2014−07−20

のつづき)


★ アングロサクソ脳族歴史では、冷徹で残虐な武将のように書かれている「織田信長(ヤハウェ王族)の真実」については別記事で詳しく説明します。

瀬名姫=築山殿(家康の正室、信康の母)

なお、1566年頃までに松平家康は三河を統一、徳川に改姓したとありますが、それはちょっと疑わしいです!



1579年、家康の側室「西郷局」(=『新生ヴィーナス』)が秀忠を生む。

1579年、家康の正室「築山殿」(今川義元の娘、=『シバの女王』=新生ヴィーナスの母親、あるいは姉)が嫁・徳姫の讒言(ざんげん)を息子の信康(岡崎信康)にしたり、唐人医師と密通したり、武田家との内通があったため、徳姫が「12ヶ条からなる訴状」を家康の重臣「酒井忠次」に託し、信長に渡してもらった。
織田信長は家康に「信康の切腹」を命じた。(元々築山殿と家康は別居していたし、信康とも対立していて、家康自身が決断したという説もあるそうです)
築山殿は「シバの女王」だったので、信長はその血筋やその怪しい正体を知ったので親子共々殺すように命じたのではないかと推察されます。もしかしたら、徳姫は信長の命令で築山殿や信康の正体を探っていたのかも?

家康は、長男「信康」を幽閉し、まず『築山殿」を家臣に殺害させた。その後、信康を切腹させた。

*服部正成(=服部半蔵:襲名)は、1582年の明智光秀の「本能寺の変」(主君「信長」を討ったクーデター)より前から代々松平家に仕えた重臣だったことが分かります!とすると、「本能寺の変」の直後に家康と共に殺害された可能性ありです!


1581年、武田勝頼は、武田信玄の養子(人質)となっていた織田勝長(おだかつなが)を返還した。しかし、織田信長は勝頼を攻める姿勢を崩さなかった。

家康が自殺するというのを服部半蔵がなだめて急いで岡崎城に戻ったというところがいかにも怪しいです!長年、今川義元の人質になったり、戦いに明け暮れた名武将がそのような女々(めめ)しい言葉を吐くとはとても思えないのです。なので、この時に家康一行にも明智光秀軍団が襲って来たと考えるほうが自然です。

*このブログ内の関連記事:

「本能寺の変」直後に家康も殺害、アイゼンベルグが家康に成る!

わずか34名の部下した随行していなかった家康も、信長同様、多勢(明智勢)に無勢(家康勢)* であったので敗応戦するわけにもいかず、急いで岡崎城に戻ることにしたようです。

* 多勢に無勢 - 故事ことわざ事典

この時に家康に随行していた家臣34名:

酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、本多正盛、石川康通、服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎

そのうちの多くは岡崎城に帰るルートの途中で殺され、アングロサクソ脳族たちが家康やその部下に成りすまして入れ替わったようです。

明智光秀(=アイゼンベルグ)松平家康を殺害し、松平家康に成りすまし、その後、徳川家康と改名し、偽『四天王』(訂正 2014.08.01:そのうちの本田忠勝と井伊直政の二家系はアングロサクソ脳族の放ったスパイでした!)たちと共に小牧・長久手の戦い大坂の陣関ヶ原の戦い活躍したのです。しかし、殺害されたほんとうの『四天王』のうちの酒井忠次と榊原康政の息子たち武功に対しては、その活躍に反して、わずかな石高しか与えず冷遇していたとのことです。

★★★ さらに、毒川家康(アイゼンベルグ)はほんとうの松平家康の子孫や『四天王』のうちの酒井忠次と榊原康政たちの子孫や、その他の忠臣たちの子孫の家系に世継が生まれないようにスパイ工作し(そのような秘薬を使ったのでしょう)、その多くは、お家断絶の憂き目にあうか、あるいは、アングロサクソ脳族に家系を乗っ取られているかしているのです!!


につづく)



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by Ulala-lov | 2014-07-20 14:54 | 日本の著名家系 | Comments(4)

「戦国時代」末期、キリスト教が異端とされた頃にキリスト教の熱心な女性信者で、自害した悲劇の主人公として有名な、あの「細川ガラシャ」について細川氏の歴史とともに学びたいと思います。

