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シバの女王とは。。。8



(引用)〜〜(簡略版)〜〜〜〜〜

<アラビアとエチオピアをつなぐ手がかり>

アクスムの町外れにはシバの女王が造ったと思われる貯水池があり、一キロ半ほど南には女王が暮らしたとされる、100室もある宮殿跡が残っていて、その向かいに広がる畑には、崩れ落ちた石柱(ステレ)が点在していた。そのひとつに女王が埋葬されているんだとか(ちょっと怪しいらしいですが)。

どれも、キリストの時代のずっと後に繁栄したアクスム王朝*のころに造られたものだった。もっとも、国の起こりは紀元前600年までたどれる。その起源がもっと昔である可能性はないだろうか。考古学者たちは懐疑的だが、(彼らの懐疑的な見方に)確たる証拠があるわけではない。なにしろ、アクスムの遺跡は、全体の3%ほどしか調べがついていないのだ。

* アクスム王朝 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82
%B9%E3%83%A0%E7%8E%8B%E5%9B%BD
(紀元前5〜紀元後1世紀に貿易国として栄えたということですが、おそらく、もっと以前から、つまりシバの女王の時代ぐらいからの可能性が高いようです)

その後、アスクムでもとりわけ地味な遺跡に行く。ぬかるんだ畑を突っ切って行くと、波形のトタン屋根のみすぼらしい小屋で保護されていた。中には、畑の主が地面を耕していたときに偶然鋤が当たって発見されたという長方形の石版で、ゲエズ語*とサバ人の文字である銘文南アラビア語の両方で文字が刻まれていた。石版はまだ一部が埋まったまま、発見された場所に残っていた。というのも、銘文には、アクスム王朝のエザナ王**の偉業が並べられた後に、この石版を動かそうとした者は、必ずや不慮の死に見舞われるであろうと記されていたからだ。この銘文こそ、アラビアとエチオピアのつながりを示す具体的な証拠だった。これらふたつの土地の文字は、この石碑に併記されているばかりでなく、字体にも共通点が見られる。

この類似性は、紀元前最初のミレニアム(B.C.1000〜900年間の100年間)のある時点で、銘文南アラビア語の文字がエチオピアに伝わり、その後、丸みを帯びて装飾的になったというふうに説明できる。

* ゲエズ語
古代エチオピアの聖書
http://www.aa.tufs.ac.jp/i-moji/tenji/syousai/B13.html

**エザナ王
アクスム
http://iseki.travel-way.net/aksum1.htm
http://iseki.travel-way.net/aksum2.htm
アクスム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3
%82%B9%E3%83%A0
歴史と民族への旅 http://www.hisada-gati.co.jp/rekishi_e.html


アラビアとエチオピアのつながりを追って、アクスムから紅海に向かって東に2時間ほど車を走らせ低い丘の上のイェハの遺跡に向かう。丘の斜面に広がるイェハの村の広場には、1950年以降のものらしい教会が建っていた。しかし、この教会の正面上方にはめ込まれた古いブロックひとつだけは別だった。ブロックには6頭のアイベックスが高浮き彫りされていた。湾曲した立派な角、トナカイに似た薄気味悪い目と鼻、そして小さな蹄(ひづめ)。これはマアリブ(=イエメン)をはじめとするサバ王国のあちこちで見られる、並んだアイベックスの浮き彫りと酷似している。

このブロックが壊されたり、どぶに打ち捨てられたりせずに、大切に保存されているところから、エチオピアの人々が、昔の事物を怒りではなく好意を持って遇(ぐう)していることがうかがわれる。
エチオピアで神や聖人や被造物といえば、キリスト教、旧約聖書を奉じるユダヤ教、それに先立つあらゆる信仰の要素をすべて同時に含んでいる。そこでこうしてアイベックスが飾られている。アラビアから伝わった信仰で崇められていた動物が。

教会のすぐ向こうには、このアイベックスのブロック(に加えて、丘の斜面に散らばるたくさんの建築材のかけら)が使われていた神殿が、不完全な形ではあったが今も建っていた。赤っぽい石造りの壁が12メートルの高さまで無傷で残り、さながら壮大な石の箱といった趣(おもむき)だが、かつては香の匂いと祈りの声に満ちていたのだろう。

