(2のつづき)

この「徳川頼房」が、正室を持たず、側室に「久昌院」(きゅうしょういん、名は久子 1604〜1662年)や佐々木氏、藤原氏の娘などを置いていました。
久昌院の父は「谷重則」.......わたしが梶美奈子さんから聞いた話から、おそらく、谷とか重は好きみたいで。。。とすると、この久昌院という女性=谷重則の娘「久」は、マリエ・ルイーズ・ユージーン・ビアーズか?エリザベス女王か?アレクサンドラ女王?でしょうかね?つまり、「久」にシバの女王の誰かの脳を移植したのではないかと。。。ということは、久昌院は、「シバの女王」たちの得意とするハニー・トラップで、徳川頼房を手の内で転がしていたのでしょう。頼房は、生涯、正室を持たず久昌院の言いなりになっていたものと思われます!

その徳川頼房と久昌院との間には、長男「頼重」と、三男「光圀」が生まれます。やはり、久昌院は、サクソン王族系の血筋として知られていたので正室にはなれなかったのでしょう。(それで、水戸藩からは、将軍を出せないことになったのかも?)

つまり、久昌院は、水戸藩2代藩主「水戸光圀」*、及び、高松藩**藩主「松平頼重」の生母なのです。ところが、久昌院の生んだ水戸光圀も、松平頼重も、おそらく、父・徳川頼房の子ではなく、ジョゼッペやアイゼンベルグあたりの子供だったのではないかと。。。。
* 水戸黄門の実像のページ
大日本史は、光圀が編纂を命令したものではなく、後世の将軍(サクソン王族系)が光圀の名前で世に出しただけだそうです。アレ〜、光圀の銅像を見ると何かスメラミコトに似ているような気もします〜!すると、父親はスメラ(須田)ですか〜?!
悪代官〜アンサイクロペディア
水戸藩の税が一番高くて、8割だったとか。。。やっぱり、悪代官だったんだ〜!
副将軍・水戸光圀はどれほど偉いのか?l 綾野ノリオの「ウンチク太平記」
水戸藩は将軍を出せない代わりに参勤交代を免除されていたんですって!だから、江戸にずっといたりすることもできたんですね〜
徳川光圀〜ウィキペディア
とにかく、顔が徳川家康*と全然似てませんね〜!!!

* 徳川家康 学研キッズネット 分かりやすくてイイですね!ちょっと違っていたのは、「徳川家康は、多くの言いがかりをつけて豊臣氏を挑発し、大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし天下を統一した」とありますが、実際は、石田光成(=ジョゼッペ)と淀君が、家康をずっと挑発していたのですよ。

それから、水戸藩第三代藩主になったのは、光圀の長男「頼常」(よりつね)ではなく、第二代徳川光圀の兄で高松藩**の藩主だった「頼重」の次男徳川綱條でした。そして、光圀の長男・頼常が高松藩主になったのでした。
綱條の治世は、水戸藩の以前からしだいに悪化していた財政が特に赤字になり、領民に運河の建築の苦役や、重税を貸して苦しめ財政を改善しようとしたとのことで反発を招いたとあります。つまり、前述のアンサイクロペディアにあったように悪代官そのものだったようです。

** <高松藩>
高松藩〜ウィキペディア
香川県高松市ー高松と水戸と彦根の関係ー(幕末・維新の町を行く)
幕末には、大老「井伊直弼」の娘と、高松藩第十代藩主・松平頼胤(よりたね)*の息子で、第十一代藩主になる松平頼聡(よりとし)が結婚したことにより、高松藩と水戸藩とは犬猿の仲になってしまったとのことです。水戸藩や一橋家は、元々、彦根藩の井伊家とは仲が悪かったようですから。
* 松平頼胤の正室は、第十一代将軍「徳川家斉」の娘「文姫」でした。そして、この徳川家斉は、「御三卿・一橋家」の第二代当主「徳川治済」(第八代将軍吉宗の孫)の長男であり、母は側室の「お富の方」でした。この母「お富」は、将軍「徳川家斉」、尾張藩主「徳川治国」、福岡藩主「黒田斉隆」、一橋徳川家当主「徳川斉敦」(なりあつ)など高い地位に昇り、権力の座に就いた者だらけです。

お富は一橋徳川家当主・徳川治済の目にとまり、将軍家治の許可を得て側室にしたとのこと。1781年に、お富の息子の豊千代が将軍家治の養子になり、後に第十一代将軍徳川家斉になるのですが、その養子縁組は、一橋家当主「治済」が、お富と関係が深い田沼意次(たぬまおきつぐ)や
大奥年寄「大崎」などに頼み込んだ結果、大奥が豊千代を擁立しかなったとのことです。どうやら、この「お富」も「シバの女王」の誰かのような気がします。後に、豊千代が将軍家斉になると、お富は、大奥で絶大な権勢を振るったとのことですし。。。

高松藩〜維新の志士たち 勤王も、佐幕派も、紙一重ですよね。"勝てば官軍"だったのでしょうか?ほんと「鳥羽・伏見の戦い」、「戊辰戦争」も、どの藩がどっちなのか分かりにくいですよネ。それをいいことに、ジョゼッペたちは主にヤハウェ系の藩主や領民を敵にした戦闘をして、殺していったのでは?