わたしも、「細川ガラシャ」という名前は知っていましたが、なぜ死んだのか?、どのような背景があったのか?など詳しいことは、まっ〜たく知りませんでした。

ウィキサイトの情報を要約すると以下のようになります。

戦国時代に、ちょっとお茶目なのか、ちょっとお転婆なのか?明智光秀* の娘「珠」(たま、「玉」とも。)という美しい娘がいて、源氏系足利家一門の名門武将「細川忠興」**(ほそかわ ただおき)というイケメンで、武勇に優(すぐ)れ、戦略にも優れ、また、歌を読んだり、千の利休を尊敬する茶人でもあり、文武両道に優れた文化人のところに、その正室として嫁ぎましたとさ。ある時、夫の忠興(仏教の禅宗を信仰)から何気なく聞いたカトリック(キリスト教)の話に興味を抱き、近くのバレレン教会にこっそり行ったお珠は、すぐに洗礼を受けたいと初めて会った神父に言い出す始末。しかし、神父たち教会側の方が冷静で慎重な対応をし急がせなかったのでした。その後、お珠は自分の侍女を使ってキリスト教の書物を手に入れ、熱心にキリスト教をお勉強したとか。そして、ついに夫には内緒でカトリックの洗礼を受け、洗礼名は『ガラシャ』*** となったのでした〜。

けれども、ちょうどその頃1587年は、運悪く、秀吉の「バテレン追放令」が発布されキリスト教は禁止になった年でした。にもかかわらず、ちょっとお茶目で信仰一筋だったガラシャは、あきらめることなく、ずっと秘密裏にキリスト教信仰を続け、夫にもバレず内緒で信仰し続けていたぐらいですから、一緒に信仰していた侍女数人以外には誰にもバレなかったようです。それでも、洗礼を受けてからやっと8年後の1595年に、夫「忠興」に告白しましたとさ〜。(ビックリしたなあ、もう〜!@....@; ←タダオキ 目じゃなくて〜口が点になる〜?! だったでしょうね〜 ^_^; ←うらら)

* 明智光秀(=アイゼンベルグ)

★★★★★< サタニストたちの不死の秘密>
つまり、彼らサタニストのトップクラス、ジョゼッぺ、象二郎やシバの女王、タコの王や巫女たち(宇宙人グレイ?)などは、臓器移植で、自分の脳を自分の子孫(免疫拒否反応の少ない)の少年少女の脳に移植して何千年も生きているわけです。おそらく、その年令が6〜70歳くらいになると別の身体に取り替えているというわけです!!(さらに、新事実が分りましたので、近日中に記事にします。2014.01.21 )

?? 参考になった映画 ▶▶▶
1. 映画「スタートレック ファーストコンタクト」のDVDを見ると参考になりました。その中に出てくるボーグクィーンを見ていて不死って、そうか〜!って感じでしたネ。

2. チャールズ・ヘストン主演の映画「猿の惑星」も参考になりましたよ。人間が手術されてサルの脳に置きかえられるシーンがありました。
(この映画で、猿たちが人間狩りをしているシーンは、まるで4万年前のヨーロッパで、ネアンダール人たちがクロマニョン人を襲撃していた時の様子のように思えて仕方がありませんでした。)



信長の天下統一を目前にして、信長を亡き者にする必要があったのでしょうね。それで、自分が逆賊となり、秀吉(象二郎)にその仇討ちをさせて天下を取らせたということでしょう。光秀は死刑になったということですが、秀吉はジョゼッペの相棒の象二郎で仲間内です。お手盛りシャンシャン!とかってした後、ちょっと似た感じの別人の顔を傷つけて誰か分からないようにし、さらし者にした後、処刑したんでしょう。

** 細川忠興
細川忠興 Wikipedia
このサイトには、過激すぎることが書いてあるので18禁(18歳未満禁止)です。青少年やお子ちゃまたちは決して見ないでネ!細川忠興 アンサイクロペディア
細川忠興
(忠義の人みたいなので、身内の人に厳しかったとかいうのも何かそれなりの理由があったのかもしれません。それに、丹後の一色氏を滅亡させたのは、冷酷な秀吉の命令で従うしかなかったのでしょう。)

*** 細川ガラシャ Wikipedia

そして、ガラシャの父親「明智光秀」が、な、なんと、自分の仕える織田信長に反逆し「本能の変」を起こし信長を死に追い込んだのでした。しかし、細川忠興は、光秀の反逆への誘いを断り、秀吉の光秀討伐に加わり、信長に対する忠義を尽くしたのでした。そして、反逆者光秀の娘である妻の珠子を光秀の実家へ戻し、その後、光秀が亡くなると、筋を通すため光秀の娘であるガラシャを大阪に形式上の幽閉したのでした。

1958年に豊臣秀吉が亡くなると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼(よしみ)を通じた。1599年には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に石田光成(=ジョゼッペ)の襲撃に加わったとのことですから、光成は部下からの信任がなかったのですね。

関ヶ原の戦いでは、忠興は、徳川家康の東軍側として戦う。その直前(関ヶ原の戦いの約1ヶ月前)に、おそらく光成の命令で伏見に人質として留め置かれていた珠子は、西軍の襲撃を受け、人質となることを拒んで自害を余儀なくされたとのことです。

