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『シバの女王』とは。。。7

以下に載せている全てのリンク先サイトは、わたしがネットで調べたもので、サイト主様には断りなく勝ってに掲載させていただいております。3939〜感謝!感謝!です〜。♡

(引用)〜 〜(簡略版)〜 〜 〜 〜 〜

<<王たちの栄光>>

大人から子供まで、シバの女王を自国の象徴として崇めているアフリカの国エチオピアへ。

アフリカ(地図)〜世界一周かけぬけルート
(なぜかエチオピアの隣接国、近隣国には、ソマリア、スーダン、コンゴ、ルワンダなどみなアフリカの大紛争地帯で、大虐殺が行われてきて大量の難民を出してきた国々が多いんですよね〜!)

エチオピアの人々は、自分たちの宝ともいうべき叙事詩『ケブラ・ナガスト(王たちの栄光)』の内容が真実であることをいささかも疑っていない。『ケプラ・ナガスト』は国民史詩で、シバの女王をエチオピアの王朝の祖とたたえている。この王朝は、「王の中の王」あるいは「ユダ族の征服の獅子」という称号を持つ20世紀の皇帝で、女王の直系235代目の子孫とされるハイレ・セラシエの治世まで続いた。

<そして、エチオピアへ>

「ケブラ・ナガスト」は3世紀にコンスタンティノープルにある聖ソフィア寺院の図書館で発見んされたことになっているが、エチオピアに口承で伝えられていた歴史を14世紀に編纂したというのがほんとうらしい。「ケプラ・ナガスト」は、マケダ、つまり処女王シバの、聖都エルサレムへの旅について語っている。その地でソロモンは奸計をめぐらして女王の寝台に入り込み思いを遂げた。

その夜、ソロモンは何かを予言するような夢を見る。簡単に言えば、「イスラエルで輝いていた太陽が、エチオピアに飛び去り、途方もなくまばゆい光を永遠に放ち続けた。」しかし、稲妻にこの夢の記憶を奪われて心乱れて目を覚ました・・・さらにソロモンはシバの女王にも驚嘆した。彼女がたくましさと容姿の美しさを持っていたからである。

「ケプラ・ナガスト」によれば、ソロモンはこの夢に恐れおののくが、ついには、神に選ばれた地は今やイスラエルではなく、エチオピアであると認めるのだった。

★アフリカ版の聖地イスラエルだ。

この発想、この想像力ーーー12世紀末に「ラリベラ」*の岩盤から切り出された教会群ほど、それを力強くかつ精妙に表現したものが、いったいほかのどこにあるだろう。手掘りの人工水路「ヨルダン川」があり、大きな縦穴の中に岩盤を手作業で削り出して造った教会が建っている。希望と信仰と、驚異的な量の重労働がなした偉業だった。ガイドのダウィードの解説では、ラリベラ王の時代に人間と天使が力を合わせて、この教会や、他の教会を作り上げたのだそうです。わずか25年でできたそうですよ。」ラリベラには、他にも岩を刻んだ地中の教会が13か所あった。ソロモン王の時に、「太陽がエチオピアに飛びさり、その地で途方もなくまばゆい光を永遠に放ち続けた」時に選定された新しいエルサレムをこれらの教会が全体として体現しているのが見て取れた。

*ラビレラ村... 首都アディスアベバから真北方向にある聖地エルサレムを模した村

エチオピアの地図

ラリベラの岩窟教会群-エチオピア、キリスト教会

エチオピアの大自然と民俗、世界遺産

ベト・レヘム(=ベツレヘム)の聖堂にはわらが敷かれ、ベト・ゴルゴタ教会(ゴルゴタ教会堂)にはイャサス・セル、つまり、イエスの墓がまつられている。そのすぐ向こうにある中空の岩の塔はアダムの墓だった。ラリベラにあるアフリカの「シオン」(=聖地エルサレム)は、それぞれに意味づけがされた迷路のようなトンネルや階段、厚板の橋で、地理的にも象徴的にもつながれていた。

