトのいつものパターンで、以前いたシュメール人*はほとんど殺されたことでしょう。(有能な人や一部の労働者が奴隷として残された以外は。)★しか〜し、私の勘では、聖書の「ニムロデ」(クシュの子となっているがウソじゃ?)というのは、実は、「カナン」(エジプト王の兄クシュを虐殺した)のことで、彼が「バビロニア王国」を征服したのではないかと。。。聖書が改ざんされているような気がします)また、ずっと後の「新バビロニア王国」は人間(シュメールというのはアングロサクソ脳族が自分たちの名前を歴史書において人間に付けてしまったのだとか:悪い事しすぎてるので人間に罪を押し付けるため?)の王であるネブカドネザル2世が建国したです。

シュメール人(ほんとうは『人間』というのが正しいみたい)....私の推測ですが、ノアの長男セム、そのまた長男の「エフライム」の子孫のことなのではないかと。それが、「カナン」に征服され、東のペルシャ地方南部に逃れ、「エラム」*(首都スサ)を建国、さらに、カナンの子孫=ヒッタイトに征服され、ストーカーのようにしつこ〜く追っかけられてモヘンジョダロに逃れて王国を築いて、インダス文明を、さらに、シェバかヒッタイト、あるいは両方にコンビで征服され、中国に逃れ、秦王国を築き、さらにそれも征服され、朝鮮半島に逃れ、高句麗・百済を、さらに征服され、日本に逃れて、大和王国?を築いたのかな?

エラム ウィキペディア

このメソポタミア地方はその後、何回かの戦争でアッシリアやペルシャにも征服されていますが、おそらく、トルコ帝国を経て(トルコ帝国を操っていたのも彼らかも?)、最終的に、このヒッタイト(=スファラディム・ユダヤ)たちは経済を牛耳るなど影で国を操る支配者として残っていったと考えられます。

ですから、サッスーン一族(トルコ系スファラディム・ユダヤ)は、ロスチャイルド一族(アシュケナジム・ユダヤ)とはユダヤ民族(ノアの子孫を指すとした場合)といっても、根本的に系統の違う一族であり、ロスチャイルドとはサッスーンの中国支配の後年に、おそらく金融の関係でつながりができた後、婚姻などにより親戚となったのではないでしょうか?(強制的に婚姻させられた?) また、サッスーン一族は、第二次世界大戦頃に、アイゼンベルグ(=アングロサクソン王族=英国ウィンザー朝アルフレッド・アルバート=喜多誠一として関東軍に在籍)によって一族を全員殺害されてしまい、アヘンの利権を奪われたということです。同じスファラディムの中でも利権を奪う争いがあるのでしょうか? しかし、これは、ブッシュ一族、ラッセル一族、つまり、ウィンザー朝アングロサクソン王族の部下たちが世界のアヘンを牛耳っていることからも事実でしょう。

また、「ジャーディン・マセソン」は、わたしの推測では、おそらく、英王室がアングロサクソン王族「ハノーヴァー朝」に変わったため、それ以前に東インド会社の幹部だったケルト系王族・貴族たちは徐々に排斥されて、その排斥されたケルト系の幹部たちが新しく始めた会社なのではないかしら?と思います。最近、この「ジャーディン・マセソン」と、「トーマス・グラバー」に関するネットでのサイト、ブログの情報は大ウソが書かれているようでほとんど信用できません。(最近見たビートルズに関するサイトやブログも同じような感じで大ウソに満ち満ちていましたが。)


アヘン戦争(1840〜42年)    
(これは、以外とツッコンで書いてあります)
アヘン戦争
(イギリスは勝利し、清は南京条約により、広州など5港を開港し、香港を割譲し、公行(特許商人組合の貿易独占)の廃止、多大な賠償金などを約束する。)

アロー戦争
(この戦争にイギリスが勝利し、北京条約でアヘン貿易を公認する。)

「ジャーディン・マセソン」は、1832年?(本当は、もっと以前1700年代後半くらいに設立されたような気がします)に、『イギリス東インド会社元船医で貿易商人』の「ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンにより、中国の広州に設立された!

横浜開港資料館〜文明開化をのぞいてみれば・・・  B1  海岸通とフランス波止場

英一番館

やはり、この頃、中国で、アヘンを取り引きしていたのは、サッスーン一族であり、おそらく、ハノーヴァー朝の経営する「英国東インド会社」と手を組んでいたものと思われます。なので、「ジャーディン・マセソン」は、おそらく、アヘン以外の銀、紅茶、絹、兵器、軍艦などを取り引きしていたものと思われます。

(つづく)

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by Ulala-lov | 2011-01-10 00:15 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(4)

(2011.01.04の記事のつづきで〜す!)


