2011年 01月 15日
(続4)幕末〜明治維新を駆け抜けた志士龍馬をヤッたのは誰?
まず、この当時の状況、つまり、西洋諸国のアジアへの進出が活発化し、アジア貿易の急速な拡大、そして、ハノーヴァー朝の仕掛ける戦争によってのアジアの植民地化、1840年代よりインドを手始めとするアジアでの銀行の開設など、これらの状況を大きく世界的な視点でとらえると、そこには、やはり、アジアにおいても、いままでの世界勢力のパターンと同じ、ケルト系とアングロサクソン系の2つの大きな勢力の対立が見えてきます。
もともとケルト系は古代ギリシャのアテネ派のポリスなどのように船を操(あやつ)り商業活動をするのが得意な民族のようです。一方、アングロサクソン系は、もともと騎馬軍事集団で他国をどんどん征服・略奪してきた民族です。彼らアングロサクソン系は、ケルト系のポリス(=都市)や国を征服し、ケルト系民族の多くを虐殺してきました。また、ケルト系の一部の者を奴隷として船を操縦させることにより、騎馬軍団から船に乗った軍団になり、遠くの国まで行き征服・略奪する、つまりバイキング(=海賊)もするようになりました。
さらに、彼ら(アングロサクソン系)は、植民地化する国=仮想敵国(1800年代当時のインド、中国、日本などもそうですが)にスパイを潜入させて、長年にわたる工作活動によりその国をアヘンで退廃させたり、内乱に持ち込んで植民地化するなど、その征服の仕方もだんだんより進化させ、もはや彼らアングロサクソン王族・貴族自身は武器を持たずに、仮想敵国の民同士が互いに戦うように仕向けるようになります。さらには、近年からは、「ハープ」という気象兵器を使って、雷、地震、津波、集中豪雨・干ばつ・極寒・極暑などの気象まで人工的に操り大量殺人をしています。したがって、このような戦争や自然現象を操っての大量殺害の仕掛人、つまり、犯人の姿(=アングロサクソン王族の犯人像)は、わたしたちにはとても見えにくくなっているのです。アングロサクソン王族・貴族たちは、まあ商業もするにはしますが、やはり、一番の特徴は悲惨な悪魔の戦争を起こして、その戦争によって世界中の国々を悪魔的に征服・植民地支配することでしょう。ただし、彼らのやり方は、『シオンの議定書』にも書かれているように自分たちの犯人像を巧妙に隠しながら、徐々に徐々に、まさに水滴を一滴一滴落とすように進めるのです。
★★★このことから、日本の明治維新への彼らの画策もやはり、そのパターンで行われたであろうと考えられます。
<外国銀行の開設>
以下の「英国東インド会社」の主要銀行と思われる「東洋銀行」について書かれています。アドビーからの記事なのでリンクで表示できないので、コピーします。
(以下ごく一部を下記に引用) 〜・〜・〜
<「東洋銀行」(=1842‐1884年)について>
(東北大学鈴木俊夫)
東洋銀行Oriental Bank Corporation(1842年設立の西部インド銀行Bank of Western India が1845年に行名変更したOriental Bank をオリエンタル銀行、その後1851年に同行がセイロン銀行Bank of Ceylon を買収して設立した特許銀行である。Oriental Bank Corporation を東洋銀行と呼称する)は、19世紀中葉から破綻を遂げる1884年までの時期、半世紀弱という短期間ではあったがアジアにおける貿易金融や資本取引において盟主的な地位を占めた最有力の英系海外銀行であった。実際、東洋銀行の最盛期となる。1870年初頭の時点を取れば、アジアに事業展開した主要な英系海外銀行4行(東洋銀行、香港上海銀行、チャータード銀行、チャータード・マーカンタイル銀行)を比較すれば、払込資本金、準備金、配当率のいずれにおいても東洋銀行が勝り、同行の有した圧倒的な金融力の一端を窺い知ることができる。1851年にセイロン銀行を買収した東洋銀行は、「東洋において〔王室の特許状により設立された〕最初の法人銀行」として大いに発展を遂げるが、不幸にして1884年に支払停止に陥ったため、内部経営文書が破棄され保存されることがなかった。(迂回して、その実態に接近したとありますが詳しくは省略)
