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古代日本にやって来たシュメール人とサクソン軍団 (1)

日本の大和朝廷の成り立ちは不明な点が非常に多いのですが、これはプレ大和王朝である「出雲朝廷」(実際は石見地方にあった『石見朝廷』)のほうがはるかに古代から存在していて全国をその支配下においていたことを隠したいがためのようです。後の征服王朝が様々な手段を用いてその証拠隠滅を謀ったためでしょう。その征服王朝というのが、九州から来た「倭連合国」の中心となっていた高千穂にある倭王朝で、その大軍がその出雲朝廷に戦争をしかけて戦いに勝ち、日本全土を手中に治めるようになったということではないでしょうか? 
(以下のリンクサイトはすべて、わたしが作ったものではありません。わたしがネットで調べて探し出したものです。サイト、ブログ主様には断りなく勝手に載せさせていただいております。3939 so much〜!♡ デヘッ ^_~; )

司馬遼太郎が書く出雲王朝 - 探求三昧 by N.Momose
(シュメール=ヤハウェ系は、B.C.5000年くらい前に東北地方から日本に渡来してきました。一方、蛇龍系=オロチ族のツングース族は、もっと後からB.C.2000〜3000年くらいからアムール河流域からタタール海峡(間宮海峡)を渡り、サハリン経由で北海道からやって来たようです。)

橿原神宮 ウィキペディア

神武天皇は紀元前660年に、橿原宮(奈良県)で即位したとありますが、最近では、それは、紀元後2〜300年頃と考えられているというのを見たのですが(多分これが一番有力説)、いろいろな説があるようです。

橿原神宮

実際、旧暦の10月が全国では『神無月』(かんなづき)と呼ばれているのに対して、出雲地方だけは、10月を『神有月』(かみありづき)としていたのです。10月は、古代にあっては、全国の神々が出雲に集まり会議を開く月だったのです。そのため、出雲大社の拝殿の裏手には、神々が泊まるための宿泊所まで建てられているのです。現在でもそれを見ることができます。(でも、非常に簡易なものなので休憩室か、ロッカーのような所だったのでしょうか?実際に各地から集まった神=王たちが泊まったのは近隣の宿屋だったんでしょうね。)ここは、出雲の「大社町」という所にあり、’うららおばさん’も子供の時から、そして、大人にからなってからも何回か参拝したことがあります。また、わたしは、学生時代に松江で、『出雲風土記の旅』(確かそんなふうなネーミングだったような?)というハイキングに参加したことがあり、実際に、「神有」と屋根のあたりに書かれた神社(名前を忘れました)や、八重垣神社*などを見て廻ったことがありますよ。
(しかしながら、本来は石見で神様たちの会議が行われていて、石見地方が神有月となっていたと推察されます)

神々の出雲を詣でる・八重垣神魂(かも)編

ここの池で、わたしもそこに置かれていた紙に五円玉を載せて水に浮かべてみました。ちょっと時間がかかったような。でも、ちゃんと沈みましたが。なかには、ずっと沈まなかったとかっていう人の話を聞いたことがあります。まっ、当たるも八卦、当たらぬも八卦! *
* 当たるも八卦、当たらぬも八卦

「八雲立つ風土記の丘」

ノアの洪水がもしかしたら、B.C.8~9000年くらいの時だったとしたら、その子孫の中には、早々とノアの命令どおりに東方に向かった集団がいたのではないでしょうか?(これが末子のヤペテらしいです)そして、それは、メソポタミアの北部からずっとロシア南部〜中央アジア北部〜ロシア南部あるいは朝鮮半島を経て〜日本にやってきた一団がいたのではないでしょうか?

そして、その北方からのシュメール人集団(=ここではヤハウェ系)が縄文人になったのではないでしょうか?縄文人と名付けたのもアングロサクソン王族歴史の中での侮蔑語でしょう。原始的な縄文文化はアングロサクソン王族の演出した見せ掛けで、古代メソポタミア文明のように相当高度な文化だったと推察されます。

そして、ちょうど、B.C.8000年くらい(今から1万年くらい前)に大陸とつながっていた日本列島が、大陸としだいに離れていき海を隔てた島になっていく過程で、B.C.5000年頃に大国主命=大黒様(だいこくさま、=大国様?)*がそのシュメール人(ヤハウェ系)集団を率いて、日本に渡って来たので、大国主命の「国引き伝説」が生まれたのでは?ただし、この時代では、王の名前は、世襲名(せしゅう名)とされ子孫に引き継がれていたようなので。そして、そのず〜っと後に、サクソン軍団が次々にやって来て、とうとう日本を征服。さらに、その出雲族(本当は石見族?:島根県の大田市や邇摩郡(仁摩町仁万)は、ちょうど出雲地方と石見地方の中間地点にあります。)に強引に婿入りした大国主命というのは偽大国主命(=偽スサノオノミコト)です。しかし、その後、本物の須佐ノ王命(スサノオノミコト、この名前も世襲名)に率いられたセム系の蘇我氏が日本にやってきて、同じヤハウェ系の蝦夷(えぞ)族や熊襲(くまそ)族(両族ともサクソン王族による蔑称)と連携してサクソン軍団に勝利し日本を解放したのです。