山内容堂
http://homepage3.nifty.com/mrbfkisami02/page030.html

そして、上のサイト「山内容堂」の第3章の「風雲」 のところのさらに先を読み進むと、
(引用)
1860(万延元)年3月3日、「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されたのだ。これによって幕府の威信は地に落ちて、主に薩摩、長州から”尊王攘夷の志士”が出現した。土佐藩も例外でなく、武市 半平太(瑞山)が土佐勤王党を結成した。土佐藩の武士階級は、二極構造になっていた。つまり関ヶ原以前から山内家に仕えていた「上士」と、旧国主・長曾我部家家臣の「郷士」である。郷士は、藩政に参加する資格がなく、差別的な扱いを受けた。その差別をさらに徹底的に推進したのが、吉田東洋であった。坂本龍馬は、そんな藩の体質に嫌気して脱藩した。が、武市は東洋を暗殺し藩政の実権を手中に収めた。それだけでなく、上洛し岡田以蔵らを使って佐幕派の要人を暗殺せしめ、土佐を薩摩、長州に並ぶ勤王藩に成長させた。
(引用おわり)

上には、「武市は(吉田)東洋を暗殺し藩の実権を手中に収めた。」とありますが、実は、東洋=ジョゼッペは死んでなどいなくて、前から何度も言っていますが現在も生きています。ということは、ジョゼッペは暗殺されたのではなく、武一に蟄居または投獄させられていたということでしょうか?実は、これは、ジョゼッペには新たなスパイ活動をするために長州藩に行ったからなのです。そこで、松下松陰=アイゼンベルグと落ち合い、ジョゼッペは「久坂玄端」*という青年になりすまして過ごします。その後、ふたりは共に京都へ行き、松下松陰は「真木保臣」**という人物になりすまし、「久坂玄端」=ジョゼッペ(=佐久間象山としても時々活躍)と共に学習院で、攘夷派として時事の建言*をするために出仕し、朝廷に影響力を持つようになっていったとか。(つまり、朝廷には身元を明かしていたのでしょう) 
*建言... 役所や上司に意見を申し立てること。

久坂玄端(=ジョゼッペ・マッツィーニ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E
** 真木保臣(=アイゼンベルグ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E5%92%8C%E6%B3%89
(靖国神社の成立に大きく影響を及ぼした人物とのこと)


しかし、1861年に、アメリカで南北戦争がぼっ発していたため、「真木保臣」こと、松下松陰=ジョン・万次郎=アイゼンベルク=アルフレッド・アルバートは、そちらの戦線を指揮するため、1863年に亡くなったことにして、アメリカに行ったのでしょう。そして、「アルバート・パイク」として1861年までアメリカの南軍を陰から操っていたのです。
(結局、南軍は敗北します。なので、北軍、つまり、ヤペテ系[=ケルト系]が勝利したので、その後、日本はアメリカに植民地化されていたわりには、かなり良い状況であったのではないかと思われます。南軍[=アングロサクソン系]が勝っていたらこうはいかず、もっと早く第二次世界大戦当時のような悲惨な状況になっていたかもしれません。)

それで、その間は日本や東洋全体の管理・画策をジョゼッペ・マッツィーニがひとりで行わなければなくなったのでしょう。1864年に、またしても、ジョゼッペ=久坂玄端は「禁門の変」で戦死したことになっています。今度は、誰に?

池田屋事件(1864年7月、新撰組が長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派を襲撃した事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

八月十八日の政変(文久3年8月18日=1863年9月30日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5
%85%AB%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89

禁門の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89

どうも、新撰組の土方歳三がそうかも? そして、近藤勇が後藤象二郎かも?

土方歳三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E6%AD%B3%E4%B8%89
ジョゼッペ・マッツィーニ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%83
%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A3
%E3%83%BC%E3%83%8B
佐久間象山(1811〜1864年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1

近藤勇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87
後藤象二郎
http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/gotou/gotou01.htm

★ジョゼッペと象二郎は、親子なんですよね〜!  

ところで、上の池田屋事件のサイトの下のほうを見てください。右側の池田屋跡のパチンコ屋さんの石碑の上に「新撰組」の記章である『誠』の旗が掛かっている写真がありますよね。なぜ、誠なのか、おそらく、普通に考えれば、誠を尽くして天皇に仕えるとかって思うでしょ。でもでも、この’マコト’っていうのは、エチオピア帝国の皇帝メネリク2世の父親であるシェア王(ネグ)の「ハイレ・マラコト」の『マラコト』からきていると考えられます。

つまり、シェア王はシェバ王からかな? でも、それは、元々は「ヌビア王」のことでしょう。ヌビアをハム系シェバ人がかつて統治していて、そこへ、イエメンからアラビア系集団(セム系シェバ=ハガルの子孫+ハム系カナンの子孫などが混血している。)*が乗っ取った王国がシェア(シェバ)=スーダン、コンゴ(=ザイール)、そしてエチオピア、(他にも?)だと思われます。

* 他に、アラビア半島南部のセム系ヨクタンの子孫が乗っ取られているけど、奴隷にされたのかも? 