(1) 東インド会社の送金制度と国際銀行
(2) 東洋銀行の創業と発展
(3) 東洋銀行の衰勢
(4) 東洋銀行の経営破綻の要因
i. 現地貸付ii. 外債発行iii. 銀価格の下落と銀行経営
(以上で引用おわり) 〜・〜・〜
イギリス東インド会社は、1853年に破たんしたものの、1870年代くらいまで残務整理というか細々と経営していたようです。それと東洋銀行の破たん(わざと破たんさせたんじゃ?)もおよそ平行しているような。でも、アングロサクソン王族たちが、その経営実態を知られることを恐れて、資料を全部持ち去って分からないようにしたんでしょうね〜。
<「香港上海銀行」について>
〜・〜・〜
早稲田商学第375号 1997年12月 香港上海銀行の経営戦略(上) 立脇 和夫
<はじめに>
銀行も企業である以上,設立,倒産,合併は日常茶飯事である。今日のように,金融のグローバル化が進み,競争が激化した時代にあってはなお更である。そうした中で,香港上海銀行(1865年設立,本店香港)は創立以来,連綿として,商号も変えず存続している数少ない銀行である。香港上海銀行は,1866年(慶応2)
に横浜支店を開設しており,今日,日本へ進出している外国銀行中,最古参(?。。。うらら♡現在でも同名で存続しているという意味でかな)である。すなわち,香港上海銀行は幕末開港(1859年:安政6年)後最初に日本へ進出したセントラル・バンク・オブ・ウエスターン・インデイア(1863年横浜支店開設)に遅れることわずか3年であり、以来131年の長きにわたって在日支店を維持している(但し、第2次世界大戦中は中断)。このため,同行の対日活動には,注目すべき事跡が少なくない。
第1表 幕末艦新期に日本へ進出した外国銀行
銀 行 名 横浜支店開設 (銀行設立)
Central Bank of Western India1863年 (1842年、イギリス東インド会社の銀行=英王室ハノーヴァー朝の銀行)
Chartered Mercantile Bank &China 1863年 (1853年、スタンダード・チャータード銀行=英王室の銀行)
Commercial Bank of India 1863年 (1845年、イギリスの商業銀行、アングロサクソン系?)
Oriental Bank Corporation 1864年 (1842年、東洋銀行=西部インド中央銀行と合併、英王室・アングロサクソン系)
Bank of Hindustian, China and Japan Ltd. 1865年 (1862年、アングロサクソン系?、ロンドンで設立)
Hongkong &Shanghai Banking Company,Ltd. 1866年 (ケルト系)
Comptoird’Escompte de Paris 1867年 (フランス)
Deutsche Bank A.G 1872年 (ドイツ、アングロサクソン系、今の米の巨大保険会社「A.G.」の元かな?)
(注)銀行名は日本進出時のものである。
(出典〕立脇和実唯目外国銀行史』日本経済評論社,1987年。
♡うららおばさん
(な、な〜んとこんなに多くの西洋の銀行が幕末期に日本に進出していたんですね〜!)