高松藩〜松平(水戸)家
??+??とにかく、上の歴代の高松藩主の表を見ると、やはり、ほとんど水戸藩からの出身です。そして、水戸藩と徳川「御三卿」の一つ徳川一橋家とはもともと一心同体のようなものであり、非常に血縁関係が深いようです。だから、結局、高松藩主と一橋家当主とも血縁関係が深いということになります。

さらに、「徳川幕府」の内なる崩壊は、八代将軍「徳川吉宗」(よしむね)において最も激しくなります。吉宗は、紀州藩主「徳川光貞」(父は、徳川頼宣l母はお万の方lであり、母は、加藤清正の娘)が、湯殿番をしていた浄円院(じょうえんいん、1655〜1726年、俗名は「由利」、「紋」)お紋(もん)に手をつけてできた子であることから、やはり、このお紋が「シバの女王」の誰か?でハニー・トラップを使って藩主の子供を生んだものと思われます。しかし、いつも通り、生まれる子は、サクソン王族の男子とシバの女王の子供の可能性が高いのです。吉宗は、藩主になるなんてさえまったく思われていなかったのに、なぜか藩主の継承者が次々と亡くなり、紀州藩主に、そして、とうとう将軍にまでなってしまったのです。これは、やはり、サクソン王族たちが世継ぎを暗殺しまくって、自分たちのサクソン王族の子である吉宗を将軍にするという陰謀を成功させたからでしょう。尾張藩か紀州藩の世継ぎしか将軍には成れないのですから。。。サクソン王族の秘密結社のメンバーたちが総力を挙げて遂行した必死の作戦だったのでしょう。
??秘密結社...?? ?? ?? ?? ?? ?? ?? ?? ??

八代将軍「吉宗」が名君の誉れ高いのも、後世サクソン王族たちが歴史を自分たちに都合良く、うまく改ざんしてきた賜物(たまもの)だと考えられます。この吉宗になって、『徳川三卿』*という、「徳川御三家」に匹敵する吉宗の子孫のみを優遇する制度(それまでなかった将軍継承権まで付与)ができてしまったのです!! だから、やっぱり、「吉宗」はサクソン王族純血種に違いありません。

* 「御三卿」の中でも、一番、勢力が強かったのが、一橋徳川家でした。

引用:「御三卿の中で将軍を唯一出し、第十一代将軍「家斉」と第十五代将軍「慶喜」が一橋家の出身である。さらに、田安徳川家第二代の治察が早世し、清水徳川家初代・重好が実子を残さなかった結果、18世紀末以降のほとんどの将軍と「御三卿」当主が一橋家の「宗尹」(むねただ、吉宗の四男、1721〜1765年)の子孫で閉められることとなった。大政奉還後、徳川宗家を相続した田安家出身の「徳川家達」(いえさと、1863〜1940年、号は「静岳」)も宗尹の男系子孫である。 しかし、一橋家当主自身は短命で子を残せないものが多く、将軍となった慶喜は水戸徳川家から一橋家に養子に入った。」とあります。

この一橋家初代の「宗尹」(むねただ)の母は将軍吉宗の側室「深心院」です。名は「梅」、父は「谷口正次」です。1704年に和歌山城に奉公に上がり、吉宗の母「浄円院」付きの女中として働いていました。吉宗の寵愛を受けるようになり、吉宗が将軍になると、江戸城大奥に移り、1721年に宗尹を産んだが同年、22歳の若さで病没したとあります。「梅」の父である谷口正次の姓・谷口の「谷」は、藤原姓の一つ。ですから「深心院」もサクソン王族で、おそらく「シバの女王」の誰かでしょう。すでに、「吉宗」自身がサクソン王族純血種だと考えられますから、その子「宗尹」がサクソン王族純血種なのもほぼ間違いないでしょう。その「宗尹」の子孫たちが徳川幕府の将軍や主要藩の藩主になっていったのですから。。。?? こりゃ、あきまへん!

結局、最後の将軍「徳川慶喜」(1837〜1913年、将軍在位1867〜68年)は、「御三卿」一橋徳川家の第九代当主(ただし水戸徳川家からの養子)として、将軍後見職、禁裏御守衛総督など要職を務めた後、徳川宗家を相続、第十五代将軍に就任しています。以前から何度も言っていますように、この徳川慶喜の父親はジョゼッペにほぼ間違いありません。