★★★なので、「マコト」が記章になっている「新撰組」は、アングロサクソン王族側の日本秘密結社から派生した組織ということになるでしょう。もちろん、上層部の一部の人しかそんなことは知らなかったのでしょうけれど。明治維新という日本植民地化革命を起こす策略をたて、尊王攘夷派にも、佐幕派にも、公武合体派にも、どれにも等しく、彼らはスパイとして暗躍したり、堂々と先導したりしていたということになりませんか?!  どのグループも自分たちが中心になって先導しているので動きを正確にとらえられるし、自分たちの思いどおりの方向へ政局を誘導できるのですね。 スゴいですね〜!(感心してる場合じゃないのですが。。。〜〜;)

しかし、アメリカで北軍が勝利したために植民地化というのは、かなり薄れてしまったのでしょう。でも、アングロサクソン王族は、また、盛りかえしてきて、日露戦争、日中戦争、第一次・第二次世界大戦と日本を世界での戦争に引き込んでいきます。第一次世界大戦で、また、優位を得たアングロサクソン王族は、またヤペテに優位となり、日本は、アングロサクソン王族側のダーティー・ハリーの役目を担わされたのではないかと思われます。つまり、世界で彼ら2つの勢力がいつも戦っている状態にあるようです。でも、ヤペテ系が戦いたいわけではなく、アングロサクソン王族系が常に戦いを仕掛けて来るので、やむおえず対抗しているという感じがします。

<あっ、ちょっと話が横道にそれすぎてしまいました!(大事なことではあるけれど) もとの話にもどりま〜す>
テクマヤコン、テクマヤコン〜元にも〜どれ〜!!


そして、井伊直弼が暗殺された後、島津久光は、1000人の兵を引兵上京し、朝廷からの勅使を出させることで幕政の改革を押し進めようとはかった(文久の改革)。この時に、土佐藩の山内容堂など安政の大獄で罪人とされていた人たちの処分が解除されました。また、久光は、自身が自藩の尊王攘夷派を粛正してたとウィキ等には書いてありますが(寺田屋事件①*)。この寺田屋事件からも、久光は幕政の改革と公武合体派であったとウィキなどに書かれているのはウソで、実際は、彼ら藩主たちが尊王攘夷の言い出しっぺであり、にもかかわらず(しかし、彼ら藩主たちの本音は、開国・討幕派であるのですが)、朝廷の命により尊王攘夷派の志士たちを粛正したのです。
* 寺田屋事件①....寺田屋は薩摩藩の常宿になっていた。
http://www.ryomaisback.com/dekigoto/teradaya.html

文久の改革
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/bunkyu.html
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai4.htm

島津久光の行動
http://okwave.jp/qa/q4604804.html


島津光久と同じく、前土佐藩主山内容堂も同じく自藩の尊王攘夷派=「土佐勤王党」の志士たちである「武市半平太」らを拷問し、切腹、処刑などの処罰をしています。

上のサイト「山内容堂」の第4章「断罪」のところには、
(引用)
会津と薩摩が手を結び、1863(文久3)年8月18日の政変で長 州藩と長州系公卿を京都から追放した。長州は、翌年6月「池田屋事件」*で要人を喪(うしな)い、その報復に引き起こした「禁門の変」も会津・薩摩を中心とする幕府軍に敗れ去り、第1次長州征伐にも敗北し幕府に恭順せざるを得なかった。尊王攘夷は影を潜め「公武合体」の世になったのだ。(これに気を良くした?)*のが容堂である。容堂は、武市の息のかかった重役を一掃して親政を行い武市一派を逮捕した。武市は切腹、以蔵は斬首と決定した。

*これに気をよくするはずがありません。なぜなら、容堂は決して公武合体派などではありませんから。最初っから倒幕派で開国派なのです〜。「これを利用した」っというのが正しいのでは?
* 池田屋事件   http://www.ryomaisback.com/dekigoto/ikedaya.html
(引用おわり)

武市瑞山(=武市半平太)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%82%E7%91%9E%E5%B
1%B1
(ゆるせや、ゆるせやと容堂が言ったとか多分ウソでしょう。ウィキにはそういうサタニスト側の心証を良くするために都合の良いことがちょこちょこ書かれています。なにしろ悪魔崇拝者ですから甘くみてはいけません。)

ということで、なんだかんだと言ってご勝ってな藩主様たちなのです!もちろん、アングロサクソン王族の手下スパイですから。自分たちの邪魔になる者(つまり、尊王攘夷派になるような賢い人間)たちを自分たちが中心になって声かけして集め殺してしまう、または、社会的に葬り去るというのは今も昔も彼らサタニストたちのやっていることです。優秀で、かつ、忠義を尽くすような人間は彼らの手下としてふさわしくないし、邪魔になるので消す!ということです。そして、サタニストたちの言いなりに操れるスネに傷のある者のほうが彼らの手下として都合がよいということなです。