★☆★ ユダヤ教とキリスト教、そしてアフリカのアニミズムを混ぜ合わせたエチオピア・コプト教の中には、善悪両方のヘビが織り込まれている。

ここにいる信徒とエチオピア全土の3万2000人の信徒を支える確固たる信念と情熱に、私は心を動かされた。ここは天使の羽ばたきが起こす風にそよぐ世界、古代の女王が命を吹き込んだ世界、貧困が蔓延(まんえん)し、干ばつが頻発し、暴動が起きてばかりいる俗世を超越した世界だった。無条件に信仰を受け入れるこの人々のために、エチオピア・コプト教会では、弱い肉体ほど強靭な魂を宿すと説く。その究極の境地を目指して、多くの修道士が過酷な断食をしたり、T字形の杖を支えに、一度に何日も立ち通しで祈りを捧げたりして、自分の肉体を衰弱させていく。そんな祈りの報いとして、彼らは神と直接に話ができる幻や、神が神秘的な使者の姿となって現れる幻を見ることができる。

ホテルに帰ろうと歩いているとき、ふたりの物乞いと出くわした。コプト教のヘビのように、ひとりは実直で、ひとりは腹黒だった。「あなたがたのために祈ってさしあげます。そうすれば、神はお聞きとどけくださるでしょう。ラリベラは世界の中心ですから」と最初の物乞いが言った。私はポケットに手を突っ込んで小銭をひとつかみ取り出した。もう一人の物乞いは、道の脇にぼうぼうと生えている草むらに隠れていて姿が見えなかった。「おい、あんた。聞け、聞けよ。俺はシカゴに行ったことがある。シェラトンに泊まった。100ドルくれ」と、物乞いは人をおどすような声で言った。

<市井の女性たち>

ダウィートとデウ゛ィットとスーザンの三人は、ベト・ゴルゴダ教会を管理する司祭に誘われて、彼の粗末な家に立ち寄っていた。司祭の妻のゲタチェウが迎えてくれた。彼女は、見学者と巡礼者の寄付の収入を補うために、素焼きの壷と竹と少しばかりの銅管で作った手製の原始的な蒸溜器で、アワに似た穀物を発酵させたものから乳白色のウォッカのような酒を造っている。「自分は炎に焼かれてしまったんです。」と彼女は悲しげに言った。その目と肌は火ぶくれができ、やけどで黒ずんでいた。市から外れた場所にいた陶工たちと同様、彼女も社会の除(の)け者なのだ。子供たちを養い、将来にいくばくかの希望をもたせてやるにはこうするしかない、そういう人生しか送れない運命なのだ、と彼女は語った。希望などほとんどもっていなかった。物心ついて以来、国土が干ばつや疫病、戦火に見舞われなかったときなど覚えがないからだ。「この世の地獄を見てきました」と彼女は言った。

<聖都アスクム>

アスクム*が聖都となったきっかけは、はるか昔の伝説の中にたどれる。それは、アウレともワイナバとも呼ばれた蛇王に、町中が恐れおののいていたときのことだった。

言い伝えによると、そんなある日、マケダというひとりの勇敢で美しい娘が、アウレに近づき、平然と相手を見定めると、なんとその首を切り落としたという。アクスムの町は歓喜と感謝の念にあふれ、住民はマケダを自分たちの王に戴いた。アクスムの「シバの女王」の誕生だ。ほどなく、女王はエルサレムに旅をして、そこでソロモンと互角に渡りあった。ーーー少なくとも、ソロモンが奸策を弄(ろう)して女王の寝台に潜りこむまでは。その結果、神の太陽がエルサレムを見捨てて、「エチオピアへ飛びさる」ことになったのは、先に述べたとおりだ。エチオピアへ戻る途中、マケダはマイベラ(現エリトリア領)の泉のほとりで男の子を産み、メネリクと名付けた。「王の息子」というのが文字どおりの意味だ。メネリクはアクスムで育った。22歳の時、メネリクはエルサレムを訪れて父と対面し、エチオピアを文明国として繁栄させるために、相談役や職人たちを召し抱えた。

(♡うららのボソボソ。。。つまり、ソロモンの宮殿に仕える優れた廷臣や職人などの専門家をエチオピアに連れて行ったということらしいので、やはり、ソロモンのいたエルサレムのほうがずっと優れた都だったし、優れた人材もたくさんいたということなのでは?)