イェハの神殿は、エチオピアの主要な遺構のうちで最古のものだ。神殿の建築様式と、柱の配置やほぞ接ぎなどの高度な工法は、たんにアラビア風であるだけでなく、サバ風の特徴をはっきりと示している。この時代のエチオピア建築としては特異だ。レンガや木材を使った小規模な建物しかなかった土地に、突如、巨大な石造建築が登場したのだ。

エチオピアいいとこどりの旅
http://www.palmtour.net/optourlists/SPtour/
optourEthiopia_8days.html
(サイトの下のほうにあるイェハ教会となっている写真は教会ではなく、イェハの神殿だと思われます。赤っぽい石造りの壁なので)

のちに私は、このような神殿がエチオピアの荒れ地に建築されるに至った経緯については、有力な説がいくつかあることを知った。一説によると、土着の文化が画期的なアラビア文化に魅了され、建築や図像や筆記法をひたすらまねた、ということになる。その一方で、シバの女王がエルサレムへおもむいたのは、香料や香辛料の交易拡大が目的だったかもしれないが、イェハの神殿もサバ王国の前哨基地の中心施設で、同じ目的のために建設されたとする説もあり、私にはこちらのほうが説得力があるように思える。イェハからさほど遠くないコヒトには、マアリブの偉大なダムにならって造られたダムがある。さらに、いくつかの遺跡でも、サバ人の月の神イルムカフに献じた銘文や祭壇が見られる。

<断崖の修道院>

さらに東へ行き、メサ(高い台地)のふもとに着いた。この崖のはるか上のほうに最古の修道院「デブラ・ダモ」がある。上に行くには、狭い岩棚から下がっている18メートルのロープをよじ上るのが唯一の方法だった。(作者は若い頃、ロック・クライミングをしていたのでトライした)

上りきると、目の前に、60人ほどの修道士が暮らす、タイムカプセルのような初期キリスト教の世界が姿を現した。デブラ・ダモの簡素でつましい教会の中で、ビザンチン帝国の時代と違うところといえば、修道士たちが祈りの時刻と長さを確認するために使っている電池式の時計だけだ。修道士がひとたびあのロープをデブラ・ダモでは、自給自足の生活が営まれていた。菜園作りと家畜も少々飼っていた。暮らしぶりは禁欲的で、教会も同様だった。ただし、飾り気のない教会にあって、石造りの外壁だけは例外で、そこのは独特の模様が施(ほどこ)されていた。★それは、マアリブのマフラム・ビルキースと同じ様式だった。★

この修道院には、私にはとうてい見ることも想像することもできないような精神生活があるに違いないことを痛感した。こうした生活の見返りとして、修道士たちが得られる唯一の人間らしい楽しみといえば、東側に広がる絶景、すなわち、幾重にも重なりあう山地が紅海から立ち上るもやの中に消えていく、すばらしい眺めぐらいのものだ。

デブレ・ビゼン
http://www.eritreaembassy-japan.org/tourism/
church/church02.html
(デブラ・ダモだから、ちょと違うかもしれないけど、似たような感じじゃあ〜?)

エリトリアの歴史(アクスム王朝時代はここも領土だったらしい)
http://www.eritreaembassy-japan.org/category/
history/01.html
コハイト遺跡
http://www.eritreaembassy-japan.org/tourism/
iseki/iseki01.html

人間を傷つけるな!エリトリア人弁護士から見た”世界最悪”
の独裁政権国家 〜WEBマガジン[KAZE]風
http://kaze.shinshomap.info/series/rights/10.html

そんな景色に触発されたのか、シバの女王について新たな考えが浮かんできた。はるか内陸のイェハの遺跡が紀元前7、8世紀のものだとすると、サバ人がアフリカの海岸に拠点をもうけて内陸部を探索し、土着の民を征服して、植民地や石造りの神殿を建設させるまでには、どれぐらいかかったのだろうか?かなりの時間を要したはずで、サバ人が紀元前10世紀にエチオピアに足を踏み入れていた可能性はじゅうぶんある。

