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チャールズ皇太子&カミーラ妃 ≒ アイゼンベルグ&シャンド家

カミーラ妃の父親は、「ブルース・シャンド」氏といって、陸軍少佐、後に、ワイン商だったのですが、その出自は、スコットランド、アバディーンのシャンド家という名門の一族なのです。そして、その祖先には、日本とも大変深い関わりを持っていて、『な、なんと!』 あの渋沢栄一を指導し、日本銀行の創設を主導したアレキサンダー・A・シャンドという人物がいたのです〜!

カミラ(コーンウォール公爵夫人)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%A9_(%E3%82%B
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「アレキサンダー・アラン・シャンド」

以下の文は、Adobe のPDFからの引用です。

「RBS と日本 」    
友好関係と取引の歴史

(アレキサンダー・シャンドでネットで調べるとPDFで見れます。見れない方のために貼付けておきます。写真は貼付けれなくて済みません。)

左上: 1905 年、ロンドンで高橋是清のために開かれた晩餐会の
写真。高橋と交友関係のあったパーズ銀行の行員が多数参加
右上: 1905 年、日本政府発行の外債目論見書を得ようとロンド
ンのパーズ銀行バーソロミューレーン支店の窓口に殺到する
人々の様子を描いた新聞のイラスト
中央: 1923 年の関東大震災後、国際的な復興債の発行に一役
買ったウエストミンスター銀行への謝礼として、1927 年に日本政
府が贈った装飾皿
左下: RBS グループと日本との長期にわたる友好関係の発端を
担った英国の銀行家アレキサンダー・シャンドの生涯について、
ジャパンタイムズが出版した小冊子
右下: 1960 年代、海外取引に関する法人顧客向けの情報として
ウエストミンスター銀行が作成していた"These Are Your
Markets(仮訳: 海外取引市場)"シリーズの一部で、日本につい
ての小冊子

ロイヤルバンク・オブ・スコットランド・グループと日本との歴史的なつながりは1859 年まで遡ります。ABNアムロ(後のRBS) の前身であるオランダ貿易会社(Netherlands Trading Society)はこの年、外国企業として初めて日本における支店の開設を許可されました。まずは長崎に、その後は他の都市でも支店が開設されましたが、1870 年代後半には競争激化のため取引活動の収益性が落ち、オランダ貿易会社は日本から撤退しました。しかし、同社は1920 年までに貿易会社から銀行へと転身し、再度日本に目を向けて神戸に支店を開設しました。1940 年代には一時的な撤退がありましたが1950 年までに復活し、その後ずっと日本での営業を続けています。英国におけるRBS から見た日本との関係は、アレキサンダー・シャンドとともに19 世紀後半に始まりました。シャンドはスコットランドで教育を受けた銀行家で、1860 年代、1870 年代を日本で過ごしました。シャンドは日本の大蔵省に招かれて銀行制度に関するアドバイスを提供し、講義を行ったり日本の銀行家のために教科書を作成したりもしました。シャンドは1877 年にロンドンに戻りましたが日本における交友関係を保ち、その関係は一生を通じて重要なものとなりました。1927 年、ジャパンタイムズはシャンドとその生涯について記述したA Friend ofNippon(仮訳: 日本の友人)と題する小冊子を出版しています。シャンドが日本で培った交友関係のうち最も重要で長続きしたもののひとつとして、シャンドの伝書係であった高橋是清との関係が挙げられます。高橋は後に重要な銀行家へと成長し、大蔵大臣の職を務め、最終的に首相となり、日本の歴史だけでなく日本と英国との関係においても重要な人物でした。高橋是清は1900 年代初頭、日本政府が発行する外債の募集において活躍しました。この任務における高橋の成功を確実なものにした協力者のひとりがシャンドでした。シャンドがロンドンに戻ってから入行したアライアンス銀行(後のパーズ銀行)は、後にRBS の一部となっています。1899 年から1910 年までの間、パーズ銀行は大日本帝国政府の外債8,000 万ポンドの調達のためコンソーシアムを主導しました。1905 年、高橋是清は資金調達業務のため数カ月間ロンドンに滞在しました。日本への帰国前、ロンドンの友人たちは高橋のためにサボイホテルで晩餐会を催しました。パーズ銀行からはシャンドを含む8名が参加し、主賓である高橋の隣のテーブルには同行の会長が座りました。シャンドは1918 年に引退しましたが、パーズ銀行日本との友好関係を維持し続けました。1923 年に関東大震災が起こると、ウエストミンスター銀行(当時の名称)は日本政府のため、復興債による調達において国際協力を主導しました。この貢献への功労として日本政府は1927 年、ウエストミンスター銀行に美しい装飾皿を贈り、総支配人ジョン・レイを旭日章の受賞者として指名しました。1950 年代、1960 年代には国境を越えた取引の機会が増え、多くの銀行が外国市場での取引を活発に行うようになりました。最初は国際的な利害関係を持つ顧客へのサービス提供といった形で間接的に行われていた外国市場取引でしたが、各行はすぐに、海外に自行の常設拠点を置くことが有益であると認識しました。ウエストミンスター銀行を継承したナットウエストは1971 年、駐在員事務所を開設しました。同事務所はわずか1 年あまりで全面的な業務を行う認可を持つ支店としての銀行免許を取得しました。ロイヤルバンク・オブ・スコットランド自体が日本において専任の代表者を初めて任命したの1985 年です。現在のRBS グループは、統合してきた数々の銀行の伝統と、それらの各行が築いた長期にわたる日本との友好関係を融合して引き継いでいます。RBSグループはこれらの確固たる基盤を活かし、広範囲
にわたる機関投資家や法人顧客の皆様にカスタムメイドの金融ソリューションを提供しています。ロイヤルバンク・オブ・スコットランド・グループの伝統に関する詳細は、Group Archives(archives@rbs.co.uk)までお問い合わせ下さい。