1860年以降、薩摩、長州、土佐と尊王攘夷がさかんになっていましたが、1863〜4年にかけての「下関戦争」*、「薩英戦争」**で状況が一変し、攘夷派(今までどおりの鎖国派)は開国派に変わりこの点での争いはなくなります。それで、残る争いは、討幕派と公武合体派の2派により起きます。
* 下関戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E8%89%A6%E9%
9A%8A%E4%B8%8B%E9%96%A2%E7%A0%B2%E6%92%83%E4%BA%8
B%E4%BB%B6
** 薩英戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89



また、「山内容堂」ー第5章「逡巡」(しゅんじゅん)*のところには、
*決断できないで、ぐずぐずすること。
(引用)
長州藩では俗論(佐幕)派が実権を握っていたが、高杉晋作が奇兵隊を率いてこれを退け、 桂小五郎(木戸孝允)を藩政の中心に据えた。翌(1866)年1月、坂本龍馬の仲介で極秘裏に 「薩長同盟」が成立した。幕府は第2次長州征伐を発したが、もちろん薩摩は動かず、諸藩の足並みも揃わなかった。6月、戦端が開かれたが、長州は大村益次郎の指揮で幕府軍を各地 で撃破、7月、将軍・家茂の急死もあって幕府軍は敗退。幕府の威信は益々落ち、時代は一挙に「倒幕」に傾いた。

容堂は頭が痛かった。薩長の敵に回って「朝敵」にされるのは嫌だっ た、しかし大恩ある徳川氏を討つことは出来ない・・・。四賢候(松平春嶽・島津久光・伊達宋城 と容堂)の立場を生かして必死の抵抗を試みたものの、時流に抗う不可能を自覚せざるをえず、酒量が増えた。

平和主義者 の龍馬は、犬猿の仲の薩長の手を結ばせたのはいいが、その両藩が急速に「武力倒幕;に傾 いていくのを苦々しく思っていた。1867(慶応3)年1月、土佐藩参政・後藤象二郎は龍馬を利用価値有りと見て接近した。かつての盟友、武市と以蔵を死に追いやった後藤の接近に、龍馬の胸中は複雑だったかも知れない。だが、薩長を牽制するため土佐藩を後ろ盾にする現実の利益が優先した。6月、龍馬は後藤に「船中八策」を提示し、容堂候をして第15代将軍・慶喜に「大政奉還」の建白をさせて欲しいと提案した。容堂はこの提案に飛びつき、後藤と龍馬の奔走もあって、10月14日、「大政奉還」は実現した。
(引用おわり)

つまり、容堂は、どっちつかずで、いい顔をしておけば、安泰だからという計算だったんじゃないかな?でも、その下心は、討幕ですよ〜!秘密結社の言うことさえ聞いていればいいってことだったのでしょう。なんだか、ブッシュ・Jr.みたいな人ですね〜 (この方も、アルコール中毒患者だったみたいですし。今もそうなのかも?でも、それだけ、まだサタニストに従うのがつらいってことですかね? とすれば、ブッシュ・シニアに比べれば、まだまだ、ましなのかな?)

やはり、後藤象二郎は、龍馬に1867年に急接近していたんですね〜それで、大政奉還にもふたりで尽力し、容堂は、後藤がサタニストたちの秘密結社の高位のメンバーだから、ちゃんと言うことを聞いて慶喜に進言したのでしょうね(このあたりは、形式的なものでしょう)。そして、慶喜は、父親の佐久間象山=ジョセッペの言うことを聞いて大政奉還*を実現したということでしょうね。結局、彼らの本心が、開国・討幕だったということがよく分かりますよね〜! なのに、武市半平太たち勤王党を惨殺したりして。。。

* 大政奉還
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A5%89%E9%82%84


「山内容堂」ー第6章「勝負」には、

(引用)
土佐藩は薩長の上に立った。1ヶ月後、龍馬が暗殺される迄は・・・。 主導権を奪い返した薩長は、前将軍・徳川慶喜に「辞官納地」を迫り、「王政復古の大号令」を 発する会議を開催した。時は1867(慶応3)年12月9日、いわゆる「小御所会議」である。中山前大納言が「王政復古」の宣言をした。徳川慶喜の「辞官納地」が決定した。

龍馬の生涯の最後の頃に起きた出来事を順に簡単に述べますと、

1865年5月に、長崎にて土佐脱藩の亀山社中を設立し商業活動をはじめました。
1866年1月22日に龍馬と中岡慎太郎の仲介により、薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀と長州藩の桂小五郎が会談し、薩長同盟が成立しました。しかし、その2日後、24日に、京都・伏見奉行配下の捕り方が龍馬を襲撃しました。この時、龍馬は、女将と「おりょう」(妻)の機転で命からがら寺田屋から逃げだし命びろいします。寺田屋事件②すでに、龍馬は尊王攘夷から公武合体派に変わっていたのでしょうが。


亀山社中成立・薩長同盟成立   http://www.shotentai.com/ryoma/ryoma-4.html

寺田屋事件②   http://www.ryomaisback.com/dekigoto/teradaya.html

そして、1867年4月に「亀山社中」を『土佐海援隊』に改編し隊長となり、同年6月に『船中八策』*を土佐藩
の後藤象二郎に示しました。

* 坂本龍馬の「船中八策」
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/06/post_96.html