この時、若きメネリクは「契約の箱」を盗み出すという暴挙に出た。「契約の箱」が盗まれたと知ったソロモンの悲嘆は、それは激しく、とどまるところを知らなかった。慰めようのない悲しみに打たれた王は、貴重な時間を費やしてメネリクをエジプトまで追ったが、「契約の箱」はすでに手の届かぬ彼方へ去り、アクスムへの途上にあるという事実を突きつけられただけだった。

『ケブラ・ナガスト』によると、メネリクが「契約の箱」とともに意気揚々とアクスムに帰った日、シバの女王は住民たちをひとり残らず招いて、豪勢な宴を催したという。その後、今日に至るまで、毎年11月下旬になると、この日を祝う行事が行われてきた。

シオンの聖マリア教会と、それよりずっと古いもうひとつのシオンの聖マリア教会、そして礼拝堂が並んでいる。古いほうの教会の付属建築として建てられた小さな礼拝堂は、風雨で傷み、金属の装飾は錆び、塗装は色あせてはげ落ちている。屋根も雨漏りしているにちがいない。エチオピアのコプト教徒たちは、この礼拝堂奥に至聖所に、本物の「契約の箱」が安置されていると信じている。ひとりの修道士が番人として礼拝堂にこもり、この格別に重要な聖遺物を守っていた。番人は、その晩も日々の習慣にたがわず、真夜中になると香を焚いて徹夜の祈りを始めるのだろう。翌日の午後3時、十五時間を過ぎてようやく、番人は日課の礼拝を終えて休息に入る。

★★★ 礼拝堂に隠されているのは、大いなる神秘か、大いなるでっちあげかのどっちかだ。


〜〜〜 引用おわり 〜〜〜〜〜

*アクスム l NHK世界遺産
アクスム l エチオピアのみどころ(観光)MAP l 西遊旅行
『シバの女王』たち南アラビアのサクソン軍団がアクスムに到達したのは10世紀と書かれていますが、実際はもっと遅く、9世紀くらいのようです。

世界のロマンミステリー、古代遺跡に残された5つの巨石の謎:カラパイア

テラコッタの証言

つまり、アフリカでは、B.C.3500頃には、すでに鉄器が存在していたということになりますよね。ということは、アナトリア半島でヒッタイトがヤペテ系シュメール人を征服し、鉄の製法を獲得するB.C.2000年頃より、ずっと以前に(このサイト主さんは、B.C.6000年頃までにはと考えている)、アフリカでも鉄の精製が行われていたということで、アフリカ大陸で正当なハム系シュメール人が活躍していたということになりますね。つまり、非常に高度な文明を持っていたシュメール人は、ノアの洪水前から鉄器の製造をしていたということかもしれません。

ミルラの秘蹟(ひせき)

アフリカの原住民が鉄器などの重金属の精製をしていたということですが。。。それはちょっと考えにくいような気がします。そうであれば、もっとアフリカ系住民は積極的にアフリカ内部や外部の地に遠征していたでしょうし。となれば、現在のようなアフリカ原住民のような非文明社会のような感じの人々はとっくにいなくなっていたのではないでしょうか?わたしの推測では、やはり、プント人はハム系(訂正:セム系でした!)シュメール人の一派だと思いますが。。。あのエジプトの壁画に残るプント王族の姿はあきらかに後世になって改ざんされたものでしょうから、あのように真っ黒な肌であるとは限りません。

ローデシア

ザイール=コンゴ民主共和国

奴隷貿易・・・A

上のサイトA「奴隷貿易」の説明にあるヴァイキング*によりスラブ人が奴隷にされたというのはウソです。また、「アッバース朝以降のムスリムによりトルコ人が奴隷にされた」とありますが、そうではなく、アッバース朝の領土となった主にトルコと、その周辺にいたヤハウェ系(人間)がたくさん奴隷にされたのだと思います。

*ヴァイキング
ヴァイキング ウィキペディア
ヴァイキングは、アングロサクソ脳族に率いられたサクソン(ヨーロッパでは"ゲルマン")軍団に侵略され征服された北欧=スウェーデンの西部(東部はとっくの昔に征服されていた)、ノルウェー、デンマークのヤハウェ系(人間)たちが故地を征服されたことによって、襲われたゲルマン軍団の地へ逆に奪われた人や物を取り返しに行って起した戦いだったり、AD8世紀以降はノルウェーまで完全に征服されスカンジナビアやデンマークに居場所を失ったことにより、海外に移転していった過程でのゲルマン軍団との戦いだったと思われます。アングロサクソ脳族の歴史ではヴァイキング(海賊)として悪者にされていますが、ほんとうは彼らヴァイキングのほうが正義であり良い人たちです!!!