(以上で引用終わり)


ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(1727年成立)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%
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(下のほうに、日本進出は2001年とありますが、実際は、RBSとしては1971年らしいです。しかし、前述の
「RBSと日本」の中にあるように、その元々のつながりは、1859年の「オランダ貿易会社」(→ABNアムロ→RBS)の日本進出にまで遡(さかのぼ)るということです。その当時というのは江戸時代末期ですね〜

スコットランド銀行(1696年設立)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88
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(2009年1月からロイドグループの傘下に入った)


複式簿記がやってきた!ー銀行簿記精法 (明治初期簿記導入史と商法講習所)
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k15/bokiseihou.html

函館市史 「第百十三国立銀行の営業状況」
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/
tsuusetsu_02/shishi_04-08/shishi_04-08-01-06-02.htm

A.A.Shand
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k15/shand.html

年表の誕生年が1884年になっていて、その下に、「1866年22歳の時に横浜に来ていた。」とあります。ですから、誕生年は、おそらく1844年か、それ以前でしょう。わたしは、この写真を何回か見ているうちに、アレクサンダー・シャントはアイゼンベルグ=アルバート・ヴィクターだという気がしてきました。

アルバート・パイク(=ヴィクター)は1861〜65年のアメリカの南北戦争(=市民戦争、内戦)に参加していたそうですから、その戦争終了直後、シャンドとして日本にやってきたということでしょうか?だって、上のサイトの晩年の写真ってありますが、アイゼンベルグ=アルバート・ヴィクターなら今も生きているのですから、この写真はわりと最近ので、多分、5〜6年くらい前のでしょう。というのも、ちょいと〜、思い当たることが。。。
そして、この’激ヤセ’はなにかの病気の回復直後だからと思われます。しかし、あのおっきい耳がそっくりだし。。。目や鼻や口も似ています〜。

また、一番下にあるシャンドの横顔の写真も、上と同時期に撮られた写真のようですが、額の際の形がアルバート・ヴィクター(=パイク)とはずいぶん違います。おそらく、年齢のせいで(170歳前後のはずですから)、額の生え際が少々後退してきたのではないでしょうか。


ダイアナ妃とカミラ夫人は・・・”ちょこっとネタシリーズ”〜雑談 揺らぎ
http://vickywallst.blog15.fc2.com/blog-category-32.html

ダイアナ妃 〜灼熱 2004//09/25
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200409250000/

なんだか、ちょっとダイアナ妃にはちょっときつ〜い感じに書いてありますが、大げさに書いてあるのだと思います。おそらく、彼女はドディ・アルファイドとカショギの関係のこととか知らなかったんでしょう。外堀から徐々に攻略していくようなウィンザー朝の陰謀(得意な心理作戦を含む)で、そういった闇のある家系のドディ・アルファイドと恋愛関係に落ちていくように導かれていったのではないかしら?  わたしにはよ〜く分かりますぅ〜 
わたしも、いろいろとひどい目にあってるし〜

ダイアナ妃が亡くなってから十年。ケンジントン宮殿にて
http://blue-badge.net/2007/08/the_tenth_anniversary_of_the_d.html

コメント欄の意見はもっともだ〜って思います。賛成ですぅ〜!!


横浜正金銀行
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/k15/bokiseihou.html

上のサイトの下のほうを見ると、頭取の4代目として白州退蔵がいます。白州次郎の祖父ですが、おそらく、退蔵〜次郎までの3代は、全て同一人物、つまり、アイゼンベルグでしょう! 額の生え際と耳など顔の特徴をよくご覧ください。 そして、エピソードのところを見ると、戦後、GHQの占領下にある日本で、GHQの幹部コートニー・ホイットニーに流暢な英語を褒(ほ)められ、白州次郎が返した言葉は、「あなたももっとよく勉強すればうまくなるよ!」だって。やっぱり、当時、GHQの幹部にそんな嫌みなこと言える人は?  ねぇ〜、そんなにいないですよね〜  それに白州自身が英国人なんだし、ケンブリッジ大学でも出ているんでしょうから上流英語うまいの当然ですぅ〜  

白州次郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E

(マッカーサーとの逸話は、マッカ〜 [なウソ] サ〜!!  とにも、かくにも、マッカーサーとアイゼンベルグは祖先の代からの天敵同士でしょうね〜。まあ、あまり愛想よくはできなかったかもしれませんが。しかし〜、いまだに、マッカーサーを貶[おとし]めたくて悪口ばっかしよう書くわ〜 @o@; )

白州文平
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%96%87%E5%B9%B3

松方財政による日本の財政基盤
http://www.intecjapan.com/blog/2009/08/post_810.html

高橋是清に託された戦費調達
http://www.intecjapan.com/blog/2009/08/post_811.html

アレキサンダー・シャンドの協力とヤコブ・シフの援助により調達が可能となり、戦況が日本に有利と分かり多額の資金を調達することができたということらしいです。シャンドの影響力は大きいはずです〜何しろ、闇(地獄)の帝王ですから。 ヘルツル Herzl=ヘルツァーHell Zur だったものね!




* コメント欄も見てくださいネ!
by Ulala-lov | 2010-11-08 16:35