さらに、同年10月に将軍徳川慶喜が大政奉還をします。翌月11月に龍馬は「近江屋で中岡慎太郎と密会中に何者かに襲撃を受け即死しました。

土佐の人物伝〜坂本龍馬〜
http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/sakamoto/sakamoto.htm

中岡慎太郎(土佐藩)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B2%A1%E6%85%8E%E5%A4

公議政体論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%AD%B0%E6%94%BF%E4%BD%93%E8%AB%96


龍馬の最期(近江屋)
http://www.shotentai.com/ryoma/ryoma-6.html%AA%E9%83%8E  
(これも推測でしょう。それとも、アイゼンベルグ、後藤象二郎、ジョゼッペが暗殺したとすれば、まだ生きているので正確に知っているはずですが。)

最終章「余生」(山内容堂)
1868年、「鳥羽伏見の戦い」*がぼっ発した。容堂は「土佐藩は一兵もこの戦闘に加わってはならぬ」と厳命したが、すでに藩の軍事総司令官「板垣退助」が「薩長と行動を共にせよ」と密命をくだした後だった。翌日から土佐藩はこの戦闘に参加して「官軍」は勝利した。容堂は維新後は官職を辞し、ひたすら飲み、豪遊し1872年、45歳で脳溢血亡くなった。

*鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E3%83%BB%E4%BC%8
F%E8%A6%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

戊辰戦争(1868〜69年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89



きっと、容堂は、サタニストたちに、知り過ぎている者として暗殺されたのではないかしら?アル中になるのもサタニストから子供の時に受けた虐待*などからのトラウマのせいではないでしょうかね? 長いこと隠居させられていましたしね。 脳溢血も彼らが毒薬によって、よく使う暗殺の手段ですよね。

* 幼児虐待 ..... イルミナティー、フリーメーソンの高位メンバーの子供たちは、マインドコントールしやすくするために、2〜3歳くらいから電気ショックなどで虐待され、また、動物などへの残虐な行為を強要されたりして人格破壊されるみたいです。

王政復古(日本)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE
%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)


とても難しいのですが、つまり、天皇に大政奉還しても、徳川宗家が主体になった議会を造り、幕藩体制は維持していけると考えていた幕府に対し、薩摩・長州藩は苛立ち、討幕し、より近代的政治体制=絶対主義的中央集権(その当時としては近代的な政治体制。今では、ちょっと違うかも?民主主義で、 地域主権ですから。)を望んでいたし、廃藩置県なども考えていたということですね。それで、全国を制圧するための武力討伐として「戊辰戦争」*を起こしたんですね。これが、アングロサクソン王族たちの最終的に望んでいた武力による破壊・戦争による討幕だったのだと思います。そのために、龍馬暗殺などにより、平和的な討幕派を押さえる必要があった。そして、最終的に、首尾よく、彼らアングロサクソン王族は、その目的を達成したのです。江戸城無血開城だけが取り立てて言われているので平和的に討幕がなされたと勘違いされそうですが、何万人?、何十万人? もの血が流されているはずです。

* 戊辰戦争
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60026280.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
http://miyakoweb-lj-hp.web.infoseek.co.jp/torist2/boshinsen.htm

上のサイト「王政復古」に、後藤象二郎が公議政体派というのはウソでしょう。武力による倒幕を一番望んでいたのはアングロサクソン王族たちでしょう。なので、この人もそうに違いありません。ですから、平和主義者で、武力闘争を一番避けたいと願っていた龍馬とこの象二郎は、この点で意見が大きく別れていたのではないでしょうか?それで、暗殺されたのではないかしら?


明治天皇は、倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者として活躍したとのことです。
(攘夷派ではないと思うのですが。。。変ですね〜 開国派でしょう!)
それから、実際に、日本の指導者として一番活躍していたのは、大村益次郎やアイゼンベルグやジョゼッペ・マッツィーニや後藤象二郎でしょうね〜、きっと!)

明治天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87


上のサイトの右側の上のほうにある明治天皇の写真の撮影者として、『内田九一』とありますが、この「内田」というのが、ジョゼッペ・マッツィーニの現在の名前です。下の名前も同じ「九一」かどうかは分かりませんが。アイゼンベルグは南北戦争に行ったりしていた空白期間があるので、明治維新を一番先導したのは、ジョゼッペ・マッツィーニでしょう。それで自ら記念写真を撮ったのでしょう。当然、イギリスのヴィクトリア女王やプロイセンのヴィルヘルム2世にもこの写真を送っているでしょう。


p.s.
上の本文を大幅に修正・加筆しましたので、済みませんがもう一度読んでいただけたら幸いです。
(2011.01.10 9:00a.m.)

p.s.2
イエメンからのアラビア系集団のところや、戊辰戦争のところを少し修正しました。
(2011.01.13 9:20p.m.)