また、「中世のイスラム圏での奴隷のほとんどがゲルマン人(ウソ!)、スラブ人、中央アジア人、バルカン人で黒人は少数であった」とありますが、ゲルマン人ではなくケルト人で、中央アジア人やバルカン人というのは曖昧で、そこには中世にはサクソン系が多く住んでいたようでので、奴隷になってはいないはずです。とにかく、ヤハウェ系(人間)が奴隷にされていたということには間違いないようです。

中世のヴェルダンは、ハプスブルグ家出身の皇帝が統治する「神聖ローマ帝国」領土であったり、時にフランスのヴァロア朝(ヤハウェ系)の領土だったりで、中世においてはヤハウェ系王朝が統治していたので、宦官の製造などするわけありません。

前述のように、トルコ人という定義は曖昧ですがオスマン帝国下に住んでいたヤハウェ系が奴隷にされたのでしょう。タルタル人とはタタール人のことで奴隷売買の対象になるわけありません。

ヨハネス22世はピレネー地方の出身でヤハウェ系の教皇のようです。だから、ジェノヴァに警告したのでしょう!

『奴隷』の代名詞が黒人になったのは、大西洋奴隷貿易以降の時代のことであって(そうではなく古代からアフリカ大陸内で黒人の奴隷売買は行われていた)、それまでの『奴隷』の代名詞はゲルマン人(ウソ!奴隷にされたのはケルト人です!)、スラブ人だった。(ウソ!それ以外の世界各国でヤハウェ系=人間がアングロサクソ脳族やサクソン系の奴隷にされたいました!中国でも、日本でも、東南アジアでも。。。至る所で)

『歴史』の項目のところで、ベルベル人が奴隷にされたのはほんとうでしょうが、ウィキのベルベル人のムザブ人の少女の写真は『新生ヴィーナス』(梶美奈子さん)の変装した姿の写真ですし、その下のベルベル人男性の写真は清水国明ことサクス・コーブルグ・ゴータ公カール・エドゥアルトの変装した姿です。また、トゥアレグ人はベルベル人ではありません。

ベルベル人 画像集

「バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金は奴隷貿易によって蓄積された資本であると伝えられている。」とありますが、バークレーはそうかもしれませんんがよく分かりません。しかし、ジェームズ・ワットは本物のロスチャイルドであり、発明にそのような汚いお金を借りるはずがありません。それなりに自己資金は持っていたはずですし。そんな莫大なお金を使わなくても発明はできます。

日本でも、明治維新以降、たくさんのヤハウェ系女性が海外に売春婦(性奴隷)として売られていったようです。


シバの女王

つまり、プント王国のシュメール人たちは、アフリカ中央部のシェバなどのアフリカ原住民のアマレク人の族長になんらかの利益を与えることと引き換えに採掘権を得ていたのかもしれません。そして、族長の下にいる原住民を雇って、採掘していたのかも。。(訂正:プント王国=ヒムヤル王国は『シバの女王』率いる「南アラビア王国」(現・イエメン)に征服され、プント人は奴隷されていたのです!)それで、『シバの女王』とワタル1世(象二郎)たち=シェバ=アマレク人の族長=戦士の長と巫女(母系社会だったため女の巫女が絶大な力を持っていたかも?)は大金持ちになり強力な権力をもつようになったのかも?

定着者たち

うららおばさんが考えるには、ハム族はアラビア半島から紅海を経てアフリカに渡っていき、中央アフリカに定住したんじゃないかな?その後、ハムの長男クシュがナイル川を下ってエジプト方面にいって、エジプト文明を築いたのでは。(間違いでした!)

(以下訂正)〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

BC9~8000年頃に「天上の島ラピュタ」から地上に降りたノア一族は、当時、地上で唯一比較的気候が温暖だったメソポタミア〜エジプトに至る肥沃な三日月地帯に定住していました。

そして、ノアの次男ハムの一族はエジプト文明(シナイ半島からエジプトへ)を築いたのですが、シナイ半島に住んでいたハムの子孫の妻の召使い?に『シバの女王』(後の「新生ヴィーナス」)が化けていたので、その妻には子供が生まれず(シバの女王が子供が生まれない薬を混入していた)、召使い(シバの女王)との間に子供ができたのでは?(旧約聖書のアブラハムの物語を参考)その子供「イシュマエル」=「ニムロデ」=『象二郎』(シバの女王のクローン)は、母親であり、妻である『シバの女王』(=後にイシス女神になる)と結託して、プント人たちの都市国家(ノア一族=ラピュタ人の長男セムの子孫の一派)のあった南アラビアまで侵攻し征服。