というのも、わたしの最初の職場の同期生(女子)に慶喜によく似た人がいましたが、ある部署(転勤があるので)にいた時、上司(課長級、やはり今から考えるとジョゼッペ)が、彼女を何となくちょっとだけ特別可愛がっていたような感じがありました(人目があるので、あまり目立ってではないですが、彼女の名前を呼ぶ時も今から思うと父親か祖父のような感じだったような?)。彼女は、ちょっとアナウンスの仕事も余分にしていたので給料も特別手当とかもらっていました。(←彼女自身がわたしたちに給料明細を見せたので)当然ちゃ当然のことですから、別に気にはしませんでしたが。。。

その後、同期の女子全員にそのアナウンスの仕事をやってみないかと上司に言われましたが、他の人はあまりその気がなかったみたいですし、わたしは、同期の中で一番生まれ月が早いもので、リーダーをやっていて(なぜか、そういう年功序列が大事な社風だったので、一応公務員でしたが ^_^;)、その責任でけっこう気ぜわしかったものですからやりませんでした。でも、リーダー職には特別手当はなかったです。他の部署に転勤してから後に、おそらく以前のリーダー職のせいか、ちょっと特別昇級がありましたけどね。結局、後輩女子のひとり(この人は主の仕事がなぜかできないでいました。でも栄転しましたよ!どうもサクソン王族のコネのようです)と、その慶喜に似た同期女子との二人がアナウンスの仕事をやっていました。まあ、わたしも親戚のサクソン王族のコネでなんとかやっていたようなものですから。。。あまりコネ、コネ!って言えませんが。でも、わたしの場合、その非常に危うい(危険もはらんでいる)コネと、シバの女王たちの攻撃との両方で、いろいろ大変なことがいっぱいありました〜!

なお、最後の将軍・徳川慶喜の後、徳川宗家(=元将軍家)を相続した「徳川家達」は、明治維新後、"公爵" になりました。そして、貴族院議員を務めたり、恩賜財団済生会会長、明治神宮奉賛会会長、後の「日本サッカー協会」名誉会長、日本赤十字社社長など数々の名誉職を歴任しています。しかし、徳川家達が、同性愛者であることは華族の中では広く知られ、かつ女性関係の問題もあったらしくあまり評判はよくなかったようです。

徳川家の説明が長くなりましたが、というわけで、「徳川御三卿一橋家」と「高松藩」とも血縁は深いわけです。だから、元橋本首相の橋本家の「橋」は、どうやら一橋家の「橋」に由来しているのではないでしょうか?

その曾祖父「橋本源三郎」の家は岡山総社市の旧家であり、源三郎の長男である祖父橋本卯太郎は、貧乏な農家でありながら、苦労、苦学して、1894年に東京工業学校(現在、国立「東京工業大学」)を卒業し、実業家になったとのことです。(おそらく、最後の高松藩主・松平頼聡が井伊直弼の娘と結婚し、水戸藩と犬猿の仲になっていたため、明治維新後、冷や水を飲まされたということでしょうか?)

ところで、卯太郎は、同じ岡山県出身の href="http://ja.wikipedia.org/wiki/馬越恭平" target="_blank">「馬越恭平」に見込まれたとありますが、この馬越氏は、すごい実業家のようで、三井物産、大日本麦酒の社長、衆議院議員を務めるなどしていて、これはサクソン王族の大物の誰かでしょう。ジョゼッペか、アイゼンベルグか、象二郎などのうちの誰かでしょうか?この橋本卯太郎にサクソン王族の血が流れていなければ、彼らは、いくら卯太郎が優秀でも、このような大会社の重要な地位、ひいては社会の重要な地位に就けることは絶対にありません。

この卯太郎が熊本藩士の「石光真民」の娘「マツ(真津)」と結婚しています。マツの兄には、熊本県出身の大日本麦酒支配人石光真澄、陸軍少佐・諜報活動家「石光真清」、陸軍中将石光真臣がいます。また、「マツ」のオジには、陸軍主計総監・男爵「野田豁通」がいます。

ところで、石光家は、前にも述べましたように、石田光成(=ジョゼッペ)に関係ありそうで、おそらく、ジョゼッペの家系だと推察されます。陸軍少佐「石光真清」は諜報活動家で、ジョゼッペ本人かもしれません。まあ、ジョゼッペは、いつも、いろいろな名前で暗躍しています。


そして、橋本卯太郎と真津(マツ)の子に橋本龍伍(1906〜60年)が生まれます。龍伍は、東大法学部を卒業後、大蔵省官僚を経て、「吉田茂」に政界入りを勧められ、1949年に岡山選挙区から出馬して衆議院議員に当選。吉田学校* の一員として1951年より文部大臣、厚生大臣等を歴任しています。

* 吉田茂の独自体制を支えるために集められた国会議員のグループ。官僚出身者が多数。首相となった池田勇人、佐藤栄作らが最も有名。

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これらのメンバーが政界、財界、司法界、学会、マスコミなどを支配していったんでしょうね!!そして、現在も、その子孫たち(名字はいろいろに変わっているかも?)が、同じように各界に君臨しているはずです!!!

(つづく)

(2012.11.17 12:00 記述完了)


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by Ulala-lov | 2012-11-14 23:59 | アングロ・サクソン王族 | Comments(1)