コメント欄も見てくださいネ!
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by Ulala-lov | 2011-01-07 05:38 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(7)


さてさて、龍馬といえば、亀山社中=『海援隊』や〜! ですね。   ○(^_^)○ エイ、エイ、オー!

亀山社中(長崎、商社)
http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/life/4.php

海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔を併せ持つ特異な組織で、各藩の脱藩浪人が中心であったとのことです。

さて、幕末には、「尊王攘夷派」、「佐幕派」、「公武合体派」と大きく分けて、三つの主流となる思想があったらしいです。

幕末
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB

海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E9%98%B2%E7
%A6%A6%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%8E%9B

それにしても、老中の「阿部正弘」(備後福山藩=広島県東部の藩主)がペリーの黒船来航後に斬新にも諸大名や庶民に至るまで広く意見を聞き、大胆な能力主義の人事登用を行ったことが、皮肉にも、諸大名や朝廷が中央政治に進出する足がかりとなって、幕藩体制崩壊の呼び水となったとは。。。とほほ〜で、有能で汚職などにも毅然と立ち向かうりっぱな阿部老中様だったようなのですがまことに残念なことなのでした。やはり、アングロサクソン王族の奸計*にはかなわず〜!だったのでしょうか?
* 奸計.... 悪いはかりごと。悪だくみ。

しか〜し! この福山藩主「阿部正弘」といい、土佐藩主の「山内容堂」*といい、なにやら、非常に多くの藩主が急に病でなくなり、それを継いだ息子も病弱とか急死したりしていて、まさかの分家の5男とか、まあ、容堂は長男ですが、そんな予想外の藩主が次々と誕生するなんて、これもスゴ〜く変ですよ〜!! 
* 山内容堂〜みねうち道歴史人物         http://www10.ocn.ne.jp/~kenjiro/ijin/youdou.htm

そういえば、江戸幕府の「徳川家斉」(いえなり、1773〜1837年)も69歳で不審な死をとげているし、その後を継いだ「徳川家慶」(いえよし、1793〜53年)なんか’暑気あたり’で61歳で急死したのだとか、ほんとうかな? (サタニストが’食あたり’をもじって事実を改ざん?)さらに、その後の「徳川家定」*(1824〜58年)は、病弱で(毒を少しづつ盛られていたのでは?)、将軍となっても、幕政は老中の阿部によって主導され、阿部が亡くなる(しかし、これも毒殺?用済みで知り過ぎていた為?)と老中「堀田正睦」**(この人の藩主就任劇も奇妙)に変わった。家定は、わずか34歳で亡くなっています。そして、またまた、その後を継いだ「徳川家茂」***(いえもち、1846〜66年)などは、20歳で急死しています。そして、最後の将軍一橋家の「徳川慶喜」****(よしのぶ、1837〜1913年)Jとなるのですが、この人は長生きしてます。この違いはなんなんでしょう。つまり、慶喜はアングロサクソン王族にとって都合のよい人間だったということでしょうか?それにしても晩年の写真をみると、耳の先がとがっていてすごく大きいのはなぜ? ジョセッペは、佐久間象山 *として水戸の藤田東湖**と交友を深めていましたし〜 

*  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%9A
** http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9D%A6
*** http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82
*** http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

*佐久間象山
http://www.geocities.jp/str_homepage/rekishi/bakumatsu/jinbutsu/meikan/shozan.html
**藤田東湖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96


英国王室がドイツ「ハノーヴァー家」に乗っ取られた時や、「ヴィクトリア女王」、「エリザベス女王(2世)」の戴冠の時もそうなんですが。。。どうも、旧来の「王」や「藩主」を’毒’などで暗殺して、フリメーソンの最上階付近にいる血統の人間に「王・女王」★や「藩主」を継がせていったのでは?とも考えられます〜 アングロサクソン王族のモットーは『邪魔者は消せ!』ですからね〜

★フリーメーソンの女王....アングロサクソン王族シャーマンの中でも、『ヌビア人原種の女王=巫女シャーマン(女祭司)の長』が’一番最高位’にいるようです。(かつての邪馬台国の『卑弥呼』と同じような。ということは、もしかしたら、卑弥呼も同じヌビア人原種の巫女シャーマンの長が渡来してきていたのかもしれませんよ) しかし、例えアングロサクソン王族といえども、フリーメーソンに参加して積極的に彼らの悪魔の陰謀を率いていく王でなければ暗殺されてしまいます。どうも、エドワード7世や*ジョージ5世**やジョージ6世は悪魔的な方ではなかったのかもしれません。これらの王の在位期間はみな比較的短期間です。おそらくフリーメーソンに暗殺されたのでしょう。というのも、エドワード7世の妻アレクサンドラ(デンマークの王女だった)は、夫は浮気ばかりしているし、故国ドイツがデンマークの領土を奪ったのでドイツを嫌っていたようなのです。それで、息子にはそういった観点からの教育をしたことでしょうから。それに、ヴィクトリア女王の夫の「アルバート公」=おそらく「シーボルト」も悪魔的な人ではなかったようですから、エドワード7世も浮気症ではあったものの悪魔的な人ではなかったのかもしれません。なので、ヴィクトリア女王は、ジョージ5世の妻には気の強いというか、おそらくフリーメーソンの最高位のメンバーの一員として悪魔的にやっていける気丈な女性を望んでいたようで、それでメアリー・オブ・テック(ドイツ南部のヴュルテンベルク公国の王女)を選んだようです。そして、彼女がエリザベス2世の教育をしたのです。

