2011年 05月 27日
シバの女王とは。。。9
<<ジブチからのダウ船>>
エチオピアからジブチを経て、イエメンへと『涙の海峡』を渡る船旅も、一つの検証となるだろう。
ジブチ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%81
>>ネットでジブチを調べていたら大変な記事を見つけましたので、’ちょっと、古代の探検から現代に戻って〜’と、
「ジブチに建設される海上自衛隊基地をめぐって」
http://japanese.ruvr.ru/2010/04/28/7048749.html
もし、その基地建設計画がそのまま着工されていたら、今頃はもう完成してるかもしれませんよ〜!! 知らなかった〜!! ーー*
国民に内緒でこんなことしてたんですね〜! 要するに、満州事変の直前とかと似たようなやり方なんじゃ?
自民党か?民主党か?(2009年夏に政権交代したので)
どっちの政権がやったんでしょう? これは、ひどい〜!!
’責任を明らかにしてくださいマシ!!!’
次に、こんな記事を見つけました。。。
「ソマリア海賊対策の海自拠点基地、ジブチで建設中」 2010/05/01
http://www.afpbb.com/article/politics/2728178/5775961
もう建設中〜、って。そうであれば、すでにもう完成しているのは確実ですね〜。トホホ〜 〜〜。。。
こういう小さい切っ掛けから大転換を図るのが、アングロサクソン王族がいままでやってきた得意技ですので、決して見逃してはいけない重要な大問題だと思います!(この場合、自衛隊の海外基地設置への実績、認可のために法律の整備へと)
「シオンの議定書」にもあったように、彼らは 『水滴が一滴一滴落ちるかのごとく、ほんの少しずつ少しずつ謀略を押し進めよ』っていうやり方ですからね!
すでに、海賊はインド洋に移動したんだとか、じゃあ、なんでこんな基地造る必要があるの? 即刻、こんな計画は中止すべきでしょう!!
いったい現在のところはどうなってるのでしょう? みなさん、政府に聞いてみましょう!
(私も後でメールしようっと!)
>>またまた、『シバの女王』という本の中の古代世界の探検話に戻りますよ〜
スーダン・ジブチ・エリトリアの旅
http://www.ne.jp/asahi/hikyo/yamaya/sudanm.htm
地図を見ると、やはり、古代にはイエメンから海上を船でエチオピアへ入っていくには、ジブチの港を経由するのが一番短距離で安全みたいですね。
<<南風の館にて>>
念願の地シルワがいよいよ姿をあらわす。その遺跡で、シバの女王を包む謎の核心に迫る。
シルワの遺跡はどんな状態にあるのだろう。1947年にアフメド・ファフリが撮った写真は、ぼやけていたが堂々たるものだった。しかしシルワはその後、1962年に王制派と反乱軍の争いの戦場となり、つい数か月前にも、私たちが遠くから目撃したように、政府軍の空爆を受けていた。
はやる気持ちを抑えながら車で走っていくと、私たちの前方に忽然(こつぜん)とシルワがその姿を現した。左手には丘、右手にはメサがあった。かつてこの丘には、アル・カスル(城)と呼ばれる
建造物がそびえていたはずだ。だが、今残っているのは、1メートルほどの壁だけで、あとはみな、がれきと化していた。
一方の、アル・ハリーベ(「遺跡の場所」の意)と呼ばれるメサのほうは、ファフリの写真とあまり変わりなく、浅黄色の石を積み上げた高い城壁で今なお守られていた。想像していた以上の威容だ。しかし、そう簡単にそこへ行くことはできない。シルワのシェイク・アフメドの承諾がいる。「悪人です。悪人ですよ」と私は政府の役人に警告されていた。その役人の話によると、シェイクは外国人だろうがイエメン人だろうがおかまいなしに、何十人も誘拐してきたという。
遺跡を過ぎて1キロあまり行った時、なんとシェイク・アフメドがたったひとりで、簡単な白い漆喰の家から出てきた。いわゆる人好きのするタイプとはまるでちがう。濃い眉の下の黒い目が陰のある激しさとでもいうべき独特の雰囲気を醸しだしていた。とはいっても、ときおりくすくす笑ったり、声を立てて笑ったりすることさえあった。それに、ずいぶんと親切にしてくれた。私が来ることを知っていたシェイクは、大きなアカシアの木陰に広げた敷物の上で、いっしょに朝食をとるように誘ってくれた。小さな子供たちが、コーヒーや焼き立てのパンや風味豊かなプディングを運んでくれる。
ほんとうにこれがイエメンでもっとも恐ろしい男なのだろうか。そういえば、「彼は外国人を誘拐する・・・・」という非難は、彼を誹謗(ひぼう)しようとする者の口から出たものでさえ、最後はたいてい「だが・・・・けっして危害を加えることはない。」としめくくられた。それというのも、彼の目的は、人質解放と引き替えに新しい診療所や学校や道路などを造らせることだったからだ。「だれでしたっけ。そうそう、ロビン・フッドというところかね。」とある人は私に言い、巨額の石油がシェイク・アフメドの支配地を通るパイプラインを流れていくのに、政府から還流される補償金は微々たるものであることを認めた。
ボディガードのナジーブを通訳に、私はシェイク・アフメドと言葉を交わした。現在の話題は避け、過去に話を向けた。この谷に出入りする経路についてたずねたところ、シェイクはかつての香料ロードがマアリブを迂回(うかい)*して、シルワを通っていた可能性があることを請(う)け合った。
* 迂回 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4786976.html
(この「マアリブを迂回して」は、「マアリブを通らないで」の意だと思われます)
☆これは、シルワがマアリブに先立ってサバ人の都だったという説の裏ずけとなる。☆
私が「マルカト(女王)・サバ」の話を持ちだすと、シェイクは興味を惹かれたようで、散歩がてら果樹園に案内してくれた。手入れの行き届いた果樹園には、銘文南アラビア語の刻まれた碑文が10ばかり山積みになっていた。2000年以上も昔に石工がふるったノミの跡は、当時のままに鋭かった。ひとつには、砂漠の砂による浸食がここシルワまでは及ばないからだ。シェイク・アフメドは、あれこれさまざまな字体の文字を指し示した。異なる時代のものかもしれない。
私はシェイクに、シルワはマアリブ以前のサバ人の都、すなわち、マルカト・サバが君臨した町だったと思うかとたずねてみた。驚いたことに、彼は首を振り、通訳のナジーブを介して、そうではなく、ふたつの町は同時に繁栄していたのだと答えた。マアリブには、サバの王や女王の冬の宮殿があり、シルワの宮殿は、暑さを避けて夏を過ごすためのものだったというのだ。この説はなかなか筋が通っている。ファフリが記録した碑文のひとつには、その場所は「シルワのアイベックスの主(しゅ)がおわす聖なる土地」であると記されている(ここでいう「主」とは、イエメンのいたるところでお目にかかる月の神、イルムカフを指す)。
「シルワ、ナンバー・ワン」と、シェイク・アフメドは親指を立てて誇らしげに言い、こう付け加えた。「これからご自分の目でお確かめなさい」。それから彼は、はつらつとした甥のマナ・アン・ナーシラに私を預けた。そこで、わたしたちふたりは遺跡へと出発した。