ところが、その後、朝鮮半島からウサギに例えられた女(多分、新生ヴィーナス)がウソをついてズルをしてワニ(=サメ)に例えられた男たちを利用し楽をして日本海を渡ったって日御碕に上陸したのですが、最後に、ウソであることをバラしたので、ワニたちにひどい目にあって苦しんでいたらしく(というのもウソで、本物の大国主命をハニートラップするために"わざと" 強盗に襲われたふりをして、自ら我が身を傷つけて自作自演の怪我をさせられたふりをしていたのでしょう)、そこに予定(計画)通りに、本物の大国主命(この時の大国主命は多分、同じヤハウェ王族の蝦夷王系と熊襲王系と蘇我王系とで婚姻していて混血していた)が通りかかり、怪我をしているウサギ(女)がそんなワルワル女王とは知らずに治療して救って結婚までしてしまったというのが「因幡の白兎」の伝説なのでは?つまり、そのウサギことワルワル女王が蘇我入鹿惨殺を始め蘇我氏を滅亡させた『乙巳の変』クーデターの首謀者である皇極天皇(実際は天皇ではなく、当時は蘇我入鹿大王{天皇}の側室だったのでしょう=後の斉明天皇=新生ヴィーナス)だったのでしょう。(2014.03.23訂正)

アングロサクソン歴史では、シュメール人=スメラ人で元々は彼ら自身(サクソン系)のことなのですが、いつもの捏造(ねつぞう)で、ヤハウェ系のことをシュメール人と呼んで、自分たちの歴史上犯して来た数えきれない大虐殺や大破壊などの巨大悪をすべてヤハウェ王族に罪を転嫁させる意図もあってか、わざと歴史を混乱させるような呼び方をしているようなのです。

(このヤハウェという言葉も旧約聖書の神に使われている言葉なので、ほんとうに適切な言葉なのかどうか分りませんが。。。とにかく呼び名は必要なので、一応、そういうことにしておきましょう。要するに、ここでわたしがヤハウェ王族といっているのは、火星からの巨大な隕石の落下により、ノアの箱船で大洪水の難を逃れたノアの一族の子孫ことです。しかしながら、ノアの子孫以外にも洞窟や縦穴式住居や横穴式住居を掘って大洪水の難を逃れ生き残って子孫を増やしたヤハウェ王族やヤハウェ系の人々はわずかながらもいたのかもしれません。)

大黒様
大国主命は、後のアングロサクソン王朝の大和朝廷により、彼らの宗教の神を押し付けられて、その風貌や人格などの実像を改ざんされてしまったようです。
(←つまり、大黒様はヒンズー教の神様のことらしく、本当の大国主命とは違うようです。2014.03.23 追記)

「大黒様」の歌

アングロサクソンの捏造歴史では、偽大国主命=大黒様が日本の国を開いたとしています。この歌もアングロサクソン王族たちの意図によって創られ、広められ、歌い継がれてきたのでしょう。大黒様が『国を開きて』と歌われていますが、(←しかし、最初に日本の国を開いたのは、ヤハウェ王族の本当の大国主命なのですが)大黒様とはヒンズー教のシバ神らしいです。なので、大黒様が最初に日本の国を開いたわけではありません。つまり、大国主命をインドで彼らが創設したアングロサクソン宗教「ヒンズー教」の神と同一人物に変えてしまい、まるで日本の国を開いたのはアングロサクソン王族の偽大国主命(=大黒様)であるかのように歴史を捏造するのに役立つ歌のようです。(2014.03.23 訂正)

出雲大社へプチ旅行〜郷土料理まきば

白兎神社

山陰の神話と歴史
(大黒様が黄泉に行かれたとかというのは、ゲルマンの北欧神話から来ているようです。北欧神話も、バラモン教、ヒンズー教、多くの新興宗教などと同じくわけの分からないことを延々と述べて、ほとんどの人が理解しがたいもので、思考の迷路に陥らせて(ほとんどの人々は自分が頭が悪いからまだ理解できないと思ってしまう)、思考停止状態にしてからマインドコントロールする迷走インチキ宗教です。ウィキの北欧神話(=ゲルマン神話)にはルーン文字がゲルマン族の文字かのように書かれていましたが間違いです。ルーン文字はケルト・スラブ系のヤハウェ系(人間)の古代文字であり、後にギリシャ文字などに変遷していきます。)