* エドワード7世
http://blog.goo.ne.jp/marifle1010/e/35f8cd48fdc077a89114f02fe8260bc6
http://ww1.m78.com/question/edward%207.html
(ヴィルヘルム2世は、ドイツ帝国主義者の覇権主義者でしたから、彼にエドワード7世が嫌われていたということは、悪魔的ではなかったということになるのでは?それにドイツに包囲網を築いたとかって。でも、第一時世界大戦でもドイツは負けたけれど、イギリスでのアングロサクソン王族の権力は衰えなかったみたいです)
** ジョージ5世
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82
%B85%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9
%E7%8E%8B)

となれば、阿部正弘老中はなかなかのくせ者なのかも? 老中首座であった水野忠邦を邪見にしていたみたいだし、最後には水野忠邦を蟄居させています。となると、水野忠邦はほんとうは良い老中だったのでは? ま、まさか阿部老中首座は、アングロサクソン王族に都合の悪い人間たちを汚職の罪をきせてたくさん処分したんじゃないでしょうね?


1. 尊王攘夷(=王を尊び外圧・外敵の撃退を旨とする思想=鎖国の維持+討幕、天皇による国政主導)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E6%94%98%E5%A4%B7
尊王論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96

(「尊王攘夷」からの引用)
大きな流れとしては、江戸幕末では「開国」を主張する徳川幕府や薩摩藩と、「攘夷」を主張する長州藩の対立となった。ところが、欧米列強の圧力により修好通商条約に天皇が勅許を出した(1865年)ことにより「尊王」と「攘夷」は結びつかなくなった。また、津和野藩の大国隆正らによって、欧米列強の圧力を排するためには一時的に外国と開国してでも国内統一や富国強兵を優先すべきだとする大攘夷論が唱えられた事は、「開国」と「攘夷」という相反する対外思想が「討幕」という一つの行動目的へと収斂(しゅうれん)*される可能性を生んだ。土佐藩の坂本龍馬らの斡旋・仲介・手助けもあって、幕末日本の薩摩と長州の二大地方勢力は討幕へと向かっていくことになる。 *収斂する....収める。縮める。
(引用おわり)


2. 佐幕(さばく)(=幕府を補佐する意=鎖国が本音だけれど仕方なく開国に同意+幕府の権威を今までどおり維持、反朝廷派)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B9%95

会津藩を始めとする約20に及ぶ諸藩と主要幕臣7名(奉行に加えて、新撰組の近藤、土方が入っている)

レオン・ロッシュ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83
%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

この人は、ちょっと内戦を煽っていそうな感じがします。

痩せ我慢の説〜福沢諭吉の著。勝海舟、榎本武揚らには忠君愛国の情がなかっとの非難。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%98%A0%E6%88%91%E6%85%A2%E3%81%AE%E8%AA%AC


3. 公武合体(=幕藩体制の再編強化=開国+朝廷の権威と幕府・諸藩の武の結合)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90
%88%E4%BD%93%E8%AB%96

大政委任論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96

つまり、いままでは、朝廷の権威をないがしろにしてきたところが'まま'(yoku)あったので、朝廷の権威も少し高く揚げ幕府との協力体制強化をとる1と2の主張の間をとった妥協案というところでしょうか?



尊王攘夷=討幕派・・・。って訳でもないですよね?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138548521

いいえ、尊王攘夷=討幕派です〜!ってことみたい。要するに、黒船来航以来、西洋諸外国は軍艦という武力で威圧して通商条約という不平等条約を求めてくるようになったのです。しかし、その交渉において、ただおろおろするばかりの徳川幕府に対して、先進的な考えをもつ有力諸藩などは不満がいっぱいで討幕を考えていた。ただ、それを全面に打ち出すと謀反(むほん)とされるので、「勤王」という言葉を全面に押し出して体裁をつくろっていたということみたいです。そして、その討幕派といっても、当初は、攘夷派もいれば、開国派もいたということです。しかし、1863年と1864年に「下関戦争」*では、長州藩が英、オランダ、仏、米の四ヶ国と戦いボロ負け。また、同じく、1863年に薩摩藩が生麦事件を発端として英国と「薩英戦争」**を始めてしまったのです。最初こそ有利に戦ったものの、後に完敗します。そして、薩摩藩も長州藩も西洋諸国の戦力にはとうていかなわないことを悟り、攘夷なんてとても無理であると悟ったようなのです。それで、両藩共に一転して開国派になったのでした。そして、その後は、諸外国に学べと秘密で藩士たちを留学させたり、武力増強に懸命に励んだりしたのです。なるほど〜 上の質問サイトの回答で、やっと当時の状況が少し理解できましたです〜 Thank you So~~ much!