この説が考古学的に立証されれば、イエメンとエチオピアの両国がともに聖書に記された紀元前10世紀の女王シバを、自国の女王とすることが可能になる。シバはイエメンに本拠を置きつつも、エチオピアにまで版図を拡大していたと考えられるからだ。また同時に、しばしば投げかけられる「女王は黒人だったのか」という疑問に対する答えも得られる。すなわち、「女王はアラビア生まれだから、おそらく黒人ではない。だが、女王の民でエチオピアに住む者の多くは黒人だった。」

♡♡♡うららおばさんの感想... シバの女王ビルキースは、サバ王国のムカルリブ(=王=シェバ人+ヒッタイト人)とジン(=シュメール人、ここではスレイマーンのことかも?)との間に生まれた子供らしいので、真っ黒ではなかった可能性があります。しかし、その後のシバの女王は、必ず、シェバ人の王族とも婚姻をしているはずですから、かなり黒かった女王もいれば、ヒッタイト人王族との婚姻によりちょっと白くなっていたりとか、いろいろなパターンが考えられますが、いずれにしても、アフリカや南アラビアに長く住んでいれば、それなりに日に焼けて黒っぽかったであろうと推測されます。ですから、ずっと、黒人と西方テュルク系アラビア人(ヒッタイトは純粋な白人ではないけれど白人系)との混血ということでしょう。時々、シュメール人であるスライマーン自身がサバ国の王となっているので、その血も入っているはずですが、スライマーンは、何千年も生きて様々な地方に住んでいるので、白人というべきか、モンゴル系黄色人種かというべきか、アラビア系ブラウン人種というべきか、その場所に長〜く(100年、200年と)住んでいれば、人の肌の色はその場所によって変わりますので。

それにしても、シバの女王の出身地は、もともとアフリカのシェバ地方であり、女王の祖先(アマレク族)もその民も黒人だったということは動かせない事実のようです。ですから、ヒッタイト人と同盟を組みイエメンにサバ王国を築く前から、アフリカ中央部のシェバ地方には、プント王国のシュメール人の協力関係により高度な文明が築かれていた可能性があるかもしれません。しかし、それは、あくまでもシェバ人によるものではなく、ブント人によるものだと考えられます。そして、その高度な文明は、シェバ人王族だけが享受できる城壁の中にだけあったのかもしれません。
♡♡♡


<<シルワへの道>>

ジブチから乗ったダウ船は夜の間中、嵐に遭い、エンジンも2度止まったが、やっとイエメンのモカ港(モカコーヒーの産地)の防波堤内に避難して停まった。その後、役人に不当な料金を取られた後、タクシーを相乗りしながら乗り継いで、サアナのムハマンド・オスマン(イエメンのコーディネーター)のオフィスを訪ねた。彼は観光省に行って留守だった。私の件(シルワへ行く許可の書類をもらう)で行ってくれたのであればいいがと思いつつ待った。

「イエメン・タイムズ」の最新号をぱらぱらとめくった。この英字週刊誌は、カートを噛む習慣や外国人の誘拐、中世以来の因習に関して、政府の役人(というより全イエメン)を激しく非難するので評判だ。2ページ目に、次のようなQ&Aが載っていた。

Q イエメンの人々は、ハンセン病患者をどのように見ているのでしょう?

A イエメンのハンセン病患者は、妻と離婚し、相続権を放棄しなければならず、モスクに入ることを禁じられ、握手さえも長い棒越しにされます。雨が降ったら患者は外出できないという、おかしな話さえあります。この病気が雨水を伝って、地下に染み込み、草木に吸収され、それを食べた人間にうつると、本気で信じている人がいるのです。イエメンの一部の地方では、患者は電気のスイッチを入れることも許されません。電気を通して、病気がうつることが懸念されているからです。

(2011.8.30  5:10p.m. 書き込み完了)
by Ulala-lov | 2011-05-26 10:49 | シバの女王