プント人の一部は対岸のジブチに逃げて、新たにヒムヤル王国(=プント王国)を築く。しかし、その後、彼らの逃亡地を見つけ出した、超しつこいストーカー『シバの女王』はサクソン軍団を引き連れて、反重力装置を使ってアラビア半島南端から紅海を渡ってアフリカ大陸のジブチに侵攻し(これがモーゼが杖を打って紅海の海水を開いて対岸に渡って行ったのが『エグゾダス』(=旧約聖書の『出エジプト』、しかし、EXODUSの意味は、ただ単に「大移動、移民団などの出国」)です。これがBC1275年頃* のようです。そして、またまた「ヒムヤル王国」(=プント王国)を侵略し征服したようです。

*エジプト歴史年表
カデシュの戦い(1274年)
この当時のエジプト王はラムセス2世で、ヒッタイト王はムワタリでした。ヒッタイトと戦ったということはラムセス2世はヤハウェ系のファラオだったということです。

『シバの女王』とは。。。6 イエメン(マーリブ、シルワ、アル・アラム)
BC1200~1000年頃、初期の統治者「ムカルリブ」のことをム・ワタリと呼んでいるのでは。。。つまり、象二郎のことでは?ということは、彼らはヒッタイトです!そして、新アッシリア帝国と同盟して以降のBC695~660年に統治していたカリビル・ワタルも象二郎で、シルワの巨大な石版には、遠征で3万人を殺し、7万3千人を捕虜としたことが誇らしげに書かれているそうですが、きっとエジプト王朝を征服したからでしょう。(←アッシリア王エセルハドンの侵入**)また、下のほうに、アル・アラムの共同墓地について書かれていますが、小さな人たちの住居ではなく、共同墓地で紀元前3000〜5000年にさかのぼるものとあり、プント人が造ったものと思われます。

** 古代エジプト
エジプト末期王朝を参照してください。


さらに、『シバの女王』たち南アラビアから侵攻してきたサクソン軍団は、BC800年代までにはエチオピアに侵攻していたようです。その後、『シバの女王』が現シリアのダマスカスに駐留していた「新アッシリア帝国」の『サルゴン2世』(=後のイスラエル王『ソロモン』)を訪問し、「イルラエル王国」侵攻に関する協約を取り交わし(これが旧約聖書の「シバの女王」が「ソロモン王」を訪問したくだり)なのではないかと。。。

(推察)シバの女王:「わたしが上エジプトに攻撃を仕掛けさせるから、エジプト王国はそれに応戦して、エルサレム王国に援軍を出せないでしょ〜。その隙に、あなた(スレイマン1世)がクライヤにいるわたしのクローンの『シバの女王』(『イスラエル王国』の一部である南部のユダ族)とベニヤミン(ベンジャミン)族がダビデを裏切って軍勢をだすからをわたしたちコウモリ族ヴァンパイアが得意な夜半に首都エルサレムを急襲し、挟み撃ちにしてダビデの軍勢をやっつけてやりましょうよ〜!ね〜💓」(な〜んて話を持ちかけて)

スレイマン1世:おお〜、それはありがたい!余(よ)もイスラエル王国に何度となく侵攻したのじゃが、イスラエル軍はその度にうまく立ち回りおって、われらが軍勢をうまく蹴散らしてしまい苦戦しておったのじゃ。ほんに、そなたはヘビのごとく策略に長けておるわ、よ〜(く)知恵がまわるの〜!(ほめ言葉)恐れ入ったぞ! われらは元々仲間じゃ〜 仲よくしようぞ 💕 
(な〜んて大歓迎したのでした〜!)

てな具合に話は上手く成立し、サルゴン2世&『シバの女王』のコンビは『イスラエル王国』を挟み撃ちして征服したようです。これがBC900年頃となっていますが、わたしは、実際はBC700年代だと推察しています。なので、イスラエル王国の王ダビデがバテ・シェバに誘惑されてウリヤをわざと危険な戦地に送ったとか、バテ・シェバとダビデの子がソロモンというのは全てアングロサクソ脳族の捏造(ねつぞう)した大ウソの歴史なのではないでしょうか?さらに、671年頃には新アッシリア王「エセルハドン」、「アッシュールバニパル」がエジプトも征服していったようです。また、アケメネス朝ペルシャがヤハウェ系の新バビロニア(滅亡時、無血開城したというのは大ウソ!)を征服したようですが、全部裏で『シバの女王』&「サルゴン」が操っていたようです。

(訂正終わり)〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜

プント王国=ヒムヤル王国は、ハム一家(間違いでした!セム一族の一派)がアラビア南部と、その後、中央アフリカに進出して築いた王国のようです。

( 2014.05.26 10:50 p.m. 加筆修正完了)
by Ulala-lov | 2011-05-23 23:10 | シバの女王