日本周遊紀行 美保関 「国引き伝説」

そして、B.C.2~3Cくらいに日本にやって来たセム系ケルト(=シュメール)の集団というのは、メソポタミア、ペルシャからインドを経て、さらに、中央アジア〜中国あたりを転々としていた月氏、大月氏です。

徐福船団は、実は中国の秦が周に滅ぼされたので、日本に逃げてきて、日本各地を侵略していった始皇帝=象二郎やアイゼンベルグやジョゼッペや『新生ヴィーナス』や『シバの女王』たちサクソン軍団だったようです。


徐福伝説

江蘇省地図

B.C.200年ころに日本は縄文時代から弥生時代に変わったとありますが、最近では、もっと早くB.C.10Cごろ(B.C.1000年くらい)からと考えられているようです。しかし、わたしはサクソン軍団の移住はB.C.3000年頃にはすでに始まっていて、シベリア東南部沿岸地帯アムール河か流域から移住して北海道に定住したのが一番最初だと推察されます。しかし、その後、B.C.10〜7Cごろからサクソン軍団の日本本土や九州・四国地方への侵略はだんだんと活発化していき、おそらく、シベリア東部沿岸から、中国南部から、朝鮮半島からと、それぞれに別れて何回も日本を攻めてきて征服して定住していき、先住民を農奴にして田畑を耕させたりしていたのではないかと思うのですが。。。

ですから、徐福たちもすでに日本にやってきていたサクソン軍団を頼ってやって来たのだと思われます。その中でも有力な王族たちがいたのが鹿児島県東南部(大山氏など)や宮崎県日向や福岡県太宰府あたり(山口県西部も)や、四国の高知県〜徳島県にいたアングロサクソン王族たちだったのでしょうかね?
上のサイトにあるように徐福の子孫たちはまさに日本で悪いことをやり放題にやっていた鬼たちなのです。
(訂正しました。2014.03.20)


下のサイトは「徐福研究」ともいうべき詳しい調査がされてるサイトです。

<徐福伝説は紀元前三世紀の史実だった>

弥生の偉業

倭人の先祖

徐福一族の古墳

福岡県八女市の「吉野ヶ里」が倭国(九州王朝)の都だったとかいう可能性が高いそうです。

徐福は弥生文明の先導者

ということで、稲作は縄文時代末期に既に定着していたと考えられているが、優れた品種や高度な水田稲作技術は、徐福一団が持ち込んだ可能性が高いということです。(アングロサクソン王族系の到来と彼らが征服して得た農奴による稲作なんじゃあ。。。?あ、それからラピタ人の数々の高度な技術も略奪して手に入れていたからね。)また、五穀の種と先進的な生産工具技術は、日本社会に農工経済および農業の発展をもたらし、階級的生産を行わせるようになり、これ以降に、つまり、縄文時代末期及び弥生文化初期に「階級社会」に入りはじめたということです。

総合考察と結論

上の「総合考察と結論」サイトの下のほうに、
☆『倭連合国』の創設者は『徐福』であるとしている☆と書いてあります。

出雲・大和一族系図

(現在のトルコ=アナトリア半島に古代あったフリギア=フェニキアも、元々はケルト人が住んでいたと考えられますが、B.C.ヒッタイトに征服されたのですが、ヒッタイトは、その国の名前をそのまま使っていたようで、それで、フェニキア人=ヒッタイトとなったようです。それで、大幅に縮小した、もとのヤペテ系の国は、’フ’を取って、「リギア=リディア」とかって国名になったようです。フェニックス=不死鳥=蘇り(よみがえり)=黄泉帰りを意味しています。ヤハウェ王族のセム系(ケルト系:言語のセム系とは全く違う)は、死んでもまた、新たな人となって生まれ変わると信じていて、一方、ヒッタイト系は生まれ変わりを信じないので、死なないようにしたいみたいです。わたしも、人間の魂は、何度も、違う人間となって生まれ変わって来るような気がします。’悪いことした人の魂は生まれ変わらない’とかっていう神様、エンマ様の采配*(さいはい)があれば、悪い人がいなくなるはずなんですけどね〜どうなんでしょうか?)
* 采配


♪♫♬~ この記事は書き終えてみると、あまりにも長くなってしまって読みにくそうなので2つに分けることにしました。この続きの後半部分は、5月10日の記事「(続)古代日本にやって来たシュメール人とアングロサクソン軍団」としました。引き続きお好きな時にお読みくだされば嬉しく思いま〜す!

(2)につづく

* コメント欄も見てくださいネ!   

by Ulala-lov | 2011-05-09 02:52 | 古代日本朝廷