I 香港上海銀行の創立
香港上海銀行は,1865年1月,P&O汽船会社(Peninsular and Orienta1Steam NavigatiCompany)のサザーランド(Thomas Sutheriand)やデント商会(Dent&Company)のコムリー(F.Chomley)などイギリス領植民地香港所在の有力英商が中心となって香港で設立されたイギリス系銀行(払込資本金250万ドル)である。当時香港には,すでにイギリス系植民地銀行8行が支店を開設していたが,香港に本店を置く銀行は皆無であり,地元の期待は大きかった。ただし,当時の有力英商ジャーデイン・マセソン商会(Jardine,Matheson&Co.)は自社で為替部門を有していたため,香港上海銀行の創立には参加しなかった。しかし,1877年1月にはジャーディン・マセソン商会も香港上海銀行に資本参加し,ケズウイック(Willam Keswick)を取締役として,同行へ送り込んだ。香港上海銀行は,設立当初,Hongkon Shaghai Baking Company,Ltd と称し、法人組織ではなかった。
[まとめ]
幕末維新期に日本へ進出した外国銀行は,対外決済,銀行券発行,当座預金,手形割引などの業務活動により,わが国金融機関の先駆的役割を果たしたのであり,その歴史的意義は大きい。1866年(慶応2年)に横浜支店を開設した香港上海銀行もそうした役割の一端を担っていたのである。しかも,同行は第2次世界大戦による中断はあったものの,横浜支店開設以来,131年にわたる長期間支店活動を継続しており,その長さにおいて他行の追随を許さない。
香港上海銀行の経営戦略は,設立当初から積極的であり,対日戦略もその例外ではない。そのことは、同行の積極的な支店網構築に端的に表れている。新通商条約実施(1899年)以前に,日本に4支店を開設した外国銀行は香港上海銀行以外にその例をみない。しかしながら,(注目)☞『幕末期及び明治前期には,日本政府と緊密な関係にあったオリエンタル・バンクが独占的地位を占めており』,香港上海銀行は長らくこれに対抗しえなかった。しかし,1884年(明治17年)にオリエンタル・バンクが破綻するに及んで香港上海銀行が外国銀行のなかで指導的地位を占めることとなる。ところが,その頃には,横浜正金銀行(1880年設立)をはじめわが国の各種金融機関が経営基盤を固めており,香港上海銀行の存在はかつてのオリエンタル・バンクほどの重要性をもたなかった。
このため,香港上海銀行は,横浜正金銀行等と協力して,日本政府発行の外債引受けなどを通じて日本における営業基盤の強化を図ったのである。第2次大戦中には,敵佳国ゆえに業務の中断を余儀なくされたものの終戦後は占領行政下にいち早く支店を再開した。戦後,政治経済構造の変化により,東京・大阪両支店が日本における業務の中心となり,1973年には由緒ある横浜・神戸両支店を閉鎖し,支店網の整理再編を行った。しかし,1983年には名古屋,福岡に支店を新設するなど,再び意欲的な対日戦略を展開し,注目されている。 香港上海銀行が主要な戦略的市場とみなしてきた中国及び日本がしばしば戦争を繰り返していたにも拘らず,131年閻の長きにわたり在日支牢を維持しえたのは,在日支店が長期的に収益性を持続したことに加えて,同行が健全経営を貫いてきたことに負うところ大であると考えられる。
〜・〜・〜
それから、わたしが、昨年 2010.11.08に書いた記事(下記のサイトアドレス)にも江戸末期〜明治期の英国の銀行「RBS」(=ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド=英国ハノヴァー朝の銀行)と日本の関係についてちょっと書いていましたので参考のためご覧ください。この銀行は「スコットランド銀行」とは違います。
「チャールズ皇太子&カミーラ妃 ≒ アイゼンベルグ&シャンド家」
(その後、アイゼンベルグが「シャンド」として来たのが初来日ではなく、1851年に「ジョン万次郎」として日本に漂着していたと分かりました。あくまでも私の推察ですが。)←訂正2014.04.23:アイゼンベルグたちは、もっともっと前の太古の昔からUFOに乗って日本に自由自在に出入りしています。
★★★つまり、1840年代から、ジョゼッペ・マッツィーニやアイゼンベルグたちは、インドのイギリス・アングロサクソン系銀行→中国広州→日本へと資金を送ってもらっていたのでは? (また、西南有力藩の藩主の家系を乗っ取っていたから、藩主を自在に操ってお金を出させることもしていたかもしれません。)
★★★そして、1963年以降は、横浜に、外国銀行が次々に開設されています。中でも、「東洋銀行」や「チャータード・マーカンタイル銀行」や「RBS」(=オランダ東インド会社を追い落として、その銀行を引き継ぐ)など ’ハノヴァー朝・アングロサクソン系の銀行が多く開設’されており、『ジョゼッペたちは、より潤沢な資金を得て明治維新の革命を起こす活動ができたのではないでしょうか? また、オリエンタル銀行が幕末期の幕府や明治維新政府とも密接な関係があったとは驚きです!』 一方、ケルト系の「香港上海銀行」が日本に進出したのはアングロサクソン系銀行より、やや遅れて1865年以降ですし、「グラバー」がやって来たのも、1859年とジョゼッペやアイゼンベルグに比べればかなり遅いのです。
★★★このようなことからも明治維新を画策したのが、アングロサクソン王族たちであっただろうという疑いを払拭(ふっしょく、ぬぐいさること)することはできません!!
(つづく)