関ヶ原の戦いの黒幕はエリザベス女王だった!?

2014−07−04

エリザベス1世は日本の歴史にも多大な影響を及ぼしていた。。。まあ、日本にもいんでいたんでしょうからね〜!


エリザベス1世は、日本との貿易を望み日本の銀を独占しようとしていた。英国からウィリアム・アダムス(=三浦按針みうら あんじん)がリーフレス号に乗って日本に漂着した。アダムスが大量の武器を日本に密輸し、徳川家康はアダムスの武器を買って「関ヶ原の大戦」に備えた。

イギリス公文書館に残っていた資料から「20ポンド(現在の約500万円)のお金を(イギリス)東インド会社がイギリスに残されたアダムスの妻・メアリに渡した。この他、確認されただけでも5000万円ものお金がアダムスの妻に渡されていた!!」

アダムスの手紙には「我々は日本を目指した」と書かれてた。按針(アダムス)を送り込んだのはエリザベス女王の密命だった。

なぜエリザベス女王は家康に勝ってほしかったのか?石田三成の西軍にはキリスト教信者が多く、スペインやポルトガルと密接な関係にあった。エリザベス女王としては東軍の家康を応援することによって日本への影響力をつかみたかった。

関ヶ原の戦いで東軍が勝ったおかげで、日本からスペイン・ポルトガルを追い出し、イギリスはオランダが台頭してくるまで日本の貿易を独占する。


「関ヶ原」は元々住宅地で、当時も約300軒1000人が住む集落があった。住人は合戦中は山の上に逃げて眺めていた。

「関ヶ原の戦い」には剣豪「宮本武蔵」も出陣していた。たいして手柄を立てることはできなかった。集団戦には弱い?

2代将軍となる徳川秀忠は遅刻したため父「家康」に叱られた。家康は怒って、秀忠は上田(長野県)で足止めを食らい合戦に間に合わなかった。

石田三成は逃亡中うまく逃げれるはずだったが、お腹を壊してしまい、高級ちり紙が落ちていたため見つかってしまった。


1600年9月15日 関ヶ原の戦い わずか7時間で決着がついた。
20.000人以上の戦死者を出す。

[ 豊臣秀吉の妻たちの確執 ]

◎ 側室「淀殿」 
浅井家*の姫君。性格は奔放で派手好み。鶴松を出産。世継ぎを育てるのは正室の役目。しかし、鶴松はわずか2歳で亡くなった。そのことで「おね」への恨みを持つようになる。その後、次男の秀頼を生む。

◎正室「おね」
おね(=『シバの女王』か『新生ヴィーナス』のどちらか)は足軽大将の娘。1561年に秀吉と結婚。「北政所」(きたのまんどころ)となる。

東軍 75000人   西軍 82000人

関ヶ原の戦いで自分が勝てば、豊臣家の領地を恩賞として分け与える。家康が領地を分け与えられた理由は、豊臣家の「おね」の後ろ盾があったから。

家康の圧勝で家康側の大名には豊臣の領地が分け与えられた。

それによって、豊臣家は一地方の大名に成り下がってしまった。


関ヶ原の戦いでは、「小早川秀秋」の裏切りで西軍は負けた。しかし、その2年後、秀秋は21歳で急死した。

犯人は春日局(=『シバの女王』=『新生ヴィーナス』の母親=山根郁子)で、彼女が秀秋を毒殺した。大奥で大出世した女帝「春日局」
秀明が治めていた岡山県岡山市
備前軍記(室町時代中期から江戸時代初期の備前国の歴史を綴った書物)に、金吾中納言秀秋とある小早川秀秋に関する記述がある。
「秀秋は時々狂気の振る舞いをし、尋常ではない行動が多くなった。乱行は月日を追うごとに増していき十月十八日に死んだ。」

しだいに凶暴になり、罪もない領民や家臣を次々に斬り殺したという。秀秋はまともな死ではなかった。世間に向けてはこれらの話をうまく秘密にし疱瘡にかかって死んだと披露した。

おそらく、毒殺、鉛が考えられる。脳の扁桃帯というところに蓄積すると感情の起伏やキレやすいという変化が出てくる。結果的に亡くなっていくということも起こる。
当時、金属の精錬に鉛が使われていたが、岡山の近辺には多くの鉱山が存在していた。つまり、鉛も豊富にあった。

岡山城の歴代城主、小早川家は秀秋の代で終わっていた。実質的には秀秋は1年10ヶ月 岡山城主を務めた。若くして死んだので、跡継ぎがいないまま小早川家は断絶した。小早川家は養子を迎えていない。普通なら家老が養子縁組のために奔走するが、していないということは、家老がお家断絶を望んでいたのでは?

家老の陰謀があった。その家老とは?筆頭家老は「稲葉正成」。関ヶ原の戦いの際に、家老らは東軍に味方すべしと進言した。その家臣とは稲葉正成。稲葉正成が裏切りを進言していた。しかも、稲葉正成は小早川家が断絶した後、徳川政権下で大名となっていた。稲葉正成は秀秋毒殺に関与していた?京都には正成を祀る稲葉神社がある。御祭神の稲葉正成の隣には御室「春日局」と書かれている。江戸城大奥を創った、あの春日局である。春日局はもともと稲葉正成の妻だった。

となると、秀秋の裏切りや不審死にも何か関係しているのか?そもそも春日局は3代将軍家光の乳母として召し抱えられ、大奥に君臨した女帝。父親は明智光秀の血縁にして重臣でもあた斎藤利三で、「本能寺の変」の後に豊臣秀吉に処刑された。春日局にとって豊臣家は親の仇だった。小早川秀秋の死から4年後の1604年、京都の「乳母募集」の立て札を見て応募し江戸城に入ったといわれている。

稲葉家の所領だった大分県臼杵市の歴史資料館で調べると、1603年江戸城にいたことになっており、通説より1年早く江戸城に入っていた。1603年は家康が江戸幕府を開いた年であり、幕府誕生と共に江戸城にいたことになる。その一年後に徳川家光の乳母になっていた。一方、夫の稲葉正成が大名になったのは4年後の1607年で美濃一万石を賜る。

なぜ夫を凌ぐほど出世したのか?家康は稲葉正成より春日局の功績を高く評価していた。その功績とは、豊臣家を滅ぼすため夫・稲葉正成を使って小早川秀秋を裏切らせたこと。さらに、用済みになった秀秋を毒殺した。豊臣家への復讐を果たし、結果、東軍は勝利し徳川の世が幕を開ける。だから家康に、その功績を認められ出世した。


天海(アイゼンベルグ)〜家康に気に入られて、関東の天台宗を統括する大僧正に指名された。五色不動(ごしきふどう)は天海が創ったとされる不動明神社。元あった場所に五色不動を移すと、等々力不動(二本の滝、密教の聖地)を加えると、北斗七星の形になる。


織田信長と明智光秀の家紋って、コウモリを図案化したものみたい。でも〜、織田信長は平家系のはずですけどね〜 父親が源氏だったのかな?明智光秀=アイゼンベルグだから、明智がコウモリの図案なのは納得です。なぜ、織田や明智が徳川家の護衛をしているのか?

鯉→龍に進化した。なので、人も修行を続ければ最後には立派に成長できる。あの一本だけ逆さ模様になっている5本の柱の文様は、コウモリをモチーフにした図案です〜!アイゼンベルグの奮闘のせいです〜!また、豊臣秀吉が祀ってあるのは、後の明治維新政府の影響のようです!



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by Ulala-lov | 2014-07-04 02:43 | サタニストの攻撃 | Comments(0)