このガラシャの抵抗を、ヨーロッパの人々は、「気丈な貴婦人」という戯曲にしてオペラとして上演し、ガラシャは信仰のための殉教とされたとのことです。ただし、夫の忠興に関しては間違った人格に描かれていたとこのこと。当時のヨーロッパには「武士道」という観念や武家社会の礼法が理解されていなかったためだということです。特に、ハプスブルグ家の姫君たちに好まれ(政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分たちの身の上に重ね)、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたとのことです。

ここがわたしもちょっと誤解していた点で、キリスト教禁止だった当時の日本において、ガラシャが信仰を守り抜いたために迫害を受けて亡くなったと誤解していました。

実際は、西軍側の人質にされそうになり、そうはなるまいとしたガラシャが自決したのですね!しかし、部下の家老に槍で自分の胸を貫かせるとは。。。やはり、すごく気丈な女性だったのですね。辞世の歌も、すごい説得力があり、そうとう知的な文化人だった感じがします。

★(と思っていたのですが、やっと気付いたのです!。。。仮にでもガラシャの父がアイゼンベルグだったというなら、ガラシャは『シバの女王』か『新生ヴィーナス』の誰かではないかと。ですから、ガラシャは、死んだのではないのかも?!だから、それを見られないように、忠興の嫡男で自分の実子である細川忠隆の正室で、前田利家の娘「千世」に逃げるように勧め、千世は姉の嫁ぎ先に逃れた。しかし、結局、そのことで、忠興は、長男の忠隆に千世との離縁を命じたが、息子が反発したので勘当、廃嫡させたとうことです。要するに、忠興は、「シバの女王」ガラシャにメロメロだったということでしょう。これが、「シバの女王」のハ二ートラップ作戦ですよ〜!その後、忠興は、精神的にややおかしくなったのか、家庭内が無茶苦茶になっていったらしいですね。それから、本能寺の焼け後から、オルガティノ宣教師****が拾ったガラシャの遺骨はきっと、偽物で他の女性の骨でしょう。そこで他の女性を身代わりとして殺していたのでしょう。彼らならそれぐらいしたでしょう。)

**** グネッキ・ソルディ・オルガンティノ Wikipedia

(この宣教師は良い人みたいですぅ〜。イエズス会も最初はそう悪くなかったのでは。。。やはり、チェザレボルジアによって、ローマ・カトリックの枢機卿の大部分がサクソン王族に変えられてしまってから変になったのでしょう。)


<<細川氏>>

細川氏

細川氏は、もともと源氏の系統であり、源平合戦では平家側であったのですが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、そして、足利尊氏(あしかが たかうじ、元々は源氏系ですが、なんだか平家系のような感じに路線変更か?)に従うようになって、細川氏は源氏の主流とはちょっと違う路線を歩み出したような。それで、室町時代には、京兆家、典馬家、野州家、阿波細川家、和泉守護家、備中守護家、淡路守護家、奥州家などの数多くの有力な守護大名となり、細川氏の同族連合体を築き、将軍の干渉をも排して、その地位を保ったということです。

また、戦国時代には、織田信長や徳川家康の家来として活躍し、やはり平家系についていました。江戸時代には肥後熊本藩54万石を中心に、長岡内膳家、長岡刑部家、高瀬細川家、宇土細川家(←以上はすべて熊本県)、常陸谷田部細川家(茨城県つくば市)など。

それにもかかわらず、明治維新後も公爵となっています。

子孫の細川護熙(もりひろ)元首相、元熊本県知事を務めました。この方は、細川ガラシャとは、違う傍系の出身の方だとか。

☆☆☆☆☆細川氏は、多くの大名の中でも、鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いた希有(けう、「まれな」という意味)の家だということです。
                          
細川護熙(1938年〜)

細川元首相も、消費税を3%から7%に引き上げようとしていたんですっって!でも、小沢元幹事長たちが反乱を起こして没!首相退陣に追い込まれたんですって。なにやら、今の野田政権に似たような状況ですね〜!(今、考えると、どっちもどっちなんですけどね!小沢氏もアングロサクソンサタニストですから。2014.01.21 加筆)
                                                           
民主党を本当の意味で立ち上げたのは、鳩山元首相ではなく、細川護煕元首相だったのですね〜!びっくり! また、弟の近衛忠煇(ただてる、1939年〜)氏は、近衛家当主で国際赤十字・赤新月社連盟会長及び日本赤十字社社長。

細川護貞(もりさだ、1912〜2005年、細川護熙の実父)

近衛文磨(このえ ふみまろ、1891〜1945年、護煕の外祖父)
な、なんと祖父の近衛文磨は、日中戦争の頃には、ナチス・ヒットラーに憧(あこが)れていたんですって!