* 下関戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E8%89%A6%E9%
9A%8A%E4%B8%8B%E9%96%A2%E7%A0%B2%E6%92%83%E4%BA%8
B%E4%BB%B6
** 薩英戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4
%BA%89

薩英戦争の発端となった生麦事件*は、薩摩藩士たちの尊王攘夷思想が強かったために起きたのか?それともイギリス・アングロサクソン王族のフォールス・フラッグ(=戦争を始める口実をつくる工作)の陰謀だったのでしょうか? もしかしたら、その両方ともなのかもしれません。 それに、この島津久光は、前藩主島津成彬とは異母兄弟にあたるわけですが、成彬の藩主就任に関しては、藩内を二分する争いがあったとのこと。しかし、結局、成彬が藩主となり、その後、不審な急死をしているのです。そして、久光の長男が藩主となり、久光は後見人となり実質の権限を握ったのでした。やはり、先にも述べたように、諸藩主の不可解な死と、思わぬ人物が後継者として就任というパターンによく似ています。ということは、土佐藩の山内容堂と同じく島津久光もまたアングロサクソン王族の息のかかった藩主だったということなのかも?

* 生麦事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%
BB%B6

山内容堂(豊信とよしげ) 〜 坂本龍馬人物伝
http://www.ryoma-den.com/jinbutsu/youdou.html
山内容堂
http://homepage3.nifty.com/mrbfkisami02/page030.html

すぐ上のサイトの第2章「安政の大獄」のところに、藩主となった豊信は、「あらたに参政職をもうけ、吉田東洋を任命した。それだけに収まらず、外様大名でありながら、幕政に口ばしをはさんだ。第13代将軍・家定は病弱で子がなかった。大老・井伊直弼は紀州家の慶福(家茂)を推し、水戸の斉昭、越前福井の松平春嶽(慶永)、薩摩の島津成彬*、宇和島の伊達宋城、そして土佐藩主の豊信が一橋慶喜を推したのだ。これに井伊は弾圧を持って応えた、世に言う「安政の大獄」である。豊信は罪人となり、藩主の地位を養子の豊範にゆずり、鮫洲に隠居した。」とあります。
*おそらく、父の島津斉興と異母弟の久光の間違いでは。成彬は家茂を推していたのでしょう。だから、安政の大獄でも薩摩藩はおとがめなしです。結局、家定は1858年8月14日に死亡。島津成彬も1858年8月24日に急死して、島津久光の子が藩主に。実質、久光が実権を握ります。しかし、1858年10月に家茂が将軍に就任。一橋派を弾圧した大老井伊直弼は、1860年に「桜田門外の変」で暗殺されます。

佐久間象山(=ジョゼッペ)の息子かもしれない一橋慶喜を将軍後継者に押したこれらの藩主たちは、アングロサクソン王族の息のかかった人物である可能性が高いと思われます。つまり、古代からすでに、アングロサクソン王族は日本に渡来してきていて、卑弥呼はおそらくそうでしょう。そして、その子孫の秘密結社も古代から存在しているのでしょう。それが、近代にフリーメーソンという名前に統一されたというだけのことでしょう。これらの秘密結社が日本でも、さまざまな政局において脅迫や毒殺などを画策し、自分たちの都合の良いように目的をかなえてきたのでしょう。

また、豊信が吉田東洋(=ジョゼッペ・マッツィーニ)を大抜てきしたことが分かり、さらに、第3章の「風雲」 のところには、「隠居した豊信は初め、忍堂と号したが、水戸の藤田東湖*のすすめで”容堂”と改めた。容堂の容は寛容の容であるが、その後の彼が寛容であったとは言い難い。 」とあり、下の藤田東湖の説明を見てもらえれば分かりますが、東湖と親しかったことからも、ますます、山内容堂がアングロサクソン王族の息のかかった人間であることが分かります。

*この藤田東湖の活躍と 一橋慶喜の不可解な行動により江戸幕府は終了したのです。結果的に、彼らは 明治維新に多大に貢献しています。だから、きっと藤田東湖もアングロサクソン王族系のスパイでしょう。そして、東湖は、関西経済界の基礎築いた「藤田伝三郎」(しかし、多分、五代友厚を暗殺し、大阪証券取引所などの多くの事業の後継者一族となった)の祖先じゃないかと思われます。

それから、佐久間象山は、長州の高杉新作や土佐の中岡慎太郎らとも交友があったようで、そのことも非常に気になります。しかし、象山は、その言動が激しかったらしくあまり人に好かれていなかったようですのでどの程度の影響があったのかはまだ分かりませんが。桂小五郎とは敵だったとか。(うらら。。。違うでしょう!)




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by Ulala-lov | 2011-01-04 04:35 | 幕末と坂本龍馬 | Comments(5)