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『シバの女王』とは。。。  5-1 北部・南部アラビア

引用〜簡略版〜〜〜〜〜〜〜〜〜

9.『ザビビとサムシ』

聖書に名高いイスラエルの町ベエル・シェバへ入って行く。(p151〜)
アブラハムはこの地に居を定め、はるかな地平線まで続く白いまばゆい荒野、ネゲヴ砂漠を見渡していたという。アブラハムは警戒心が強く、それは子孫も同様だった。

ベエルシェバ・・・A

シバは遠方から(エルサレムのソロモンの宮殿へ)やって来たのだろうか。それとも近隣からか。どこか近くだとすれば、アマレク人(聖書でイスラエル国境線を脅かすアラブ人の総称)だったのかもしれない。ベエル・シェバでは、アマレク人はさほどの脅威ではなかったらしく、ときにはイスラエルの民と手を組んでさえいたかもしれない。ベエル・シェバから南に下ったアマレク人の地を歩いてまわった。*私は、「小要塞」と呼ばれる20の建造物が円弧をなす遺跡にすっかり魅せられた。アマレク人の避難所だったのかもしれない。そうでなければ、イスラエルのベエル・シェバ国境線の前哨地、今日でいう土嚢を積んだイスラエル軍の駐屯所のようなものだったのだろう。ネゲブの小要塞はどうやら短命だったらしく、数十年使われただけで、そろって哀れな末路をたどったことが、灰の堆積層から見てとれる。ことによるとその寿命はソロモンの治世と重なっており、灰の層は、王の死後数年してパレスチナがファラオのシェションク一世(聖書ではシェシェク)の侵攻を受けたという証拠かもしれない。もしこの年代の一致が考古学によって立証されれば、当時、丘陵地帯の指導者だったかもしれないソロモンの領土が、聖書にある「シュルの道」や「偵察の道」をたどるキャラバンから通行料を取りたてるために南まで広がっていた可能性を、これらの小要塞は物語ることになる。

パレスチナ地方の地図
上の地図で、先のAの地図にあるベエル・シェバの位置と下のBの地図にあるクライヤの位置を確かめると、確かにクライヤはベエル・シェバの南に位置します。なので、クライヤはアマレク人の居住していた区域のようです。


ベエルシェバ〜エルサレム編 〜フォートラベル

シバの女王の一行は、ネゲブ砂漠ではないにしても、隣の、あるいはそのまた先の青黒くかすむ山々をこえてやって来たという可能性はないだろうか。シバの祖国発見に取り組んだ学者たちの多くが、そう推論している。聖書でミディアンと呼ばれる地方にはオアシスが点在しており、そこから一連の古代交易拠点が誕生した、と彼らは指摘する。シバはその交易拠点のひとつ、あるいは全部を掌握する女王だったのかもしれない。ミディアンには金があったという記録がある。聖書時代にキャラバンが組まれるに足る理由と言えるだろう。


<ミディアン調査開始>

何か月も後、サウジアラビアに入国許可を再三にわたり申請していたが、数週間前に、ささやかな考古学研究のための旅行計画が承認されたのだ。エクナフ峡谷を進むと、その両側の岩の崖は絵や文字で埋めつくされており、アラム語あり、ギリシャ語あり、ナバテア語、サファー語、リフヤーン語、タムード語、サバ語もある。たくさんの部族のおおぜいの人がミディアンの地を通り、痕跡を残していった。岩に彫られた文の内容が信仰心あふれるものであることから、エクナフ峡谷は、神々が降臨し、香料やエキゾチックな商品を運ぶキャラバンを祝福しねぎらった場所として知られていたのかもしれない。文には「香水、香料」の意味の言葉が頻繁に登場する。近くに複数の集落があったことを裏づける内容の文がたくさんあるという。また、ここからわずか数キロのところにあるアル・ウラーの大規模遺跡には、そのような宮殿が実在したかもしれない。そしてそれが、シバの女王の宮殿かもしれない。ここが女王の国ならば。驚くべき一連の碑文が見つかっている。その碑文は正式に銘板に刻まれていて、この地ではなく遠くアッシリア(現在のイラク)から出土した。☆★銘板を継ぎあわせてみるとその昔、ミディアンを駆けめぐり、統治した女王たちの王朝の存在が明らかになる。