近衛篤麿(このえ あつまろ、1863〜1904年、文磨の父)
近衛家は、公家の中でも、旧五摂家筆頭の家柄ということです。本姓は、「藤原」だそうです。ところで、この篤麿さん、松沢前神奈川県知事によく似てません?ぎゃあ〜〜〜〜!??
松沢成文

ということで、近衛家はちょっとナチス気味なのでしょうが、細川家のほうはよく分かりません。少しは影響を受けているのでしょうか?それにしても、細川氏は、いったい源氏側なのか、平家側なのかどうもよく分かりません。しかし、そういったうまい立ち回りで長年どんな時代にも適応して有力な守護大名としての権勢を誇ってきたのかもしれません。それに、細川ガラシャがシバの女王のひとりだとすれば、その息子たち以降の子孫はシバの女王の子孫ということになりますからね〜!明治維新後もずっと、権力の維持が保たれたはずです。

(2014.01.21 明智光秀=ジョゼッペとしていたのを、明智光秀=アイゼンベルグに訂正しました)


< P.S. >

【日本歴史ミステリー】戦国一の美女・細川ガラシャの"謎"の死

石田光成・・・サタニスト側
家康が上杉征伐に向かった隙に大阪に残った大名の妻と人質にする。
関ヶ原の戦いの前に細川ガラシャを捕らえてこいと命令を出す。・・・Aイエズス会は事前に知る

細川ガラシャ(がラシャは洗礼名=実名:玉 たま)・・・サタニスト側(明智光秀の娘)本能寺の変の後は、豊臣秀吉の命令を恐れたで細川忠興によって逆賊の娘として丹後に幽閉された。

しかし、細川ガラシャは、イエズス会宣教師によりAを事前に知っていた。
夫のため石田三成の人質になるより死を選んだ。
しかし、この時の謎・・・玉の長男の嫁、玉の娘、忠興の叔母が逃げ出した。玉も三成の人質にならず逃げられたはず。。。

(玉の侍女「霜」が書き残した真実)
三成(みつなり)が急襲した時、忠興の屋敷には玉と少数の家臣と侍女だけだった。少斎が刺す前にすでに死んでいたと少斎が「霜」に言ったが、実は、彼は熱心なキリスト教信者だったので、イエズス会の命令で玉を刺し(刺したことにして玉は死んだふり)、その後、屋敷内に火薬をまき散らし火をつけた。これはイエズス会の証拠隠滅だった。
(玉は、日常的に「スパイ工作」をしていたのだから、その証拠の手紙などを焼くためか?玉はイエズス会宣教師から世界情勢や日本情勢を聞くために会っていたのでしょう。そして、その死の口実がキリスト教信仰だったということは、すでに日本には30万人の信者がいたので、アングロサクソン王族サタニストたちの金儲けの手段であるキリスト教のさらなる布教に役立てる意図があった)
そして、最後には少斎が玉を連れて逃げるという予(あらかじ)め計画されていた筋書き通りに二人は逃げた!!!

日本の当時の状況:豊臣秀吉は1557年「キリスト教禁止令」を出す。1598年秀吉が死亡。西の石田光成と東の徳川家康の決戦が近づいていた。

*細川ガラシャは、三成に人質にされることを拒み、「キリスト教」の強い信仰のもとに自害した!(歴史上はそういうことになっている)

細川忠興・・・秀吉が亡くなると、石田光成を嫌っていたので徳川方についていた。ガラシャが三成の急襲により死を選んで死んだことにより、三成を恨んだ忠興は「関ヶ原の戦い」では徳川家康側に味方することをいっそう固く決意した。

***結果
ガラシャの死は関ヶ原の戦いの勝敗をも決定した!また、ガラシャの信仰の厚さは、イエズス会によって3日で全国の大名たちに知らされた。玉の死で、多くの大名たちには徳川側につくことを決意させる。「関ヶ原の戦い」では家康側が勝利、家康はキリスト教を許可した。結局、イエズス会は、家康につくことによりキリスト教の布教活動を守ることができた。

イエズス会は、ガラシャの才能は女たちの間で評判だったこともあり、これはヨーロッパでも使えるかもしれないと、玉の死は美談とされ、イエズス会によって布教活動のために細川ガラシャのオペラが作られた。

つまり、すべて、ガラシャの自作自演だったということです!!!

それから、玉は、おそらく、「新生ヴィーナス」(お梶の方、梶美奈子さん)でしょう。わたしが日吉(神奈川県港北区)の喜多文磨ことアイゼンベルグのアパートに住んでいた時、文磨おじいちゃんの妻は珠子さんという名前でした。珠子=玉なのでは。。。おばあちゃんに化けていたのですね〜!いや、ほんとうに変装上手です!

(2014.01.21 3:10p.m. 追記)
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by Ulala-lov | 2012-04-01 21:48 | 日本の著名家系 | Comments(10)