シバの女王 不思議館〜古代の不思議〜

マップナビ2 シバの女王(紀元前10世紀)・・・B

<暴れん坊の女王たち>

「アリビ」(アラビア人を指す最初の表記)の女王として世に知られる最初の人物は『ザビビ』た。B.C.738年にアッシリアの君主「ティグラト・ピレセル3世」に屈服させられ、貢ぎ物を強いられた統治者の長いリストにその名がある。' アリビには、それ以前にも多くの女王がいた’と思われる。後を継いだ女王『サムシ』はアッシリアを悩ませる存在として碑文に記録されている。サムシがB.C.733年に、覇王ピレセル3世への貢ぎ物を止めて王への忠誠を捨ててしまった。そのため、アリビの民は、あちこちで彼らの集落を襲われて略奪を受け、サムシは砂漠への逃亡を余儀なくされた。そこで追いつめられ、捕らえられるが、死刑にもならなければ投獄されることもなかった。「サムシが’我がくびき’(=貢ぎ物)を受け入れた」ことに満足したピレセル3世は、サムシが王座にとどまるのを許した。ただし、目付役を女王の宮廷に差し向けて挙動を監視させた。ピレセル3世を彼女なりに困らせたあげく、この「四界の王」より少なくとも12年は長生きした。

失策を重ねながら、それでも民に退位させられなかった女王は、サムシだけではない。この系譜に連なる次の女王『イアリエ』もアッシリアに謀反を起こし失敗し、その後の『テルフヌ』も同様の試みをして、ニネヴェに追放された。さらにその後、ゲリラ的な急襲を企てたアリビの女王、イヒルの『バスルウ』とディハニに『イアパ』も、案の定、業を煮やしたアッシリアに制圧された。この王朝を初期までさかのぼれば、シバの女王に行き当たるかもしれない。

私は猛々しいアラブの女王は決して珍しいわけではないことを知った。ザビビやサムシの砂漠の国以外に、さらに42人ものアラブの女性君主がいたという記録が残っているし、記録に漏れている者も同じぐらい存在したと歴史家は見ている。ボッカチョの「才女伝」(1362年)には、アラブの女王を「聖なる者と呪われし者の見分けはつかず、大罪を重ねるうちに慈悲心は圧倒され、血に餓えた残忍さに変貌する。・・・・なんと驚くべき女王への道!」ボッカチョは、ザビビやサムシと肩を並べるアッシリアの女王『セミラミス』にとりわけ魅了されていた。髪の手入れの途中で謀反の知らせを聞いた女王は、そのままで立ち上がり、それを鎮圧するまで髪に櫛(くし)を入れさせなかった。

'うららおばさん’の感想

アラブの女王たちは、みな男勝りで、猛々(たけだけ)しく、罪や失敗を犯しやすいし、血に餓えた残忍ささえもっている。それでも、なぜか、死刑や投獄になったりせず、退位させられなかったりという幸運に恵まれている。どうしてなんでしょうね〜? ボッカチョがセミラミスに魅了されたように。。。また、ナチスヒットラーに魅了される人たちがいるようになんでしょうか?  それとも、敵の将軍や王にハ二ートラップを仕掛けるからでしょうか?(結局、元々サクソン系の仲間だから。。。2014.06.03)

<期待のクライヤ遺跡で>

北アラビアの「クライヤ」は聖書に登場するミディアン人の王都として有力視されている。B.C.1750~1050年のものと特定できる様式は優に10を超える。この砂漠の都市は、エジプト新王朝とメソポタミアを結びつける役割を果たした。ところがこれらふたつの大帝国の衰退後、クライヤの陶器が歴史の流れから姿を消す時期がある。その空白は、シバの女王が聖書に登場する一世紀前に発生するため、クライヤをシバの都と考えるのはいささか無理がある。この都がようやく活気を取り戻し、再び繁栄するのは、その後、数世紀経ってからだ。

ミディアンの黄金は伝説にすぎず、アラビアでは金は採れるが、それは、ミディアンの南、イエメンにかけてで、たくさんの金がとれるとか。でも、ミディアンでは採れないと分かる。結局、クライヤがシバ国という説はいろいろな観点から形勢不利になる。

< P.S. > 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜
(ところが、後にシバの女王はアマレク人の族長(巫女?)の娘であり、ミディアン(クライヤは首都)はシバの女王の国と分かります。この本の後述で言及されています。2014.06.13 また、わたしなりに以下でも説明します。 )


ミデヤン人

このミディアン人=アマレク人のようです。セム系民族というのはウソです!(セム語族ではあります)また、遊牧民などではなく、サクソン軍団という侵略軍団です。モーセ(象二郎)の妻はミデヤン人とあります。つまり、モーセの妻はアマレク人(=シェバ人)である『シバの女王』(後の『新生ヴィーナス』)です。旧約聖書の民数記に書かれていることは、シバの女王とソロモン王(サルゴン2世)からの視点であり、聖絶の対象として虐殺される場面は、実際には、『シバの女王』やソロモン王たちサクソン王族たちからダビデ王などヤハウェ系の人々(人間たち)が虐殺される有り様を描いているというのが真実でしょう。
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12. 『アラビアの彼方へ』

<イエメンの砂漠を行く>

博識のベルギー人イエズス会士ジャム神父がアル・ウクラの碑文から導き出した結論は、この地がハドラマウト王国の王の戴冠式に使われていたというものだ。なぜこんな孤立した寂しい場所が?山頂がハドラマウト人の宇宙論で重要な位置を占めていたことが十分考えられる。
ひとつの儀式のために遠方から集まった高位の人々を記念した碑文も一組ある。古代社会ではアラビアの香料は非常に人気が高かったので、これらの人々は、カルデア(イラク)、ヒンドゥ(インド)、タドモル(シリアのパルミラ)から、はるばるやって来たのだ。また、(北・中央アラビアのヒジャズ地方の)クライシュからは、14人のご婦人が訪れた。高級娼婦かもしれないが、ここがこのうえもなく神聖な場所だったことを考えると、それは疑わしい。尊ぶべき使節だった可能性が高い。シバの女王と同じように、彼女たちは国の外交のために遠く旅してきたのかもしれない。

地元の有力者のアリと著者の一行とガイドの「高地のフセイン」と運転手の「砂漠のフセイン」を交えた夕食のあとの話、砂漠の話やアラブ世界の話で、シェヘラザードのような夜が続く。ここにいるイエメン人たちが受けたいちばんの教育は、村のモスクの中庭で行われたコーランの授業で、コーランに載っている人物や出来事であれば、それがほぼ一字一句たがわずに語られる。コーラン以外となると、彼らの語りは、出典の幅広さで驚異的で、こちらがとまどうほどだった。

アリーの話
高地のフセインがシュメールの女神イシュタル(シュメールのアスタルテ)何気なく口にした。イシュタルのことは誰でも知っているとのこと。アサは、キリストのアラビア名で、アサの話もしてくれた。後から分かったのだが、『聖トマス幼児キリスト福音書』が元になっていた。

高地のフセインが思いをめぐらしながら言った。「ベドウィンにとって、この世の物が、何の役に立つ?
どんな意味があるというんだ?」 

「俺のトヨタのランドクルーザーは良いものだ」と砂漠のフセインが間髪入れずに答えた。「食べ物は良い。カートも良い・・・」

高地のフセインが指を一本唇に当てて言った。「わかった。だが、髪の前に立ったとき、物が何になる?物語や言葉があるとき、物がなんだ?考えてもみろ、何もかもがハラース(終わった)なら、ひとつの言葉だけ、大事なのはひとつの言葉だけ・・・・それは自分の名前。人にばかにされたりしないで、敬ってもらえること。人が墓に祈りに来てくれること。名前をささやいてくれること。


’うららおばさん’の感想

運転手の「砂漠のフセイン」さんは、どうもベドウィン出身のようですし、ガイドの「高地のフセイン」さんはベドウィンだと思っているけど実は、シュメール人系のクライシュ氏族の人かもしれませんね。とても、人としての尊厳(仁に通ずる?)を重んじる人みたいですね〜
by Ulala-lov | 2011-05-18 00:24 | シバの女王